俺が異世界に行ってチートハーレムする、その前の物語
この世の中はクソだと思う。
ブラック企業とか呼ばれる企業が山ほど蔓延っている──そんなことはニュースでもネットでも散々報道されているのに、政府はそれに対し、何ら手立てを打とうとしない。
そんなブラック企業みたいな会社で働きたくないと言えば、それは甘えだ、大人はみんな苦労しているんだとか言う大人がいて。
言わば、俺が今ニートでいることだって、そういう腐った世の中を構築あるいは放置して、若者にツケを回す社会を大人が作り上げ、老人たちが利権を吸い上げているからだ。
それによって発生している現状なのだから、そこで俺ばかりが非難されるのは、おかしいと思う。
俺だって別に、働きたくなくて働いていないわけじゃない。
ただ世の中がクソだから、理不尽で腐っているから、そんなものに巻き込まれるのは冗談じゃないと思うだけだ。
当たり前に働ける環境さえあれば、額に汗することはやぶさかじゃない。
ただ、腐った世の中を変えようともせずに放置したクソな大人どものせいで、今の俺はこうなっているのだ。
そんな俺は、高校で進路について聞かれた頃から、小説家を目指していた。
ニート、すなわちNEETというのは、Not in Education, Employment or Trainingの略称で、教育も、雇用も、職業訓練も受けていない者のことを言う。
だとするならば、今小説家になろうとして小説を書いている俺は、Training──職業訓練の最中なのだから、ニートと呼ぶのは妥当ではないのかもしれない。
だが、作家養成の専門学校を卒業してもプロの小説家になれず、卒業して半年ほど家にこもって『小説家に、俺はなる!』というインターネットの小説投稿サイトで小説を書き続けてきた俺に対する大人の目は、ニートに対するそれになっていた。
俺が子どもの頃には、大人たちはこぞって、夢を追え、やりたいことをやるべきだと俺に言い続けて来た。
だが俺が専門学校を卒業した頃から、大人たちは俺に、そろそろ現実を見ろと言い始めた。
夢を追うのもいいが、家に居続けるなら生活費ぐらいは入れろと言ってきた。
甚だ納得いかなかったが、大人たちがあんまり毎日うるさいから、俺は仕方なく、バイトを探した。
そうして始めたのは居酒屋のバイトだった。
結論から言って、そのバイトは三日で辞めた。
クソな客から理不尽なクレームを受け、クソな店長から理不尽な罵倒をされ、こんなのやっていられるかと思って、その次のシフト予定日には、店には行かなかった。
大人たちに問い詰められ、その話をしたら、例のアレだ。
それは甘えだ、みんな苦労しているんだ、そのぐらい我慢しろ、お前にも問題がある……まあそんな言葉のオンパレードだ。
むしゃくしゃした俺は、居間のテーブルをひっくり返して、家から飛び出した。
そして今は、電車のホームにいる。
死んでやろうと思った。
電車に飛び込んで死んだら、遺族にもほかの人にもすごく迷惑が掛かるから、自殺するならもっと迷惑の掛からない方法でやれ、という誰かの言葉を聞いたことがある。
そんな言葉に対し、分かってねぇなと思う。
迷惑上等なんだよ。
身勝手な大人たちに、理不尽ばかり押し付ける社会に、少しでも迷惑をかけてやれるなら、願ってもない。
だいたい俺はもう死ぬんだ。
死んだ後の世界のことなんか、知ったことじゃない。
そう思って、電車がもうすぐ到着するホームで、足を一歩踏み出そうとしたとき。
「待ちなさいよ」
背後から、女の声が聞こえた。
俺は踏み出そうとした足を、止めてしまった。
俺の前を、ホームに入った電車が流れてゆく。
一つ、チャンスを逃した。
俺が振り向くと、そこには一人の少女がいた。
ホームの雑踏の中、何故か、その少女の姿ばかりが、鮮明に俺の目に飛び込んできたのである。
紺のブレザーを着た、制服姿の女子高生らしき姿。
綺麗なストレートの黒髪の、少し冷たそうな印象の美少女。
するとその少女は、つかつかと、俺に向かって近付いてきた。
そして、狼狽している俺の手を、しっかりと握る。
「来て」
そう言って少女は、俺の手を引っ張って、歩いてゆく。
すでに主体性をなくしていた俺は、少女の為すがままに、ついて行く。
俺の手を引く少女が、駅を出て向かった先は、とある大手チェーンのファミリーレストランだった。
そのファミレスに入り、出迎えた店員から喫煙席と禁煙席のどちらを希望するか問われ、少女は澄んだ声で、どちらでもいいと答える。
そうして俺たちは、禁煙席のエリアの、四人掛けのテーブルへと案内された。
少女がそのうちの一席に座り、俺には対面に座るように、仕草だけで伝えてくる。
