第75話 討っては引く線と、三つの中隊
夜の屋上から降りたあと、気持ちの整理をつけてから、ちゃんと布団には入ったはずなのに、目覚まし役の鐘が鳴ったとき、胸の奥に残っていたのは「よく寝た」という感覚じゃなくて、今日俺がどこに線を引くかで誰が生きて誰が死ぬか白にも黒にも転んでしまう現実の重さと、その線のことなんて気にもせず自分たちの出世欲だけ握りしめて跳ね回る連中の無神経な顔だった。
『……おはよう。起き抜けからそんな顔してたら、兵たちにバレるよ』
目を開ける前に、頭の中でリラの声がした。
「そんな顔?」
『うん、“全部自分で背負い込む気満々の顔”。はい、深呼吸一回』
言われた通りに息を吸って、ゆっくり吐く。胸の奥に貼りついていた重さが、ほんの少しだけ薄くなる。
『大丈夫。線を引くのはセイの役目だけど、線を見るのは私の仕事でもあるから。チートを二人ぶん積んでるんだから、もうちょっと楽に構えていい』
「……チート二人ぶんって言い方、なんかずるくない?」
『ずるくていいの。ずるいくらいでやっと、あの跳ねっ返りたちと釣り合い取れるんだから』
半分あきれたような、半分励ますような声に、ようやく目を開ける気になった。
布団から上体を起こして、部屋に自分以外の気配がないのを確かめる。
「……よし」
手を軽く組み、低く息を吐く。
いつもの清浄術で、汗と土埃をざっと落とした。
肌にまとわりついていた湿り気が少し引き、服の汚れもいくらか薄くなる。
いきなり全身ピカピカ、なんて便利な代物じゃないけれど、人前に出ても気にならない程度にはなる。
『はい、見た目も気持ちも、戦場に出しても大丈夫ライン』
「勝手にライン引くなよ」
『線引き担当でしょ? じゃあ、まず自分から』
軽口を交わしているうちに、さっきまで胸の奥で固まっていた重さが、現実に戻るための「いつもの重さ」くらいまで落ち着いていくのが分かった。
リラは休まず、俺が寝ているあいだも、頭の中で線と数字を回し続けていたに違いない。
それでもこうして普通の声で俺を起こしてくれるのは、理がくれたチートを二人で分け合っているおかげで、まだギリギリ踏ん張れているからだ。
だったら、今日も線を引きに行くしかない。
マジックボックスから装備袋を取り出して中身を確認し、靴ひもをきゅっと結んで立ち上がる。
袋を肩にかけてから、玄関に向かう前に、窓の外へ視線を向けた
東の空がまだ青黒い。
東野営地のほうから、低く短い号令の声が重なって聞こえてくる。
(いよいよ、三つの中隊が本番で動く日か)
靴先で床を一度鳴らしながら、昨夜までいじっていた地図のイメージを、もう一度頭の中に広げる。
村の東、灯籠線の少し外側に作られた「東野営地」。
そこから上流祈律帯へ向かって伸びる三本の線。
一番手前が「玄関線」。
そこから先に、Aライン、Bライン。
その向こうが、濁幕帯の黒い帯。
俺たちが昨日までかき集めてきた「戻れる線」と「危険の線」が、そこにみっちり描かれている。
「……行くか」
『理層は? ノイズは?』
「昨日の屋上よりはマシ。線はちゃんと読める」
リラはうなずいて、俺の肩を軽く叩いた。
『じゃあ、今日の仕事は『数字と線を残すこと』ね』
「うん。『俺が前に出て何とかする』日は、まだ来てない」
『来てほしくないけどね』
軽口を交わしながら、俺たちはギルドを出て東へ向かう。
朝の空気は冷たい。
吐く息が白く伸び、その先に、東野営地の灯りの塊が見えた。
東野営地は、もう完全に「戦場の玄関」の顔をしていた。
整地された広場には、規則正しく並ぶ三列の人の塊。
それぞれ二十人ずつが横一列に並び、奥行きが三段。
――二十人×三小隊=一中隊。
それが三つ。
そして、その手前には、旗と地図を囲む一団。
総大将と、王都側の参謀たち。
その輪に、ガランと《鎚灯り》、《リュミエルの灯》の姿そして俺もいた。
「来たか」
ガランが顎をしゃくって俺たちを招く。
