アタタカイヤミ 93
僕は自転車に乗って、かすかな記憶を頼りにある場所に向かっていた。
おそらく、こっちのはずだ。
そう、僕は思って自転車をこいだ。この団地のはずだ。
そして、ぼくはそこに立った。薄暮の時間のなか、その丘の上に連なる一軒家、そこの波田さんの家が灰色の壁に何か鳥の糞などを受けてさび付いているように感じられた。
僕は自転車を門の前に置いて、チャイムを鳴らした。
ピンポーン。
のどがからから渇く。この時、この場をいったん離れたら、また、何も変わらない平凡な日常を。みんなを守る平凡な日常を守ることができる。
しかし、僕はそこから離れなかった。確かに離れたら平凡な日常は守れる。しかし。
しかし、それでいいのか?それで本当に。ひとはただ、幸せになるものなのか?その手が汚れているとしても。
僕はそれにはどうしても納得できなかった。だから、ここに立っている。
そう、思い。僕は動かなかった。どれほど、そうしていただろう。やがて、扉が少し開いて、チェーンが張り出して、家の人が顔を出した。
その人はウェーブした髪の中年の女性だった。しわのある顔と、しかしやせている中年の女性。しかし、彼女は普通の中年女性とは違うことが合う人にはすぐにわかるはずだ。
目に大きな隈がある。あまり寝れていないのだろう。それにその体型はやせてはいたが、見る人にとってはやせている、ではなく、やつれているというのがすぐにわかるはずだ。
そう、蛇が穴の中からこっちを見るような目で女性は見て、一言言った。
「何か?」
そんな波田さんの母親に僕は一言言った。
「すみません。笹原というものです。波田さんのクラスメートです。今日は波田さんについてお話ししたいと思い、ここに来ました。どうか、話を聞いて下さい」
波田、と言う言葉が現れたときその女性の様子が激変した。彩り豊かの飴細工のようにいろんな感情が熱せられ、伸ばされ、たくさんの色が混沌とした形容の中、千差万別に現れた。
そんな、激変する感情のなかその女性は砂漠で砂嵐に遭い、何とかこらえながら歩いているような苦悶の表情で言葉を絞り出す。
「あの子の事を話してくれるのですか…………………」
そして、いったん締め。また、扉を開いた。
「どうぞ、お入り下さい」
そう波田さんのお母さんはいった。僕は扉に入る。
「失礼します」
「どうぞ」
僕は家の扉を閉めて、ロックをかける。そして、幽霊のようにこちらを見る、波田さんのほうへ向かった。
こと。
僕は出されたお茶を見て、波田さんのお母さんを見る。波田さんのお母さんは幽霊のように生気というものがまるでなかった。そのお母さんが言う。
「どうぞ」
「はい」
僕は一瞬迷ったが、お茶をすすった。苦い味が口の中に広がった。
ここは波田さんの家のリビング。テレビとテーブルと腰掛けいすが三つ置かれてあった。
僕は幽霊のように生気がなくなっているお母さんに一言言う。
「あの、僕は波田さんのことでお話をしたいのですが……………」
波田さんのお母さんはこれまであらぬ方向を見ていたが、ちらっとこちらを見て、こう言った。
「いえ、主人が帰ってきてから話して下さい」
そう言って、波田さんのお母さんはまたあらぬ方向を見た。
「あ、わかりました」
僕はかろうじて、そう言った。
そう言って、僕たちは待った。待っている間、僕はリビングを見る。リビングにはものが少なかった。新聞さえなかった。生活臭を感じさせるものがないのだ。ここの場所で波田さんはどう生きていたのだろうか?残念ながら、僕にはそれはわからなかった。そのまま、まんじりと、じっとしていたときにある車の音がした。そのまま、その車はゆっくりと車庫に入っていった。




