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理を灯す少年 〜祈り万能世界で、AIを宿す俺だけが“理論魔法”を使えた件〜  作者: いい加減工房
第6章 西からの十五、線が制度になる戦場

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第70話 戦場の玄関口と、王都からの列。

 朝、村の西側に、別の土煙が上がった。

 昨日まで焼け跡から上がっていた煙とは違う、乾いた土と鉄の匂いを運んでくる列の煙だ。

 ギルドの屋上から西の道を見下ろすと、遠くの地平線に、ゆっくり伸びてくる帯が見えた。

 鉄の光。

 槍の先と、鎧の縁が、薄い朝日を跳ね返している。

「……来たな。」

 思わず口の中で、そう零れる。

『セイ、危険スコアは。』

「村の中は、まだ五ちょっとだ。西は……六台に入る前の山。今は“怖さ”より、“重さ”の方が強い。」

 視界の端のHUDに地図が浮かぶ。そこに、昨日まで真っ黒だった焼け跡の帯と、今伸びてきている兵の列を重ねる。

 焼け跡の灰色と、王都から伸びる鉄の線。

 その交点に「エルディア」と小さくタグが浮かんでいるのが、なんだか冗談みたいに見えた。

 ギルドの扉が開いて、ばたばたと誰かが屋上に駆け上がってくる足音がした。

「セイ!」

 振り向けば、ミナとリアン、それからコルトが顔を出す。

 バルドはその後ろで階段に肩をぶつけそうになって、あわてて身を縮めていた。

「西の道、見張りから報告入りました。王都本隊……多分、通達にあった二百の本隊だって。」

 ミナが息を整えながら報告する。

 彼女の肩口の布は、まだ昨夜の煤と水で濃い色に染まっていた。

「予定より、早くないか。」

「十五頭の件で“先延ばしできない”ってなったんでしょうね。昨夜、ガランさんが言ってた通りです。」

 リアンが短くまとめてから、焼け跡の方に目を向けた。

 彼女の横顔にも、いつもとは違う硬さがある。

「迎えに出るのは、ガランさんたち?」

『ギルドの前に、もう列ができ始めてる。ミナ、村側は。』

「村長さんと、代表の人たちが広場に集まってます。……西の家が焼けた家族も何人か。」

 ミナが眉尻を少しだけ下げた。

「“助かった側”の顔と、“奪われた側”の顔が、同じ広場に並ぶの、慣れませんね。」

「慣れなくていい。慣れたら、線を間違える。」

 誰に向けた言葉でもなく、そう答えながら、俺は屋上の縁から身を離した。

「行こう。王都からの列と、村の焼け跡が、初めて同じ場に並ぶ日だ。」

 ギルドの階段を降りる間にも、土煙は少しずつ濃くなっていく。

 石畳を踏む靴底の感触が、いつもより重い。

 ギルド前の広場には、もう簡単な列ができていた。

 村側の代表と、ギルドの職員。

 教会からはリアンと、年長の祈り手が二人。

 《鎚灯り》の三人と、《リュミエルの灯》の面々も揃っている。

 そして、その向こうには、まだ黒く焦げた家並みと畑。

 灰が風に舞うたびに、鼻の奥に焦げた匂いが蘇った。

「西の道から、もう見えるはずだ。」

 ガランがぼそりと呟く。

 最初に王都からの連絡が入ってから、今日でほぼ一ヶ月。

 進軍速度としてはかなり早いはずだ。

 それでも先頭の顔ぶれは、疲れをあまり見せない。

 堂々とした面構えだ。

 支部長の顔も、いつも以上に硬い。

