第78話 戻れるだけを、戻す線
視界の端が、赤い。
リラが重ねたHUDの「危険ライン」が、赤→赤→赤と、点滅じゃなく“常時点灯”に近い状態になっている。つまり今この帯は、どこを踏んでも危険が上がる。
どこを間違えても、命が落ちる瞬間が連続する――そういう場所だ。
(……撤退戦ってのは、こうなる)
俺は息を吸って、吐く。
短く。
深くは吸わない。
胸を広げすぎると、集中が緩む。
緩んだ瞬間、判断がズレる。
前庭から本命洞窟寄りに伸びた線は、もう“突撃”の形をしていなかった。
皆、戻りたい方向を向いている。
向いているのに、戻れない。
崩れた足場。
濁りの杭。
見えない罠。
そして――自分たちで作った混乱。
「セイ、左!」
コルトの声が飛ぶ。
(薄い赤――まだ踏める帯を示して)。
次の瞬間、リラが赤線を一段だけ薄くした。
リラが意図を汲んだ。
危険度の高低じゃない。
“まだ踏める”帯の表示だ。
黒い杭が一本、斜めに突っ込んでくる。
(――邪魔)
マナソードを抜く。剣筋が、一本の線に見える。
斬るのは「杭」じゃない。
杭の“勢い”だ。
勢いが残ったまま地面に刺されば、足場が割れる。
割れれば、撤退路が消える。
一太刀。
黒い杭は、角度を変えて土に刺さり、崩落の中心から外れた。
地面が揺れない。
揺れが出ないなら、後ろの列が崩れない。
「通れる! 今!」
俺が叫ぶと、ミナが即座に拾う。
「今の合図で、走れる人から走って! 止まらない! サラ、リアン、こっち!」
ポケット――一時退避の“くぼみ”は、バルドとテオが作って維持している。
盾の壁と土壁の合わせ技で、濁りの面制圧から一瞬だけ逃げられる箱を作る。
そこに、コルトの《灯の矢筋》が「戻りの方向」を光で描く。
みんなの仕事が、噛み合っている。
噛み合っているからこそ、俺は“余計なこと”をしない。
やるのは、引き抜き。
拾って、渡して、戻す。
「もう一人! 担架じゃない、肩貸しでいける!」
ミナの声に、サラがすぐ答える。
「はい! 腕を回して! 骨は――固定、いける!」
リアンが短く祈り、光が足元に落ちる。
濁りの“重さ”が、ほんの少しだけ軽くなる。
(良い。ここまでは良い)
問題は、ここから先だ。
HUDに、まだ残っている光点がある。
動きが遅い。
しかも、位置が悪い。
本命洞窟寄りの“濃い帯”の縁――そこは、崩れたら戻れない。
【セイ。まだ残ってる。匂い、濃い】
けむりの声が、意識の奥で鳴った。
灰色の狼――煙の魔獣、スモークハウンド。
鼻が利く。
濁りの線と、生存者の匂いを嗅ぎ分ける。
けむりは単独の狼に見える。
でも、動きは“群れ”だ。
偵察役らしく、煙を薄く分けて前へ伸ばし、いくつもの気配みたいに道を示す。
影が二つ、三つ、霧の向こうで揺れる。
(……濁り狼“たち”。そう見えるのは確かだ)
「ミナ。全体の撤退、もう回る?」
「回る! 今の流れなら、ポケットを二つ回せば――ほぼ全部、玄関線までいける!」
ミナの声が、少しだけ明るくなった。
状況が“突撃”から“撤退”にシフトしている。
皆が戻る方向を向いた。
だから、拾い上げの効率が上がった。
――想定より、救える。
その事実に安心しそうになる。
けど、ここで安心したら終わる。
「いい。じゃあ俺は――残りを拾う」
ミナが一瞬だけ目を見開いた。
「セイ、どこ行く気……!」
「深いとこに一人、残ってる。――行って戻る。時間は、取らない」
サラが即座に釘を刺す。
「戻る線、忘れないで!」
「忘れない」
俺は言い切って、けむりの示す煙の筋へ身体を向けた。
【セイ。危険が濃い。けど、一本道はある】
「案内頼む」
けむりは、低く鳴いた。
霧が一段、濃くなる。
