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理を灯す少年 〜祈り万能世界で、AIを宿す俺だけが“理論魔法”を使えた件〜  作者: いい加減工房
第6章 西からの十五、線が制度になる戦場

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第72話 仲間線と、待ち伏せの濁り獣

 玄関線の赤布が、背中の方で小さく揺れていた。

 風向きと揺れ方で、「まだ戻れるほうの重さ」かどうかが分かるようになっている自分が、少しだけおかしい。

『現在位置、玄関線から百メートル。足元の危険度は3の上限寄り、全体は5に片足乗ったくらい。』

「昨日より、最初から少し重めだな。」

 俺はわざと土を踏みしめる。

 東野営地を出て、川沿いを上ってくる道は昨日と同じはずなのに、足裏に残る湿りの場所が違う。

 土の下で水がゆっくり動いている。

「セイ。」

 前を歩くバルドが、振り返らずに声を投げてきた。

「足はどうだ。」

「まだ“走って戻れるほうの重さ”だ。」

 自分にも聞かせるように答える。

「踏んだ分だけ返してくる。逃げ足は残ってる。」

「なら、もう少しは前を見に行けるな。」

 バルドの肩が、わずかに上下する。あいつが笑っているときの癖だ。

 隊列は昨日とほぼ同じだ。

 一番前にバルド、そのすぐ後ろに槍を持ったテオ。

 その後ろを、俺とガランが並んで歩き、ミナとコルト、サラとリアンが続く。

  最後尾近くにはセラと、学院・教会の観測役たち。

 頭上には、白い光点――ヒトリが川の少し上を滑るようについてきている。

『上から見ると、川面の“黒い筋”が昨日より増えてる。まだ帯にはなってないけど、その周りだけ水の流れが鈍い。』

「濁幕帯の“翼”が伸びてきてる、って感じか。」

 俺は小さく息を吐いた。

「今日の目的は、その翼の“手前”までだ。仲間線を決める。」

 ガランが、わざとらしく咳払いをして声を張った。

「おーい、これから今日のことを言うぞ。みんな、聞いてくれ」

 前から後ろまで、一度視線がこちらに集まる。

「今日の仕事は、『どこまで行けるか』じゃない。『どこまでなら全員で戻れるか』を決めて帰ってくることだ。」

 昨日、祈り場の前でも聞いた言葉だ。川音を背に聞くと、重さが違う。

「セイが『危険だ』と言ったら、その瞬間に前進はおしまいだ。異論は村に帰ってから。現場では、戻るのが最優先。」

「了解。」 

 バルドの声が短く返り、テオもこくりと頷く。

「数字はリラが出す。祈りの揺れは教会、流れの癖は学院。で、現場で線を引くのはセイ。」

 ガランが横目で俺を見る。

「仲間線の鍵は、こいつが持ってる。」

「鍵束がどんどん重くなってるんだが。」

 苦笑しながら、腰のマナソードの位置を確かめる。

 抜かないで済む仕事であってほしいといつも思うのに、柄だけは手に馴染んでいる。

 玄関線の赤が霞んで見えなくなるころ、川の音が一段低くなった。

 川幅が狭くなり、流れが速くなる。

  右の斜面は険しく、左の川面はさっきより深く黒い。

 前方で道が緩やかに曲がり、内側だけがぽっかり広くなっていた。

 昨日、一度だけ通り過ぎた場所だ。

