第五章 俺の偽善と彼女の欺瞞
☆
ーカッ!
それは打った瞬間、入るとわかるショットだった。
ボールは絶妙な角度でクッションを跳ねると、そのまま滑るように勝利のコースをたどり、的玉へと襲いかかる。
コツ‥
力加減も完璧だ。小気味良い音を立てて9ボールはポケットへと吸い込まれ、勝敗を決した。
「きゃ~、やった~!」
余程嬉しかったのか、勝利を決めた小夜子さんは、飛び上って喜んでいる。わりと難しい配置だったのだが、今のは見事に決めた彼女の腕を褒めるしかないな。敗北を喫した俺は、大きく息をついて、称賛の拍手を送った。
やれやれ、負けてしまったか。これで戦績は‥
「やっと勝ったわよ、冬也クン、これで一勝十五敗だからね!」
そうか、もう十六戦もやっていたんだな。たしかCAROLのビリヤード場に来たのが五時頃だったから、途中、フードコートで軽めの夕食をとった時間を別にしても、三時間近く経つのか。
見るからに浮かれていた小夜子さんだが、急に怪訝な表情を浮かべると、詰め寄るように顔を近づけてくる。
「ねぇ、冬也クン、ちょ~っと聞いておくけど、まさか今の、手を抜いてないわよね?」
「大丈夫、俺の名誉にかけて誓うが、それはない。今のは紛れもなく小夜子さんの勝利だよ」
顔を寄せられてドキドキしながらも、そこはきっぱりと返事をする。すると彼女は得意気な笑みを浮かべて、子供の様にはしゃいでみせる。日頃からは想像もつかない姿だけに、ちょっと面喰ってしまうが、自然と笑みがこぼれてくる。
実際、彼女はうまかった。ビリヤードなら少しやったことあるわ、なんて言うから、てっきり素人レベルと思っていたが、とんでもない謙遜だ。打つ時の姿勢やショットの練度を見る限り、相当やりこんでいることが窺える。
が、そうは言っても俺の敵には程遠かった。
自慢じゃないが、ことビリヤードに関して、俺に叶う奴はそうはいない。それと言うのも、藤谷家が家族ぐるみでこの遊戯に取り組んできたからだ。何しろ両親の馴れ初めがビリヤード場での出会いから始まり、結婚後も夫婦そろって玉撞きに出かけるのは、我が家にとって日常茶飯事。俺も子供の時分から随分一緒に連れて行かれたものだ。確か初めて大人用の台でキューを握ったのは、小学二年の時だったか。当時は身長が足りなくて、踏み台に乗ってブレイクショットを放った記憶がある。
母さんも認める親父の数少ない取り柄は、動物に詳しい事とビリヤードがうまい事。大学時代には撞球部の部長を務め、学生大会でも優勝経験があり、プロ相手にも勝った事があるらしい。まぁ、どこまで本当か知らないが、埃まみれのトロフィーが飾ってあるから優勝の話は本当だろう。
その親父から手ほどきを受け、俺もめきめきと腕を上げ、今では三度に二度は親父との勝負にも勝つようになった。セミプロ並みの腕はあると言われたが、別にプロになりたいわけではなかったし、高校に入って勉強が忙しくなってからは、足が遠のいていたというのが現状だ。
それより、驚いたのは小夜子さんがこんなに負けず嫌いだったと言うことだ。今にして思えばゲームを始める前に、ちょっと格好良い所を見せようと、トリックショットを披露したのが失敗だった。手前の球をジャンプショットで飛び越して、二つのボールを同時に落とすと言う、それほど難度の高くない技だったんだが、それを見た彼女は俄然ファイトを燃やし、ナインボールで勝負することになった。
最初は花を持たせようと少し手加減していたんだが、気付いた彼女は怒りだし、本気での勝負を求めてきた。だが、勝敗にかかわらず、ブレイクショットは小夜子さんから打つと言う特別ルールを受け入れたのは、それ以降の三ゲームを、俺がパーフェクトで終わらせてしまったからだ。
それにしても今日のゲームは疲れる内容だった。勝負そのものより、色々気が散ると何と言うか‥
考えてみれば、今までほとんど家族を相手にやってきて、こんな美人とゲームをしたことなんてなかったからな。こう、前かがみになったり、お尻を突き出した格好を見てると、いけない想像をしてしまい、何とも集中力が削がれてしまう。普段ならありえないミスをしたのもそのせいなんだが、そこは言い訳を言うまい。
「さぁ、今度は冬也クンがブレイクショットを打つ番よ。次も勝つからね」
意気揚々の小夜子さんはまだまだ勝負を続けるつもりのようだが、時間を気にしてはないようだ。彼女が示した門限はもう間近に迫っており、俺はポケットからスマホを取り出すと、時刻表示を見せる。
「残念だけど、もう時間だよ。ほら、そろそろ出ないと電車に間に合わなくなっちゃう」
息巻いていた彼女の顔に、虚をつかれたような驚きが広がる。それはみるみる落胆へと変わっていき、今度は俺を驚かせることとなった。
★
‥もうっ、何よ、あんなに強いなんて聞いてないわ!
