アタタカイヤミ 75
「さあ、上がってくれ」
「お邪魔しまーす」
僕は一言挨拶をしてから家に上がった。真部の玄関を上がったとたん、すぐにキンモクセイの香りが鼻孔をくすぐった。
「どうした?」
僕が止まったまま真部の家を嗅いでいたら、真部が不思議そうに僕を見ていた。
「なんでもないよ。さ、行こう」
そして、僕達は玄関のすぐそばの階段を上がる。古い木造のキンモクセイのような香りのする家の階段を上がっていき、真部の部屋に入った。
「ようこそ、何にもないけど茶ぐらい出させるから、待っていてくれ」
真部がそう言ったので僕は待った。周りのものを見る。だいたい、真部の家に置かれてあるものは部屋の隅にある書棚の中にあるほんとその上に置かれているボックスタイプのCD入れと、ちゃぶ台ぐらいな、至ってシンプルな部屋なのだ。別に特に見るものはないはずだ。
そして、ほどなく真部がやってきた。
「笹原待ったか?」
「いや、別に待たなかったよ」
「そうか、それならよかった」
真部はそう言った後グラス二つ分に入ったお茶を乗せたトレイをちゃぶ台において、自分も座った。
「まあ、ゆっくりしていってくれ。今日、笹原を呼んだのは、笹原と親しくなりたいためなんだ。だから、ゆっくりしていってくれ」
「ああ、分かった。それじゃあ、二人で質問をしあおうか?よく知るために」
僕がそう言うと真部は細い唇をさらにもう少し細くして笑った。
「ああ、いいよ。じゃあ、俺からいってもいいかな?」
「ああ、かまわない」
「じゃあ、いうぞ。笹原が好きな文学者は?」
最初にそれが来たか。
「重松清とうえお久光かな?一人はエンターテイメントとのほうだし、もう一方はライトノベル作家だから、真部にいうのは恥ずかしいけどね」
そう僕は恥ずかしながらそう言った。実際に真部にいうのは恥ずかしかったのだ。
「いや、そんなことはないぞ?考えが違っていても、それはそれでわかり合えることはできるからな。笹原はなぜ、重松が好きなんだ?」
真部がそう言ったので僕は糸を張る蜘蛛のように着実に自分の立っている場所を認識しながら話し始めた。
「う〜ん。それは重松の作品に登場している人たちはどこにでもいる普通の人だからだよ。どこにでもいる弱さを持った人々、だから僕は好きになったんだ」
「なるほどな」
真部は肯いた。
「笹原は普通の人々が出てくる作品が好きなのか?」
「ええ、普通のどこにでもいる。自分の弱さを持った人が出てくる作品が好きなんだ」
今から思うとこの頃の自分は無邪気なときだったな。今では当時の考えとは正反対とはいかないまでも、かなり変わってしまった。しかし、当時の僕はかなり重松にはまり込んでいたのだ。
「なるほど。ちなみに俺の好きな文学者はフィリップ・K・デイックだ。彼の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は一品だから見といてくれ」
「ああ、分かった」
ディックか。ディックは知っている、SFは興味がないが、彼の著作は前から読もう、読もうと思っていたのだ。
「さ、質問を続けるぞ。笹原の好きな映画って何だ?」
その質問か。
「最近リメイクした『リメイク』や『蜜月』かな?」
僕がそう言うと真部の気が変質した。今まで張ってあった気が失望とともに脱力したような、そんな変質を真部はしたのだ
「笹原、そんなのを見るなよ。よし!ちょっと待っとけ!」
そうして、真部は本棚のほうに向かう。そこの本棚の奥で何かを取り出した。
「ほら、笹原これ持ってけ」
そうやって真部が取り出したのは一つのDVDだった。
「ええと、『アゲインスト』?」
「そうだ!それはおもしろいから見といてくれ。主に移民を題材に撮った映画だ。あとでどこがおもしろかったか聞かせてくれ」
「ああ、分かった」
僕はそう言った。
「まだ、話を聞こうか」
そうして真部はほかのことも聞こうとしたのだ。
「好きな音楽のアーティストは?」
「……………」
僕は少し口ごもる。この事を話してもいいのだろうか?神奈川地一丁目はともかく、加奈子が好きだといってもいいのだろうか?
しかし、その逡巡は早めに終わらせた。ここは本音を話した方がいいと思ったのだ。今まで読んだ文学作品にも最初にうそを言ったばかりに後々で苦労をするというものが大半のものだからだ。それに真部にはうそをつきたくなかったので、そういうことで僕は真部に本音で話すことにした。
「好きなアーティストは加奈子と神奈川地一丁目かな?」
そして、そう僕はいった。真部はそれに対して水が地下に流れ落ち、難透水層にぶつかって地下に落ちていくことをするのが難しくなったような、そんな雰囲気を漂わせた。
「笹原、加奈子とか好きなのか?」
真部は蛇が舌を出して相手がどんな状態なのかを調べているように行った。
「うん、そうだよ。加奈子はね、自意識のことで悩んでいるから、だから僕も好きになったんだ。それで、真部が言いたいことも分かっている。どうして男なのに加奈子を好きなんだ?だろ?まあでも、これが好きなんだよ」
僕は顔を赤くしながらそう言い切った。結構この事をいうのは恥ずかしかったのだ。
そして、真部はそれを黙って聞いていた。そのあと、すっと幽霊が立ったように立ちまた本棚に向かった。そして、本棚の上にあるCD入れをとって開けた。
「これか、あったな」
そう言って、真部は一つのCDを僕に手渡した。
「ほら、笹原、これを聞いてみろ」
そう言って渡されたCDは……………。
「『人間プロデュース』?」
「そうセンターオブライフの最初のCDだ。それ聞いてみろ笹原、今までの世界の見方、社会の見方が変わるぞ、マジで」
そう言って真部は頬を漁師が大物の魚を引き揚げるように笑った。僕はそれを見て真部の別の一面を見た気がした。
これまで僕が真部に抱いていた感想は男らしくて、礼儀正しい優等生みたいな顔を見ていたが、その笑顔を見たとたん。戦いも辞さず、部下からにも慕われている豪族の長みたいな表情をしたのだ。
その、自分が持つ他人の認識の変化に僕自身が驚いていた。こういうことは2回目だ。寺島さんに1度その人となりを修正しなければならなかったし、この真部にもそういうことをしなければならないとは。人はその自分の中や他人にいろんな顔を持つと本で書いてあったけど、実際に経験するとまた違った感触が浮かび上がってくるな、と僕は新鮮な驚きに浸っていた。
そして、真部は僕の驚きを知らずにこんなことを言ってきた。
「こりゃあ、笹原にはいろんな事を教育しないといけないな。みんなにもいっておくわ。笹原に最先端のサブカルチャーを詰め込んでやれってね」
そう言って、またあの豪族の笑顔を真部はした。それにつられて僕も笑った。