 低い木の枝に、白い布切れが結ばれたまま風に揺れている。

「ここ……。」

 コルトが足を止めて周囲を見回した。

「やっぱり息が整えやすい形してる。」

「だろうな。」

 俺も歩みを止める。

 人が横に広がれるくらいの幅があり、右の斜面側には一段高い土の段差、左の川側には膝ほどの岩が点々と顔を出している。

 一歩外の土は表面だけ乾いていて、足裏で押すとザラザラと砂粒が滑った。

 だが段差の上は、湿りが奥で締まっていて、踏んだだけで「ここなら崩れない」と分かる硬さがある。

「ここを、仲間線にしたい。」

 俺は口を開いた。

「理由を言え。」

 ガランが肩を回しながら問いかける。

「まず、幅。」

 俺は足元を指さす。

「ここなら、一列で走ってきても、二列目が横に抜ける余裕がある。前のやつが転んでも、後ろが一列まるごと巻き込まれずに済む。」

 そう言って、バルドを見ると、彼は無言で一歩、斜面側に上がってみせた。

 土の段差の上に右足を置く。

  そこは踏んだ瞬間に「粘り」が返ってくる場所だ。

 一方、そのすぐ前、一歩分だけ川側に出た土をバルドがつま先で軽く蹴ると、ザラザラと小石が崩れ、小さな溝ができる。

「こっちは、踏んだ瞬間に崩れるな。」

「だろ。」

 俺もその横に並ぶ。

「玄関線のときと同じ“退き足”が置ける。」

 そう言って、俺は足元を指さした。

「まず、斜面側だ。」

 斜面に近い段差をつま先で強めに押す。

 土はあまり崩れず、その場でしっかり止まっている。

「ここは踏んでもほとんど沈まない。押しても崩れない。退くときは、全員この帯の上に足を置く。」

 今度は川寄りの、表面が乾いて白っぽいところを軽く蹴る。

 砂と小石がすぐにざらざらと斜面の下へ落ちていった。

「こっちは見た目は広いけど、押すとすぐ崩れる。ここに乗ったまま下がろうとすると、足が先に沈む。退き足には使えない。」

 斜面側の固い段差と、川側の崩れやすい帯。その境目がはっきり分かる。

「だから、斜面側のこの細い帯を、“退くときに必ず踏む場所”にしたい。」

「なるほどな。」

 テオがうなずき、しゃがみ込んで土に触れた。

「つまり、崩れやすいところはそのまま残しておいて、いまセイが言った固い段差の帯だけを、もっと崩れにくくしておけばいいんだな。」

「ああ。そこを踏めば下がれる、って分かりやすくなるようにな。」

「分かった。」

 テオは退き足に使う段差の帯に両手を当てる。

「《アース・スタビライズ》。」

 低い震えが、その細い帯だけを走った。

 さっきよりも土が締まり、表面を押しても沈まない感触に変わる。

「ここを全員の“最初に踏む場所”にできる。」

 テオが立ち上がって確かめながら言った。

「この固いところに足を置けば崩れない。その横のざらざらした土は、押すとすぐ落ちるままにしてある。これなら、どこに足を置けばいいか、誰でも間違えない。」

『危険度も、ここを境に変わる。』

 リラの声が重なる。

『玄関線からここまでは、足元の危険度は3寄りで、全体も5の入り口くらい。この先に一歩入ると、全体がはっきり5を越える予測。』

「祈りも、ここで一度色が変わります。」

 セラが目を閉じて、短く祈りを通した。