俺は特に抵抗する意思もなく、少女と対面する形で席に着く。
少女は、店員にドリンクバーを二つとパンケーキを一皿頼むと、ドリンクバーでオレンジジュースを二つ入れてきて、一つを俺の前、一つを自分の前に置いて座ると──そこでようやく、俺に対して口を開いた。
「困るのよね」
ファミレスに入ってから俺に向けられた言葉の、一言目はそれだった。
それを聞いた俺が呆気にとられているのを見ても、少女はお構いなしに言葉を続ける。
「困るのよ。あんたみたいに世の中に絶望した人間に、ほいほい死なれたんじゃ。──いい? 人は死ぬとね、死んだときの精神状態のままメンタルが固定されて、黄泉に送られてくるの。最近の日本からは、あんたみたいに絶望したまんま死んでくるのがあまりにも多くて、黄泉全体の雰囲気がもう駄々下がりなわけ、分かる? 絶望したまんまの精神状態で固定された死人が、黄泉のそこら中にウジャウジャしてんのよ。もう、気が滅入るったらありゃしない」
氷の詰まったコップのオレンジジュースをストローで啜りながら、少女はそんなことをまくし立てる。
そして少女は、俺を睨みつけると、大真面目な顔でこう言った。
「だからあんた、もっと幸せになってから死になさい」
……さて。
これまでの流れで、ああそうか俺は幸せにならなくちゃいけないんだ、うんその通りだ、大事なことに気付かせてくれてありがとう、見知らぬ美少女よ──なんて思える人間がいたら、そいつはきっとどうかしている。
自殺を目論んでいた俺だってそこまで脳に蛆は湧いてないから、まったく常識的に、こう切り返していた。
「何かの宗教?」
「うるさい、黙れ。私はあんたたちの理解で言うところの『天使』よ。これ以上の説明はめんどくさいから四の五の言わずに信じなさい」
「……お、おう」
俺の常識的発言は、さらなる非常識と理不尽な圧力とによって、あっさりねじ伏せられてしまった。
……てかこの子、自分のこと天使とか言ったよ。
相当ヤバイ子だよ。どうしよう。
と、店員さんがやってきて、パンケーキをテーブルに置いてゆく。
自称天使は、そのパンケーキにシロップをかけ、ナイフを入れ、フォークで口に運びながら──まるで世間話をするかのように、俺に対して、寝耳に水の言葉を投げかけてきた。
「で、あんたはどうやったら幸せになるの?」
……おいおい、である。
この自称天使さん、ついに宗教勧誘のあやしい人であることすら投げ捨ておった。
普通、宗教勧誘の人は、「こうすればあなたは幸せになりますよ」と、あらかじめ用意した胡散臭い正解を押し付けてくる。
だというのに、この自称天使、「あんたはどうやったら幸せになるの?」と投げっぱなしジャーマンで攻めて来た。
……いやいや、待て待て。
宗教勧誘の派生バージョンとして、「一緒に幸福について考えてみませんか?」という誘い文句も、そう言えば聞いたことがある。
当人に考えさせるという方法も、あるのかもしれない。
だが、そこまで思っておきながら、
「……自分がどうやったら幸せになるかなんて、分かるんなら、とっくにそうしてるよ」
俺は、その自称天使の問いに、素直に答えてしまっていた。
『幸せ』なんて言葉には、はっきり言って怪しさしか感じないが、でも今の自分には、それが必要なのかもしれないと思ってしまったからだ。
幸せが足りない
ツライことが多く、その絶望的で強大な負の力に、心がすり潰される。
いや、厳密には、幸せとかどうでもいい。
ツライことさえなければそれでいい。
ちょっと楽しい程度のことなら、すぐ手の届くところにたくさんある。
ただゲームとか小説とか漫画とか、そんなものがあれば俺には十分だ。
ただ、ツライことさえなければ、それでいい。
「……なるほど、それがあんたの幸せの形ってことね」
しかし、俺の目の前に座った制服女子高生は、得心したようにそう呟いた。
そして、
「私、あんたの表層の心読めるから、そのつもりでいて」
そう言って少女は、見透かしたような瞳で、俺の目を見てくる。
俺は何となく、その静かな迫力に気圧された。
この瞬間だ。
俺が目の前の少女の姿をしたモノを、頭のイカレた残念な女子高生ではなく、ホンモノの超常的な何かだと直観したのは。
「いい子ね」
目の前の、女子高生の姿をした何かが、微笑んでくる。
恐怖の感情が、胸の内から湧いてきた。
「……お、俺を、殺しに来たのか?」
俺は震える声で、言葉を絞り出す。
しかし少女は、その俺の言葉にきょとんとして、
「なるほど、そうなるんだ。面白いけど──さっき話をしたでしょ。私はあんたに、幸せになってもらいに来たのよ」
そう言った。
……俺を、幸せにしにきた?
