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私の貫之像

 漢文や儒学に長けた貫之ですが、貫之が漢詩文の知識を豊富に得たのは大学寮で学んだことによるものと考えられています。しかし彼が文章生となった記録はどこにも残されていないそうです。

 何らかの事情で省試を受けなかったのだろうと言われますが、当時父親の後ろ盾を得られない貴族の子息は大変不遇でしたから、一般的に彼の出身の紀氏が衰退していた事や、彼自身に父親が存在していなかった事が文章生となれなかった大きな要因だろうと推測されています。


 そんな貫之がその後の物語文学に与えた影響は本当に大きいと思います。この人は仮名序を書いただけあって、仮名言葉の第一人者。そして「詞書」の名手でもあります。

 貫之の歌の詞書はとても物語的で、明らかにその効果を意図して歌を詠んでいます。彼のこの特殊な感性と才能がなければ、物語文学の登場はもっと遅れていたでしょうし、あったとしても『伊勢』や『平中』の話程度で、『宇津保』『落窪』『源氏』のような創作力豊かな作品の登場には時間を要したと思います。

 何よりかな交じり文字が定着せず、日本の言語文化そのものが違った形になったかもしれませんし。まさしく創作文学の父と呼ぶにふさわしい人です。


 それほどの功績のある人なのに、この高い創作力と感性よりも技巧性の高さを正岡子規などにやり玉に挙げられてしまったのは、もったいないことだと思います。

 貫之の詞書には、


「人のむすめのもとに、忍びつつ通ひ侍りけるを、親聞きつけていといたく云ひければ」


 と言うものがあります。親の許しのないまま逢瀬を重ね、発覚して親からひどく非難を浴びる。これだけですでに一つのドラマが現れます。他にも、


「文やりける女の、いかがありけん、あまたたび返りごともせざりければ、やりつる文をだにかへせといひやりたりければ、文焼きたる灰をそれとておこせたりけば、よみてやれる」


 と言うものがあり、これは女に文を贈るが何度贈っても返事がない。贈った文を返せというと女からは文を焼いた灰を返されたという内容。

 これだけでつれない女に懸命に言い寄る男の恋情と悔しさ、女の徹底した仕打ちが二人の恋模様を浮かび上がらせています。


 作中に登場させた「秋萩の下葉」の歌のやり取りと言い、詞書のない歌の空想力の高さにしても、物語を意識した歌を詠んでいます。

 貫之に屏風歌が多いのは、歌に屏風絵の物語を語らせることが出来るためかもしれません。彼にとっての歌は虚構の物語世界を語るための最適な手段だったのかもしれません。だから歌の世界観も、深く豊かなのでしょう。

 もし貫之が後世の辛口な批評を耳にしても、情緒は時代によって違うと笑って答えたような気がします。彼にはそんな明るさが似合います。

 今では貫之の名誉も回復したようですし、歌の良さに変わりはありませんしね。


 この貫之の性格の良さから、ほかのキャラの貫之に対する接し方も自ずと決まってしまいました。実際躬恒の歌からは楽しい人柄が浮かびますし、時平の同情から友則の地味でも穏健な性格も伝わります。

 貫之の主人、兼輔はこの時代としてはまれな平等主義者で、風流を愛する心を同じにする人なら、身分を気にしない人でした。貫之も身分の低さにもかかわらず、ごく若い時の兼輔の従者となる前から邸に招かれています。兼輔の気さくな人柄に人も集まり、邸の場所にちなんで彼は「堤中納言」と呼ばれ、邸は一大サロンとなりました。貫之は官人としては不遇でも、人としてはとても人間関係に恵まれた人だったのでしょう。


 そんな貫之は歌を詠むときは生涯青春を謳歌したんじゃないかと私は思ってます。

 和歌集編纂までは無我夢中で本当に長い青春を送るような心地だったでしょうが、さすがにその後は社交などからいろいろ世の中を見るようになったと思います。憧れだった昇殿も、その後内心は幻滅したかもしれません。


 土佐から帰京の旅の当時、貫之は六十五歳でした。『土佐日記』が書かれたころ、彼は老いて授かった亡き児への悲しみや老いた身で土佐へ下らなくてはならなかった悲しみを味わっていたはずです。さらにこの頃、貫之の庇護者たちが次々と世を去っていきました。


 醍醐帝は貫之が土佐へ赴任した延長八年(九三〇)九月二九日に四六歳で崩御しています。翌年には宇多法皇が六五歳で崩御。さらに翌年には定方が六〇歳で亡くなります。そして貫之の敬愛した主人、兼輔も後を追うように定方の死の翌年二月一八日に五七歳で亡くなりました。貫之は長生きした分、自分と親密だった人々の死を見送らなければなりませんでした。


 しかし土佐日記はそうした影を感じさせません。ただの日記に収まらない旅路と言う舞台に、ドラマ性を意識した娯楽色を強調した作品としてとして書き上げられています。


 華やかな旅立ちと、亡き愛児を共に連れ帰れなかった悲しみを語り、停滞した旅路へのいらだちと、そこに起こる人間模様を表します。やっと旅が進んだかと思えば悪天候や海賊への恐怖が一行を襲い、身の縮むような思いで港へ急ぐ。都が近づいたと思うとまたもや悪天候に阻まれ、多くの苦難と旅情の果てに都に帰り着く……。出来事を実写的に表しながらも、読者を楽しませる内容を意識している感じです。しかもこれをいかにも「男が書いた女の日記」のような書き方で、ユーモラスに表現しているのです。


 これだけで貫之の悲哀に屈しない強さと明るさを知ることが出来ます。

貫之は創作に没頭するとき、心は編纂作業に胸ときめかせた日々に戻っていたかもしれません。心の青春の泉は、おそらく生涯尽きることがなかったのでしょう。 






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