「ここまでは祈りがすっと東野営地まで流れていく感じですけど、この先に一歩出ると、足元で一度ひっかかる。」

「だから、ここで一度止まる。」

 俺は皆の顔を見渡した。

「ここを仲間線――Bラインにしたい。」

 そう言い切る前に、別の声が割り込んだ。

「データ上の話をしてもいいかな。」

 学院のローブを着た青年、レオンが一歩前へ出る。

 眼鏡の奥の目は、好奇心と慎重さの両方で光っていた。

「ここから、さらに二百メートルほど上流へ行った地点。」

 レオンは手元の板の地図を指でなぞる。

「過去の観測だと、川面の黒い膜――濁幕帯の“薄い端”がかすかに揺れていた場所がある。そこまで行ければ、濁り密度の変化を、もう少し明確な形で取れるはずだ。」

『それ自体は、解析的には正しい。』

 リラがぼそりと補足する。

『濁幕帯の“手前の手前”と“手前”の差が見えれば、本隊の作戦立案には役立つ。』

「ここを仲間線にするのには賛成だ。」

 レオンは続けた。

「ただ、線を打つ位置を、もう少しだけ先に……。」

 データとしては、先へ行ったほうが面白い。

 その理層は俺にも見える。

 けれど――。

「レオン。」

 ガランの声が低く落ちた。

「お前の仕事は“見る”ことだ。だが今日の現場の線引きは、セイに預けるって話だったな。」

 レオンが少しだけ肩を竦める。

「もちろん、それは理解している。」

「なら、“ここまでは全員で戻る”って線を、数字の都合で前に押そうとするな。」

 ガランの目は笑っていなかった。

「その二百メートル分のデータで、本隊が何十人も死なずに済むと胸を張って言えるなら、俺だって考えるがな。」

「……そこまでの確証は、まだない。」

 レオンが苦い顔をする。

 言葉で線を引くのは、いつも少し息が苦しくなる。

 それでも、この線を曖昧にした瞬間、誰かの足がすべる。

 もういない仲間の空席の重さを、俺は背中で受け止めた。

「ここをBライン――仲間線にするのは変えない。」

 俺は言った。

「レオンの“もっと濃いデータ”の話は分かった。だから逆に、その二百メートル分は“預け線側の仕事”として扱う。今日の仲間線はここだ。」

『危険度的にも、それが妥当。』

 リラが淡々と付け足す。

『この先は、全体危険度が6寄りに跳ねる可能性がある。本隊案件の匂いがしてきたら、予備調査班は無理しない。』

「じゃあ、決めようか。」

 セラが前に出た。

 記録板を抱えた手が、少しだけ震えている。

  責任の重さで。

「ここを、“危険だった”を口にしていい場所にしたいです。」

 セラの声は、川の音に負けないようにわずかに張られていた。

「祈り場は、心を静める場所です。でもここは違う。ここでは、『危険だった』『足がきつい』『胸が苦しい』……そういう言葉を、飲み込まずに言ってほしい。そのための線にしたい。」

「いい提案だ。」

 ガランが短くうなずく。

「危険だった、を祈りに変える場所だな。」

「灯の神よ。」

 リアンが一歩前に出て手を組む。

「ここを、仲間線として覚えてください。ここまで戻った人の『危険だった』が、どこかで消えないように。足が震えている人が、自分から『今日はここまで』と言える場所として、この印を支えてください。」

