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理を灯す少年 〜祈り万能世界で、AIを宿す俺だけが“理論魔法”を使えた件〜  作者: いい加減工房
第6章 西からの十五、線が制度になる戦場

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第73話 戦場の玄関口と、戻る線の会議

 仲間線の赤布をくぐった途端、足元の重さが一段落ちた気がした。

 さっきまで背中に張り付いていた川面の黒い匂いが、一枚分だけ剥がれていく。

「玄関線までは、いつもの撤退だ。」

 ガランさんの声が、さらりと隊列に流れる。

「焦って崩れるな。全員、行きと同じ足を思い出せ。」

 振り返れば、川面の黒い膜はまだそこにある。

 待ち伏せていた十二体の濁り獣は、砕けた骨と泥を残して静かに沈黙していた。

 そこから先――仲間線の外――は、もう俺たちの仕事じゃない。

 その場の川の音を背中に感じながら、俺たちは斜面の細い道を一列で、焦ることなく下っていく。

 テオが荷を背負ったまま、何度も振り返っては仲間線の赤布を確かめていた。

「……ちゃんと、戻る線になったな。」

 隣でコルトが小さく呟く。

「……さっき、もし前で押し負けていたらどうなっていたと思う。」

 ガランさんの声は淡々としていたが、その淡々さがかえって重い。

 想像する。

 あそこで俺かガランさんのどちらかが崩れていたら、その瞬間に前の壁が消える。

 川面から這い上がった十二体は、躊躇なくその穴に流れ込んでくる。

 前で止めていた二人が押し潰されれば、次に噛みつかれるのは仲間線で待っていた連中だ。

 仲間線で受けきれなければ、黒い塊はそのまま玄関線まで下っていく。

 玄関線が抜かれれば、あとは村まで――どこで止まるか分からない。

 あそこで負けていたら、「前の二人が死ぬ」で終わらず、「仲間線ごと潰れて、玄関線も抜かれる」未来まで一気に繋がっていたかもしれない。

『危険度も、そこで跳ね上がったまま戻らない。』

 耳の奥でリラの声がした。

『あそこで前の壁が壊れていたら、その先の全部が“玄関線の外側”として一気に塗り替わってた。そこから先は、今とは別の戦い方になる。』

 俺は小さく息を吐いた。

 踏みとどまれたのは、実力だけじゃなくて運も混ざっている。

 だからこそ、仲間線を「ここにしてよかった」と言い切るのは簡単じゃない。

 それでも。 今こうして全員が、一列で同じ道を戻っている。

 それだけは事実だ。

 やがて木杭と赤布が並ぶ玄関線が見えた。

「玄関線。」

 バルドが小さく呟き、杭に触れるように拳を当てた。

「……ここが、戦場の玄関口だ。」

 玄関線を越えた瞬間、川の音が少し遠くなる。

 代わりに、村の方角から人の声と、馬のいななきが風に乗って届いた。

 東野営地で動き出している本隊の気配だろう。

「ここから先は、村の戻る線だ。」

 ガランさんが振り返る。

「列の崩れにくさで言えば、もうさっきより何段も楽だが……油断して転ぶなよ。」

「はい。」

 隊列のあちこちから返事が返る。

 玄関線から東野営地までは、すでに何度も足で確かめた道だ。

 俺たちはそこで一度列をほぐし、荷の重い者から順に本隊側の道と、村へ戻る道へ振り分ける。

「セイたちは村へ戻れ。」

 ガランさんが言う。

「濁りの回収と焼却は、王都側と相談してからだ。今日のところは“線の報告”を優先する。」

「了解しました。」

 テオとサラ、それからセラとコルトは本隊方面へ回り、濁り獣の残骸をどう処理するかの段取りを詰めに行くことになった。