つまりそれは──
「ちっ、違うっ! 変な勘違いすんな!」
顔を赤くして、がたっと立ち上がる少女。
ありゃ、意外と可愛い。
「むかつくわ……あんた今、十分幸せなんじゃないの? 今ここでくびり殺してやろうかしら」
「やっぱり殺される!?」
「冗談よ、しないわ。私が天使的なものでよかったわね。私が死神的な何かだったら、今ので首が飛んでるわよあんた」
怖いな、超常的な何か。
ご機嫌一つ損ねたら首が飛ぶとか、洒落になってねぇ。
「……本題に戻すわ。あんたはツライことが死ぬほど嫌ってことだけど、あんたにとってツライものって、一体何?」
少女はそう問うてくる。
俺は、むっと唸った。
そう改めて問われると、返答に窮する。
例えば、何だろう──そうだ、俺がホームに身を投げようとしていた原因となった出来事は、何だったか。
起点は、あの居酒屋でのバイト──いや、もっと前か。
そもそもバイトをしなければならなくなったのは、夢を追えと言っていた大人たちが、手のひらを反して、家に金を入れろと言ってきたことだ。
あまりにも身勝手で、無責任な物言い。
腹が立つ。
むかつく。
むしゃくしゃする。
「ふぅん、ツライっていうより、腹を立てているんだ」
そうだ、腹が立つ。
そういうことなのだ。
どいつもこいつも理不尽で身勝手で。
俺はそんな世の中の犠牲者だ。
なのに、みんな俺が悪いみたいに責め立ててくる。
おかしいだろ。
俺は悪くない。
悪いのは身勝手な大人たちで、理不尽な世の中で、俺のせいじゃない。
なのに俺ばかりが責められる。
そんなの、
「あー、もういいわ、分かった」
少女はそう言って俺の思考を遮り、立ち上がった。
そして、テーブルを回り込んで、俺の横からずずいと身を寄せてくる。
俺を押しのけるようにして、同じ椅子に座ってくる。
「な……なんだよ」
俺はどぎまぎしてしまう。
超常生物だとか何だとか置いといて、その柔らかな人肌の体温に、圧倒されてしまう。
少女は俺の顔を両手で押さえつけると、俺の顔をぐぎぎっと自分の顔へと向けると──俺の唇に、自分の唇を重ねてきた。
「──っ!」
わけがわからない。
何が起こってるんだ?
俺の目の前、本当に目の前に、眉根を寄せて両目を閉じた美少女の姿がある。
視線だけを逃がして周りのテーブルを見ると、何人かの客がちらちらとこちらを見ている。
だけど俺は、目の前の少女を突き放そうとしない。
腕力がどうとか、そういう話じゃない。
ただ単に、俺に拒絶の意志が働かない。
やがて少女は、唇と顔を離し、俺を解放する。
同じ椅子に座ったままなのはそのままだが。
「あんたは、愛され足りないのよ」
少女は、翻弄される俺の目の前で、恥ずかしげに顔を赤らめ、そう言った。
「う、うるさいな! 私だってこういうのは、初めてなのよ! ただ、今のあんたを癒すのには、こういう肉体的な手段を取るのが一番だって分かったから。別にこんなの減るもんじゃないし、いいのよ」
俺の心を読んで照れて言い訳をしてくる難儀な自称天使。
でもおかげで、さっきまで心を支配していた鬱屈していた気持ちが、どこかに吹っ飛んだ。
そんな俺を見て、目の前の制服を着た天使が、微笑んでくる。
「……やっぱりあんたには、理想の世界でチヤホヤされるぐらいのほうが、ちょうどいいのかもしれないわね」
彼女がそう言うと、ファミレスの店内風景が、徐々に色彩を失っていった。
そして、完全に色を失い、真っ白い線画の世界になったそこで、俺以外のもので唯一色の残った彼女が、服の中からごそごそと、一冊の分厚い本を取り出してくる。
「さて、じゃあちゃっちゃと異世界に行く手続きを済ませようか。このチート能力カタログの中から、ポイント内で好きな能力を選んで。あんたに与えられるポイントは──」
そうして俺は異世界へと旅立ち、そこで新たな人生を歩むこととなったのであるが……
それはまた、別の話である。