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理を灯す少年 〜祈り万能世界で、AIを宿す俺だけが“理論魔法”を使えた件〜  作者: いい加減工房
第6章 西からの十五、線が制度になる戦場

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第74話 帰ろう札と、備えをした一歩

 会議が終わるころには、東の空が少しだけ赤くなりかけていた。

 ギルドの窓から見えた白い天幕の群れは、もう「仮の駐屯地」ではなく、王都本隊の本営として動き始めている。

 その少しあと。

 村と東野営地のあいだ、焼け跡から少し外れたなだらかな斜面に、人の輪ができていた。

 簡易の祈り場と、その横に据え付けられた木箱。

 その前にミナが立ち、リアンが祈り場の石に手を置いている。

 王都軍と騎士団、教会、学院、それから村側の冒険者たち。

 百人を超える視線が、二人と木箱に集まっていた。

「じゃあ、さっき会議で決めた“帰ろう札”の話を、改めてここでも共有しますね」

 ミナは木箱を胸の前で支え直し、少しだけ息を吸った。箱の縁に埋め込まれた小さな水晶が、淡く光っている。

「この箱の中に入っている札が、今日から本隊が使う“帰ろう札”です。行軍に出る隊ごとに一枚持って行ってもらって、撤退を決めて無事に戻れたときに、ここに返してもらいます」

 そう言って一枚の札を取り出し、水晶のある縁に軽く触れさせる。

 ちかり、と木の表面を光が走り、《王都本隊》という文字と簡単な紋章が浮かび上がった。

「こんなふうに、水晶に章を一度タッチしてもらえれば、今日の隊の名前と隊長さんの名前が自動で刻まれます。戻ってきた札は、ここで数えます。箱に戻っていない札があれば、それは“まだ線の向こうにいる隊がある”ってことです」

 リアンが祈り場の石に手を置いたまま、静かに続ける。

「この札は、『撤退を決めた証』であり、『戻れたことの証』でもあります。そして祈り場から見れば、『まだ戻れていない仲間がいることを忘れないための印』にもなる」

 教会の司祭が頷き、周りの空気が少しだけ重くなる。

 そこまでは、会議室で聞いた説明と同じ流れだった。

 その空気を、ざらついた声が割った。

「……最初から“戻る”前提で札を用意するんですか?」

 輪の中ほどから、一人の兵が一歩前に出る。

 鎧の留め具は少し雑で、槍を肩に引っかけたまま。

 口元には、どこか人を見下すような笑いが貼りついている。

 その後ろには、似たような雰囲気の連中が数人。

「撤退を決めた証だの、戻れた証だの。そんなもんをぶら下げてないと前に出られないようじゃ、戦場なんて持ちませんよ。そっちの村のやり方は、ずいぶん“用心深い”んですね」

 “用心深い”という単語に、わざとらしく力を込めてくる。

 場の空気がぴしりと張った。

 ミナの喉がひくりと動き、リアンが石からそっと手を離す。

 ガランさんは腕を組んだまま、すぐには口を開かなかった。

 ここで誰が何を言うかで、この札の意味が決まる。

 俺は一歩前に出た。

「少しだけ、話をさせてもらっていいですか」

 兵とその仲間たち、それから周りを取り囲む視線がこちらに向く。

「エルディア村ギルド所属、単独登録の冒険者セイです。今のギルドランクはBになっています」

 王都軍の鎧や騎士団のマントが、一斉にこちらを見た。

 知らない顔に対して「誰だ?」という空気が混ざる。

「この村では、危険度が高い依頼のときに、ギルドから“撤退線の専門役”として一緒に行動させてもらっています。前で一番強いわけでも、派手な武功があるわけでもありません。Dランクだった頃からずっと、後ろで“どこまで出て、どこから戻るか”の線を見てきました」