「村の状態を見て、最初に何を思うかで、この先の線の引き方が変わる。」

「……“やる気が湧く”とか言い出す奴がいなければいいですけど。」

 コルトが小さく肩をすくめる。

『“燃え残りを削ってから前進しましょう”とかね。』

 リラの声に、喉の奥が苦くなる。

 そんな会話をしているうちに、西の道から馬の足音が近づいてきた。

 鉄蹄が石畳を叩く乾いた音。

 土煙の向こうから、先頭の騎馬隊が姿を現す。

 銀灰色の鎧に王国の紋章を刻んだ騎士団だ。

 磨き込まれた胸甲と、揃った槍の角度だけで「教本通り」の一団だと分かる。

 そのすぐ後ろには、同じ紋章こそ付いているが、鎧の継ぎ目に革紐や護符を巻き付けた王国軍の歩兵たちが続く。

 刃こぼれの残る剣、履き慣れたブーツ。

 肩の力の抜けた歩き方と、道の脇や屋根の影まで無意識になぞる目つきが、「冒険者上がりで前線慣れしている」ことを物語っていた。

 列の中ほどには、白い法衣や研究者風のローブが点々と混ざっている。

 教会と学院の一団だ。

 通達にあった通り、騎士団二十、王国軍百六十、教会と学院がそれぞれ十――紙の上で見ていた編成が、一本の列になって村へ流れ込んできている。

 その王国軍の中でも、とりわけ目立つ一塊があった。

 鎧だけはやたらと新しく、視線だけがぎらぎらと前に突き刺さっている五人組と、その横で「自分の居場所を誇示するように」馬上の姿勢を崩さない若い騎士たち。

 たぶん、あとで名前を覚えることになる連中だ。

 さらに後方には、荷車や天幕を積んだ馬車が続いていた。

 二百という数字は、こうやって見ると、ただの数値じゃない。

 列の長さ。

 踏み固められていく土の帯。

 村に流れ込む人と荷の量そのものだ。

 先頭の騎士が手綱を引き、ギルド前の広場で馬を止める。

 続く列も、合図に合わせて徐々に速度を落としていった。

 先頭から三列目あたりに、黒髪を後ろで束ねた男が馬を進める。

 年の頃は四十前後だろうか。

 鎧の装飾は派手ではないが、肩にかかるマントの色と紋章が、彼の立場を示している。

 ガランが一歩前に出た。

「遠路ご苦労だったな、エドガー殿。」

「ガラン支部長。」

 黒髪の男――エドガーは、馬から軽やかに降りると、右手を差し出した。

 握手の形だけ見れば、旧友同士の再会にも見える。

 だが、握り合う手の間には、焼け跡の村と、遠路行軍の列という、二つの現実が挟まっていた。

「王都からの通達通り、本隊を率いて参上した。……正直に言えば、もっと早く来たかったが。」

「来なかった時間の分は、こっちで何とかした。十五頭分の討伐、村半分半壊、それにセイにやらせた周辺環境と魔物の調査だ。」

 ガランが視線だけで西の焼け跡を示す。

 エドガーは一瞬だけ顔を歪めた。

「報告は道中で、マナ水晶ネット越しに読ませてもらった。十五頭のオークと、火袋の道具。……そして、胸と頭の角。」

 その言葉に、広場の空気がわずかに動く。

 角の話は、まだ一般の村人には詳しく出していない。

 だが、ここにいる顔ぶれは、大体知っている側だ。

 ガランは頷き、俺の方へ顎をしゃくった。

「角の方の詳しい話と、西側の線は、こいつが一番よく知っている。」

「所属冒険者セイ。……君が。」

 エドガーの視線が、まっすぐこちらに向く。

 王都の将の目は、思っていたよりも“戦場の目”だった。

 人を値踏みする目ではなく、“どこに何を置くか”を考える目。