周囲が“見えにくい霧”に変わるのに、俺とけむりだけは進む方向がはっきり分かる。
煙の魔獣は、煙の中でも自分の線を見失わない。
(やっぱ便利だな、お前)
俺は走った。
止まらない。
立ち止まれば、地面が沈む。
目標の位置が近づくにつれ、濁りの杭が増える。触手みたいな影が、地面から這い上がってくる。
濁り獣――骨が外に浮き出た狼のような影、泥をまとった猪のような影。
形は定まらない。
定まらないから、余計に危険だ。
(減らす)
ここで“避けて通る”と、追撃が増える。
追撃が増えると、撤退路の背中が削られる。
だから、減らす。
俺の役目は前衛じゃない。
でも、今は「撤退路を守るための一閃」が必要だ。
一太刀。
濁り獣の首の“つながり”だけを切る。
体が崩れて、霧の中へ溶ける。
一太刀。
触手の根元だけを落とす。
杭が一本、出る前に沈む。
一太刀。
地面を割るように伸びた濁りの線を、切って途切れさせる。
(数を減らせ。戻る線を守れ)
そうして、俺は見つけた。
倒れている男。
鎧は裂け、腕も脚も血で濡れている。
周囲には、彼が引き留めた痕跡がある。
踏みとどまった跡じゃない。
“押し返した”跡だ。
誰かを逃がすために、ここに残った。
「……おい」
男が目だけを動かす。
視線が俺を見て、笑ったように見えた。
「……撤退役……来た、のかよ」
元Bランク冒険者たちのリーダー格。
武闘派の中心にいた男だ。
今は、口の端が切れて、歯が赤い。
「来た。お前、ここで何してる」
「何って……見りゃ、分かんだろ……。後ろ、戻して……」
声が掠れている。息が浅い。
(……気づいた顔だな)
こいつは、後から気づいたんだ。
自分たちが利用されていたことに。
若手騎士爵が“一歩後ろ”で功績だけ拾う気だったことに。
そして、自分たちが捨て駒だったことに。
気づいた上で、こいつは“殿”に回った。
他を助けるために、自己犠牲に走った。
――悪くない。
でも、そこで死んだら、全部終わる。
「立てるか」
「……無理だ。……置いてけ。お前らが沈む」
「置いてけるかよ」
俺はしゃがみ込んで、男の肩を掴む。
血が指に付く。
温かい。
まだ生きてる。
「お前は生きて帰る。証言して、償う」
男が、薄く笑った。
「……償い……か。……俺が?」
「そうだよ。逃げるな」
男の目が揺れる。
悔しさと、後悔と、怒りが混ざった目だ。
「……騎士爵ども……」
「それも含めてだ。お前が死んだら、都合のいい“事故”で終わる」
男が、そこで歯を食いしばった。
声にならない唸りが漏れる。
「……分かった……。生きて……言う……」
「よし」
俺は男の腕を肩に回し、引き起こす。
その瞬間、背後の霧が裂けた。
若手騎士爵の一人が、そこにいた。
鎧は比較的きれいだ。
危険の濃い帯に長居していない証拠。
目が合うと、彼は一瞬だけ顔を歪めた。
(……やっぱり、ここにいたか)
この位置は貴重だ。
“どこに立っていたか”は、全部の証拠になる。
「貴様――!」
騎士爵が叫びかけた瞬間、彼の背後から濁りの影が伸びた。
触手。
彼を狙ってるんじゃない。俺たちの“戻り線”を割りにきている。
「邪魔」
一太刀。
触手が落ち、霧に溶ける。
騎士爵はそれを見て、言葉を失った。
(見せすぎたくない。けど、今は減らす)
俺は男を抱え直し、戻る方向へ身体を向けた。
『セイ、後ろ。二本』
けむりが告げる。
霧の中で杭が二本、同時に生まれる。
(来い)
一太刀で一本。
もう一本は、角度を変えて“外す”。
地面が割れない。
割れないなら、戻れる。
「走るぞ」
俺が言うと、男は喉の奥で笑った。
「……俺、もう……走れねぇ……」
「走らなくていい。運ぶ」
