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理を灯す少年 〜祈り万能世界で、AIを宿す俺だけが“理論魔法”を使えた件〜  作者: いい加減工房
第6章 西からの十五、線が制度になる戦場

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第77話 崩れた足場と、最初の救出

 地面が、音もなく抜けた。

 視界の隅のHUD――リラが重ねた地図の上に、別の映像が滑り込む。

 ヒトリが拾ってきた上空視点だ。

 先頭の兵士の脚が、黒い泥に呑まれるみたいに沈んでいく。

「ロープ! ロープ持ってるやつ前に出ろ! 早くだ、沈む!」

 怒鳴り声と悲鳴が、霧越しにぐしゃぐしゃに混ざった。

 黒ずんだ泥と濁りの霧――そのノイズで、映像はところどころ白く飛ぶ。

 前衛だった平兵が三人、そのまま斜面ごと滑り落ちていく。

 足場は岩じゃない。

  濁りに食われて内側から崩れた、空洞の殻だ。

「……間に合わなかったな」

 俺は息を細く吐いた。

 HUDに重なる映像の右奥、高い位置に、鎧の影が三つ見える。

 自分だけ岩棚の上に陣取り、下の兵たちに怒鳴り散らしている若い顔。

 自分たちの私利私欲に明け暮れる腐敗した王国貴族の末裔――若手騎士爵たちだ。

「下がるな! ここを抜ければ本命拠点だ!」

「今引いたら、功績は全部、他の隊にもっていかれるぞ!」

 兵たちの顔には、もはや「栄誉」なんて文字は残っていない。

 踏める地面がどこか分からない。

  杭がどこから来るか分からない。

  危険が見えていない焦りだけが張り付いている。

 ――いや、「恐怖」じゃない。危険が読めていないだけだ。

 映像の左側では、元Bランク冒険者組の一人が仲間を肩に担いでいた。

 鎧の隙間から血が流れ落ちる。

 あいつは……昨夜、志願ミーティングで前に出ていた男だ。

 自分も元冒険者だと誇らしげに語り、若手騎士爵たちと並んで「本命を叩くチャンスだ」なんて笑っていた。

 今は、笑いなんてひとかけらもない。

 崩れた足場の縁で踏ん張りながら、流されそうになる平兵を片手で掴み、もう片方の腕で担いだ仲間を支えている。

 俺は思わず、視界の映像を一瞬止めた。

「……セイ?」

 横から、リラの声。

 俺は首だけ動かして前を確認する。

 玄関線の灯籠列はもう背中側だ。

 濁りの霧が薄くかかった前庭を、俺たち救出隊はすでに半分ほど駆け抜けている。

「いや、大丈夫。もう一回流して」

 映像が再生される。

 濁った霧に紛れて、黒い杭みたいなものが何本も飛び交っているのが見えた。

 濁り核から吹き出したマナの杭だ。

 真っ直ぐじゃない。

  途中でねじれながら飛ぶ、嫌な軌跡。

 それが孤立した兵の足元や、崩れた足場の縁を容赦なく削っている。

「前衛崩落、後衛も分断……指揮系統が全部ばらけてるな」

 隣を走るミナが、息を整えながら言った。

「残存部隊をまとめて突っ込ませなくて正解ですね。塊で踏み込めば、前庭の罠帯にそっくり飲まれる」

「うん。本隊は玄関線で止めたまま。俺たちで“戻れるだけ”を戻す」

 口に出しておかないと、今やろうとしていることの意味がぼやけそうになる。

 視界の端で、灰色の毛並みが揺れた。

 俺たちの先頭を、煙のような狼――スモークハウンドのけむりが駆けていく。

 鼻先を低くさげ、何度も地面の匂いを嗅ぎながら、たまに嫌そうに毛を逆立てて進路を変える。

「けむり、どう?」

 走りながら声をかけると、けむりは短く「ウゥ」と低く鳴いたあと、右前方へ身体をひねった。


(右か。リラ、地図に重ねて)