「王都本隊総大将、エドガー・ハルベルトだ。通達にもあった通り、外縁調査および撤退線の運用について、君の知恵を借りることになっている。」

「……セイです。撤退線の方なら、多少は。」

「“多少”で済めば一番いい。」

 エドガーはそう言って、口元だけで笑った。

 その後ろで、鎧の擦れる音がした。

 将のすぐ後ろに控えていた騎士たちと、鎧ではなく冒険者風の装いをした男たち。

 その一角から、小さな溜息が漏れる。

「撤退線の運用が正式な依頼ねえ。……前に出る人間が聞いたら、鼻で笑いそうな話だな。」

 押し殺したつもりなのだろうが、広場の静けさの中では十分に届く音量だ。

 視線を向けると、顎に薄い髭を生やした若い騎士がいた。

 肩の紋章は、どこかの地方貴族家のものだろう。

 その隣には、いかにも武功自慢といった空気をまとった男たちが数人。

 腰の剣や槍は使い込まれているが、その視線はエルディアの焼け跡ではなく、俺たちの方を値踏みしていた。

『“あそこだね”、って顔してる。』

(線の話しかしない厄介なやつ、って評価だろうな。)

 心の中でそう苦く笑ってから、口には出さない。

 今は挨拶よりも、線だ。

 ガランが短く咳払いをする。

「エドガー殿。長話は後でにしよう。まずは、兵と荷の足場を作らにゃならん。土魔法が使える理術師を何人か、こちらに回せるか。」

「わかった。――土属性の者、前へ。」

 エドガーが振り向き、声を張ると、列の中からローブ姿の男たちと女たちが数人進み出た。腰には杖や簡素な詠唱盤がぶら下がっている。

「焼けた畑と家並みのうち、西側の開けた場所がある。」とガランが指で示す。「あそこをざっと均して、石と炭をどかしてくれ。まずは仮の駐屯地だ。馬と荷車が詰めるくらいでいい。」

「了解しました。」

 年長らしい土術師が頷き、仲間たちとともに焼け跡の方へ駆けていく。ほどなく、黒い地面の下でマナが動く気配がした。

『地面の線も、ゆっくり整っていってる。』

 リラの声が、HUDの隅で揺れる地形の線と重なる。

 エドガーはその様子を一瞥し、再びこちらを向いた。

「西の焼け跡の一角は、あくまで仮の駐屯地だ。」

 ガランがそこで言葉を継ぐ。

「村の中に二百人と荷馬車を無秩序に置いておくわけにはいかんからな。焼けた畑と宅地のうち、あとで持ち主に返す前提で、端の一帯だけを借りているにすぎん。」

「本隊の本営をどこに据えるかは、別に詰めねばならんな。」とエドガーが頷く。

「そうだな。」ガランがうなずいた。「村の水と食糧にも限りがある。本営の位置を間違えると、戻る線が潰れる。」

「では、その相談をさせてもらおう。細かい地形は君たちの方が詳しい。」

「ここでは話し切れん。ギルドの会議室を使おう。セイ、お前も来い。」

「了解です。」

 ガランとエドガー、その護衛数名と、俺たち数人がギルドの中へ入る。

 広場には残りの兵と村人たち。

 その空気を背に感じながら、ギルドの扉が重く閉まった。

 会議室の机の上には、すでに村と周辺の地図が何枚も広げられていた。

 紙の地図では、西側の焼け跡一帯が黒いインクの新しいハッチで塗りつぶされている。

 会議室の正面に据え付けられた写記水晶板ウツシには、同じ範囲の地形図が淡い光で浮かび、その上に西側の焼け跡と上流へ向かう川、それからこれまで俺たちが打ってきた標の印が、淡い光の線として重ねられていた。