 祈りが抜けた瞬間、空気が少しだけ変わった。

 杭を打つ前なのに、ここだけ温度と息の重さが揃う。

「テオ、杭。」

「了解です。」

 テオが木杭を運び、バルドが簡易ハンマーで頭を三度叩く。乾いた音が川音を割って響いた。

「《アース・スタビライズ》。」

 テオの手が杭の周囲の土を締める。退き足を置く段差と杭の足元が一体になる。

「ミナ、赤布。」

「は、はいっ。」

 ミナが赤布を取り出して杭の頭に結びつける。

 指先は少し震えているが、結び目はしっかりしていた。

 赤布が、川から吹き上げる風でふわりと揺れる。

「セラ、記録。」

「はい。」

 セラが板に書き込む。

「Bライン、仲間線。ここまで戻ったら『危険だった』『きつかった』を言っていい場所。危険度が6寄りになったら原則撤退。」

「よし。」

 ガランが手を打つ。

「仲間線、設置完了だ。ここから先は、“セイが危険だと言ったら即撤退”。学院も教会も、数字や信仰を理由にそれを上書きしない。」

「了解。」

 レオンもちゃんと頭を下げた。

「で。」

 ガランがわざと軽い声に戻す。

「レオンの“二百メートル先”の話は、このまま引っ込めるか?」

 レオンが一度だけ迷うように目を伏せ、すぐに顔を上げた。

「……ここを仲間線にした上で、だ。全員ではなく、俺とガランさんとセイ君の三人だけで、二百メートル先を一度見に行く、というのはどうだろう。」

「三人?」

 ミナが目を丸くする。

「そんな危険な帯に、支部長まで出ていく必要――。」

「危険度の確認も、支部長の仕事だ。」

 ガランがミナをなだめるように笑う。

「ただし条件が要るな。」

 ガランは指を三本立てた。

「一つ、三人とも玄関線まで戻れる足が残っていなかったら、その場で中止。」

「二つ、危険度が“6の上”に跳ねたら、その時点で引き返す。戦って測るんじゃなくて、揺れが出た時点で帰る。」

「三つ――。」

 そこで俺のほうを見る。

「何かあったら、その場の撤退判断はセイに一任する。俺もレオンも、その線をひっくり返さない。」

「……三つ目が一番重いんだよな。」

 俺は苦笑した。

「リラ。」

『三人なら、最悪の場合でも撤退路を作れる見込みはある。ガランもいるしね。』

 リラの声は静かだった。

『ただし、本当に“本物”が顔を出したら、その時点で予備調査班の仕事は終わり。深入りは無し。』

「分かった。」

 俺は頷いた。

「行って、見て、危険度を測って、すぐ帰る。それだけだ。」

「残りは、仲間線の内側で待機。」

 ガランが全体に宣言する。

「何かあれば、この赤布まで一度全員で退く。セラは祈りの揺れ、リラとレオンのログは仲間線から先を見ない。いいな。」

「了解。」

 全員の返事が重なる。

 俺、ガラン、レオンの三人は、装備と足の状態をもう一度確認し、仲間線の赤布を背中に感じながら上流へと歩き出した。


『仲間線から百メートル。足元の危険度は4に近づきつつある。全体は5の上限寄り。』

 リラの声が、胸の中で重さに変わる。

 空気が少し冷たくなり、息を吸うたびに胸の内側がざらりと擦れるような感覚が出てきた。

 川面には、黒い筋が何本も浮かんでいる。

 その周りだけ水の流れが鈍く、光が吸い込まれて輪郭がぼやける。

「ここから先が、レオンの言ってた“濃い変化”の帯か。」

「もう少し。」

 レオンは板と川面を交互に見ながら歩く。

「二百メートル先に、前の観測で濁幕の薄い端が出ていた座標がある。そこまでは、まだ“幕そのもの”には触れない。」

『セイ、胸のあたりどう。』

「重いけど、“まだ戻れる重さ”だ。足は残ってる。」

 やがて、川の曲がり角の先に、その場所は見えた。

 川幅がわずかに広がり、その真ん中あたりに、帯状の黒い層が浮かんでいる。

 まだ川面を完全には覆っていないが、黒い墨を垂らしたような筋が、流れとズレたリズムで揺れていた。

『ここだね。仲間線からだいたい二百メートル。』

「……危険度。」

『足元は4と5の境目くらい。全体は“6に乗る手前”。もう一段何か起きたら、一気に6を超える。』

「思ったより、ギリギリだな。」

 ガランが盾の位置を直す。