 胸元の紐を指で弾く。

 揺れた木札には《上流予備一隊/セイ》の刻印。

「今日も、その延長でここに立ってます。前で斬り合う役じゃなく、線を引くほうとして」

 槍を担いだ兵が鼻で笑った。

「線引きね。俺たちは前に出るほうだ。戻る話より、どうやって叩き潰すかを先に決めたほうが早い」

「前に出る人がいないと、そもそも何も始まらないのはその通りです」

 俺は素直に頷いたうえで、続ける。

「だから今日は、『前に出るな』って話じゃありません。『前に出るときの心構え』の話をさせてください」

 兵が眉をひそめる。

 周りの者たちも、完全に切り捨てる空気ではなくなっていた。

「何を言うんだ?」という興味が少し混ざる。

「簡単な体験を、二つだけやらせてください」

 俺は手近な兵たちに声を掛け、王都側から五人、村側から三人を前に出てもらった。

 斜面の上側を村、下側を川と仮定し、焚き火のそばの杭を指さす。

「あそこまで、だいたい百歩くらいあります。まずは、“前に出ることだけ”を考えて、できるだけ早く進んでください。途中で戻れって言われることは考えなくていいです」

 兵たちは軽く頷き、肩を並べた。

 俺が合図を出す。

「じゃあ、行ってください」

 土を蹴る足音が一斉に走る。

 視線は杭だけを見ていて、肩の力は前へ前へと乗っている。

 歩幅は大きく、勢いがある。

 俺は少しだけ待ってから、声を張った。

「止まって!」

 前列が急に足を止め、後ろの何人かがその背中にぶつかった。

 砂利がざりざりと音を立て、慌てて足を広げて踏ん張る者もいる。

 見ていた兵たちから、苦笑混じりの声が漏れた。

「これが、『前に出ることだけ考えた前進』です。速いのは確かですけど、途中で“戻れ”って声がかかったときに崩れやすい」

 一列目の兵たちは、少し息を切らしながらも肩を竦める。

 武功派の一団の中には、「そんなの当たり前だろ」と言いたげな顔が多い。

「次」

 今度は別の数人を呼んだ。

 さっきより少し年かさの兵と、村側の軽装の冒険者を混ぜる。

「同じ距離を歩いてもらいます。ただし、条件をひとつだけ追加。『途中で戻れって言われるかもしれない』と思いながら歩いてください。いつでも戻れるように、どこかで意識しておく。足は前に出していいです」

「戻ることばかり考えたら、足が止まるんじゃないか?」

 列の中の一人がそう言う。

「試してみましょう」

 俺は軽く手を振った。

「“前に出るな”とは言いません。ただ、『戻る可能性もある』って頭の片隅に置いたまま、普通に進んでみてください」

 ゆっくりした行軍が始まる。

 さっきより歩幅はわずかに狭く、列の間隔も整っている。

 肩の力は抜けているが、だらけているわけではない。

「戻れ!」

 さっきより少し早いタイミングで声をかける。

 先頭の兵が膝を一つ分だけ沈め、そのまま自然と後ろに一歩引いた。

 次の兵も同じ動きで続く。

 砂利は鳴ったが、ぶつかる音はしなかった。

「……さっきより崩れ方が静かだな」

 後ろでガランさんがぽつりとこぼす。

 その一言に、王都側の指揮官たちが真面目な顔になる。

「こっちが、『万が一の備えをした前進』です。どっちも百歩前に進む行動です。速さだけ見れば、さっきのほうが早い。でも途中で“戻れ”って声がかかったときに、どっちが危険度を上げずに止まれるか。……今見てもらった通りです」