 みんなはその光の地図を見上げながら、椅子に腰を下ろす。

 そこに、王都側が持ち込んだ地図を重ねるようにして、エドガーが自分の側の紙を広げた。

 細かな縮尺や記号は違うが、川の曲がり方と街道の位置は同じだ。

 会議室の隅には、どの支部にも置かれている水晶ネットワーク端末が据え付けられている。

 普段なら、そこに読み取り水晶を差し込んで、他支部や王都から送られてきた地形データを一度端末に流し込むところだ。

 だが、今回エドガーが持ってきた情報は、そもそも王都でまとめられた“本隊用の作戦データ”だった。

 上書き用のデータは、すでに王都の中枢水晶に載っている。

 エドガーは右手の家紋入りの指輪を一度抜き、そのまま水晶ネットワーク端末の受け口に軽く押し当てた。

 指輪に埋め込まれた個人識別用のマナ水晶――持ち主のマナが信号になって、王都の中枢に「エドガー本人からの照会だ」と伝わる仕組みだ。

 端末の縁に刻まれた紋が淡く光り、《ウツシ》の内部へ細い光の筋が流れ込んでいく。

 王都で作成された作戦データが、水晶ネットワークを経由して呼び出され、既存の地形図の上に上書きされていった。

 本体ウツシの表面に、川と街道、それから王都側が事前にマーキングした宿営候補地の印が、淡い光の線と記号となって浮かび上がる。

「まず、本隊全体の宿営位置だが……こちらとしては、村の西、畑跡の平地を第一候補として考えている。」

 エドガーが木炭で丸を描いた場所は、つい昨日まで小麦畑だった場所だ。

 今は、黒い土と焼けた株だけが残っている。

 地面は平らで、水路も近い。

 馬車の出入りもしやすい。

 あの場所では今まさに、土術師たちが地面を均して仮の駐屯地を作っている。

 本隊を迎え入れる最初の“腰掛け”としては、たしかに申し分ない。

 紙の上だけで見れば、確かに“都合がいい”場所だ。

 だが、その“都合の良さ”は、あくまで「前に出る」ためだけのものだ。

「そこを本営にすると、撤退線が焼け跡の中を通ります。」

 気付いた瞬間に、口から出ていた。

 エドガーとガラン、二人の視線が同時にこちらに向く。

 武功派らしい連中からは、わずかな苛立ちが漏れた。

「どういう意味だ。」

 エドガーの問いは、淡々としている。

 俺は椅子から立ち上がり、会議室の正面に据え付けられた写記水晶板ウツシの前まで歩いていく。

 壁際の台に立てかけてあった専用魔導ペンを一本手に取った。

 西側の焼け跡の縁をなぞるように、光の地図の上へ一本の淡い線を引く。強く押し込まないかぎり、あとから消せる会議用の仮線だ。

「今の村の“戻る線”は、ここです。」

 ギルドの建物と教会、それから井戸のある広場を中心に、昨日引き直したばかりの“安全側”の輪郭を示す。

「昨日の火で、ここから西側の家並みと畑はほぼ全部やられました。構造物も、人の流れも、まだ仮の状態です。倒れかけの壁、焦げた柱、抜けた石畳……。」

 専用ペンの先でなぞる線が、焼け跡の中をぎざぎざと進んでいく。

「本営を焼け跡の真ん中に置くと、いざという時に兵と荷が“焼け跡を縫って”戻る動線になります。倒壊しやすい壁、溶けかけた井戸枠、まだ片付いていない瓦礫。……“戻る線”が一番汚いところを通る形です。」