『了解。――テオ、ジオセンス。要点だけ!』


 テオの足元で、土の感覚を写す簡易の陣が脈打つ。

「……下、空洞が走ってる。踏める帯が細い。崩れる穴も多い。……うわ、ひでぇ」


『受け取った。上書きするね』


 次の瞬間、視界の地図に半透明の線がいくつも重なる。

 地脈の流れ、足場の固さ、崩落した穴の位置。

 それに、濁りの「濃い帯」と「薄い帯」。


 俺の頭の中に、それが立体で組み上がっていく。

「……うわ。これは、ひどい」

 テオが思わず声を漏らした。

 足元で、土の感覚を写す簡易の陣が光っている。

  テオが拾った“地面の実感”が、リラを介して視界地図に反映されている。

 黒い帯が三つ、はっきりと輪郭を持つ。

 前庭と本命洞窟の間に、谷のように濁りが溜まっている場所が三つある。

 そこに、まだ動いている人間の影がまとまっていた。

「仮に、あれをA谷、B谷、C谷って呼ぼうか」

「セイ、それ名前のセンス……」

「分かりやすさ優先」

 ミナが苦笑しながらも頷く。

「A谷が一番玄関線寄り。兵の数も多い、けど、足場はもう半分沈みかけてる」

「B谷は、その奥。武闘派の何人かと、弓兵が固まってる。濁りの杭が集中してる場所だね」

「C谷は……本命洞窟の手前。あれ、完全に“沈みかけた帯”だわ」

 リラの説明を聞きながら、俺は視界の地図の“帯”を意識でなぞる。

 踏める線。崩落しやすい線。面制圧が始まっている線。

 数字が、頭の中で弾けた。

 A谷――危険度、時間を含めて「4.8」。

 B谷――5.1。

 C谷――5.5を越えてる。

「Cは、完全に沈みかけてるな。……あそこは後回しだ」

 口に出した瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

 C谷にも、人の影が動いている。誰かが肩を貸し、誰かが地面を這っている。

  助けてくれと叫ぶ声が、映像越しにも分かる。

 それでも、線は引かなきゃいけない。

「まずA谷。あそこを崩されると、BもCもまとめて退路が消える。Aを拾いながら、退路側に“ポケット”を作る」

「了解。盾は俺と王都兵で前に出る。テオ、土壁を頼む」

 バルドが盾を軽く叩きながら短く言う。

 横の王都兵が無言で頷いた。感情を顔に出さないが、その目は前だけを見ている。

「ポケットの位置はこの辺り。玄関線側の地面がまだ固い。ここからここまで――この間なら、崩落リスクは許容範囲」

 俺は走りながら手で地面の方向を示した。

 視界地図のマーカーが、その位置に重なって点く。

「コルト、《灯の矢筋》でそこまでの線を引いて。退路の矢印をはっきり見せたい」

「任された。矢は少し多めに使うぞ。王都組にも見えるように光量上げておく」

 コルトが弓を握り直し、背中の矢筒を軽く叩いた。

「ミナ、サラ、リアンはポケット側。倒れ込んでくる連中の仕分けと回復を優先。歩けるやつと運ばないといけないやつ、すぐ区別できるようにしておいて」

「了解。片足だけやってるみたいな人から先ですね」

「骨が完全に折れてる人は?」

「その場で固定して、動かさない。……痛むけど、動かした方が危険が上がる」

 リアンの冷静な声に、サラが短く息を飲んだ。

「セイ。あんたの“例外許可”の使いどころ、ここからよね?」

 サラの視線が一瞬だけ刺さる。

 俺は短く頷いた。

「命が落ちる瞬間だけ前に出る。……今はまだ、その手前だ。ただ、A谷の足場はもうギリギリ。拾いに行く一歩は、俺が踏む」

「その一歩でちゃんと戻ってきなさいよ。戻る足、忘れたら承知しないからね」

 口調は軽いが、サラの目は本気だ。

 いつも通りだ。

  それがありがたい。

「けむり。A谷の手前まで先導頼む。人の匂いと、“沈んでない地面”の匂いを嗅ぎ分けて」

 けむりは「ワン」と短く吠えると、濁りの霧の中へと姿を消した。

「よし、《鎚灯り》、少しペース上げるぞ。息を整えるのはポケット作ってからだ」

 バルドが叫ぶ。重い鎧の音が、土を蹴る足音と重なった。

 前庭の濁りは、二日間の押し引きでかなり削れている。

 それでも、本命洞窟手前の帯は別物だ。

  足の裏に、地面のわずかな震えが伝わってくる。

 濁り核からのマナが地中を這い回り、いつでも足場を崩しにくる準備をしている。

『セイ、もうすぐ危険帯の手前。速度落とす?』

  (いや、このまま一度前まで出る。危険線のギリ手前で一回止まるから、そこで呼吸を合わせよう)


