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理を灯す少年 〜祈り万能世界で、AIを宿す俺だけが“理論魔法”を使えた件〜  作者: いい加減工房
第6章 西からの十五、線が制度になる戦場

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第71話 上流の朝と、第一命綱チェックポイント

 教会の鐘が、低く三度鳴った。

 短く、間を置かない「出発前」の合図だと、村に来てから身体で覚えた。

 硬い寝台の上で目を開ける。

 石壁と木の梁、薄い布越しの光。

 村に来たばかりの頃は、寝返りを打つたびにきしむ音と、慣れない硬さに文句を言いたくなった。

 今は、そのきしみ具合で「今日はどれくらい寝返りを打ってたか」まで分かるようになってしまっている。

『セイ、起きた?』

「ああ。」

 寝台から足を下ろしながら答える。

 足裏に、冷たい床板の感触がくっついてきた。

『教会周辺の危険度、五ちょっと。昨夜と同じくらい。村全体としては、まだ“日常の重さ”の範囲。』

「こっち側は、まだギリギリ“村”か。」

 短く息を吐いて、身体を起こす。

 ベルトと上着を手早く身につけ、マナソードの鞘を腰に通す。

 柄の位置を一度握って確かめ、肩を軽く回した。

『装備チェック。マナソード、第一段階なら一日分は余裕。非常食、三日分。ロープ二巻き、十五メートルずつ。魔導ペン予備一本。』

「帰るための道具は、出る前に数える。」

 小さく口に出して確認する。

 声にすると、眠気の残りが少しだけ剥がれ落ちる。

 窓を開けると、冷たい朝の空気が頬を刺した。

 東の空は薄く白み始めていて、教会の塔の影が村の屋根に長く伸びている。

 鐘の余韻が、まだ石の壁のどこかで震えていた。


 教会の大扉を抜けると、すでに何人もの人影が集まっていた。

 祭壇の前にはマルセル神父とリアン、その少し後ろにセラ。

 通路の両脇には、革鎧と鎖帷子の混じる列が並んでいる。

 《鎚灯り》の面子は前列の右側

 大盾を立てたバルド、その横にテオとサラ。

 《リュミエルの灯》は左側にまとまっていて、ミナとコルトが学院の青い外套組と、教会の白い列のあいだに立っている。

 ミナの髪はいつもよりきつく結い上げられ、コルトは肩から下げた弓の位置を何度も直していた。

 ガランは列のやや後ろ、ギルドの冒険者たちの前に立っている。

 鎧は着けず、いつもの革の上着に簡易な胸当てだけ。

 それでも、そこだけ地面が一段固くなっているように見えるのは、この男のせいだ。

「セイ。」

 視線に気づいたのか、コルトが小走りで近づいてくる。

「おはよう。」

「おはようございます。」

 声はいつもの調子だが、目の奥に緊張が張りついているのが分かる。

 彼は一度口をつぐんでから、少しだけ声を落として言った。

「……アヤの分まで、ちゃんと見てくれ。」

 喉の奥が一瞬重くなる。

 あの崩落斜面で線を越えたときの、彼女の顔が一瞬だけ脳裏をよぎる。

 今ここにいない前衛の穴を、誰がどう埋めるか。

「もちろん。」

 短く、しかし軽くならないように返す。

 ここで冗談を混ぜたら、多分自分が許せなくなる。

『コルト、心拍少し高め。緊張と……責任感。』

(分かってる。)

 心の中でだけ返す。

 その時、祭壇前でマルセル神父が片手を上げた。

「静かに。」

 低い声が、石壁に反響する。

 ざわめきが、波が引くように収まっていった。

「今日から、上流へ向かう者たちが出る。」

 神父は、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。

「本隊が入る前に、その足場と“戻る場所”を地面に刻む仕事だ。紙の上ではなく、土の上に線を引き、帰り道の目印を置いてくる。」

 その言い方は、いつもの説教口調とは少し違った。

 もっと具体的で、現場に足を置いた話し方だ。

「危険は、祈りで消えるものではない。」

 マルセル神父はそう言ってから、リアンを振り返る。

「現場の話を。」

「はい。」

 リアンが一歩前に出た。

「今日は、“危ないって言って帰ってきていい日”です。」

 柔らかい声なのに、言葉そのものははっきりしている。

「危険だった、足が重かった、胸が苦しくなった。そう思ったら、帰ってきてから報告に書いてください。『危険だった』って言葉は、逃げた証拠じゃなくて、次の線を引くための材料にします。」