近づくと、地図の上には、昨日の夜まで俺が書き込んでいた線が、そのまま置かれていた。
玄関線の少し先に、赤い印。
AラインとBラインの間に、濃い灰色の帯。
「本日の前進線は、ここまで」
ガランが赤印を指で叩く。
「玄関線から数えて、三つ目の大岩。そこを今日の『ここまで』とする」
「距離にして?」と総大将。
「地図上ではこのぐらいですが……」
俺は口を開く。
「実際には、戻りの足を考えて、一刻半ぶんの余裕を見てます。行き一刻、押して一刻、戻って一刻半。それで一サイクルです」
総大将――エドガーは、静かな目で地図と俺の顔を見比べた。
「一サイクルで一刻半分の『余白』を取る、と」
「はい。濁りの機嫌が良い日も悪い日もあるんで。悪い日に引きずられても戻れるように」
エドガーは短く笑った。
「いい。『余白なし』は、王都でも死人の出る考え方だ」
その横で、ひとりの騎士がわずかに眉をひそめたのが見えた。
若い、肩書きの付いた顔。
その後ろには、鎧の着こなしに妙な余裕がある男たち――元Bランク冒険者上がり、いわゆる武闘派が肩を並べている。
「一刻半も余らせるなら、二サイクル目でBライン手前まで行けるのでは?」
若い騎士の一人が、遠慮のない声で口を挟んだ。
「濁りの濃さは、昨日までの偵察で把握しているはずです。初日から攻め足を緩める必要が――」
「ある」
その言葉を切ったのは、エドガーだった。
「君たちの価値観では、ないのかもしれんがな」
鋭くはないが、芯の通った声音。
武闘派の男たちは、不快そうに視線をそらす。
ガランが俺のほうを見る。
説明しろ、という顔だ。
「……ええと」
俺は地図の玄関線に指を置き、Aラインのあたりまで指を滑らせた。
「昨日までで見えた限り、玄関線からこの印までの間には、“戻りやすさ”が残ってます。足を取られにくい傾斜、踏みやすい石、視界の抜けやすい木の切れ目。全部、『帰ろう札』と同じで、“帰るために使える素材”です」
そこで指を止め、AラインとBラインの間の灰色の帯を軽く叩く。
「でも、ここから先は、目に見えないほうの線が乱れてる。灯りも、祈りも、ちょっとずつズレてる。
『討って戻る』だけなら、たぶん今日でも、もう少し先まで行けます」
武闘派のひとりが鼻を鳴らす。
「なら――」
「でも、『明日もある』って考えると、話が変わります」
俺は彼の言葉を被せるように、わざと落ち着いた声で続けた。
「今日、玄関線から二本分先まで押し込んで、怪我人を増やしたら。明日、同じ人数で同じだけ押せるとは限らない。濁りは、“押された場所”を覚えることがあるから」
エドガーが頷く。
「三日、四日で終わる戦ではない。今日の一歩を『明日の一歩』のために節約する考え方が、ここではいる」
彼の一言で、それ以上の口論は起きなかった。
武闘派の視線は、まだ刺のようなものを含んでいたけれど。
作戦は単純だった。
――王都側の三中隊を、玄関線の前で三段に並べる。
第一中隊が先鋒。
第二中隊がその後ろで待機。
第三中隊はさらに後ろで休息と準備。
時間ごとに合図を送り、攻めている中隊が一刻ごとに入れ替わる。
討っては引き、引くタイミングで次の中隊が前に出る三段ローテ。
俺たちエルディア組は、その少し後ろ。
《リュミエルの灯》と《鎚灯り》は、玄関線とAラインの間を縦横に動きながら、前線の裏側を支える。
テオとバルドは盾と土壁の要として、中隊間の隙間を埋める。
コルトは、放った矢の筋をテオの風魔法でなぞって押し上げる中距離の援護射撃を展開し――ミナは爆薬と補助魔法を。
リアンとサラは祈りで足と心を支え、俺はその全部を《ウツシ》の視界と地図に落とす。
「今日の俺の立ち位置は、ここ」
俺は自分の胸元を軽く叩く。
「第一中隊の尻尾が見えるくらいの場所。前に出たい奴らには悪いけど、俺は今日も『戻る線』側だ」
「それでいい」
ガランが笑う。