CAROLから外に出ると、辺りはもう真っ暗になっていた。どうやら思っていた以上にビリヤードに熱中していたみたいね。でも、久しぶりの息抜きは本当に楽しくって、まだまだ遊び足りないくらいだわ。だから、冬也君と一緒に駅へと向かいながら、私は心の中で憤っていた。
‥まったく、自分じゃ結構うまい方だと思っていたのに、格の違いを見せつけられただけじゃない。あんなに強いなんて反則よ。
ゲームは終わったのに、気分はちっとも冷めやらず、なんだかだんだん腹が立ってきた。隣を歩く冬也君は押し黙ったままなので、心の中の独り言は次第に熱を帯びていく。
‥そうよ、大体ビリヤードするって知ってたら、こんなヒールの高いパンプスなんて履いてこなかったわ。見てなさいよ、次やる時は‥
‥‥えっ!?
カッカ来ていた頭の中に、急に水でもかけられたような驚きが走る。
‥次‥って何よ。このデートが終わったら、冬也君の事こっぴどく振ってやるんじゃなかったの?
どうして忘れていたのかしら。これって本当のデートじゃないのよ。
‥そうよね、このデートって、罰ゲームで誘われたのよね。馬鹿ね、私ったら、何浮かれてんのよ。
昂ぶっていた感情が冷えていき、面白くない気分が込み上げてくる。とは言え、楽しかった気持ちがなくなるわけでもなく心が揺れ動く。
‥‥だって、今日は本当に楽しかったんだもん。
初めはからかうだけのつもりだったけど、冬也君、ずっと優しかった。水族館では色んな所案内してくれたし、ビリヤードだって本気で相手してくれた。こんなに楽しかったのって、ここしばらくなかったわ。
‥でも、明日から学校へ行く時は、またいつもの地味な格好で、誰ともしゃべらず勉強だけやって過ごすのよね?
ドクンドクンと不安で心臓が締め付けられるよう。今日一日だけ羽を伸ばすつもりが、何だかとんでもない間違いを犯した気分。自分の感情を制御できなくて、焦りにも似た気持ちが込み上げてくる。
‥だったら、このまま帰っちゃえばいいじゃない。
胸に抱えたぬいぐるみを抱く手に力がこもる。
‥だって、今日楽しかったのは冬也君のおかげだよ。そんな彼をわざわざ傷つけるなんてできないよ。このまま、何も気付かなかったふりして帰っちゃえばいいじゃない。そしたらまた、一緒に‥
不意に、隣を歩く冬也君が足を止めたので、私は少し先を行ってしまう。いつの間にか駅近くの公園まで来ており、辺りは静寂に包まれていた。街灯の下に佇む彼は何だか思いつめた顔をしている。ただならぬ雰囲気を感じ取り、私はちょっとだけ怖くなった。
「小夜子さん‥」
今日初めて聞く、男性を感じさせる低い声。ドキドキと鼓動が高鳴り、身じろぎ一つできなくなっちゃう。
「‥俺、君が好きだ」
ドクンー
心臓が、せつない苦しみを訴えた。
☆
思わず口をついて出た言葉に、俺自身驚いていた。でも、口にした事を後悔するつもりはなかった。
今日一日、彼女の見せてくれた色んな表情。優しく微笑む彼女、ペンギンを見て大はしゃぎする彼女、ゲームに負けて熱くなる彼女‥。最初は緊張していっぱいいっぱいだったけど、今は彼女の全てが愛しく思える。
だけど、このまま別れてしまったら、それが幻の様に消えてしまいそうで怖かった。明日、学校で出会ったら、今日の事が嘘だったみたいに、いつもの無愛想な彼女に戻っていそうで怖かった。まるでお伽話のシンデレラの様に、今宵一晩限りで魔法が切れて、二度と今日の彼女に出会えなくなる。そんな気がしてならなかった。
