空気が生姜焼き
「今日、空気、生姜焼きじゃない?」
朝、娘がそう言った。
私は窓を開けた。
確かに、生姜焼きだった。
焼けた豚肉の脂。
醤油。
みりん。
少し焦げた砂糖。
そして鼻の奥へ抜ける、生姜。
「どっかの家で作ってるんでしょ」
「朝六時半だよ?」
「朝から生姜焼き食べる家もあるでしょう」
そう言って窓を閉めた。
七時。
外へ出ても、生姜焼きだった。
住宅街を抜けても。
駅へ向かっても。
ホームに立っても。
全部、生姜焼き。
電車の中だけは人間の匂いがした。
香水。
汗。
柔軟剤。
少し安心した。
けれど電車が隣駅へ着き、扉が開いた瞬間。
ぶわっ、と入ってきた。
生姜焼き。
乗客の何人かが顔を上げた。
「腹減るな」
誰かが笑った。
職場でも話題になった。
「朝からずっとですよね」
「近所だけかと思った」
「工場か何かじゃない?」
昼にはニュースになった。
《市内広域で食品様の臭気》
原因不明。
消防が調査中。
健康被害なし。
午後三時。
隣の市から来た業者が言った。
「向こうもですよ」
午後五時。
県内全域。
午後八時。
全国。
テレビのアナウンサーは、何度も「生姜焼きに似た臭い」と表現した。
似ているのではない。
生姜焼きだ。
しかも、不思議なくらい美味しそうなやつ。
食欲を刺激する。
夕食を済ませたのに、また腹が減る。
SNSには白飯だけ炊いた写真が溢れた。
《空気をおかずに三杯いける》
《実質無料生姜焼き》
《豚どこ?》
まだ笑えていた。
翌朝。
空気は、もっと濃くなっていた。
外に出るだけで口の中に味がした。
脂の甘み。
醤油の塩気。
生姜の辛み。
なのに、何も食べていない。
学校は休校になった。
娘が炊飯器を開けた。
「お母さん」
「なに?」
「ご飯だけ食べても、生姜焼き定食になる」
「便利だね」
笑った。
娘は笑わなかった。
三日目。
誰も肉を食べなくなった。
必要がない。
白飯だけで満足できる。
四日目。
パンにも生姜焼き。
水にも生姜焼き。
歯磨き粉にも生姜焼き。
マスクをしても、生姜焼き。
息を止めても。
口の中に残っている。
五日目。
政府が会見した。
大気中から、食品由来の成分は検出されていない。
臭気物質もない。
つまり。
何もない。
なのに全員が、生姜焼きを感じている。
「集団的な知覚異常の可能性も――」
記者が叫んだ。
「じゃあ味まで同じなのはなぜですか!」
誰も答えられなかった。
六日目。
娘が言った。
「お母さん」
「なに?」
「豚って、どんな味だったっけ」
私は答えようとした。
焼肉。
とんかつ。
しゃぶしゃぶ。
いろいろ思い浮かべた。
でも全部。
生姜焼きの味がした。
ぞっとした。
冷蔵庫を開けた。
豚肉があった。
賞味期限は昨日。
捨てようとして、手が止まった。
肉の表面に。
薄く。
茶色いタレが滲んでいた。
買った時には、ただの豚肉だったはずなのに。
「お母さん」
背後で娘が言った。
「今日、空気、生姜焼きじゃないよ」
私は振り返った。
娘は嬉しそうに笑っていた。
「じゃあ何?」
娘は鼻から大きく息を吸った。
「人間」
その瞬間。
外で。
何万人もの腹が鳴った。
さっき娘が言いました。
「空気、生姜焼きじゃない?」と。
確かに、生姜焼きでした。
なので書き即投げしました。