 槍の兵が舌打ちをした。

「そんなもん、いちいち考えて前に出てたら、腰が引けるやつも出ますよ」

「腰が引けるかどうかは、正直人によります。ただ、“危険が読めなくなる”ほうが面倒です」

 俺は慎重に言葉を選ぶ。

「目の前しか見えなくなると、一歩目は強くなります。けど、その一歩が“戻る可能性ゼロ”の一歩だったら、危険の線を一気に越えることになる」

 兵はつまらなそうに肩を竦めた。

「実戦でそんなこと考えてる余裕、ねえですよ」

「じゃあ、もう一つだけ。より実戦っぽく」

 俺は、今の兵をまっすぐに見る。

「あなたの“前に出る一歩”、一度だけ借りてもいいですか。いつも通りで」

 周りから冗談混じりの声が飛ぶ。

「見せてやれよ」「前に出るなら任せろとさっき言ってたろ」。

 兵は鼻を鳴らし、俺の前に立った。

 槍は実戦のまま。

 穂先の傷も、柄の汗染みも、そのままの重みがある。

「……おい。これ、木槍とかにしなくていいのか?」

 兵が一度、周りを見回して言った。

「戦場だぞ。冗談でやって、どっちか怪我したら洒落にならねえ」

「大丈夫です」

 俺は表情を変えずに答える。

「すぐ終わりますから」

「は?」

 兵の眉が跳ねた。

「お前、俺の突きをナメてんのか」

「ナメてません。むしろ逆です」

 俺は一拍置いて、言葉を選ぶ。

「だから――刃は交えません。あなたはいつも通り、“一歩で踏み込んで突く”だけ」

「……それで、お前は?」

「俺は剣を抜きません。大きくは動きません。避けるだけです」

 一瞬、周囲が静かになった。

 次の瞬間、どっと笑いが起きる。

「なんだそれ」

「怪我しても知らねえぞ」

「槍に対して抜かないは、舐め過ぎだろ」。

 兵の顔が、笑いから赤に変わっていく。

「……怪我しても知らねえぞ、本当に」

「はい」

 俺は頷く。

「でも、怪我はさせません」

「ここから、あの杭に向かって。一歩で踏み込むつもりで来てください」

 俺は足元の斜面を一度見る。

 村側がわずかに高く、川方向が下りになっている。

 焼け跡の土が薄く被せてあるが、その下の層はまだ荒い。

 ここなら、尻餅一つで済む。

 兵が槍を構え、右足に体重を乗せた。

「前に出る」ことだけ考えた踏み込みの形だ。

 その瞬間だけ、俺は視線を兵の靴の少し前に落とす。

 地面に染みている自然マナの流れを、指先でつまむように意識する。

 足裏一枚ぶんの薄い層だけ、「ここはよく滑る」という(ことわり)に書き換える。

 《Thin Iceシン・アイス》。

 見た目はただの土のまま、そこだけ薄い氷の上みたいな一歩に変える小技。

「――うわっ!」

 次の瞬間、兵の踵が前へ抜けた。

 何もない地面のはずなのに、足が空を踏む。

 遅れてきた体が支え切れず、そのまま尻から地面に落ちた。

 鎧が鈍い音を立て、周りの兵たちが一斉にどよめく。

 俺は何もしていない顔で、一歩だけ近づいた。

「すみません。ちょっと足を借りました」

「……今のは地面が悪いだけだ」

 兵は悔しそうに歯を食いしばる。

「そうですね。今のは、“少し悪い足場に、いつも通りの全力の一歩を出した”結果です」

 俺は地面にしゃがみ、指先で土をなでた。

 さっき(ことわり)を書き換えた薄い層は、もう元に戻してある。

 見た目は、最初から何もなかったかのようだ。

「崩れかけてる足場って、こういう場所です。ぱっと見は普通に見えるけど、ちょっと条件が重なると滑りやすい。そこにさっきみたいな一歩を出すかどうか。それを決めるのが、“前だけ見るか”“万が一を頭に置くか”の差です」

 兵は唇を噛み、足元を睨んだ。

 その周りで、先ほど二列で歩かされた兵たちが、それぞれ自分の足の向きを見直している。

「今の一歩自体を責めるつもりはありません。前に出る力は必要です。ただ、その一歩が“戻る可能性を全く考えていない一歩”だったのか、“戻る可能性を残した一歩”だったのか。……その差が、大きな危険の差になります」

 俺は立ち上がり、輪全体を見渡した。

「さっき体で感じてもらった二つの前進。どっちが絶対に正しい、という話じゃありません。ただ、“前に出るだけ”の前進ばかりが重なると、戻る線を越えたことに気づきづらくなる」

 視界の端で、頭の中の小さな地図がちらりと光る。

 村と東野営地、そのあいだの戻る線。

 玄関線。仲間線。色分けされた足場帯。

 あれを見ているのは、今この場で俺だけだ。

「そこで、この木札です」

 胸元の個人札を指先でつまみ上げる。

 《上流予備一隊/セイ》の文字が斜面の光を拾って揺れた。

「この札は、“撤退を決めさせる札”じゃありません。『戻る可能性を手放さずに前に出る』っていう心構えを、あとから形にして残すための札です」

 ミナが木箱を少し抱え直し、俺の横に並ぶ。

「札を持たないと前に出られないわけじゃありません」

 俺は先に言い切った。

「札を持ったからといって、生きて帰れる保証でもない。それは、ちゃんと先に言っておきます」

 何人かが、苦笑ともため息ともつかない息を漏らす。

「でも、“どこまで出て、どこから戻るか”を最初に一度決めておくと、さっき二回目で見てもらったみたいに、『戻れ』って声がかかったときに足が止まりやすくなる。祈り場から見ても、箱に戻った札と戻っていない札がはっきり分かる。誰がどこまで出て、どこから戻ったのか、あとからごまかしにくくなる」

 俺は杭を一本指さした。

 祈り場の少し先に打たれた、今日の「ここまで線」を示す杭だ。

「今日これから玄関線まで歩いてもらいます。祈り場からここまでは、全員に共通の戻る線。ここから先が、今日の“ここまで線”です。帰ろう札は、『ここまで出て、ここから戻った』という、その結果を木に刻むための札です」