 俺とリラ、ミナ、バルド、リアンは村に戻り、祈り場とギルドで仮報告をする。

 東野営地の白い天幕群を横目に見ながら、俺たちは村の中心へ向かった。


 祈り場の前には、帰ろう札の箱が据えられている。

 箱の縁には小さな水晶が埋め込まれ、その脇にはミナが椅子に座って待っていた。

「おかえり。」

 俺たちの姿を見つけると、ミナが立ち上がる。

「上流予備一隊、隊札と……個人札は?」

「隊札はここ。」

 俺は腰のポーチから木札を取り出し、水晶付きの面を箱の縁に軽く当ててから、中に落とした。

 箱の内側で、かすかな青い光が瞬く。

「上流予備−一、帰還。」

 ミナが手元の記録板にさらさらと書き込み、祈り場の石へ視線を向ける。

「個人札は?」

「俺の分。」

 今度は胸元の紐から、自分の個人札を外して箱に入れる。

 箱の水晶が、もう一度ちかりと光った。

「上流予備−一/セイ、帰還。」

 ミナが一枚ずつ読み上げ、リアンが祈り場のベンチに手を置いた。

「今日、線まで行って、線から戻ってきた者たちに。」

 リアンの低い祈りの声が、祈り場の石と、俺たちの足の裏をなぞる。

「ここまで戻れた足が、明日もまた戻る線を見つけられますように。」

 足元の石から、かすかな温かさが上がってきた。

 濁りの黒い匂いを、別の何かが上書きしていく感覚。

 俺は思わず、さっきまで履いていた靴の底を思い返す。

『足裏の線も、一度洗っておいたほうがいい。』

 リラの声がする。

『川沿いの泥、玄関線の手前でちょっと“引っかかってた”から。』

「分かった。」

 祈りを終えたリアンが、こちらへ歩いてきた。

「洗浄場、使えるようにしておいたよ。」

「助かります。」

 祈り場の裏手には、簡単な洗浄用の水場がある。

 もともとは畑仕事帰りの人たちが泥を落とす場所だったが、今は濁りに触れた靴や手袋を洗うための場所にもなっている。

 桶に満たされた水には、教会が用意した浄化用の小さな水晶が沈んでいた。

 そこに、俺は躊躇なく足を突っ込む。

「……ふう。」

 濁りを踏んだ靴底から、ぬるりとした重さが剥がれていく。

 水面が一瞬黒ずみ、浄化水晶の周りで薄い光が揺れた。

「失礼します。」

 俺は小さく囁き、内心で別の線をなぞる。

「水よ、澄んだ流れをここに――浄化水。」

 口に出しているのは、教会で一般的な簡易浄化の詠唱だ。

 靴底から足の裏、膝、腰へと、濁りの揺れだけを選んで断ち切るように。

 透明だった水が、ふっと軽くなる。

 足を引き上げると、靴底にまとわりついていた黒い筋がきれいに消えていた。

「セイ。」

 横で同じように靴を洗っていたバルドが顔を上げる。

「さっきの十二体……本当に、よく戻ってこられたな。」

「戻れたのは、あそこまでって線を先に決めてたからですよ。」

 俺は笑ってみせる。

「線を決めてなかったら、欲張って欲張ってもう少し前まで出てました。」

「欲張りか。」

 バルドが鼻で笑い、もう一度水をかき混ぜた。

「……明日からは本隊が前に出る。今日の線をどう伝えるかだな。」

「それは、今から怒涛の会議です。」

 俺は軽く肩を竦める。

 靴と手袋を洗い終え、祈り場で一度深呼吸をしてから、俺たちはギルドへ向かった。


 ギルドの応接室には、すでに何人かが集まっていた。

 ガランさん、ギルド長、村の古株たち、そして祈り場から回ってきたリアン。

「お疲れさま。」

 湯気の立つカップが一通り行き渡ったところで、ギルド長が口を開いた。

「今日は村側の仮報告のみとする。本隊との合同会議は、明朝一番に行う。」