 ミナが、その言葉にうなずいた。

 マルセル神父も、静かに続ける。

「“危険だった”を口にすることを、自分を責める理由にしてはいけない。それは祈りの一部であり、次の誰かが帰ってくるための灯りになる。」

 言葉が、胸の内側にゆっくり沈んでいく感覚があった。

『セイ。』

(分かってる。)

 リラの呼びかけに、小さく答える。

 ガランが祭壇前に進み出た。

「ギルド支部長として、今日の仕事を確認しておく。」

 彼は両手を腰に当て、村全体を見るように視線をめぐらせた。

「俺たちが上流へ行く目的は、“どこまで行ったら危険か”を見ることじゃない。」

 わざと少し引っかかる言い方をしてから、口元をわずかに歪める。

「……まあ、それもやるんだがな。」

 列のあちこちで、小さな笑いが漏れた。

「今日決めるのは、“どこまで戻ったらまだ死なないか”だ。」

 教会の空気が、そこで一段締まる。

「A、B、C――三本の撤退ラインを、“ここまで戻れば次の一手が打てる”って場所として地面に刻んでくる。本隊の命綱を、先に結びに行く。」

 その言葉は、村側も王都側も関係なく、全員の足の裏まで届く重さがあった。

「現場で『危険だ』と言う役目は、セイに一任する。」

 名前を呼ばれ、自然と背筋が伸びる。

「異論があるやつは、村に帰ってからいくらでも言え。ただし、森の中や川の上でセイが『危険だ』と言ったら、その場では議論禁止だ。全員、手と足を戻る側に向けろ。」

 ガランの眼が、一人ひとりを順番になぞっていく。

「いいな。」

 声を揃えた返事はなかったが、頷きの連鎖が列を一周した。

『撤退判断権限、現場ではセイに集中。』

「了解。」

 口の中でだけ答える。これで、甘えられる場所は一つ減った。


 村の東側へ歩くと、昨日整地されたばかりの平地に、布の天幕が並ぶ光景が見えてくる。

 粗く整えられた地面の上に、槍と旗が立ち、鉄と革の匂いが混じった風が吹いていた。

 ここが東野営地、本隊の本営だ。

 その中ほど、列から少し外れた場所に白い幕で囲われた一角がある。

 簡素なベンチが二つと、その脇に木の箱が一つ。

 今日の祈り場であり、帰ろう札の返却場所だ。

「本日分の帰ろう札……上流予備、これと。」

 ミナが箱の中から札を選び、ガランに手渡す。

 札には「上流予備−一」と刻まれていた。

「昨日聞いたやつだな。」

 傍で見ていた王都兵の一人が、小さく呟きながら自分の分を受け取る。

「出る隊は一人一枚。戻ってきたら、ここに返してください。」

 ミナはそれだけ告げて、手際よく札を配っていく。

 兵士たちは、昨日の説明を思い出すように札の木肌を親指でなぞり、順に腰帯や胸紐に通していった。「悪くない風習だな。」

「田舎ギルドの知恵です。」

 ミナは少しだけ胸を張る。

 ガランが札をひとつ取り、俺に渡してきた。

「セイ。今日の予備調査班の札だ。」

「預かります。」

 札の木肌はひんやりしていて、思ったより重い。

 紐に通して胸の前に提げると、服越しにその重さが骨に伝わってきた。

『位置、記録した。落としたら全力で探すから。』

「落とさないようにする。」


 祈り場の前に、リアン、サラ、セラが並んだ。

「出発前に、一度だけ。」

 リアンが皆に向き直る。

「ここが、“戻ってきた人が最初に座る場所”です。」

 俺を一瞬見る。許可を求める目だ。

「どうぞ。」

 頷くと、リアンは祭壇の代わりに木の箱に手を置いた。

「灯の神よ。」

