父子の確執と時平
道真の左遷の遠因なった基経の娘穏子の入内ですが、実は醍醐帝の即位と共に穏子の入内は正式に決まっていたようなのです。本来別々に行われるべき元服と即位を醍醐帝には同時に行われています。しかも即位は正月が普通なのに、七月の即位。どうもこれには後宮の問題などがあったようです。
醍醐帝は実の母を立太子した年に亡くしており、宇多上皇の女御でありながらも皇子に恵まれなかった基経の娘、温子を育ての母としていました。しかし宇多上皇の后の班子女王は温子が後宮での権力を持つことを恐れたらしいのです。
そこで班子は温子が里に戻ってしまう、正月とは大きく外れた七月に通常とは違う場所で儀式を行なったのです。
しかもその時、温子との繋がりから入内が約束されていた穏子が、すっかり支度を終えて後宮に入ってきたところを、班子が力ずくで無理やり追い出してしまいました。
そのため穏子は帝に会う事も出来ず、家の権威を背負い、豪華な仕度をしてやってきた宮中を去らなくてはならないと言う、名家の姫としてあるまじき屈辱を受けてしまいました。
当時帝は十三歳。穏子も同い年でした。当時は早生まれですから今なら小学六年生。いくら元服の歳と言っても中身はまだ子供でしょう。
元服も結婚も、幼い期待に心弾ませる物だったろうと思います。それが大人の思惑によってこんな顛末を迎えたのです。帝にも穏子にも、さぞかし大きな影響を与えた出来事だったでしょう。
穏子の兄は時平です。これには時平も当然腹立だしかったでしょうし、藤原氏もまるで氏族の顔に泥を塗られたような口惜しさがあったでしょう。
そして後宮での班子の君臨ぶりと宇多上皇の頼りなさを、さぞや苦々しく思ったことでしょう。
醍醐帝としても育ての母であり、庇護者でもある温子を自分の晴れの場から遠ざけられ、後ろ盾を断たれた上に年の近い穏子に屈辱を与えられて、代わりに班子の娘をあてがわれたのです。この時上皇に多くの不満を持ったとしてもおかしくはないと思います。
時平の道真への本当の感情がどのようなものだったかは分かりませんが、こうしたことで宇多上皇にはあまり良い感情は抱いていなかったかもしれません。宇多上皇は基経との関係が良くなかったので、温子や時平が醍醐帝に近づくことを懸念したのでしょうが、醍醐帝にとって温子は大事な庇護者であったでしょうし、時平は自分を支える重臣でした。
正直醍醐帝にとっては政務の事から臣下の扱い、後宮の妃の事までお膳立てする父親の宇多上皇よりも、温子や時平、穏子と言った基経の子達のほうが親しみやすく、信頼しやすい存在だったのかもしれません。
それが醍醐帝と時平をより強く結び付け、宇多上皇と醍醐帝親子に確執を生み、歴史を動かすきっかけとなったのでしょう。
貫之にとっては上皇、醍醐帝、どちらも重要な庇護者だったのですけどね。