「了解しました。」

 壁掛けの《ウツシ》に、村と東野営地、それから川沿いの線が映し出されている。

 玄関線と仲間線の位置には、小さな光の印が点っていた。

 俺は席を立ち、壁掛けの《ウツシ》の前に出て、今日の流れを順に説明していく。

 玄関線までの危険度の推移。

 玄関線から仲間線までの道幅と足場。

 仲間線の位置と、そこを「第二命綱チェックポイント」にした理由。

 そして、レオンの提案で一度前に出て、十二体の濁り獣に待ち受けられたこと。

「結果としては、仲間線の手前で全員が戻る判断をしていたから、あの戦闘も“戻る線の内側”で済みました。」

 俺はそう締めくくる。

「以後、同じ規模の濁りの反応があの周辺で出た場合は、本隊レベルの出動が必要だと思います。」

「濁り獣の等級は。」

 ギルド長が問う。

「Cランク相当が三体、Dランクが九体。」

 リラが記録板をめくりながら答える。

「足元からの危険度は、仲間線の外側で一気に“六の上限”まで跳ね上がっています。現状、予備調査班だけで対応するのは推奨しません。」

「ふむ。」

 ギルド長が顎を撫でる。

「濁りの残骸の回収はどうする。」

「王都本隊側の土属性と聖属性の部隊に回していただきたいです。」

 ガランさんが応じた。

「こちらからはテオとサラを出しますが、あくまで仲間線の内側までです。それより先へ踏み込むのは、本隊の任務として扱ってください。」

「分かった。」

 ギルド長が頷く。

「今の方針で、明日の合同会議に出そう。」

 仮報告は、それで十分だった。

 村側として必要なのは、

「今日どこまで行き、どこから戻ったか」

「どの線までなら、村の戦力だけで面倒が見られるか」

 その二つだけだ。

 それ以上は、王都本隊との話になる。

「セイ。」 

 席を立ちかけたところで、ガランさんに呼び止められた。

「今日は、ちゃんと寝ておけ。」

「そのつもりです。」

「明日、“戻る線の話”をお前の口からしてもらう。」

 ガランさんの目は真剣だった。

「村の線だけじゃない。本隊の線もだ。」

「……重い役ですね。」

「重い役だってことは分かってる。」

 ガランさんはそう言って、小さく笑う。

「だが、“どこまでなら戻れるか”を言葉にできるやつが、今ここにいるのはお前だけだ。」

「了解しました。」

 俺は背筋を伸ばして頭を下げる。

 部屋を出るとき、ガランさんが背中を軽く叩いた。

「明日の会議、俺とエドガーが前に立つ。」

「はい。」

「お前は横から、《ウツシ》を使って線を見せろ。言葉だけじゃ分からん連中もいる。」

「任せてください。」

 そのやり取りを終えた途端、急に気が重くなってしまった。

 ギルドを出て、教会の部屋に戻る。

 装備を外し、濁りに触れたところへ手を当てた。

「水よ、澄んだ流れをここに――洗浄。」

 肌と布の表面に残っていた濁りの重さがすっと抜け、汚れと一緒に湿り気も薄れていく。

 濁りの揺れが残っていないのを確かめてから、寝台に横になった。

『セイ。』

 枕に頭を沈めたところで、リラの声が耳の奥に届いた。

「ん。」

『今日は、線と一緒に戻ってきてくれて、ありがと。』

「俺は線を守っただけだよ。」

『その線を、今度は本隊の人たちにも渡さないといけない。……明日の会議、できそう?』

「できるだけやる。」

 俺は目を閉じたまま言う。

「だからさ、事前に台本を一本作っておかないか。明日話す順番と要点をまとめて、会議中は視界の端に出しておいてほしい。質疑応答のときは、リラが候補を投げてくれる形で。」