 エドガーは黙って聞いている。

 武功派の一人が、鼻で笑う音を立てた。

「いざという時は、前に出るか敵を叩き潰せばいい話だろう。戻る前提で線を引くから、弱く見えるんだ。」

「敵が“戻らせない線”を引いてきた時、戻る前提を捨てていた側から死んでいきますよ。」

 思ったよりも、声が冷たくなった。

 一瞬、会議室の空気が張り詰める。

 だが、エドガーは笑わない。

 むしろ、わずかに頷いた。

「ガランの報告でも読んだ。“怖くなったら一度戻る。撤退できるうちは負けじゃない”、だったか。」

 ガランが肩をすくめる。

「田舎のビビり流と言われても仕方ないやり方だがな。」

「少なくとも、昨日の十五頭相手には、生き残る選択肢を増やしたはずだ。」

 エドガーは短く息を吐き、机上の地図を一度見下ろしてから顔を上げた。

「西の焼け跡を本営候補から外そう。」

「本営候補、その二は。」

「村の東側、今の灯籠線の少し外だ。あとで『東野営地』と呼ぶことになる平地だ。」

 ガランがそう言う。

「セイ、ウツシの方にその位置を打ってくれ。」

「了解。」

 俺は専用ペンを握り直し、ウツシの光の地図上、村の東側の平地に小さな丸印をつける。強く押し込まない会議用の仮印だ。

「川と街道に近い。上流への出撃も、西の外縁への応援も動きやすい。だが、村との距離が離れる分、補給線が伸びる。」

「補給線が伸びる代わりに、村の“戻る線”と、本隊の“戻る線”が重ならない位置でもある。」

 俺は東側の印に手を添えた。

「もし上流側で撤退が必要になったとき、本営に戻る動線はこの東の平地。村は村で、ギルドと教会に戻る動線が残る。……“戻る線”を二本に分けておいた方が、渋滞もしにくい。」

「兵と荷が混ざる渋滞は、前線より手前で死人を出すからな。」

 エドガーの目が少しだけ細くなる。

「昨日、村の中でそれをやりかけた。バケツの列と負傷者の搬送、どちらの線も止められない状況で。」

「なるほど。」

 エドガーは頷き、改めてウツシの地図を見上げた。

「本営は、東側の野営地――『東野営地』とする。」

「西の焼け跡は、むしろ“戻らない線”として扱おう。……あそこに戻らないようにするために、どこを守るか、という。」

「助かります。」

 素直にそう言うと、武功派の一人が露骨に眉をひそめた。

(線の話しかしない厄介なやつ、って評価だろうな。)

 心の中でそう苦く笑ってから、口には出さない。

 今は挨拶よりも、線だ。

「では次に、川上への“入口線”だ。」

 ガランが話を先に進める。

「本隊の出撃ルートと、村からの避難路。これも分けたい。」

「上流祈律帯の手前までは、これまで《リュミエルの灯》らが使ってきた道をなぞるのがいいだろう。」

 エドガーが顎でウツシを示す。俺は再び写記水晶板ウツシの前に立ち、専用魔導ペンで、これまで《リュミエルの灯》が使ってきた道筋を光の地図の上に淡くなぞっていく。

「その上で、撤退ラインA・B・Cを新たに引き直す。……セイ。」

「はい。」

「君のログの中にある“怖さの線”を、明日以降、こちらの地図にも写してもらえるか。」

「やります。」

「ただし。」

 エドガーはわざと一拍置いた。

「君自身は、原則として前線には出さない。」

 武功派だけでなく、《鎚灯り》の面々も、わずかに肩を動かした。

「今回、王都からの通達にもあっただろう。“外縁調査および撤退線の運用について、所属冒険者セイに正式な依頼と照会を行う”と。」

「……はい。」

「前に出て剣を振るう者は他にいくらでもいる。だが、“ここまでにする”と言える者は少ない。」

 エドガーの視線は、まっすぐだった。

「君の仕事は、“戻る線”と“ここまで線”を残すことだ。それを守るためなら、必要な時だけ一歩だけ前に出ればいい。……ガラン支部長。」

「同意見だ。」

 ガランが腕を組んだ。

「こいつは元から前衛禁止だ。命が落ちる瞬間だけ例外、という扱いでやってきた。」

「死にそうなときだけ前に出るって、めちゃくちゃなルールですよね、改めて聞くと。」

 コルトがぼそっと漏らす。

『このルールね、最初は“よそから来たセイを危ない前に出させないため”だったけど……今は、“セイが全部前で片付けちゃっている間に周りの線と撤退のタイミングが見えなくならないようにするため”でもあるから。』

