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空気が生姜焼き

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/08/14

「今日、空気、生姜焼きじゃない?」


朝、娘がそう言った。


私は窓を開けた。


確かに、生姜焼きだった。


焼けた豚肉の脂。

醤油。

みりん。

少し焦げた砂糖。

そして鼻の奥へ抜ける、生姜。


「どっかの家で作ってるんでしょ」


「朝六時半だよ?」


「朝から生姜焼き食べる家もあるでしょう」


そう言って窓を閉めた。


七時。


外へ出ても、生姜焼きだった。


住宅街を抜けても。

駅へ向かっても。

ホームに立っても。


全部、生姜焼き。


電車の中だけは人間の匂いがした。


香水。

汗。

柔軟剤。


少し安心した。


けれど電車が隣駅へ着き、扉が開いた瞬間。


ぶわっ、と入ってきた。


生姜焼き。


乗客の何人かが顔を上げた。


「腹減るな」


誰かが笑った。


職場でも話題になった。


「朝からずっとですよね」


「近所だけかと思った」


「工場か何かじゃない?」


昼にはニュースになった。


《市内広域で食品様の臭気》


原因不明。


消防が調査中。

健康被害なし。


午後三時。


隣の市から来た業者が言った。


「向こうもですよ」


午後五時。


県内全域。


午後八時。


全国。


テレビのアナウンサーは、何度も「生姜焼きに似た臭い」と表現した。


似ているのではない。


生姜焼きだ。


しかも、不思議なくらい美味しそうなやつ。


食欲を刺激する。


夕食を済ませたのに、また腹が減る。


SNSには白飯だけ炊いた写真が溢れた。


《空気をおかずに三杯いける》


《実質無料生姜焼き》


《豚どこ?》


まだ笑えていた。


翌朝。


空気は、もっと濃くなっていた。


外に出るだけで口の中に味がした。


脂の甘み。

醤油の塩気。

生姜の辛み。


なのに、何も食べていない。


学校は休校になった。


娘が炊飯器を開けた。


「お母さん」


「なに?」


「ご飯だけ食べても、生姜焼き定食になる」


「便利だね」


笑った。


娘は笑わなかった。


三日目。


誰も肉を食べなくなった。


必要がない。


白飯だけで満足できる。


四日目。


パンにも生姜焼き。


水にも生姜焼き。


歯磨き粉にも生姜焼き。


マスクをしても、生姜焼き。


息を止めても。


口の中に残っている。


五日目。


政府が会見した。


大気中から、食品由来の成分は検出されていない。


臭気物質もない。


つまり。


何もない。


なのに全員が、生姜焼きを感じている。


「集団的な知覚異常の可能性も――」


記者が叫んだ。


「じゃあ味まで同じなのはなぜですか!」


誰も答えられなかった。


六日目。


娘が言った。


「お母さん」


「なに?」


「豚って、どんな味だったっけ」


私は答えようとした。


焼肉。

とんかつ。

しゃぶしゃぶ。


いろいろ思い浮かべた。


でも全部。


生姜焼きの味がした。


ぞっとした。


冷蔵庫を開けた。


豚肉があった。


賞味期限は昨日。


捨てようとして、手が止まった。


肉の表面に。


薄く。


茶色いタレが滲んでいた。


買った時には、ただの豚肉だったはずなのに。


「お母さん」


背後で娘が言った。


「今日、空気、生姜焼きじゃないよ」


私は振り返った。


娘は嬉しそうに笑っていた。


「じゃあ何?」


娘は鼻から大きく息を吸った。


「人間」


その瞬間。


外で。


何万人もの腹が鳴った。

さっき娘が言いました。


「空気、生姜焼きじゃない?」と。


確かに、生姜焼きでした。


なので書き即投げしました。

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― 新着の感想 ―
短編ありがとうございます 昨日の空気の臭いが「生姜焼き」だっただけで 今日の「人間の臭い」でお腹がなるのが怖いですね 人間の味でどんな想像をするんだろう? どこかで「小骨がおおくて食べるところが少ない…
かなり冷静な娘さん(笑)
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