躬恒の恋と貫之の恋
躬恒の恋に対する考えが大人っぽいと感想をいただいて、ちょっと二人のイメージを振り返ってみました。私の書く躬恒は、現実的で恋や考え方が大人っぽい。
これは私が躬恒の歌から抱いている印象ですね。まあ、現在書いている躬恒は三十代後半のおじさまなので(貫之は三十半ば)ある程度大人なのは当然です。しかも当時の寿命は現代人よりずっと短いし。
ただ、やっぱり浮世離れした貴族の男性や歌人は、恋に関しては永遠の青春みたいな所はありますよね。ロマンチストが尊敬された時代ですから。それを基準に考えたら躬恒は大人かな?
躬恒の歌は確かに創造的で幻想的だったり、技術的なところなどは貫之と共通したこの時代らしい歌ですが、それでもこの少し前の六歌仙達の歌と比べても分かりやすい、写実的とまでは行かなくても、現実味を強く感じる歌が多いように思います。それも季節や自然景観を詠んだ時より、恋や人間関係を詠んだ時ほど、共感を呼びやすい歌を詠んでいる気がします。
『いづらは秋の~』も、躬恒らしい分かりやすさが現れた歌に思えます。これは和歌をこれから認めてもらうための、時代が要求した技術でもありますが、それとは別に躬恒の根本が、現実の生活を詠むことを得意としたからじゃないかと思うのです。技巧に優れても、歌を詠む姿勢は万葉歌人に近い感覚重視の人で、豊かな人生の結果として豊かな歌が詠めた人って感じで。
彼の身分で豊かな人生を送るには、その時その場の状況判断に優れ、充実した人間関係を構築する必要があったと思います。彼は即興歌が得意で機転や機知が効くタイプだと分かりますから、恋にもそれは大きく反映したでしょう。精神的にも経済的にも多くの恋を楽しむ余裕は無かったでしょうが、歌人の持つ人間観察力、自己観察力が数少ない恋からも、彼に多くの物を与えたのではないかと思っています。だから大人なイメージですね。
反対に貫之はあの平中とも親しくなり、雅男らしい一面も見せています。何よりあの好色で有名だった業平に心底憧れていたようですし(笑)
歌も若い頃は青年にありがちな人恋しさの純情を思わせる部分が見えたり、漢詩の情緒に大きく影響を受けた節が見えるようですが(講談社学術文庫・紀貫之)、最盛期等は圧倒的に技巧、抽象、言葉遊びを重視した晴れの場に相応しい雅な歌が多いです。
一見、情緒豊かな女性との恋の問答歌に見える連歌が、実はすべて彼の架空の物語から生まれているかもしれないという説があるほど、貫之は歌を実生活とは切り離した「理想世界」と捉えていた可能性があります。言葉遊びなどが多い貫之の歌の性質からも、彼は躬恒同様に殿上人に合せて歌を詠み続ける必要があったと推測されています。
しかし貫之は躬恒以上に、宮廷歌人として決して高くない殿上人の観察力でも理解できる、それでいてレベルの低すぎない歌を詠むことを自分の本領とし、文学的才能を犠牲にしてでも理想の和歌世界とその地位を作ることに人生を捧げようとした、ストイックな求道者であろうとした(人物叢書・紀貫之)ようなのです。
なにしろ彼は自分を「やまとうたしれる人」と言っていたそうですから。
それが貫之にとって和歌の世界を実生活や自分の感情から離れた、高めるべき想像世界へと一層導いたのかもしれません。
貫之の現実の女性関係は殆んど謎に包まれていますが、彼の恋歌は理想的和歌世界のための歌であり、一人二人の妻を深く愛するような恋は、随分遅くまで訪れなかったのではないかと思います。
だから本格的な結婚は遅く、記録に残る子供も紀時文と、土佐日記に記された幼くして亡くなった娘だけなんじゃないでしょうか?
その時文も貫之が五十代の時に生まれた子。説によっては六十近くで儲けた子となっています。土佐日記の娘はそれよりさらに後の子です。
つまり彼は多情でありながらも、歌人として忙しくしていた時期は子を授かった記録がない。長く連れ添った妻の影すらない。
貫之は歌のための恋のレッスンは数々繰り返し、歌人としての節度をわきまえたささやかな浮名を流しはしたけれど、人生の充実期をほとんど和歌の地位向上のために捧げてしまい、家庭人としての幸福を手にしたのは、当時の感覚としては殆んど老境に近づいてからだったのではないかと思っています。
当時は四十歳で長寿を願う年齢になっていますが、貫之が念願の五位の位をようやく手に入れたのは四十七歳の時でした。土佐に赴任したのは六十歳。その後、七十六歳という当時としては大変な高齢まで長寿を果しました。
貫之は自分の老いを感じ始めるまで自分個人の人生より、和歌を愛する求道者でいることを幸せと思っていたのかなあ?
なんて、私は想像しながら二人を書いていたのです。