『……いいね。それなら、セイは“どこまで話すか”だけに集中できる。』

『じゃあ、今のうちに、Aラインから順番に整理しようか。』

「頼む。」

 少しだけ間があってから、リラが続ける。

『セイ。』

『“本物”は、まだ顔を出してないよ。』

「知ってる。」

『だからこそ、今のうちに“戻る線”を固めておかないと。』

「分かってる。」

 川の音が、まだ耳の奥には残っている。

 仲間線の向こうで、黒い幕が静かに揺れていた光景も。

 あそこから先は、俺たちではなく、本隊が相手をする場所だ。

 だから――今のうちに、言葉にしておかないと。

 そんなことを考えながら、意識はあっさりと暗闇に滑り落ちていった。


 翌朝。

 ギルドの会議室は、いつもよりも人が多かった。

 長机を二つ三つ繋いだその奥に、王都本隊から来た代表者たちが並んで座っている。

 騎士団の鎧を着た男たち。

 軍の制服を着た参謀役と思しき人々。

 教会の白い法衣に身を包んだ司祭。

 学院のローブを着た術師たち。

 そして、その中央にエドガー・ハルベルトがいた。

「おはよう、セイ。」

 エドガーが軽く手を挙げる。

「昨日は、危険度の高い場所までの調査、感謝する。」

「おはようございます。」

 俺は頭を下げた。

 会議室の壁には、《ウツシ》の映像が大きく映し出されている。

 村、西側の焼け跡、上流へ伸びる川、東野営地、玄関線、仲間線。

 俺たちが昨日まで歩いてきた線が、光の筋になって見えていた。

「では、始めよう。」

 ガランさんが一歩前に出る。

「今日の議題は二つだ。」

 ガランさんが一歩前に出る。

「一つ。」

 エドガーが続ける。

「王国本隊の本営と出撃路、撤退路――つまり“進む線と戻る線”を、ここエルディア周辺でどう置くか。」

「もう一つは、村の周辺から外縁部まで、濁りが今どう動いているか。その現状の共有だ。」

 ガランさんが言った。 ざわ、と小さく空気が揺れた。

 話を聞きに来ている村人や冒険者たちも、部屋の後ろ側で固唾を呑んでいる。

「まずは、これまでの調査結果の報告から。」

 ガランさんが俺に目を向ける。

「セイ。」

「はい。」

 視界の端に、昨夜リラと一緒に詰めた会議の流れが薄く浮かぶのを確認してから、俺は《ウツシ》の前に立ち、指で地図の上をなぞった。

「昨日までの調査で確定したのは、この三本の線です。」

 村から東野営地を経由し、上流へ向かう川沿いの道。

 その途中に置いた木杭と赤布が、光の点として表示されている。

「ここがAライン――玄関線。」

 俺は一番手前の印を指さす。

「退路が一本に絞られる地点で、村と本隊の“行きと帰り”の分岐点です。」

「ここがBライン――仲間線。」

 少し上流側の印に指を滑らせる。

「昨日、予備調査班が“第二命綱チェックポイント”として杭を打った場所。顔色と装備の確認、撤退判断をしやすい線になります。」

 《ウツシ》の上で、AとBのあいだに赤と青の線が引かれる。

 赤は行き、青は戻り。

「Cラインは、まだ具体地点は未確定ですが。」

 俺はさらに上流側の黒い幕を指差した。

「予備調査班の限界――つまり、本隊に“これより先は預ける線”として認識しています。」

「ふむ。」

 騎士団の一人が頷く。

「A、B、C。分かりやすい。」

「AとBのあいだの危険度は。」

 軍の参謀役らしい男が質問してくる。

 問いに、視界の端に浮かんだリラのメモと、《ウツシ》と手元の記録をざっと見てから口を開く。

「玄関線から仲間線までは、隊列さえ崩さなければ、予備調査班でも普通に往復できる範囲です。足場も揺れも、“大きく崩れる手前”で止まっていました。」

「Bラインより上は。」

「昨日、十二体の濁り獣が出た地点を含みます。」

 俺は《ウツシ》の上流側に伸びる光の帯を指さす。

「前で止めていたところが一度崩れれば、そのまま仲間線や玄関線まで押し流される危険があります。ここから先は、本隊の戦力を前提にしたほうがいい領域です。」

「待ち構えていた、ってことか。」

 学院側の席で、レオンが眉をひそめた。

「昨日、私が“あと二百メートル先まで行きたい”と言った地点の、ほぼ手前だね。」

「はい。」

 俺は苦笑する。

「結果としては、仲間線をBの位置に打っていたから、全員で下がれる余地が残りました。」

「……すまない。」

 レオンが小さく頭を下げた。

「数字の都合を優先しかけていた。」