 呼吸を整えるのは、体力のためだけじゃない。

 “線”を間違えないためだ。

 濁りの帯が、目の前に広がった。

 薄暗い霧の中に、黒くひび割れた大地と、ところどころ泡立つ泥。

  そこに、人影が散らばっている。

 A谷――玄関線寄りの窪地には、十数人の兵が固まっていた。

 足場が崩れかけた窪みに落ちかけている者を、上から引き上げようとしている。

 そのすぐ上を、黒い杭がかすめていく。

 B谷の方では、弓を構えた兵たちが濁り獣と撃ち合っていた。

 怪物の姿は霧に紛れてよく見えないが、四つ足の影と、ぬらりとした触手の輪郭がちらつく。

 濁りそのものが形を持ったような魔物たちだ。

 C谷は――見ないようにしても視界に入ってくる。

 そこは、もう“穴”だった。黒い泥がぐずぐずと渦を巻き、その中に人影が……いや、あれはもう、線を越えている。

 濁りと一体化しかけているものは、救出の対象じゃない。

 残酷だけど、それが現実だ。

「……A谷から十歩分、こっち側に“踏める線”がある。そこまでは俺が行く」

 俺は短く息を吐き、腰のマナソードの柄に手をかけた。

「テオ。俺が十数える間に、ここから二歩後ろに土壁を立てて。その後ろがポケットの背中だ」

「了解。十数えるまでにやる」

「バルド、王都兵。俺が戻ってくる線までは、絶対に前に出ないで。そこを越えると、足場が持たない」

「分かった。盾はここが前だ。……それ以上前は、お前の仕事だな」

 バルドが地面に盾を突き立てた。

 鈍い音が、地面の固さを教えてくれる。

  ここまではまだ濁りに食われていない。

「コルト、矢筋頼む」

「任せろ。セイ、お前の帰ってくる道も照らしてやる」

 コルトが弓を引いた。

 矢尻に宿る光が淡く震える。

「ミナ、カウントお願い」

「了解。セイ、行って。――一、二、三……」

 ミナの声を背中に、俺は一歩、危険帯の中へ踏み込んだ。

 足の裏に、ぐにゃりとした感触。

 けど、沈まない。

  ここはまだ、ギリギリ踏める線だ。

 視界の端で、けむりの灰色の影が走る。

 鼻先で空気を裂き、濁りの濃い場所を避けて進んでいる。

 その後ろをなぞるように、俺は走った。

 A谷の窪地の縁まで、あと数歩。

 黒い杭が斜め上から突き刺さってきた。

 マナソードが鞘から滑り出る音がした。

 柄を握った瞬間、視界の中で杭の軌道が一本の線に変わる。

「――っ」

 余計なことを考える暇はない。

 線を一つ、横に引くだけだ。

 マナソードの刃が黒い杭と交差した。

 刃にまとわりつく濁りが嫌な音を立てて弾ける。

  杭は軌道を歪められ、窪地の縁ではなく少し離れた場所に突き刺さった。

 足場が崩れる揺れが、わずかに遠のく。

「おい、誰だあれは……!」

「撤退役の小僧か……?」

 窪地にいた兵の一人が、驚いたようにこちらを見た。

 今、名前を名乗っている暇はない。

「上がれるやつから順に、こっちに来て! ここに“退路”がある!」

 叫びながら、俺は窪地の縁に飛び込んだ。

 砂と泥が混ざった斜面を滑らないよう、片膝をついて踏ん張る。

 目の前には、さっき映像で見た男がいた。

 肩に仲間を担いだ元Bランク冒険者。

  鎧の隙間から血が流れ出て、顔は泥と汗でぐしゃぐしゃだ。

「立てるか」

「……誰だ、あんた。……撤退役、か?」

 掠れた声。

 俺はうなずいた。

「詳しい話は後。ここ、あと数十秒で全部沈む。担いでるやつ貸せ。先に引き上げる」

「ふざけるな、こいつは俺の――」

「お前が落ちたら、二人とも沈む。今は線の話だけだ。生きて謝りたいなら、そいつを俺に渡せ」

 男の目が悔しさと迷いで歪む。

 その一瞬の間にも、窪地の底で黒い泥がぼこりと膨れ、空気の泡を吐き出した。

「五、六、七……!」

 上から、ミナの声。

 時間が足りない。

「……クソッ、持ってけ! そいつは俺の仲間だ、絶対に、絶対に死なせるなよ!」

「約束はしない。線の内側まで運ぶ。それが俺の仕事だ」

 男から、ぐったりした兵士の身体を受け取る。

 軽くはない。

  けれど、理で調整された俺の身体なら、まだ動ける重さだ。

「上がれるやつは、自分の足で。この斜面はあと三歩分だけ持つ。そこまで行ったら、上で盾が待ってる」