これで終わりにしたくない、そう思ったら、自然と言葉が口をついて出ていた。
‥ははっ、デートに誘った時は、あんなに緊張したのにな。
そう思いながらも、何だか妙に清々しい気分を感じていた。駄目かもしれない、でも言わずに後悔したくはなかった。
しかし、彼女から返ってきたのは、告白の諾否ではなく、質問だった。
「‥‥ねぇ、冬也クン。それも罰ゲームで言ってるの?」
心が凍りつくような衝撃に、俺は時間が止まったような錯覚を覚えた。
★
みるみる青ざめていく冬也君を見るのは辛かった。だけど、口にした私も同じようにショックを受けていた。どうしよう、こんな事言うつもりじゃなかったのに‥
‥でも、聞かずにはいられなかった。そんなことないってわかっていたけど、それでも聞かずにはいられなかった。
「‥‥知って‥たんだ‥」
表情をなくした冬也君は、愕然とした表情で立ち尽くしている。自分の言葉が想像以上に彼を傷つけてしまったとわかり、堪らなく悲しくなってきた。
「‥‥うん、そうだよな、俺、あいつらとのじゃんけんに負けて君を誘ったんだよな」
ほとんど呟くような声が、彼のショックの深さを物語っている。胸が潰れそうな思いに、私は足が震えてくるのを覚える。
「だけど‥今日デートをしていた時、そんなこと関係なかった。‥‥でも、ごめん、俺にこんな事言う資格ないよな‥」
うろたえて後ずさりする彼はなんだか泣きそうで、居たたまれなさを物語っている。このまま、彼がどこかへ行ってしまいそうで、堪らなく不安な気持ちに苛まれる。
‥違う、違うの!
そう言いたかったのに、言葉が出ない。気持ちが昂ぶりすぎて、私の思いは言葉にならなかった。引き留めようとするも、心の中の声は言葉にならず、どうしても喉から出てこない。
「‥ごめん、さよなら!」
ついに彼は背中を向けて走り出した。そのまま街灯の光も届かぬ闇の中へ消えていき、残された私は追いかけることもできず、ただ惨めな気持ちのまま一人取り残された。悔恨の念に捕われるも、今の私は恐ろしく無力だった。
‥どうしよう、私、取り返しのつかないことしちゃった‥
☆
‥ハァッ、ハァッ、ハァッ、‥
何も考えず、俺は夜の町を力の限り走っていた。
どこをどう進んだかわからないまま、とにかく息の続く限り走り続けた。
大きな声で叫び出したい気分だった。このまま走り続けていたら本当にそうしていただろう。だが、心臓が張り裂けそうになるほど苦しくなって、ついにどこかの自販機の前でへたりこんでしまった。
‥ぜぇ‥ぜぇ‥ふぅ、ふぅ~‥
これ以上なく息が上がっており、静かに唸る自販機を背に座り込む。澄み切った夜空を見上げれば、銀色の月が煌々と輝いていた。
息が落ち着くまでのしばらくは、何も考えずにいられた。だが徐々に、別れ際に見せた彼女の泣き出しそうな顔が浮かんでくる。
‥俺は、‥ひどいことしたんだな。
そう思うと改めて罪悪感が込み上げてくる。俺は‥彼女を傷つけたんだ。この罪の烙印は容易なことでは消えはすまい。
‥そうだ、デートに誘ったのは俺の意思じゃない。彼女の言うように、王様じゃんけんの罰ゲームで誘ったんだ。何で今まで考えなかったんだろう。その上、告白するなどおこがましいにも程がある。今更言っても後の祭りだが、そう思わずにはいられなかった。
‥でも、知ってたんなら、何で小夜子さんはデートに来たんだ。もしかして、最初から俺をからかうつもりだったのか?
その考えにはぎょっとさせられる。じゃあ、今日の彼女の行動は全て演技だったのか?