「現場で線を引くのは、セイの仕事だ。」

 ガランさんが肩を竦める。

「数字はありがたいが、“戻る線”だけは数字の前に決めておく。」

「肝に銘じておこう。」

 レオンが眼鏡を押し上げる。

 ここまでは、昨日の延長線上の話だ。

 会議に出ている面々も、真剣ではあるが、まだ表情に余裕がある。

 話は、ここからが本題になる。

「では、本営の位置についてだ。」

 エドガーが椅子から腰を上げ、《ウツシ》の前に出た。

「王都側としては、当初この“村西の焼け跡”を第一候補としていた。」

 西側の平地が、光の板の上で淡く色づく。

 家並みが焼け、畑が黒く焦げた跡地。

 今は簡易整地され、本隊の到着直後の腰掛け場所として使われている場所だ。

「ここは、平地が広く、既存の道との接続も良い。」

 軍の参謀役が続ける。

「物資の搬入や馬の扱いを考えれば、理想的な本営候補と言える。」

「質問してもよろしいでしょうか。」

 俺は右手を挙げた。

「セイ。」

 エドガーが頷く。

「君の意見を聞きたい。」

 俺は一歩前に出て、焼け跡の上に指で細い線を描いた。

「ここに本営を置いた場合の“戻る線”を、一度見てみましょう。」

 村の北側から上流へ伸びる道と、焼け跡を結ぶ線が赤く浮かび上がる。

 その赤は、焼け跡のど真ん中を通って、やがて村の中心へ戻っていった。

「上流から撤退する兵は、まずここ――玄関線まで下がります。」

 俺はAラインを指差す。

「そこから焼け跡の本営へ戻るとすると、撤退路はこうなる。」

 赤い線が、再び焼け跡の中を走る。

「問題は、“この焼け跡がどういう場所か”です。」

 俺は焼け跡の一角を指で叩いた。

 《ウツシ》の上に、黒い斑点がいくつも灯る。

「村を焼いたオークが通った跡地でもある。」

 俺は続ける。

「地面の下に、あの日の線がまだ残っています。濁りの筋も、時間帯によってここに溜まりやすい。」

「つまり。」

 騎士団の一人が眉をひそめる。

「“戻る線が、一番汚れた場所を通る”と。」

「はい。」

 俺は頷いた。

「兵が疲れて撤退するとき、わざわざ一番濁りが集まりやすい場所を通る必要はありません。」

「だが、前線からは近い。」

 武功派らしい男が口を挟む。

「前に出る距離を短くしたほうが、戦いやすいのではないか。」

 部屋の空気が少し硬くなる。

「セイ。」

 エドガーが静かに俺を見る。

「君はどう考える。」

 俺は肩をすくめて、笑ってみせた。

「前に出るために、戻る場所を決めるんですよ。」

「どういう意味だ。」

 武功派の男が苛立った声を上げる。

「戻る場所が決まっていないと、人は“戻れなくなる線”を越えたことに気づけません。」

 俺は、《ウツシ》上に新しい線を引いた。

 村の東側、灯籠線の少し外にある平地を囲う。

「東側のこの平地を、本営――“東野営地”にしたい。」

 光の板の上で、その平地が柔らかな緑色に変わる。

「川と街道に近く、上流への出撃にも、西側への応援にも動きやすい。」

 俺は説明を続ける。

「何より、ここを本営にすれば、“本隊の戻る線”と“村の戻る線”を意識的に分けられる。」

 《ウツシ》の上に、二本の青い線が浮かんだ。

 一つは、上流から玄関線を経由して東野営地へ戻る、本隊の戻る線。

 もう一つは、村の周辺からギルドと祈り場へ戻る、村人たちの戻る線。

「撤退時に兵と村人、荷車が同じ道に殺到すると、そこで詰まります。」

 俺は青い線の交点に指を置く。

「詰まった場所が、濁りにとっての“餌場”になる。」

「……それは困るな。」

 教会の司祭が静かに言った。

「祈り場の役割とも矛盾する。」

「だから、“戻る線を二本に分けたい”んです。」

 俺は頭を下げる。

「村の戻る線は、あくまでギルドと祈り場へ。本隊の戻る線は、東野営地へ。」

 しばし沈黙が落ちた。

「戦う場所は、焼け跡の近くでもいい。」

 俺は言葉を足す。

「ただ、“戻る場所だけはきれいなところに置いてほしい”。」

 エドガーが目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。

「なるほど。」

 彼は顔を上げ、部屋の全員を見渡す。

「ここは、ガラン式でいこう。」

 そう言って、エドガーは笑った。

「本営は、東側の平地――東野営地とする。」

「了解しました。」

 軍の参謀たちが一斉に頷く。

「焼け跡は。」

 騎士団の一人が問う。