 静かな声が、東野営地のざわめきの上に乗る。

「ここに座る人は、きっと疲れています。足も、腕も、心も。」

 一呼吸置いてから続ける。

「その人たちが“危険だった”と言えるように、ここを守ってください。言葉を飲み込まずに済むように。」

 サラが隣で目を閉じ、小さく祈りの節を重ねる。

「大地の神よ。このベンチと、この足元を支えてください。戻ってくる人の足が、ここで止まれるように。」

 空気が、ほんの少しだけ澄む。

 祈り場の周囲に、透明な膜のようなものが張られた感覚がした。

 セラは、その変化をじっと観察している。

「祈りの線、滑らかですね。」

 彼女が小さく呟く。

「ここなら、“戻る”祈りが自然に流れます。」

『祈り場周辺、心拍と呼吸の揺れが少し整ってきてる。ここで一度座ると、戻る気持ちを整えやすい。』

「帰りにまた確認しよう。」

 リラの報告に、短く返す。

 編成は前から、バルド、テオ、その後ろに俺とガラン、ミナとコルト、サラとリアン、最後尾近くにセラと学院・教会の観測役たち。ヒトリは隊列の少し上を、白い光点として滑るようについてくる。

 東野営地を抜け、川沿いの道に入る。村から畑へ続いていた土の道が、そのまま上流側へ伸びている。足裏に伝わる土の柔らかさは、まだ「散歩」の範囲だ。

『現在位置、村から一・二キロ。足元の危険度は二台後半、全体としては四台前半。上流からの圧力で空気が少し重い。』

「ここまでは、まだゼロから玄関線の手前だな。」

 前を歩くバルドに声をかける。

「足はどうだ。」

「今のところ、いい土だ。」

 バルドが短く答える。

「踏めば踏んだだけ返ってくる。逃げ足も利きそうだ。」

 テオが、その少し後ろで頷いた。

「でも、湿り方がだんだん変わってきました。前に来たときより、下から水が上がってきてる感じ。」

 彼の言う通り、足を踏みしめると、地面の中の水分の位置が少し違っているのが分かる。

 この道を通るのは二度目だ。

 前回来たときは、危なそうだと感じた場所に白い布や簡易杭で「ここで一度振り返った」印だけ残していった。

 今日は、その仮の印の中から、本隊が使えるポイントだけを選び直し、役割をはっきり名前付きで売っていく日だ。

 しばらく進むと、川の音が大きくなってきた。

 木々のあいだから、銀色の流れがちらちら見える。

 道はゆるい下り坂になり、その先で一段低い平場へと続いている。

「ここから、道の性質が変わるぞ。」

 バルドが足を緩める。

 斜面を降りきった先は、川沿いに細長く続く土の帯だった。

 右側は斜面、左側はすぐ川。

 人が二人並ぶには足りず、一人半分くらいの幅しかない。

 斜面の根元には、前回来たときに自分が雑に打った一本の杭と、色のあせかけた白布が結ばれていた。「ここで足がすべったから、一度引き返した」印だ。

『この先二〇メートルから、退路の分岐数が一に絞られる。足場要因の危険がゆっくり上がる帯。』

「いったん止まる。」

 俺は右手を上げた。

 バルドが足を止め、その後ろで順番に列が止まる。

 靴裏と土の擦れる音だけが連鎖していく。

「どうした。」

 ガランが少し早足で追いついてくる。

「ここから先が、“戻る向き”を先に決めないといけない帯です。」

 俺は斜面と川、それから自分たちが前に刺した簡易杭を交互に見ながら答える。

「退路が一本に絞られて、前の人間が転べば後ろが巻き込まれる場所。前回は『危なそうだ』でここに印を置いて引き返した。今日は、ここを正式に玄関線――Aラインにしたい。」