「幕そのものじゃないにしては、胸の重さが深い。」

「でも、データとしては、まさに見たかった場所だ。」

 レオンの目が輝いている。

「あの黒い筋の両端で、祈りの揺れと濁りの揺れがどう変わるか――。」

 そのときだった。

『セイ、待って。』

 リラの声が一段鋭くなる。

『川底の線が、こっちを向いた。』

 同時に、川面の黒い筋の一部が、ぐにゃりと盛り上がった。

 黒い水が形を持ち、獣の輪郭に変わる。

 頭も足も輪郭が曖昧で、内側では泡のようなマナが渦を巻いている。

 一体、二体――数える間もなく、黒い影が次々と川面から起き上がった。

『数、十二。』

 リラの声が低く落ちる。

『そのうち三つは“中級魔獣Cクラス”相当の線の乱れ。残り九はDクラス帯。合計で危険度6を超える。これは、完全に待ち伏せパターン。』

「……レオン」

 ガランの声が、戦場のそれに変わる。

「はい」

「全員に伝えろ。『仲間線から先には一歩も出るな。撤収の準備だけして待て』ってな」

「しかし――。」

「今の時点で危険度6を超えた。」

 ガランは譲らない。

「ここから先は、本隊に預ける線だ。お前の仕事は、その判断を仲間線まで運ぶことだ。」

 レオンは一瞬だけ歯を食いしばり、それから頷いた。

「……了解しました。」

 板を抱え直し、踵を返す。

「レオン。」

 俺は短く呼び止める。

「足場、右側の締まってる土を踏んで走れ。崩れる方に乗るな。」

「分かってる。」

 レオンは一歩目から、斜面側の締まった帯だけを選んで駆け出した。

 足音がすぐに遠ざかる。

 残ったのは、ガランと俺、そして川面から這い上がる十二の濁り獣。

「セイ。」

「……はい」

 俺はマナソードの柄に手をかける。

「ここから先は、“全員で戻る線”を守るための戦闘だ。押し込むんじゃなくて、仲間線まで下げながら削る。」

『危険度、戦ランクC戦相当。』

 リラが冷静に言う。

『正面から長引かせたらまずい。短時間で形を崩して、仲間線までの退路を空けるプランで行こう。』

 黒い影が一斉にこちらへ滑り出す。

 足音ではなく、水を切るざらついた音が響いた。

「ガランさん、最初の一歩は俺がもらう。」

「任せる。」

 俺は、斜面側の固い段差に、一歩ぶん後ろへ引いた足を乗せた。

 川のほうには、もう片方の足を体の前に軽く出し、かかとは浮かせておく。

 体は川に真正面ではなく、いつでも背中側へ下がれる向きに少しだけずらして構える。

 最初から、退くときの一歩が決まっている姿勢だ。

 先頭の一体が牙のような黒い線を伸ばして突っ込んでくる。

 牙の軌道と、背中側の退路、それからガランの盾の位置――三つの線が一瞬で浮かぶ。

「一本、削る。」

 俺は左足で地面をなぞるように蹴り、身体ごと半歩だけ川側に滑らせた。

 濁り獣の突きをギリギリで外しながら、マナソードを抜きざまに振る。

 第一段階、補正モード。

 薄いマナ刃が実体の軌道をなぞるだけの、地味な刃だ。

 だが、濁り獣の牙の根元に当たった瞬間、黒い線がぶつぶつと切れた。

 濁った水が飛び散り、そのまま地面で煙のように消える。

「一体目、前足の線を削ぎ落とした。」

『その個体、危険度が一段下がった。』

 リラの声が重なる。

 すぐに二体目、三体目が横から回り込もうとしてくる。

 ガランが一歩だけ前に出て、盾で斜めに受け流した。

 盾にぶつかった黒い塊が弾かれ、斜面側の崩れやすい土に叩きつけられる。

 ザラザラと土が崩れ、そのまま川へ滑り落ちた濁りが、そこで形を保てず崩れていく。

「崩れる土側は、“濁りのほうが不利”だな。」

『うん。濁りは“形を保つ足場”が弱い。崩れる斜面に乗ると、自分の線の維持にマナを取られる。』

「じゃあ、使わせてもらうぞ。」

 ガランが肩で笑った。

「崩れるほうに投げて、締まったほうに退く。分かりやすい。」

 俺たちは、退き足のフォームを崩さないまま、一歩ずつ下がる。

 右足を締まった段差に置き、左足で受けて、斜めに避けながら刃と盾で濁り獣の線を削ぐ。

 川側に踏み出す足は、必ず岩か硬い土を選ぶ。

 崩れる帯には、濁りだけを落とす。

 一本、また一本と、濁り獣の足や牙の線を狙って切る。