「到着直後の腰掛け場所だ。」

 エドガーが即答する。

「長期の本営ではなく、のちに本来の持ち主たちに土地を返す前提の暫定利用とする。」

 その言葉に、部屋の後ろで聞いていた村人たちの表情が少しだけ緩んだ。

「では。」

 ガランさんが、俺のほうをちらりと見てから続ける。

「線の運用についても、ここで確認しておく。」

「セイ。」

 エドガーがもう一度、こちらを向いた。

「君の仕事について、ここで明言しておきたい。」

 俺は思わず背筋を伸ばす。

「君は“撤退線の専門家”としてここにいる。」

 エドガーの声は、会議室の端まで届くように通っていた。

「王都からの通達文にもあった通り、“外縁調査および撤退線の運用”は、セイ個人に正式に依頼されている。」

 部屋のあちこちで、視線が俺に集まる。

「そこで確認する。」

 エドガーは一本一本、指を折るように言葉を区切った。

「セイは原則として、前線には出さない。」

 空気が、わずかに揺れる。

「セイの仕事は、“戻る線”と“ここまで線”を残すこと。」

 俺は、喉が少しだけ熱くなるのを感じた。

「命が落ちる瞬間だけ、例外的に一歩だけ前に出ることを許す。」

 エドガーは言い切る。

「それ以外は、前には出さない。」

 ガランさんが、隣で小さく頷いた。

「元から前衛禁止だ。」

 ガランさんが補足する。

「命が落ちる線を越えそうになったときだけ、あいつは前に出ていい。」

 武功派らしい男が、不満げに眉をひそめる。

「セイが前に出れば、それだけ戦いは楽になるのではないか。」

「短く言おう。」

 ガランさんがその男に視線を向けた。

「セイが全部前で片付けている間は、周りの線と撤退のタイミングが見えなくなる。」

 ガランさんが、腕を組んだままゆっくり顔を上げる。

「セイが強いことは、もう村の連中も分かっている。」

 その声は低いが、よく通った。

「だが、“セイが全部やる”ようじゃ、本隊側のやつらが、自分で線を読む練習ができん。」

「戦うのは、本隊全員だ。」

 エドガーが言葉を継ぐ。

「セイ個人の武功ではなく、“チーム全体の線”が主役になるように運用したい。」

 騎士団の男はしばらく黙っていたが、やがて肩を竦めた。

「総大将がそう言うなら、従おう。」

「助かります。」

 エドガーが軽く頭を下げる。

 こうして、俺の役割ははっきりと言葉になった。

 前に出て敵を斬るのではなく、どこまでなら前に出て、どこから戻るかを決める役。

 命が落ちる線の手前で、「ここまで」と言う役。

 それは、派手さはないが――今のこの戦いには、必要な役割だ。

「最後に。」

 リアンが一歩前に出た。

「線の意味について、もう一度だけ確認させてほしい。」

 祈り場の司祭としてではなく、一人の村人としての声だった。

「帰ろう札は、隊ごとに一枚──本隊としての『撤退を決めて戻ってきた』証として扱います。」

 リアンが言う。

「札には隊名が刻まれていて、上に小さな水晶が付いています。」

 ミナが箱を抱えて前に出た。

 箱の内側で、読み取り用の水晶が淡く光る。

「出撃前に、ギルド章や騎士団章、教会章をこの水晶に一度タッチしてもらいます。そうすると、今日の持ち主の名前と所属が自動で刻まれる仕組みです。」

「撤退を決めて、無事に戻れた隊は、その札を東野営地の箱に返却する。」

 リアンが続ける。

「隊札が箱に戻る──それは、その隊としての撤退判断が実行され、隊として戻れた証になります。」

「戻っていない札は。」

 教会の司祭が問う。

「『まだ線の向こうにいる者がいる』というサインになります。」

 リアンははっきりと答えた。

「祈り場では、その札を見ながら、『戻る線』を祈る。」

「個人札は……任意だ。」

 ガランさんが笑う。

「自分の札はいらないってやつは持たなくていい。『隊札だけで十分だ』と思うなら、それでいい。」

 俺は自分の胸元に下がっている小さな札に触れた。

 そこには、《上流予備一隊/セイ》と刻まれている。

「ただ。」

 リアンが柔らかく微笑む。

「自分の戻る線を、自分の名前で刻みたい人は──持ってくれてもいい。」

 会議室のあちこちで、小さなざわめきが起きた。

 騎士団の若い兵の中には、どこか誇らしげな顔をしている者もいる。

 逆に、「いや、俺はいらん」と肩を竦めている者もいた。

 それでいい。

 戻る線は、最後には自分で踏むものだから。