 そう言って、斜面の縁に近づき、つま先で土を押した。

 ザザザと足元の砂利が崩れ、いくつかの小石が下の平場へ転がり落ちた。

「つま先で前に押すと、土の粒が前に滑る。かかとを置きすぎると、後ろが崩れる。」

 今度は、戻る方向を向いて立つ。

「戻るときの足は、こう。」

 右足を、斜面寄りの少し高い位置に半歩後ろへ送る。

 左足は川側の平らな部分に置き、かかとを少しだけ上げる。

 重心を右足から左足へ、また戻る方向に移してみせる。

 わざと、悪い例もやっておく。

 右足に重心を乗せたまま土を蹴ると、さっきより大きな音を立てて砂利が崩れた。

 膝がぐらりと揺れ、体勢が一瞬だけ不安定になる。

「今のが、やっちゃいけない戻り方。」

 すぐに体勢を戻して、皆を振り返る。

「ここより先は、“行きたい足”じゃなくて、“戻る足”を先に決めて歩きたい。だから、ここを一度全員で踏んでから、その先に進む。」

 ガランは黙って足元と古い杭を見ていたが、やがて短く言った。

「理由は十分だ。ここを玄関線――Aライン、第一命綱チェックポイントにする。」

 後ろから、息を吐く音がいくつか聞こえた。

「まだ何も出てきていない地点」で線に名前をつけることに、安心した者もいれば、物足りなさを感じた者もいるだろう。

「テオ、杭を。」

「はい。」

 テオが背負っていた束から木杭を数本取り出す。

 本当なら、こういう嵩張る荷物は全部まとめて俺が預かってくるほうが早い。

 けれど今日は王都の兵も教会の人間も見ている。

 あまり便利さを見せすぎると、あとで面倒な質問が増える。

 だから杭や道具類は、あえてテオに「普通の荷物」として背負ってきてもらっている。

「バルドさん、前一歩お願いします。」

「了解。」

 バルドは川に背を向けて立ち、斜面側に半歩出た。

 彼の踵から手を伸ばした位置に、テオが一本目の杭を突き立てる。

「ここが、退き足が乗る場所の少し手前。」

 木槌で二度三度。コン、と乾いた音が土に響く。

 テオが掌を土に当て、低く呟いた。

「《アース・スタビライズ》。」

 杭の周囲の土が、じわりと締まる。

 表面のざらつきが、さっきよりはっきり足裏に伝わるようになった。

「バルドさん。ここに右足を置いてみてください。」

 バルドが言われたとおりに足を乗せる。

「おお……。」

 彼が何度か膝を曲げ伸ばしして感触を確かめた。

「さっきより踏ん張りやすい。退く一歩目が勝手にここに来る感じだ。」

「狙いどおりです。」

 テオが満足げに頷く。

 玄関線の高さに合わせて、同じような杭を数本、斜面沿いに並べていく。

 ミナが赤い布を取り出し、一本目の杭の頭に結びつけた。

 布はすぐに川風を受けて揺れ始める。

 緑と茶色の景色の中で、その赤だけが目に痛いほどはっきりしていた。

「第一命綱チェックポイント。」

 ミナが、赤布を見上げながらぽつりと言う。

「ここまで戻れたら、今日の“危険だった”は全部村に持ち帰れる。」

 リアンが杭の前に進み出る。

「祈らせて。」

 彼女は両手を胸の前で組み、深く息を吸った。

「灯の神よ。」

 川の音と風の中で、柔らかいけれど通る声。

「この印を、“帰る場所”として覚えてください。」

 息を吐く。

「足が震えている人にも、ここで一度踏ん張れるだけの地面を。」

 再び息を吸い込む。

「ここで『危険だった』と言える余裕を、奪わないでください。」

 祈りの言葉が終わると同時に、空気がわずかに揺れた。

 杭と赤布の周囲だけ、透明な水の膜を一枚かけたような感覚になる。

 セラがその様子を食い入るように見つめる。

「祈り場のときの“落ち着かせる線”とは少し違いますね。」

 彼女が小さく分析するように言った。

「ここは、“戻るべき場所”として印づけられている。祈りの流れが、東野営地へ向かって細く伸びています。」