 マナソードの刃は、決して大きく振らない。

 通すのは、退路の通り道だけだ。

『残り、九。Cクラス二、Dクラス七。』

 リラの声が次第に短くなっていく。

『危険度は6の中ほどから、5寄りへ下がりつつある。ただし――。』

 ただし、のあとが一瞬だけ途切れた。

 川面の黒い筋が、こちら側へずるりと伸びる。

 まるで、さっきまで倒れていた濁り獣の欠片が、川面の幕に吸い込まれ、そこからまた別の影を押し出そうとしているかのようだった。

『“川側”からの補充がかかる。』

 リラが言う。

『ここで長引かせたら、十二で終わらない。』

「だったら、ここで止める。」

 俺は一度だけ息を深く吸い、吐いた。

「ガランさん。」

「分かってる。」

 ガランは盾をぐっ、と上げた。

「このまま仲間線まで下がりきる前に、前に出る一瞬だけ作る。そこで一段、崩すぞ。」

「前に出るのは、一回だけ。」

 俺は自分に言い聞かせるように呟いた。

 腰の内側で、第二段階に触れる感覚をあえて外す。

 ここはまだ、その札を切る場面じゃない。

「リラ、一歩だけ前に出る。その一歩でいちばん“通る”線を出してくれ」

『了解。理術フィルター、最小出力でかける』

 一瞬で、視界の中に薄い光の軌道が幾筋も浮かぶ。

 濁り獣たちの足元、崩れやすい土、川面の黒い筋。

 そのつなぎ目だけが、他より少し濃く見える。

『今なら、ここ』

 リラが示したのは、先頭のCクラス二体と、その後ろのDクラス三体の足元をまとめてなぞるような、ごく細い一本の筋だった。

「行きます」

 俺は、さっきまで退き足にしていた固い段差から、一歩だけ前へ出る。

 崩れない岩を踏んで体を乗せ、その瞬間だけマナソードの第一段階を起動する。

 刃の外側に、ごく薄く理術が重なる感覚が走る。

 濁りのマナだけを引っかける“フィルター”を一枚かけるように。

 そのまま、リラが示した軌道を正確になぞって振り抜く。

 薄い光の線が、濁り獣たちの足元を一度だけ横切った。

 狙ったのは、足と川面の黒い筋をつないでいる“通り道”だけだ。

 そこをなぞった瞬間、五体分の足元の線がぷつりと切れ、支えを失った黒い影が一気に崩れ落ちた。

 ばしゅ、と音にならない音がして、濁った水が川面へばらばらに落ちていく。

 支えを失った黒い影がばらばらにほどけ、川面へと落ちていく。

『五体、一気に線が切れた。』

 リラが告げる。

『残り四。全部Dクラス帯。危険度は5の上限寄りまで下がった。』

「前に出るのは、一歩だけって言ったな。」

 俺はすぐに右足を斜面側の締まった土へ戻し、重心を後ろへ引き戻す。

 さっき踏み込んだ場所のすぐ横の土は、バルドが見せたときと同じようにザラザラと崩れ、川側へ滑り落ちていった。

「ここから先は、後ろに戻るだけだ。」

 ガランが前へ出て、残りの濁り獣を盾で弾き、崩れる土側へ誘導する。

 崩れた先で、形を保てなくなった濁りが煙のように消えていく。

『残り二。』

『最後の一体。』

 最後の濁り獣が、こちらを睨んでいるように見えた。

 黒い顔には目も鼻もないはずなのに、川上から何かを見据えている感覚がある。

「……ここから先は、お前たちの仕事じゃない。」

 俺は、その影に向かって小さく呟いた。

 そして、退き足のフォームのまま、最短で一太刀だけを通す。

 黒い輪郭が裂け、霧散した。


『危険度、足元3〜4、全体5未満まで低下。』

 リラの声が、さっきまでとは違う軽さを取り戻す。

『補充の動きも止まった。今のところ、川面の黒い筋は“様子見”に戻ってる。』

 気づけば、俺たちの背後には仲間線の赤布が見えていた。

 退き足を守りながら下がっている間に、自然とBラインの範囲まで戻ってきていたらしい。

 赤布の前には、全員が既に揃っていた。

 レオンが息を切らせながらも板を抱え、ミナが心配そうに俺たちを見ている。

「報告。」

 ガランが短く言った。

「仲間線から二百メートル先、濁幕帯の薄い端と思われる地点で濁り獣十二体に待ち伏せされた。編成はCクラス相当三、Dクラス九。危険度は6を超過。」

 セラが記録板に高速で書き込む。