‥いや、違う。そんなことはない。だが、たとえそうだったとしても、俺に彼女を責める資格なんかないよな。
息が落ち着くにつれ、次第に焦りとももどかしさともつかぬ感情が込み上げてくる。行き場のない気持ちが出口を求めて、心の中で暴れ回っているようだった。
‥そりゃ俺だって、人並みに彼女が欲しいとか女の子とエッチしたいとか、そういう願望はあったさ。でも小夜子さんに告白したのは、そんなんじゃない。ただ、彼女が皆と仲良くなって、いつも今日みたいに楽しそうにしてほしい。あの笑顔をもっと見ていたい、そう思っただけなんだ。
だけど、これは偽善じゃないのか?少なくとも、最初は驚かせて笑いものにするつもりだったんだろ。そんな俺が、彼女に好きだなんて言う資格があるのか?
‥振られて当然だ、自業自得なのはわかっている。でも、俺のこの気持ちは一体どこへ行けばいいんだ。
残念ながらそれに対する答えは、何一つ思い浮かんでこなかった。この胸にわだかまる葛藤は、きっと俺への罰なんだろうな。
気分はどん底で、泣き出したくなるような失意の中、俺は立ち上がることもできず、ただ夜空に浮かぶ冷たい月を眺めるだけだった。
★
‥眠れない。
何度目かの寝がえりの後、私は諦めてベッドから身を起こした。
カーテンを開くと、燦然と銀の光を降り注ぐ、美しい月が夜空に浮かんでいた。そんな情緒的な景色も、今の心を慰めるには役不足だった。
あれからどうやって家まで帰りついたか覚えてない。ただ服を脱いで、ベッドに潜り込んだのはおぼろげながら記憶にある。それから全然寝つけないまま、時間だけが過ぎて行った。だからなのか、とりとめのないことばかり浮かんでくる。
私は何を望んでいたんだろう。これまでの人生を思い返し、その答えを見つけようとする。
‥ずっと、私は一人だった。誰かに心を開くことを恐れていた。友達はたくさんいたけれど、どこか一線を画しており、心はいつも孤独だった。本当に友達と思えたのは、同じように家庭のコンプレックスを抱えていたケイだけ。
でも、本当は愛が欲しかった。誰かに大切にされたいと思ってた。だから中学時代には色んな男の子と付き合ってみた。ところが世間から見れば私はお金持ちのお嬢様で、言い寄る男の子は何らかの下心を持つ子ばかり。皆私の気を惹こうとするだけで、愛してはくれなかった。結局、求めているものが得られないのに腹を立て、家を飛び出し、孤独に生きる道を選んだのよ。
‥結婚願望は、もともとなかったと思う。両親の冷え切った関係を見て育ったせいで、結婚が自分を幸せにしてくれるなんて、どうしても思えなかった。だから将来は一人で生きていこうと、がむしゃらに勉強に励んだ。でも、それは人との信頼関係を築こうとせず、ただ逃げていただけだったのね。
冬也君の傷ついた顔が脳裏をよぎると、胸が潰れそうな思いに捉われる。
‥私はなんて傲慢だったんだろう。
‥冬也君は私に優しくしてくれた。一緒にいて楽しかった。それなのに‥ひどい仕打ちをして傷つけてしまった。そもそも私は、一体何様のつもりでいたのかしら。
確かに罰ゲームでデートに誘うなんてひどいわ。でも、それを知ってて、からかうためにデートするなんて、もっとひどい事じゃない。私に彼を責める資格なんてなかったのよ。
彼は、今まで付き合ってきたボーイフレンド達の様に、私に何も求めてこなかった。きっかけこそ不純だったかもしれないけど、冬也君は優しさを‥、‥愛を与えてくれたのだと思う。
‥何なの、この気持ち。
苦しくなるほど胸がせつないのに、どうしたらいいのかわかんない。ただ、冬也君に謝りたい。例え許されなくても、ごめんねって言いたい。
‥でも、明日学校へ行くのが怖い。一体どんな顔して冬也君に逢えばいいの。
膝を抱えて頭を埋め、悲嘆にくれるも何の解決にもならなかった。感情が胸の中に溢れだし、感じた事のない痛みが心を穿つ。いっそ泣いてしまえればよかったのに、悲しい気持ちが込み上げてくるだけで、涙は出てこなかった。
‥ひどい女ね、私って。こんなに悲しいのに、涙の一つも出ないなんて。