『戻りやすいほうへの“流れ”が、さっきより太くなった。局所的な危険度も、少しだけ下がってる。』

「足でも分かる。」

 俺は杭のすぐ脇に立ち、戻る方向を向いた。

 右足をテオが固めた土の上に置き、左足を半歩前へ。

 重心を後ろへ預けてみる。

 さっき斜面の縁で試したときより、膝の揺れが小さい。

 土が「ここに足を置け」と言ってくれている感じがした。

「ここまでは、全員で戻る。」

 振り返り、全員を見る。

「何があっても、一度はここまで下がる。ここから先のことは、そのあとで考える。」

 サラがじっとこちらを見ていた。

「セイさん。」

「ん?」

「あなたの足がどっちを向いているか、私たちちゃんと見てますから。」

 笑っているのに、目だけは真剣だ。

「前に出たいときもあるでしょうけど、戻るべきときは、ちゃんと戻る足を先に出してください。」

「肝に銘じておく。」

 これ以上何か言えば、本当に説教が飛んできそうだったので、素直に頷いた。


 Aライン――玄関線を背中側に置き、再び上流へ向かう。

 赤布は、さっきまで「目標」に見えていたのに、今は「帰り道の案内板」に変わっていた。

『現在位置、玄関線から一〇〇メートル。足元の危険度は三台前半、全体では四台後半。』

 川の音が低くなってくる。

 川幅が少し狭まり、流れが速くなっていた。

 しばらく進むと、川の内側に小さな砂州のような踊り場が現れた。

 道が少し広がり、全員が一度立ち止まれそうな場所だ。

 斜面の高さも、さっきより低い。

 そこにも、前回来たときに自分たちが結んだ白布の印が残っていた。

「ここ……。」

 コルトが周囲を見回す。

「息を整えるにはちょうどいいかもな。」

 俺も同じことを考えていた。

「仲間線の候補だな。」

 口から出た言葉に、ガランが隣で頷いた。

「今日の本命はそこまでは行かないが、景色だけは覚えて帰ろう。」

『ここから先で、危険度が五を越える。祈律帯の外縁だ。』

 リラの声が静かに落ちてくる。

 川面には、所々、水の色がわずかに濃い筋が混じり始めていた。

 まだ膜にはなっていないが、その筋の周囲だけ流れが鈍い。

「今日は、まだ“入口を見るところまで”だ。」

 俺は自分にも聞かせるように言う。

「玄関線を刻んで、仲間線の候補を見て、戻る。」

「物足りないって顔してるやつもいるな。」

 ガランが小声で笑う。

 確かに、後方の若い兵たちの中には、「もっと先まで行けるんじゃないか」という視線を川の向こうに投げている者もいた。

「明日以降、いくらでも危険度の高い帯を歩ける。今日は、“戻る線”を太くする日だ。」

 そう言い切ると、自分の中でも線が一本引かれた感じがした。


 東野営地への帰り道、玄関線の赤布が見えたとき、隊列の空気が少し変わった。

「お、帰ってきた。」

 バルドが小さく呟く。

 行きしなには「ここから先が本番だ」と見ていた赤が、今は「ここまで戻れば一段落」の印に見える。

「一度、ここで足を止める。」

 俺は全員に声をかけた。

「行きと帰りで、足の感覚がどう違うか確かめておきたい。」

 皆が杭の近くで立ち止まり、それぞれ一度足を置き直す。

「……楽だ。」

 テオがぽつりと言った。

「さっき通ったときより、土が“戻ってきた”って言ってくれてる気がする。」

「それはお前の気のせいじゃなくて、祈りと土の仕事だ。」

 ガランが笑う。

「こういう“楽になった”をちゃんと覚えておけ。危険が下がったって実感は、次に危険が上がったときの比較材料になる。」

 コルトが、自分の胸に下げた札を指でつまんだ。

「今日の分、刻んどくか。」

「そうだな。」

 俺も、自分の札を取り出す。

 まだ何も刻んでいない木肌に、小さな傷をひとつ付けた。