「退路を守りながら仲間線まで下がる途中で、セイが通り道を削ぎ、殲滅。」

「殲滅、って言っていいの?」

 ミナが驚いたように言う。

「十二体も……。」

「正確には、“仲間線から先に連れてこなかった”ってだけだ。」

 俺は肩で息をしながら答える。

「川側に補充の動きがあった。長居したら、十二で終わる気配じゃなかった。」

『あれは完全に“待ち伏せ”だった。』

 リラが静かに言った。

『川底の線が、こっちを見ていた。たぶん、濁幕帯の濃い部分と連動してる。』

「――つまり。」

 レオンが眼鏡を押し上げる。

「セイ君が最初に引いたBラインの位置が、実質的な“予備調査班の限界線”だった、ってことだね。」

「そういうことだ。」

 ガランがうなずく。

「ここから先は、本隊の仕事だ。Cライン――預け線の位置は、今の十二体が出てきた場所そのものじゃなく、“そこを遠目に見て帰れる地点”として引く。」

「今の戦闘のログは?」

 セラが尋ねる。

「仲間線から先の分は、詳細は学院とギルドの中で扱う。」

 ガランが答えた。

「祈りや村への共有には、『仲間線より先で危険度6を超え、濁り獣の待ち伏せが確認された。ここから先は本隊案件』という線だけ通す。」

「……すみません。」

 レオンが小さく頭を下げた。

「俺が“もう少し先まで”なんて言わなければ、あの十二体とは遭わずに済んだかもしれない。」

「いや。」

 俺は首を振る。

「レオンの『見たい』がなきゃ、あそこが“待ち伏せの場所”だってことも分からないままだった。結果として、Cラインをちゃんと引く材料になった。」

「それに。」

 ガランが続ける。

「俺とセイが“命が落ちる瞬間だけ前に出る”ってルールで動いて、それでも危険度6を超える帯に足を踏み入れたらどうなるか、現場で体感できた。あの二百メートル先は、予備調査班が任される仕事じゃない。」

 ミナが、仲間線の杭のすぐそばで拳を握りしめていた。

「……今の話、そのままログに書いていいですか。」

「書け。」

 ガランが即答する。

「『仲間線から先、危険度6を超える帯で濁り獣十二体の待ち伏せを確認。撤退優先。』だ。」

「あと、ちゃんと付け足してくれ。」

 俺はミナの視線を受け止める。

「『セイが前に出たのは仲間線まで下がるための一歩だけ。押し込んでいない』って。」

「……うん。」

 ミナが笑う。

「“セイが全部やった”って話にすると、また誰かが同じところで無茶しちゃいますからね。」

 仲間線の赤布が、風に揺れた。

 杭の周りの空気は、さっきよりも少しだけ重い。

 でも、その重さには、「ここまでは戻ってこられた」という実感が混ざっていた。

『セイ。』

「なんだ」

『さっき、川面の黒い筋から一瞬だけ、“間”の揺れが返ってきた』

「間?」

『祈り穴のときの“長い・短い・間”と似た揺れ方。あれは……多分、向こうも“こっちを見ていた”』

「本物が顔を出す場所、ってやつか」

 祈り場からの帰り道で胸の中に浮かんだ言葉を、そのままもう一度なぞる。

 そして、赤布の向こう――川上の黒い筋を見つめた。

「……あそこから先は、本隊に預ける」

 自分にも聞かせるように、静かに言う。

「俺たちが線を引いたのは、ここまでだ」

 仲間線の杭の足元で、土が「ここまで戻ってこられた」と言っている気がした。

 その先で待っている“本物”の相手は、俺たちではない。

 そう決められる場所がここにあるから、今はまだ、撤退の線を守れる。

 そのとき、川から吹いていた風が一瞬だけ弱まり、赤布の揺れが止まった。

 風がやんだはずなのに、上流の黒い幕だけが、遅れてひと揺れする。

『……今の、分かった?』

「揺れたな」

『うん。でも、風の線じゃない。どこかから“合図”が返ってきたみたいな揺れ方』

 俺は、喉の奥に引っかかった嫌な感覚を、そのまま飲み込んだ。

「――預けるのは、こっちの都合だけじゃないかもしれないな」

 赤布が、今度はふつうの風で大きく揺れた。

 その揺れの向こうで、黒い幕が、誰かを待っているようにじっとこちらを見ている気がした。


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