真円の赤い月
放課後。バスケ部に所属している昴は、普段通りに体育館に向かった。A中学校バスケ部は、歴史は長いが特に強い訳でも弱いわけでもなく、世代によって高い目標があったり廃部寸前だったりと力の入れ方の波が激しい。現在のバスケ部と言えば程々に活動するエンジョイ型。昴も仲間と談笑しながら汗を流し、程々にバスケのスキルアップを図っていた。将来において高校、大学と続けてプロを目指したいとか、オリンピック出場とか、NBAを目指すとかいう大きな夢はなく、いまだ中学校で義務的に所属させられた部活動でしかない。ただ昴の運動能力は高い方で、一念発起して本腰を入れれば、どの様なスポーツでも光るセンスが判るだろう。まだ中学生である昴の未来は幾つもの選択肢があり、それらは栄光で光り輝く道だった。
東京近郊のベッドタウンであるY市は自然も豊かで、A中学校の裏手には小さな森があり、校門の周辺は畑が広がっていた。A中学校に通う生徒たちの多くは徒歩20分ほどにある団地や住宅街に住んでいる。夕方から夜へと移り変わる黄昏時、部活が終わった昴とチームメイトたちは他愛もない雑談をしながら集団で下校していた。
「今日の宿題、ダリぃよなあ!」
昴のクラスメイトでもある川端雷魚が盛大にボヤいた。
「――宿題?」
心当たりがない昴は聞き返す。
「数学のドリル、58ページ!」
「あ! ヤバい!!」
川端の返答に昴は思い出し、心臓の鼓動が跳ね上がった。
「ドリル、教室のロッカーに忘れた!」
「心の底からザマァ!」
川端がチャチャを入れる。
「ナナ公は容赦ねーぞ? 成績はもちろん、内申点もばんばん削ってくって噂だぞー?」
普段から厳しい数学教師・七瀬の評判を内容特盛で川端が言いふらした。
「――仕方ない、取ってくる!」
「心の底からザマァ!」
「うるせえええ!」
踵を返して来た道を戻りながら、昴は戯けたように怒鳴った。遠くに見えるA中学校、その背後の森から真円の満月が昇ってこようとしていた――
昴が校舎に着くと、木々の上から満月が学校全体を赤々と照らしていた。
「赤い月か――、綺麗だな。」
地平に近い月は大きく見えるものだが、今日の月は一段と巨大に感じる。本当は暗い陰と赤光の大きな月のコントラストを見て微かな恐れ、底知れない恐怖が昴を捉えていたが、それを振り払うように「綺麗」と敢えて口にした。時間的に昇降口に鍵が掛けられているのは当然だったが、教師も全員が既に下校しているようで職員室が消灯されていた。
「仕方ないな――」
昴は外から1階家庭科室に向かい、左から2番目の窓をカラリと開ける。大抵の部活やクラブなどは内緒で校舎の何処かの窓の鍵をコッソリと開けておき、部員内で情報を共有しているものだ。バスケ部は男女共有で家庭科室の窓を「不法侵入」の箇所と定めていた。昴は軽々と窓枠を越え、家庭科室に入った。コンロとシンクを備えた大きな机が並び、赤い月光に照らされている。異様、そして不気味。そのような思いを無理やり心の奥底に抑え込んで、昴は廊下へ出た。やはり真紅の月光が窓から辺りを照らし、黒と赤の絵の具をキャンバスへとブチ撒けたような光景だ。昴は自然と足速に階段へと向かい、駆け上がる。3階が2年生の教室が集まっているフロアだ。そしてB組へと向かう足が、はたと止まる。廊下に何かが落ちていた。手頃なサイズの額縁、それは見知った音楽家・ベートーヴェンの肖像画だ。しかし。それは落ちていたのではない。額縁からは10本ほどの細い手が生えており、自ら立っていた。それは赤い光に照らされ、ゆらゆらと動いている。
「―――。」
昴の思考が、その事実の理解を拒否した。目の錯覚か、それとも気のせいか。だが、事実は厳然と昴に現実を突きつける。描かれたベートーヴェンの目の辺りに閉じていた瞳を開くように一対の生々しい眼球が出現した。眼球は周囲を見渡すように互いが不規則に動き、昴に焦点を合わせる。そして微かに『目』を細めると、次に口の辺りに斜めの亀裂が入り、そこから『歯』を覗かせた。肉食獣のような鋭い牙ではなく、草食獣の臼歯を思わせるような頑丈な『歯』をガチガチと噛み鳴らす。岩をぶつけ合わせるような重厚な音が響く。それは獲物を骨ごと噛み砕いて擦り潰す目的が明らかであり、地球の生命体の進化の歴史から逸脱した異形の形。額縁から生えた細い手がペタペタと音を立て、肖像画が昴に這い寄り始めた。音は次第に速く、激しく打ち鳴らされる。
ペタペタペタペタペタペタペタペタ
「う、うわあああああああ!」
昴は現状を何一つとして理解していない。しかし本能が生命の危険を察知し、身体が反応した。全力でダッシュし、逃走する。だが異形の肖像画の動きは昴の瞬発力を上回り、大きくジャンプして襲いかかってきた。
「ッ!」
大きく開かれた口腔、そこから覗く臼歯。それは昴を目掛けて勢い良く噛み合わせられたが、持ち前の反射神経で昴は回避した。勢い余った肖像画は木片が落ちる軽い音を立てて廊下を転がり、裏返ってジタバタと藻掻いた。それを見届けることなく、昴は再び昇降口を目指して駆け出す。渡り廊下を駆け、階段を飛び降りるように疾走した。
ペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタ
ハッと昴が振り返る。追跡者はベートーヴェンの肖像画だけではなかった。バッハの肖像画があり、シューベルトの肖像画があり、ミロのヴィーナスの胸像があり、ダビデ像の模型があり、その他もろもろ無数の『何か』が集団で迫って来ている。
「ヒッ……」
昴が1階に辿り着く。正面に暗い森、その上に煌々と赤い月が輝いていた。真紅の月光が昴に降り注ぐ。ふと、昴は理解した。この『赤』は獲物の鮮血を暗喩しているのだろうと。つまり、昴自身の血液だ。それを悟って昴は恐怖し、絶望した。