 会議が終わるころには、《ウツシ》の上に光の線が何本も重なっていた。

 村の戻る線。

 本隊の戻る線。

 玄関線。

 仲間線。

 そして、まだ具体的な位置は見えていないが、いつか誰かが踏むことになる預け線。

「これで、エルディアは『戦場の玄関口』として整った。」

 エドガーが会議室を見渡しながら言った。

「後は、この線を守りながら、上流の“本物”を削り取っていくだけだ。」

 ガランさんが腕を組む。

「線の外に出すぎたやつは、引きずってでも戻す。」

「お願いします。」

 俺は笑って頭を下げた。

 会議室の窓の外では、東野営地に天幕が次々と立ち上がっていく。

 王都軍の旗、教会の白旗、学院の紋章。

 それらが、村人たちの手で打たれた杭の上で、同じ風を受けていた。

 戦いは、まだ始まってもいない。

 昨日斬り伏せた十二体なんて、上流の黒い幕からすれば、ただの前座かもしれない。

 それでも──。

 戻る線だけは、もうここにある。

 玄関線と仲間線、そして東野営地。

 誰かが前で踏みとどまれなくなったとき、それでもまだ「ここまでは戻れる」と言える線が。

 俺は《ウツシ》の上に伸びる青い線を、もう一度見つめた。

 あの線の向こうで、いつか“本物”が顔を出す。

 そのとき、今日決めた線が意味を持つかどうかは──これからの俺たち次第だ。

「セイ。」

 隣でリラが囁く。

『今日の線、ちゃんと記録しておく。』

「頼んだ。」

 戦場の玄関口は、ようやく形になった。

 あとは、この玄関をくぐった者たちが、ちゃんと戻ってこられるように──線を灯し続けるだけだ。

 そう思った瞬間、《ウツシ》の隅で、上流の黒い幕を示す線が、ごくわずかに震えた気がした。

 それが、ただの見間違いかどうかを確かめる間もなく、会議室の灯りが一つ、静かに落とされる。

 “本物”が動き出したのか、それともまだ前座なのか。

 答えが出るのは、もう少し先だ。


◆ 用語解説案

● 《ウツシ》


ギルドや会議で使われる「魔法地図」。

周囲の地形や濁りの分布を、壁いっぱいに映し出せる便利ツールです。


玄関線げんかんせん


エルディア村の「一番前の戻る線」。

ここを越えて前に出ると、村の力だけでは支えきれない危険が一気に上がる、という目安になっています。


仲間線なかません


玄関線の、もう一つ村寄りに置かれた「二本目の戻る線」。

前で踏ん張っていた仲間が撤退するとき、「最低でもここまでは全員で戻ってくる」ことを約束するラインです。


● 戻る線


「どこまでなら全員で戻れるか」を決めた境目。

セイの仕事は“どこまで進むか”より、この「どこまで戻れるか」を決めて、守ることです。


● 預けあずけせん


《ウツシ》上にだけ引かれている、まだ誰も実際には踏んでいない線。

「いつか本隊がここまで行くことになるだろう」という“未来の戻る線”の候補です。


● 濁り(にご)/濁り獣


川の上流に広がる黒い幕(濁幕)から生まれる異形の存在。

黒い筋や膜のようなものが集まって獣の形を取り、人や村を襲います。


濁幕だくまく/黒い幕


川の上流を覆っている、黒く濁った「膜」のような領域。

この幕の中や縁から、濁り獣が生まれて流れてきます。


● 帰ろうかえろうふだ


「隊ごとに一枚」配られる撤退用の札。

線の向こうから戻ってきたときに箱へ返すことで、「この隊はちゃんと撤退判断をして戻ってきた」という証明になります。


個人札こじんふだ


自分の名前が刻まれた、小さな札。

持つかどうかは任意で、「自分の戻る線を自分の名前で祈りに刻んでおきたい人」が首から下げています。


上流予備一隊じょうりゅうよび・いちたい


今回の“川の上流予備調査”に出ている小隊の呼び名。

セイたちは、本隊が動く前に「どこまでなら戻れるか」の目安を作るため、先に危険地帯を歩いています。


● 戦場の玄関口せんじょうのげんかんぐち


エルディア村がこれから担う役割の呼び名。

「上流の本物の脅威」と真正面からぶつかる前に、

兵や冒険者たちが一度ここで線の引き方を覚え、戻る感覚を身につける“入口”の戦場です。


● “本物”


川上の黒い幕の向こうにいる、まだ正体の見えない大きな脅威のこと。

今出てきている濁り獣たちは、あくまで「前座」かもしれない、とセイたちは考えています。

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