 ミナが頷き、箱の中から隊札を一枚持ち上げる。

「隊札は、全隊に一枚ずつ持ってもらいます。隊の名前と、今日の隊長さんの名前を刻んで、戻ってきたら必ずここに返してください。箱に戻っていない札があれば、それは“まだ線の向こうにいる隊がある”って印になります」

 リアンが祈り場の石に手を置いた。

「祈り場からは、その札を見て『戻る線』を祈ります。行った足が戻ってこられるように。戻れなかった足の名前を忘れないように」

 槍の兵が、最後まで腕を組んだまま口を挟んだ。

「……個人札なんかは、いらないですよね。隊札だけで十分だ」

 ガランさんが、そこでようやく口を開いた。

「個人札は任意だ。自分の札はいらんと思うやつは、持たなくていい」

 あまりにもあっさりした言い方に、兵は逆に拍子抜けしたような顔をした。

「ただな」

 ガランさんは口の端を上げる。

「自分の戻る線を、自分の名前で刻みたいやつは、持ってもいい」

 会議室でリアンが言ったのと、ほとんど同じ言葉。

 でも、外で聞くとまた違って聞こえる。

「隊札は、“この隊として戻った”印。個人札は、“今日、自分の足でここまで行って、ここから戻ってきた”印だ」

 俺は自分の札を胸元に戻した。

「札を持たない選択も、持つ選択も、両方ありです。大事なのは札じゃなくて、『備えをした一歩を踏む』っていう心構えのほうなので」

 輪の中から、控えめな声が上がった。

「……個人札、欲しいです」

 さっき二番目の列に並んでいた若い騎士だった。

 指揮官の後ろではなく、一兵として列にいた男だ。

「前に出るのは嫌いじゃありません。でも、戻れないのはもっと嫌です。戻れるように足を覚えたいので、自分の歩いた線を、自分の名前でも刻んでおきたい」

 ミナの顔がぱっと明るくなる。

「じゃあ、こっちが個人札。章を一度タッチしてください」

 騎士は指輪を水晶に触れさせた。札の表面に、《第二槍隊/ラウル》という文字が浮かぶ。

「お前、欲張りだな」

 隣の兵が笑う。

「前にも出たいし、戻りたいのかよ」

「どっちか片方じゃダメですか」

 ラウルは照れくさそうに笑って、札を胸元に掛けた。

 そのやり取りを合図にしたように、あちこちから手が上がる。

「前に出るのは隊でいい。でも、うちの見習いには個人札を持たせてやりたい」

「俺は隊札だけで十分だが、もし戻れなかったら、札を見た誰かが苦笑いしてくれればそれでいい」

 ミナの手元で、隊札と個人札が次々と箱から出ていき、水晶の光がまたたく。エドガーが前に出たのは、配布がひと段落してからだった。

「本隊の札はどれだ」

 ミナが少し緊張した顔で、一枚を差し出す。

「こちらが《王都本隊》札です」

 エドガーは自分の指輪を水晶に軽く触れさせた。

「これは、『全員が戻ったかどうかを確認するための札』にする。私の視線と、祈り場の目と、この札の三つで、今日出した者が全員戻ったかどうかを必ず数える。戻っていない札があれば、それが一本の線になる」