「前に出て全部片づける役を増やしたら、村のやり方が壊れる。“ちゃんと怖がる奴”が、後ろにいてくれ」
「危険、ね」
「そうだ、“危険”だ」
ガランがわざとらしく言い直す。
俺も笑った。
怖さは、俺たちの内部語だ。
危険は、線を引く材料。
その差を分かっている者たちの顔が、ここにはいくつもあった。
出撃の号令がかかる。
第一中隊が、玄関線からゆっくりと前進を始める。
盾を前に構え、その背後に槍、剣。
さらに後ろに弓と魔法、そして僧侶たち。
祈りの言葉と詠唱が、まだ薄暗い森の中で重なる。
灯籠の光が、兵たちの鎧と槍先を反射して、点々とした光の筋を作った。
俺は少し離れた斜面の上、木の根に背を預ける位置を選ぶ。
そこから、第一中隊の動きと、その前方の地形が「重ねて」見える。
現実の視界と、《ウツシ》で投影した俯瞰の地図。
頭の中のリラが、《ウツシ》から切り出した簡易地図を整理してくれる。
俺はその地図を映した小さな板を胸の前に抱えて、前線を見下ろした。
『線のログ、準備完了』
(助かる。俺が頭の中でごちゃごちゃになってきたら、そっちを信じる)
頭の中で、リラがくすっと笑う。
『じゃあ、今日は私が“セイの帰ろう札”ね』
(心強い札だ)
そんなやりとりをしているうちに、森の奥で空気の質が変わった。
風の向きが、微妙に重くなる。
鼻につく匂いの中に、鉄っぽい、湿った臭いが混ざる。
灯籠の光が届いているはずの水面の一部が、黒く沈んで見える。
(濁幕帯の外縁)
俺の頭の中で、そこに細い線が一本、引かれる。
「前方、濁り反応」
《ウツシ》を通して届く報告が、耳の中で音になった。
前衛の盾列の前、川沿いの斜面に、黒いしぶきのようなものが浮かび上がる。
濁りに浸かった獣たち。
狼に似た四足の影。
熊のような巨体に、皮膚のかわりに泥が貼りついたようなもの。
それらが、じわじわと斜面を登ってくる。
第一中隊の盾列が、地面を踏み固めるように一歩前へ出る。
槍が、その隙間から突き出された。
「――行った」
俺は息を吐く。
ここから先は、兵たちの番だ。
◇
第一中隊の動きは、「教科書通り」だった。
盾列がわずかに斜めを向き、斜面に対して角度を作る。
上から滑ってくる濁り獣の重みを、真正面ではなく横へ流す形だ。
最初の一体が盾にぶつかる瞬間、槍がその脇腹をえぐる。
盾と槍の間に生まれた小さな隙間に、剣士が踏み込んで喉を断つ。
その動きを、後ろの弓と魔法が支える。
「前列、右斜面に集中」
指揮官の声が飛ぶ。
弓兵が一斉に狙いを右へずらし、矢が光の筋を描いて落ちていく。
火と風の魔法が、その矢の背を押し上げる。
リアンの祈りが、盾持ちたちの足元からじんわりと立ち上がっているのが、理層のほうでも分かる。
(うん、見事)
濁り獣の動きは、まだ単純だ。
重さと勢いだけでぶつかってくる。
第一中隊は、それを弾きながら、少しずつ下り斜面を登っていく。
俺は《ウツシ》の視界を、俯瞰に切り替えた。
玄関線から第一中隊の先頭までの距離を、一本の線として地図に書き込む。
時間の横軸に、距離の縦軸。
簡単なグラフを頭の中で組み立てる。
最初の一刻――前半の半刻。
距離はじわじわと伸びていく。
危険度の線は、まだ低い。
濁りの密度も、昨日までの偵察で見ていた範囲。
「押し過ぎてないか?」
ガランの声が、背後から届く。
「今のところは。斜面の足場も、まだ“崩れそう”の一歩手前で踏んでます」
俺は前線の足元に、理術の視線を少しだけ伸ばす。
泥の中に混ざった石の位置。
踏みしめられた草の根。
どこが崩れやすくて、どこが踏ん張りに使えるか。
それを、ほんのわずかだけ整える。
足裏に「一枚分の板」を足してやるくらいの差。
第一中隊の盾列は、危なげなく一歩一歩、前へ進んでいく。
(……やるな)
武闘派を含む第一中隊は、戦い慣れていた。
無茶をしているように見えて、ラインの内側ではちゃんと「踏み越えない」。