俺は言い切って、霧の中を抜けた。
ポケットの手前まで戻ったところで、バルドの盾が見えた。
盾の縁が、泥の弾を受けて火花みたいに弾けている。
「セイ! そいつが“最後”か!」
「最後じゃない。まだ残りがいる。けど――こいつは必要だ」
「……証言か」
バルドは察しがいい。
サラが、俺の肩越しに男の顔を見て、眉をひそめた。
「ひどい傷……! リアン、固定、手伝って!」
「はい」
サラの治癒が落ちる。温かい光が、男の裂けた皮膚を塞いでいく。塞がるだけじゃない。
“動ける程度”に戻していく治癒だ。
「……すまねぇ……」
男が掠れ声で言う。
「謝るのは、玄関線の内側で。今は口を閉じて呼吸して」
サラはそう言って、治癒を続ける。
バルドは盾を前に出し、俺たちを包む角度に構え直す。
「コルト! 援護、厚く!」
「了解!」
矢が飛ぶ。
光が走る。
追ってくる濁り獣の目と、関節と、動きの核だけを止める射。
テオの土が、退路の端を持ち上げる。
敵の進行を止めるためじゃない。
“追撃の列”を崩すための土の段差だ。
(いい。みんな、役割を守ってる)
その時だった。
撤退列の少し後ろ――若手騎士爵たちが、妙に固まって動いているのが見えた。
彼らは前に出ていない。けど、撤退の列からも微妙に外れている。
――そして、その視線が、俺の肩の男に刺さっている。
(……口封じ)
このまま生きて帰れば、彼らの立場が露見する。
だから、消す。
冒険者上がりを。
内情を知る者を。
事故に見せかけて。
騎士爵の一人が、護衛の兵に顎で合図した。
兵が、撤退列の脇にいる負傷者の背中を押す。
押された男が、濁りの“薄い帯”の外へよろける。
「――っ!」
俺が声を上げるより早く、コルトの矢が飛んだ。
矢は、押した兵の足元へ突き刺さる。
土を貫いて、靴の縁を縫い止めた。
兵が転び、押された負傷者も倒れ込む形で“薄い帯”の内側に残る。
「今の、何だ……?」
騎士爵が顔を上げる。
コルトは弓を構えたまま、淡々と言った。
「足が滑っただけに見えるようにした。けど、次は“腕”に刺す」
声が冷たい。
テオも、黙って土をせり上げた。
若手騎士爵と負傷者の間に、低い土の壁が立つ。
高さは膝程度。越えられる。
けど、急いで越えるには邪魔だ。
「……撤退列に、余計な動きが混ざってる」
テオが短く言う。
その言葉で、周囲の兵たちも気づく。視線が、騎士爵へ向く。
騎士爵は、すぐに表情を作り直した。
「誤解だ! 混乱している! 撤退のために――」
「撤退のために、味方を落とすのか?」
俺は低い声で言った。
騎士爵の目が、鋭くなった。
「貴様のような田舎者が――!」
「田舎者でいい」
俺は言い切る。
そして、肩の男に一瞬だけ耳を寄せた。
「――生きろ。今ここで死なれると困る」
男が、かすかに頷いた。
俺は視線を戻し、騎士爵を見た。
「今、線は一本だ。玄関線まで“戻れるだけ”戻す。ここで味方同士を削ったら、山が笑う」
騎士爵は唇を噛む。
彼らは、今ここで争えば損だと分かっている。分かっているから、別の手を選ぶ。
彼は身を翻し、別の負傷者の列へ近づいた。
背中に、短剣が見えた。抜く気だ。
(やる気か)
コルトの矢が、再び光る。
だが、矢を放つより先に――けむりが動いた。
灰色の霧が、騎士爵の足元に絡みつく。
濃い煙幕。
視界が奪われる。
けむり自身は煙の中でも見えている。
だから、煙幕は“味方への援護”になる。
「――なっ!?」
騎士爵がたたらを踏む。
その瞬間、テオの土が足元を少し持ち上げ、騎士爵は尻餅をついた。
短剣が抜けない。
「……事故だな」
コルトが淡々と言った。
「そうだな。事故だ」
俺も淡々と返した。