 ガランさんも、エルディア支部側の札を受け取った。

「支部の札は、俺が持つ。戻る判断が遅かった隊があれば、あとで俺が“危険の線の越え方”について説教するための札だ」

 場のあちこちから、くすりと笑いが漏れる。

 槍の兵は最後まで個人札を受け取らなかったが、隊札はきっちり受け取って箱にタッチした。

 その背中をラウルがちらりと見てから、自分の札を握りしめる。

 説明と配布が終わるころには、日がだいぶ傾き始めていた。

 各隊がそれぞれ野営地へ戻り、広場に残ったのは、ミナとリアンとガランさんと俺だけになる。

「……ちゃんと、逃げ札じゃない説明になってたかな」

 木箱を抱えたまま、ミナが不安そうに聞いてきた。

「なってましたよ」

 俺は笑った。

「札そのものじゃなくて、“備えをした一歩”の話にできてました。ラウルたちも、自分の足で試したあとだったから余計に」

 リアンが祈り場の石に手を置きながら頷く。

「祈りはどうしても心の話になりがちだから。今みたいに足の話と一緒にしてもらえると、線が太くなる」

「線、ですか」

「祈り場から玄関線までの戻る線。本営から川上へ伸びる出撃線。村の戻る線。今日一日で、“線の数”が一気に増えたからね」

 言われて、無意識に視界の端を見る。

 頭の中の小さな地図が浮かぶ。

 村と東野営地、そのあいだの道。玄関線、仲間線。祈り場と札の箱を結ぶ線。

 そこに新しく、本隊の戻る線や、いくつもの個人札の線が重なっている。

 色分けされた帯が、足場の良し悪しを示していた。

『今日付け足した線、多いね』

 リラの声が耳の奥で揺れた。

『村→東野営地→玄関線までの危険度のログも取ってあるから、あとでグラフにして見せるよ』

「助かる」

 俺が小さく返すと、ガランさんが大きな手で肩を叩いた。

「お前が言った“前だけの一歩”と“備えをした一歩”の話、あれなら兵にも伝わりやすい。今日尻餅をついたやつはしばらく笑い者だろうが、それで危険の線を一つ覚えるなら安いもんだ」

「怒られませんかね」

「怒りに来たら、『あそこで転んでよかったな』って言ってやればいい」

 豪快に笑われて、こちらも笑うしかなくなる。

「じゃあ、それぞれ持ち場に戻ろうか。明日からは、今日の線を本当に踏みに行く」

 ガランさんとリアンは東野営地へ、ミナは祈り場と箱を軍の天幕のそばへ移す段取りに向かった。

 俺はギルドに戻って、簡単な報告とログの整理を済ませる。

 夜。

 ギルドの屋上に上がると、東と西に二つの灯りの塊が見えた。

 村の灯りは暖かく、東野営地の灯りは規則正しく、少し冷たい。

 間には、まだ焼け跡の暗がりが口を開けている。

 視界の端に、小さな地図がふわりと浮かぶ。

 村の戻る線。

 東野営地から玄関線へ伸びる出撃線と撤退ラインA・B・C。祈り場と帰ろう札の箱を結ぶ細い線。

 今日新しく刻まれた、本隊の線といくつもの個人札の線。

 全部が重なり合って、村の周りに網を作り始めていた。

『線、増えたね』

 リラが再び言う。

『前より、“誰がどこまで出て、どこから戻るつもりか”が見えるようになった』

「増えた線のうち、どれを残して、どれを切るか」

 自分で口に出してみる。

 村の戻る線は絶対に切れない。

 本隊の線も切れない。

 祈り場の線と札の線は、今日繋いだばかりだ。

 ここで無茶をすれば、誰かの足と心がちぎれる。

 玄関線側の表示に意識を寄せる。

 そこにはまだ、今日歩いた分までの青と黄色の帯しかない。

 その先に、上流の黒い幕を示す線が沈んでいる。

「戦場の玄関口は、村のずっと先じゃなくて、もうこの足元から始まってるんだな」

 屋上の縁を、つま先で軽く叩いた。

 ここから東野営地までは戻る線。

 明日は、その線を持ったまま玄関線まで本隊を案内する。

『明日のログも、ちゃんと取るよ』

「頼んだ」

『……それと』

 リラの声が、ほんの少しだけ低くなる。

『上流の黒い幕。さっきから、揺れ方が昨日と違う』

 視界の片隅で、黒い線がごくわずかに震えていた。

 《ウツシ》の隅で見たときと同じ、嫌な揺れ方。

 今度は、俺の頭の中の地図にもそれが映っている。

「本物が、少し身じろぎしたか」

 それが、まだ前座の続きなのか。本当にこちらを見たのか。

 判断をつけるには材料が足りない。

「どっちにしろ、明日は玄関線までだ。今日増やした線で、まずそこまでを守れるかどうかだな」

 胸元の札を握る。

 《上流予備一隊/セイ》。

 この札は、逃げるための札じゃない。

 前に出るときに、戻る可能性を手放さないための札だ。

 前だけを見る一歩と、備えをした一歩。

 明日もまた、そのどちらを踏むかを決めながら歩くことになる。

 戦場の玄関口は、もう形になった。

 あとは、この玄関をくぐった連中が、札を鳴らして戻ってこられるように――線を灯し続けるだけだ。

 その先で、上流の黒い幕が本当に顔を出したとき。

 今日決めた心構えと札の線が、どこまで持ちこたえられるか。

 嫌でも試される。

 そのことを思いながら、俺は夜風の中で、もう一度だけ頭の中の地図をなぞった。


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