 俺はそう叫ぶと、担いだ兵士の体重を片肩に移し、斜面を駆け上がった。

 上から光の矢が一本、すっと走る。

 コルトの《灯の矢筋》だ。

  矢が描いた線が俺の足元に沿うように地面を照らす。

「こっちだ、セイ!」

 バルドの声がする。

 その向こうでは、テオが額に汗をにじませながら土壁をせり上げていた。

  まだ完全じゃないが、人が一時的に隠れられる高さだ。

「……九、十!」

 ミナのカウントと同時に、俺は窪地から飛び出した。

 足元の土が少しだけ崩れた感触があったが、線の内側までは持った。

「サラ、こいつ出血多い!」

「こっち! リアン、固定お願い!」

 俺は担いでいた兵士をサラたちに引き渡す。

 すぐにリアンが膝をつき、傷口の確認を始めた。

「あんた、動ける?」

 振り返ると、さっきの元Bランクが斜面ギリギリのところで踏ん張っていた。

 自分でも信じられないって顔で、まだ残っている仲間の腕を掴んでいる。

「動けるなら、あと二人までは手伝える。三人目は、足が沈む」

「……分かった。俺がもう一人担ぐ。あんたはその子を引き上げろ!」

 言うが早いか、男は別の兵を肩に担ぎ上げた。

 足元の泥がじわりと上がってくる。

「セイ、あと十秒だけなら“前”に出していい」

 リラの声が耳元で響いた。

 ガランからもらった例外許可の枠内。

  数字が頭の中で弾かれる。

「よし、もう一回」

 俺は再び斜面に足を踏み入れた。

 さっきより一段深いところまで。

  足の甲に冷たい何かが絡みつこうとする感触がある。

「来い!」

 男が押し出した兵士の手を掴み、そのまま引き上げる。

 背後で黒い杭が一本、斜面に突き刺さり、土が崩れた。

「ここまで!」

 俺は半ば怒鳴るように叫び、男の肩に肩をぶつけて、そのまま一緒に斜面を駆け上がった。

 上では、バルドと王都兵が盾を構えて待っている。

 濁り獣が吐き出した黒い弾を、盾が受け止める鈍い音が響いた。

「三人目、行けるか?」

 斜面から出たところで、元Bランクが息を切らしながら聞いてきた。

 俺は一瞬だけC谷の方に視線をやった。

 あの帯はもう、完全に沈んでいる。

  A谷の残りも、今の引き上げで大部分が線の内側に入った。

「今は無理だ。ここで線を越えたら、ポケットごと沈む」

「でも、あそこにはまだ――」

「分かってる。B谷とC谷は、次の一手で考える。今は、お前とこいつらを生かして退路をつなぐ」

 男は悔しそうに唇を噛んだが、何も言わなかった。

 その目の奥に、自分が“捨て駒”として使われたことへの怒りが燃え残っているのが見える。

 こいつは後で、必ず話を聞いた方がいい。

 武闘派の裏事情と、若手騎士爵たちの動き。その証言は、きっとガランが必要とする。

「セイ、A谷は大体拾えた。あと数人、歩けるかどうか微妙なのがいるけど、ここで一度“区切り”をつけないと、土壁がもたない」

 テオが肩で息をしながら報告してくる。

 土壁の表面がじわじわと黒く染まり始めていた。

「分かった。A谷はこのポケットまでで一旦ラインを引く。あとは後方の王都術者に任せよう」

 振り返ると、王都の術者たちがポケットの内側で補助魔法を展開していた。

 土壁を強化し、空気と濁りの境目を安定させる《導きの灯》の光が、ポケットの天井近くにふわりと浮かぶ。

「ミナ、A谷から来た連中の状態は?」

「軽傷が七、歩ける中傷が五、重傷が四。重傷のうち二人は、ここで処置できるならギリギリ歩行まで持っていける。残り二人は担ぎが必要」

「担ぎの枠は、あと三人分だな。バルド、王都兵から志願を募って。筋力あるやつ優先で」

「おう。……お前ら、聞いたな。ここから先は運び屋の仕事だぞ」

 バルドの声に、数人の兵が一歩前に出る。

 彼らの目には、さっきまでの混乱よりも、少しだけ光が戻っていた。

 “戻れるかもしれない”という線が見えたからだ。

 A谷からの流入が一段落したところで、視界の地図を一段引いた。

 B谷では弓兵たちが必死に濁り獣を牽制している。

 前方で武闘派の連中が、まだ「押せる」と信じて前のめりに構えているのが見えた。

(……まだ戦ってるつもりか)