(事故に見せかけて殺すなら、事故に見せかけて止める)
撤退戦で大事なのは、勝つことじゃない。
“増やさない”ことだ。危険も、被害も、混乱も。
「ミナ!」
「はい!」
「撤退列、二本に分ける。負傷者列と騎士爵列、距離を取れ。接触させるな」
「了解、すぐ回す!」
ミナが合図を飛ばす。手首輪ネットの短い文が、仲間に流れる。声が出しにくい状況でも、「撤退」「注意」程度なら共有できる。余計な会話はしない。今はそれで十分だ。
バルドが盾をずらし、列の角度を変えた。
サラは治癒を途切れさせないまま、負傷者の肩を支えて歩かせる。
「セイ、もう一人、気絶がいる!」
リアンが言う。俺は反射でHUDを見る。
――いた。光点が一つ、動いてない。位置が、悪い。
(……最後の一人)
ミナは今、撤退列の再編で手が離せない。
バルドも盾で列を守っている。
サラもリアンも回復で動けない。
(俺が行くしかない)
俺は息を吸って、吐く。
「けむり」
『行くか』
「行く。十数える間だけ、煙を濃くしてくれ」
『承知』
霧が一段濃くなる。
敵も味方も、俺の動きを見失う程度に。
外から見れば、撤退列が煙に包まれた――ただそれだけに見える。
(見せすぎない。短く。戻る)
俺は走った。
戻る線へ逆走するんじゃない。
“折り返し”だ。
リラがHUDの赤を一瞬だけ薄くして、通れる筋を示す。
倒れていたのは、兵だ。気絶している。呼吸はある。
「……生きてる」
それだけ確認して、担ぐ。
濁り獣が一体、霧を割って来る。
(邪魔)
一太刀。
核だけ落とす。
濁り獣は形を失い、煙に溶ける。
俺は戻った。
煙の中を抜けて、撤退列へ滑り込む。
「――セイ!」
サラの声が強い。怒りというより、安心と苛立ちが混ざった声。
「……戻ったよ」
「戻ったならいい! 置いていかないで!」
「置いてかない」
俺は短く答え、担いだ兵を王都兵へ渡した。
「運べるか」
「はい!」
王都兵が歯を食いしばり、担ぎ直す。
撤退列は、もう崩れない形になっていた。
コルトの矢が、追撃の影を削る。
テオの土が、段差を作って追撃の列を崩す。
バルドの盾が、前を塞ぐ。
サラとリアンの治癒が、倒れる人間を“歩ける側”へ戻す。
ミナが、それらを全部、回す。
俺は、その中心で――線を引き直す。
「ここでタイムアップだ」
俺は言った。
言葉にすると、皆が迷わない。
「これ以上は、俺たちが沈む。玄関線へ戻る。――全員、戻る」
返事はひとつ。
「了解!」
灯籠の光が見えた。
玄関線。
戦場の玄関口。
その内側には、本隊がいる。
玄関線の内側で、動かないで待っていた王都部隊の盾と槍の列。
総大将エドガーの旗。ガランの影。
俺たちが線を越えた瞬間、重い空気が少しだけ変わった。
濁りの重さが、背中から外れる。
代わりに、疲労が一気に表へ出る。
倒れ込む兵。
座り込む冒険者。
担架が走る。
救護テントへ誘導される列。
若手騎士爵たちも、線の内側へ滑り込んだ。
彼らはきっと、“功績”の言い方を考えている。
でも、今日はそれを許さない。
俺の肩にいた冒険者リーダーが、息を吐いた。
「……生きちまったな……」
「生きたなら、やることがある」
俺は低く言う。
「証言して、償え。逃げるな」
男は目を閉じて、ゆっくり頷いた。
灯籠の光の下、俺は空を見上げる。
勝利じゃない。壊滅を、かろうじて避けただけ。
けど――避けた。
線を守った。
(次は、“同じ愚かさを繰り返さないため”の一歩だ)
そう思った瞬間、ガランの視線がこちらを捉えた。
怒りは、後でいい。
今は、もう一度線を引き直す。
俺は息を整え、救護テントのほうへ歩き出した。
証言者を、生かしたまま運ぶために。