ただ、その踏み越えない線が、俺たちの引いた線とは、少しだけずれている。
彼らは、「もう一体倒せるかどうか」で線を引く。
俺たちは、「今日のあと、何日続けられるか」で線を引く。
その違いが、あとから効いてくる。
一刻が過ぎる頃、交代の合図が鳴った。
旗が振られ、角笛が三度鳴る。
第一中隊の隊長が声を上げる。
「後退! 第二と入れ替わる!」
盾列がじわじわと後ろへ下がり始める。
その背後から、第二中隊が足並みをそろえて前へ出る。
一斉に崩してしまえば、そこは一気に危険度が跳ね上がる。
だから「じわじわ」。
盾と盾の間の隙間を、第二中隊の盾が埋める。
槍が入れ替わり、剣士が流れる。
まるで水の入れ替えみたいに、滑らかな交代だ。
「うん、良い入れ替え」
リラが横で、板にさらさらと何かを書き込む。
「『交代時の危険度、想定内』っと」
彼女の言葉に、俺も軽く笑う。
第二中隊は第一より少し慎重だ。
押し込み方は穏やかだが、その分、足の運びが丁寧で、負傷者も少ない。
……と、そこで少しだけ、濁りの動きが変わった。
第一中隊が削った「前庭」の濁り獣が減り、その奥から、少し大きめの影が這い出てくる。
泥と骨をまとった、熊のような、何か。
だが、それもまだ「一体ずつ」だ。
第二中隊は、盾+槍+後方の魔法で、手堅くそれを迎え撃つ。
俺のほうから見れば、「教科書通りの中隊戦」。
危険度の線は、少しだけ上下しながらも、まだ「線の内側」に収まっていた。
◇
その日の昼頃。
三番目のローテが終わるころには、玄関線から前方の「前庭」の濁りは、目に見えて薄くなっていた。
木の幹に貼りついていた薄黒い膜が、ところどころ剥がれている。
川面の黒い帯も、玄関線より手前側では細くなっている。
兵たちは汗にまみれ、泥に汚れながらも、息を整えつつ玄関線まで戻ってきた。
負傷者はいる。
けれど、致命傷は少ない。
祈りと回復の手が届く範囲に収まっている。
俺は地図に、その日の「押した距離」を書き込み、「危険度」のグラフを一日分並べて眺めた。
(……悪くない)
距離の線は、なだらかに右肩上がり。
危険度の線は、その下をマイルドに波打っている。
総大将とガランが、そのグラフを覗き込んだ。
「どう見る?」
エドガーが問う。
「初日は、上々だと思います」
俺は正直に答える。
「押した距離も、危険度も、『やり過ぎ』にはなっていない。
戻りの余白も、十分残ってました」
「うむ」
ガランも頷いた。
「明日も同じパターンを繰り返し、数字の顔を見るべきだな」
「はい。パターンを揃えたほうが、濁りの反応も読みやすくなります」
そのやりとりの少し後ろで、武闘派のひとりが仲間にぼそっと漏らす声が聞こえた。
「“上々”ねえ……あの程度で」
「俺たちだけなら、Bライン手前まで行けたろ」
「撤退の合図が早すぎるんだよ。田舎のやり方だ」
聞こえてくる。
耳に入れたくないが、入ってくる。
俺はそっと息を吐き、グラフの線を一本、指先でなぞった。
(数字は、嘘をつかない)
彼らの「手応え」と、俺の「危険度」は、別の軸に乗っている。
今はまだ、そのズレを声に出す時じゃない。
二日目も、朝は同じように始まった。
東野営地の朝の空気。
整列する三中隊。
地図を囲む総大将とガラン。
玄関線から先の「今日の線」は、少しだけ昨日より前に伸ばされた。
「昨日の最終位置から、もう一枚分」
ガランが指で示した。
「玄関線から数えて四つ目の大岩。
ここが、今日の『ここまで』だ」
「昨日のログからすると、行けなくはない」
俺は「押した距離」の線を指でなぞる。
「ただし、戻りに使う足場の消耗は、昨日より大きくなるはずです」
エドガーが頷く。
「昨日と同じローテ、同じ出撃順。第一中隊からだ」
武闘派の顔には、待ってましたと言わんばかりの色がある。
「今日こそ、もう少し先まで――」
彼らがそう口々に言うのを、ガランは聞こえないふりをした。