 その背中は、危険を見ているようで見ていない。

『武闘派、三人ほどまとまってる。あの位置、退路が細い』

 視界の地図で、B谷の該当箇所が淡く縁取られた。

 一人はさっきの元Bランクよりも若い男だ。

 顔立ちは悪くない。

 鎧は無駄に煌びやかだ。

 その横に、先ほどA谷の上から怒鳴っていた若手騎士爵の一人が立っている。

「今はまだ、B谷は“完全沈没”じゃない。危険度は――」

『五・一。ここから時間が経つほど上がる。A谷で十数分使った。残り時間は多くない』

 けむりがその場で鼻をひくつかせ、B谷の方向を見た。

 短く、低く唸る。

【セイ、匂い的にはまだ“戻れる線”だ。けど、そこを越えると、一気に泥の臭いになる】

(つまり、B谷は“もう一グループ”としては拾える。問題は、その次だ)

 C谷の帯は、見れば見るほど判断が鈍る色をしていた。

 黒い泥がゆっくりと人影を飲み込んでいく。

 そこに飛び込めば、俺でも無事では済まない。

 救出隊全体の線を引き下げることになる。

「セイ、どうする?」

 ミナが真剣な目で俺を見る。

 救出隊の指揮は形式上ミナだが、線引きの最終判断は俺がしている。

 それを皆が分かっている。

 A谷を拾って、“壊滅”は少しだけ遠ざかった。

 けれど、まだB谷とC谷が残っている。

 このままA谷だけで撤退すれば、救出隊はほぼ無傷で帰れるかもしれない。

 その代わり、武闘派とその周辺はほとんどC谷に呑まれるだろう。

 それは――この戦いの目的から見て、許容できない。

「……B谷を拾う。B谷まで拾えれば、“部隊壊滅”は避けられるラインに乗る。C谷は、その時点で危険度を再計算する」

「C谷の人たちは?」

 ミナの問いに、俺は一瞬だけ口を噤んだ。

 C谷に映る影の中に、元Bランク冒険者の一人がいる。

 同時に、若手騎士爵の一人の姿も見える。

「あそこは――今この瞬間は、俺たちが入れる線じゃない。B谷を拾うことで、AとBの生き残りを玄関線まで戻せば、全体としての“命の線”は守れる。その先に余力が残っていれば、再チャレンジを考える」

 言葉にしながら、自分の胸の奥がざらつく。

 助けられる人と、助けられない人。

 救出戦とは、そういう線を引く仕事だ。

「……分かった。B谷の救出プラン、組みましょう」

 ミナは短く頷き、すぐに顔を上げた。

「バルド、《鎚灯り》の位置を少しずらすわ。B谷側に盾を出して、A谷から来た人たちの退路と重ならないようにしたい」

「了解だ。Aの連中は王都兵に任せて、《鎚灯り》はB側へ移る」

「テオ、土壁の延長はできる?」

「できるけど、マナの消耗がきつい。……けど、ここでケチると後がもっと危険になる」

 テオは自分で自分に言い聞かせるように呟いた。

「コルト、《灯の矢筋》をもう一度。今度はA谷からB谷に向かう線と、B谷からポケットに戻る線、二本引いて。矢の残数、大丈夫?」

「矢は、あと二十本。光を強くしなければ足りるさ。……セイ、行くんだろ?」

「ああ。B谷の前衛に“引ける線”を見せてくる。あいつら、まだ押せると思ってる顔してる」

 俺はマナソードの柄を握り直した。

 A谷の救出で掴んだ感覚が、まだ手の中に残っている。

「セイ、さっきより一歩だけ深いところまでなら、例外許可の範囲内。けど、それ以上前に出たら、本当に命が落ちる瞬間だからね」

 リラが念を押してくる。

 その「一歩」の重さを、俺は知っている。

「分かってる。――けむり、もう一回頼む」

 けむりが静かに頷いたように見えた。

 灰色の影が、再び濁りの霧の中へ消えていく。

 俺たちの前には、まだB谷とC谷がある。

 A谷を拾えたことで、「まだ間に合う」という手応えが少しだけ生まれた。

 同時に、「時間も線もギリギリ」だという感覚も、よりはっきりとした。

 頭の中の地図に、新しく一本の線が浮かぶ。

 ――もう一グループ拾えたら、“壊滅”は避けられる。

 けれど、その先で線を引かなければ、今度は俺たちが沈む。

 その境界が、目の前の濁りの霧の向こうに、薄く、けれど確かに見え始めていた。


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