「上流予備−一、玄関線まで出て戻った」

 という印だ。

 コルトも同じように傷を付ける。

「……あいつにも、戻ってきたら見せてやりたいな。」

「帰ってから、いくらでも自慢していい。」

 俺は札をしまいながら言う。

「『ここまで行って、ちゃんと戻った』って自慢は、いくらでもしていい仕事だ。」


 東野営地に戻ると、留守番の兵たちがこちらに顔を向けた。

「おかえり。」

「どうだった。」

 口々に声が飛んでくる。

「線を一本、地面に刻んできた。」

 ガランが簡潔に答える。

「玄関線――第一命綱チェックポイントだ。危険度の数字と祈りと足の感覚が揃って、“ここ”と言えた場所だ。」

 ミナが、祈り場の前で帰ろう札を箱に戻す。

 木と木が触れ合う小さな音がした。

「上流予備−一、帰還。」

 彼女の報告に合わせて、リアンが祈り場のベンチに手を置く。

「“危険だった”を持って帰るための線、一本目完了。」

 セラは記録板に手早く何かを書きつけている。

「玄関線、退路一本化帯の入口に設置。祈り場からの戻りの線、確認。祈律の揺れ、小。」

『村から東野営地、東野営地から玄関線までの危険度の推移もログした。帰ってからグラフにして見せられる。』

「頼む。」

 俺は、川上の方角を一度振り返る。

 さっき見た、少し濃い水の筋が頭の中に残っている。

 前に来たときは、あのあたりで濁りのノイズが強すぎて、調査にヒトリの運用を考えたが止めた帯だ。

 線が見えているはずなのに、濁りが逆流するみたいに揺れて、かえって判断を鈍らせた。

 今回は、濁幕帯そのものには踏み込まない外縁北側だ。

 改良版のヒトリなら、条件つきで使える。

 上から「魔獣の薄い筋」を拾いながら、「濃い帯」の位置だけ俺の地図に落としていく。

 濁幕帯レベルのノイズを一度でも拾ったら、その場でリンクを切って撤退――それが今日決めた安全線だ。その向こう側には、まだ本隊案件の帯が続いている。

「今日は、鍵を一つ付けただけだな。」

「鍵?」

 隣に来たコルトが首を傾げる。

「ああ。」

 俺は東と西の両方を交互に見た。

「戦場の玄関口に、鍵をつけた。うっかり奥まで入りすぎないように、ちゃんと閉めて戻ってこられるようにするための鍵だ。」

 ガランがそれを聞いて、ニヤリと笑う。

「じゃあ次は、仲間線だな。」

「ああ。」

 俺も笑い返す。

「“危険になったら帰る”って堂々と言える場所を、もう一つ作りに行く。」


 そのとき、東野営地の外から、かすかなざわめきが風に押されて入り込んできた。

 川の音に混じって、どこか獣が喉の奥で鳴らすような低い揺れが、一瞬だけ足元を撫でていく。

『今の、聞いた? 上流側、危険度が一瞬だけ跳ねた。数値はすぐ戻ったけど……“何か”が外縁をかすめた。』

(もう、来てるってことか。)

「……仲間線は、思ったより早く役に立ちそうだな。」

 わざと軽い調子でそう言って、いつもの冗談の顔を被る。

 胸の奥では、さっき見た濃い水の筋と、今足元を揺らした気配が一本の線でつながっていた。


 東野営地の外では、川から吹く風が少し冷たくなっていた。

 上流の空気が、ほんの少し重くなっている。

『明日、危険度は今日より上がる。』

「だからこそ、今日引いた線を太くしておかないとな。」

 胸の内側で、赤布の揺れと戻る足の感覚をもう一度なぞる。

 第一命綱チェックポイント――玄関線は、確かに地面に刻まれた。

 次は、仲間線をどこに打つかだ。そこが、最初に“本物”が顔を出す場所になるかもしれない。

 俺はもう一度だけ川上を見やり、「次はあそこへ線を引きに行く」と、誰にも聞こえない声で決めてから、祈り場の前を離れた。


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