和歌と仮名文字
この国には今私たちが当たり前に使っている「仮名文字」がありませんでした。それどころか文字そのものを今の中国から輸入して、ようやく自国の文化を記し残せるようになりました。
日本のことが記された最古の記録は日本によるものではなく、『魏志倭人伝』と言う三世紀末に中国で書かれた記録だということはあまりにも有名です。しかもその後、日本は歴史の世界からしばらく姿を消してしまいます。文字の記録がないからです。当時の日本は後世に記録を残せない国だったのです。
文字は無くてもこの国にも自然発生した言葉はありました。それを人は口頭で伝えあっていました。証拠になる文面は無くても、文化は口頭による伝承や伝説によってつなげられていました。けれどそれは伝える範囲が限られる伝達方法であり、正確さに欠けました。どんな大事なことも伝言ゲームのように伝えられていたのですから。
そこに中国から「漢字」が輸入され、ようやくこの国は文字を手に入れます。そして先進国の情報を得て、自国の文化を発展させ、記録を人に伝えることが出来るようになりました。けれどまだそれはとても窮屈な物でした。なぜなら言葉の音を漢字に当てはめる当て字「借字」が使われていたからです。それが文字で言葉を表す手っ取り早い方法だったのです。やがてそれは「万葉仮名」と呼ばれるようになりました。
七世紀の初め(七十二年)、太安万侶によってようやく「古事記」と「日本書紀」と言う、国の歴史を万葉仮名で記した書物が編纂されました。しかし漢字による日本語表現には大変な苦難があったといいます。言葉を遺す苦労ももちろんのこと、他国の言葉で自国の心を表そうとしたからです。それでも当時は万葉仮名に頼るしかありませんでした。万葉仮名は出土品などからの推定により、五世紀ごろから使われ始め、七世紀ごろには確立。この頃「万葉集」も生まれました。
漢字には楷書のほかに草書体と言う崩し文字がありますが、日本ではこの草書体をさらに崩して仮名文字が発生しました。実はこれには和歌が深く関係しています。
漢文の羅列は日本語を記した時に区切りを表しにくいという欠点がありました。今のような句読点などなかったからです。けれど和歌には「五・七・五・七・七」と言う区切りが決められています。万葉仮名を使うには和歌がとても適していたのです。やがてその和歌を草書体で綴り、言葉の意味で文字を繋いで書くようになりました。そうすることで文字の途切れた部分を文章の区切りとしたのです。
こうして和歌に深くかかわる形で、この国に仮名文字が誕生しました。
一方でこの国では漢詩で書かれた儒学を中心とした、唐国文化が貴ばれるようになりました。当時の唐文化は世界の最先端です。日本は唐国に学ぶべきことがとても多くありました。それは現代でも故事や熟語として伝えられているほどです。ですから政務に関わる人は儒学を学び、公式文書は漢字で書かれるようになりました。和歌にだけ使われる仮名文字は女の文字と言われ、和歌も仮名文字も公の席で使われないものになりました。
多くの言葉があふれる現代に生きる私たちには、自国の文字も自然に発生して、緩やかに変化しながら当たり前のように今の形になったように思いがちです。けれど自国文化はいくつもの難関をかいくぐってきています。日本語だってその一つ。唐風文化の最盛期は、自国文化衰退の危機でもあったはずです。
そして意思や価値観の流布や伝承に重要な役割を果たす、文字や言葉に自分たちの根幹や誇りを感じていないと、国家や文化や民族と言うものは、意外ともろいと思うのです。
日本は小さな島国で、同じアジアでも少し特有な文化を作っています。東の端で海に囲まれ、季節風があって他国から侵略されにくい。文化も守られやすいとよく言われますが、日本人は元来好奇心が強く、多様な文化を寛容に受け入れる気質の民族です。
時の流れは容赦がありませんから、もしかしたら他国文化の合理性、利便性に流されてしまえば、日本語や独自文化は廃れていたかもしれません。太安万侶が苦悩したように、自国の言葉が軽視されれば自国の文化も思うほどには伝わらなかったかもしれないのです。
言葉は心を伝える手段です。こうして日本古来の独自文化を、形を変えながらも今の時代まで保ってこられたのは、先人達が「この国には自分たちの精神(心)を表す言葉と文化があるべきだ」という、強い意志があったからではないでしょうか?
古今和歌集の編纂前から、この国は自国の心を表す文化を持っていました。それを廃れさせまいと、やまとうたを失わなかった「六歌仙時代」の歌人たち。その心を尊んで和歌や仮名文字を知的水準の高い物とした貫之達の時代の文化人たち。そしてそのテキストとして生まれた古今和歌集。すべてがそう言う意志の表れだろうと思います。
この「やまとうた」は一人のヒーローが日本語を守ったとかいう英雄譚ではなく、この国特有の四季や香りや彩りや「風情」と呼ばれる、そうした空気を多くの人々が世代を受け継いでつないだ心のお話です。