俺も、聞こえないふりをする。
今日は数字を揃える日だ。
「討ち損ねた魔物」を追いかける日じゃない。
二日目の戦いは、一日目とほとんど同じパターンで進んだ。
第一中隊が前庭を押さえ、第二、第三がローテして押し広げる。
濁り獣の数は、一日目より少し減っている。
代わりに、川面の黒い帯が少しだけ厚くなっているのが、理層のほうでは分かった。
(外側を削った分、中身が濃くなってる)
前庭の木々の膜は剥がれてきた。
でも、その先――AラインとBラインの間の灰色の帯は、昨日より濃く、重く見える。
第一中隊の動きは、昨日以上に軽い。
体が慣れ、攻撃パターンも固まってきている。
弓と魔法のコンビネーションは洗練され、祈りのタイミングも噛み合う。
負傷者は昨日より少ない。
数字だけ見れば、「順調」に見える。
俺は《ウツシ》で、昨日と同じように「押した距離」と「危険度」をグラフにしていく。
一刻目。
距離は一日目より、少しだけ伸びが良い。
危険度は、ほぼ同じ。
二刻目。
距離は、昨日のグラフより、わずかに上。
危険度の線が……ほんの一目盛り分だけ、上にずれた。
三刻目。
距離の線は、そこからほとんど伸びなくなる。
危険度の線だけが、じりじりと上へ傾き始めた。
(……嫌な形だな)
俺は思わず、眉間を押さえた。
『セイ?』
頭の中で、リラが心配そうな声を落としてくる。
『ノイズ?』
(まだ平気。ただ……)
俺は板の上のグラフを意識でリラに共有した。
(ほら、ここ。距離の線が、途中から横ばいになってるのに、危険度だけが上がってる)
『……外側だけ削って、中身に触れてない、って顔ね』
(うん。 皮だけ剥いで、芯を残してる。で、その芯のほうが、こっちの「手の形」を覚え始めてる)
戦場のほうを見れば、第一中隊は「あと一押し」をかける姿勢を見せていた。
削れかけた濁りの壁。
その向こうに見える、もう少し固そうな黒い塊。
そこを叩ければ、一気に前線が伸びそうな場所。
でも――
(今、あそこを殴ったら、多分、殴り返される)
そういう匂いがする。
二日目の終盤。
交代の合図が鳴り、各中隊が玄関線側へ戻ってくる。
武闘派の一人が、ヘルムを脱ぎながら豪快に笑った。
「見ただろ? 今日なら、あそこ、もう一押し行けた」
俺は返事をしない。
エドガーとガランがグラフを見て、顔をしかめる。
「距離は一日目とほぼ同じか、少し上……」
エドガーが呟く。
「だが、危険度は確かに一段上がっているな」
「そうだな」
ガランが唸るように言った。
「二日目で崩しかけた“あと一歩”の場所。あそこが、核に近い『肝』かもしれん」
エドガーが腕を組む。
「だが、今日の状態であそこを叩けば、こちらの損害も跳ね上がる……か」
「はい」
俺は頷く。
「『今』の戦力と足場では、押し込んだあと戻る線が足りません。
あそこで押してしまうと、多分、“戻れない一歩”が混じる」
ガランが、総大将のほうを見る。
「――なら、線はここまでだな」
エドガーは少しのあいだ沈黙し、それからしっかりと頷いた。
「うむ。 今日の線はここまで。これ以上は、“命の線”を越える」
彼は地図の上で、今日の最終位置に赤い印を打ち、それより先に、太い斜線を引いた。
「全隊、玄関線まで一時撤退。
明日以降の前進は、一度組み直す。
戦い方を整え直すための時間を取る」
その言葉は、玄関線で待機していた兵たちにも伝えられた。
安堵の息を吐く者。
無言で頷く者。
そして――露骨に不満げな顔をする者たち。
武闘派の一団だ。
「二日目で押し切れたのに」
「田舎流の線引きが邪魔をしたせいだ」
「“怖くなったら逃げる”ってのは、こういう場で使う言葉じゃない」
そんな声が、あちこちから漏れてくる。
俺は、その全部を聞きながら、地図の端に小さくメモを書いた。
『二日目、“あと一押し”地点=危険度急上昇予備軍』
そしてその下に、線を一本。
