影の中で
恐怖と絶望の中、昴は限界を感じた。迫りくる「怪異」から全力で逃げ、襲い掛かってくる「怪異」を必死で避けること数分。生来の運動能力に加え、バスケ部で鍛えた反射神経と持久力があったので、尋常ならざる状況の中で普通の人では致命的な場面でも昴は生き延びることができていた。しかし、それも数分が限界だった。スポーツではない、生死を賭けた緊張感と恐怖が昴の本来のポテンシャルを著しく削ぎ取っていた。かつて無いほど激しく打ち鳴らす心臓の鼓動、身体中を流れ落ちる冷や汗、絡みつくような空気の流れ。いつ、本当の限界を迎えて倒れ込んでもおかしくなかった。そして昴が階段を駆け下りて1階に到着した、その時。
「!?」
突如、昴の背後、防火扉の影から手が伸びてきて昴の口を塞ぎ、その「何者か」と共に影の中に倒れ込んだ。昴は何が起きたか判らず、慌てて立ち上がろうとしたが、口を塞ぐ手に力が入って抑えられ、小さな声で耳打ちされた。
「じっとして。静かに。」
昴は視線だけを向けて声の主を確認した。
『――山口悠太?』
昴の後ろから口を塞ぎ、耳打ちした人物はクラスメイトの山口悠太。昴は混乱どころか、状況の把握と理解を放棄せざるを得なかった。悠太の視線は昴に向けられておらず、影の外、真紅に染まった廊下にあった。その方へ、昴も視線を移す。
ペタペタペタペタペタペタペタペタ
幾つもの「怪異」が赤く染め上げられた風景の中、昴の目の前で廊下の先へと這っていく。
「!!」
驚く昴を抑えるように、口を塞ぐ悠太の手に力が入った。その意志に従って昴も身動きを我慢する。
ペタペタペタペタ……ペタペタ…
恐怖で気が狂いそうになるのを気力で抑え込み、昴は再び視線だけを悠太に向けた。普段の冴えない感じの「陰キャ」とは思えない、この異常事態にあって落ち着いた雰囲気。そしてふと、悠太の耳に注目した。
『――ピアス?』
クラスの「陰キャ」の耳たぶに、確かにピアスホールが開いている。そこには赤目の白兎を象ったピアス。そういえば最近、悠太の耳に絆創膏が貼ってあるのを見掛けた気がする。その時は怪我でもしたのかと気にも留めなかったが、おそらくピアスホールを隠すためのものなのだろう。悠太の横顔を見ながら、そんな考えを巡らせていると、昴も多少は落ち着きを取り戻してきた。背中に当たる悠太の華奢な胸、体温は高め、表情は落ち着いているが心臓は早鐘のように脈打っている。微かに鼻をくすぐる香りは金木犀のボディソープだろうか。黒い直毛は昴の波打った茶髪とは違い、艷やかだ。ちょっと冴えないと思っていた顔も、こういう状況下では凛々しく見えた。逆に小柄な身体は少年のようで、庇護欲を掻き立てる。異様な赤光の影の中で、昴はそんな事を思っていた。
「――もう行ったみたい。」
静寂が訪れてしばらく経ち、悠太が昴の耳の側で囁いた。
「――。」
昴が放心していると、悠太が言葉を続ける。
「危ないから校門まで送っていくよ。付いてきて。」
と、立ち上がる悠太の手を昴が握った。悠太は少し驚いて振り返ったが、振り払うことはせずに先導するように手を引いた。
悠太は赤い光に照らされないよう細心の注意を払い、影の中を渡り歩いて、そうして2人は何事もなく校門まで辿り着いた。
「あー…、君。」
言葉を選ぶように悠太は続けた。
「さっきのことは夢だと思って忘れちゃった方がいいよ。ろくなことにならないから。じゃあね。」
と、悠太は踵を返して校舎へと戻ろうとする。
「山口!」
昴は大声で悠太を呼び止めた。
「えっ!?」
驚いて悠太が振り返る。
「俺の名前は沢渡昴!スバルって呼び捨てでいいから!またな!!」
そう言って昴は大きく手を振った。
「――ああ、うん。」
釣られて悠太も小さく手を振る。月は未だ狂気の中に在ったが、鮮血の謝肉祭は予定されていた御馳走の手配不備で中止とされた。
渋滞に巻き込まれたので、ちゃちゃっと。書きたかったシーンなので筆が速いw