『ここから先は、“線の引き直し”が必要』
その日の夜。
東野営地の空は、焚き火の煙と、祈りの灯りでぼんやりと明るかった。
昼間の泥と血の匂いが、少し薄れた代わりに、疲労と焦げた布の匂いが漂っている。
俺たちは本営の一角で、簡単な打ち合わせを終えたところだった。
「三日目は?」
ミナがスープの椀を片手に聞いてくる。
「前進なし。
総大将の命令で、一度『押し合い』をやめて、戦い方を組み直す日になる」
俺は昼間の会議で聞いた内容をそのまま伝えた。
「今日の数字が、あからさまに“嫌な顔”をしてたからね」
テオが息を吐く。
「確かに、現場から見ても『何か』が変わってた。
同じ斜面、同じ木の間を通ってるのに、当たってくる濁りの重さが違った」
「“覚えられてる”感じ」
バルドが短く言う。
「盾を上げる前に、どこから来るか読まれているような」
俺は頷いた。
「だから、明日は一度、『押さない』。
その代わり、今日までのログから、濁りの『嫌がる形』と『好む形』を洗い出す」
ミナが椀を置いて、指を折り始めた。
「『押し込む形』と、『引きつける形』と、『退く形』の三種類。
それぞれで、濁りの反応のログを整理……」
「そうそう。それをやる時間を作るための、明日の前進中止」
リアンが静かに頷く。
「祈り側も、明日は『回復』と『見守り』に専念できるなら助かるわ。今日の二日目、正直、体の中のマナがしんどかったもの」
サラも「わかる」と苦笑する。
そうやって、俺たちエルディア組の中では、「明日は休む勇気の日」という空気が共有されていた。
けれど――
焚き火から少し離れた暗がりで、別の空気が生まれていることに、そのときの俺はまだ気づいていなかった。
◇
夜風が、少し冷たくなってきた頃。
俺はひとりで、東野営地の端のほう、兵たちのテントが並ぶエリアを歩いていた。
《ウツシ》を通して、灯籠のログをチェックしつつ、濁りの線の変化がないかを確認する。
(玄関線付近は、今日は静かだな……)
そんなことを考えながら歩いていると、少し離れたテントの陰から、ひそひそ声が聞こえてきた。
「――だからさ、今日止められた“あと一押し”を、俺たちだけで取りに行くんだよ」
「でも、明日は前進中止だって……」
「だから都合がいいんだろ。表向きは『前線灯籠の様子を見に行く偵察』ってことにしておけばいい。危険が高ければ玄関線まで戻るつもりだって言えば、命令違反じゃない」
武闘派の声だ。
俺は足を止めた。
テントの陰に隠れるつもりはない。
ただ、声が届く位置で、黙って耳を傾ける。
「第一中隊の名を汚すわけにはいかないだろ?
二日目で押し切れた線を、三日目と四日目に寝かせるなんて、冗談じゃない」
「でも……総大将の命令は――」
「これは命令じゃない。
任せろと言える奴だけ、明日の明け方、このテントの前に立っていればいい。
志願だ」
沈黙。
そして、圧力と煽り混じりの声が、続く。
「臆病者は寝てればいいさ。
俺たちは、“俺たちだけでも線を一本前に進める”」
俺は、目を閉じた。
数字と線だけを見ていれば、この話は入ってこなかった。
でも、ここは現場だ。
線の上を歩くのは、人間だ。
(……三日目の線が、どう跳ねるか)
俺は静かに息を吐き、東野営地の中心――ガランと総大将のいるテントのほうを振り返った。
まだ、何も起きていない。
明日は「前進中止」の日だ。
表向きは。
けれど、二日間の数字と、今聞いた言葉が、頭の中でかすかに重なっていく。
危険度のグラフの線が、三日目の途中から急に跳ね上がるイメージが、まだ描いてもいない地図の端で、ぼんやりと浮かび上がり始めていた。
(線を引き直す前に、誰かが勝手に線を踏み越えないといいんだけどな)
そんな願いは、きっと、明日のログには「叶わなかった」として記録されるのだろう。
――その予感だけが、俺の中で、数字より先に形を持ち始めていた。