 リラの声に、思わず苦笑がこぼれた。

 エドガーも、そのやり取りに口元だけで笑う。

「よし。では、今日中に本営候補地と、第一波のキャンプ配置を決める。」

 会議はその後も続いた。

 テントの数。

 炊き出しの場所。

 祈り場と簡易診療所の位置。

 どれも、一つ間違えば“戻る線”を塞ぎかねない要素だ。

 俺はHUDの中で、何度も線を引き直し、その案を本体ウツシに落とし込みながら、ガランとエドガーに候補を示していった。

 会議が終わる頃には、窓の外の太陽はかなり高くなっていた。

 ギルドの外へ出ると、村の空気は朝とはまた違う種類のざわめきに包まれている。

 王都の兵たちが、東野営地に天幕を立て始めていた。

 村の男たちが、慣れない手つきで杭打ちを手伝う。

 女性たちは鍋を並べ、水と食材を運んでいる。

 焼け跡の向こうで、別の新しい線が引かれている。

「セイ。」

 呼びかけられて振り向くと、リアンが立っていた。

 彼女の顔には疲労の色が濃いが、目は相変わらず澄んでいる。

「祈り場の位置、あなたの方でも一度見てくれる?」

「もちろん。」

 俺たちは東野営地へ向かう。

 天幕の列の間を抜けた先、少しだけ高くなった場所に、簡易の祈り場用の幕が立てられようとしていた。

「祈り場は、負傷者と“戻る線”の結び目になる場所だ。」

 リアンが静かに言う。

「戻ってきた人が最初に座る場所であり、戻れなかった人の名前を呼ぶ場所でもある。」

「だから、ここ。」

 俺は地面を見渡し、少しだけ高くなっている場所を指さした。

「本営の中心線から半歩だけ外して、撤退路からは一歩だけ手前。……祈り場から先には、今日の“ここまで線”を書いておく。」

「“ここまでにする”線。」

 リアンが小さく繰り返す。

「そこを越えないって決められるかどうかが、たぶん、今回一番大事。」

「エドガーも、そこは分かっているようだった。」

 リアンがほっとしたように息を吐く。

 祈り場の幕が形になっていく横で、その少し脇に、小さな木製の札をまとめた箱が置かれた。

「何だ、それ。」

 兵の一人が不思議そうに尋ねる。

 ミナが箱の蓋を開け、中身を見せた。

「“帰ろう札”です。」

「帰ろう札。」

「行軍に出る隊ごとに一枚持って行ってもらって、無事に撤退できたらここに戻してもらう札。」

 ミナは、木札の表に刻まれた数字と簡単なマークを指さした。

「村の外縁で使っている“帰ろう札”の大きいやつ。……今回は、王都のみなさんにもこれを共有してもらおうと思って。」

「撤退の目印か。」

「そうです。“ここまでにする”って決めて、ちゃんと帰ってこられた証拠。箱に戻っていない札があれば、その隊はまだ戦場にいるってことにもなります。」

 兵士はしばし札を見つめ、それから頷いた。

「変わったやり方だが……戻れたことを、ちゃんと残すのは悪くない。」

 そのやり取りを、少し離れたところからじっと見ている視線があった。

 さっき会議室でも鼻を鳴らしていた、武功自慢の連中だ。

 新品の鎧に、ぎらぎらした目。

「くだらん。」

 一人が、わざと聞こえる声量で吐き捨てる。

「何が“帰ろう札”だ。“逃げ札”の間違いじゃないのか。」

「撤退の目印を決めてから歩き出す軍なんて、聞いたこともないな。」

 取り巻きがくつくつと笑う。

「そんな札を握って森に入ったら、“帰ろう”って考える隙を増やすだけだろう。前に出る足が鈍る。」

 ミナの手が、ほんの少しだけ箱の縁を強く握った。

 リアンが一歩前に出ようとするのを、俺は視界の端で見て、先に動いた。

「口の方はずいぶん軽いみたいですね。」

 自然に、その連中とミナの間に入る形になる。

 武功派の男が、こちらを睨んだ。

「何だ、線引き屋。」

「線を引く人間がいるって話は、さっきの会議で聞いたが……今度は札か。」

「撤退を決めて、ちゃんと戻ってこられた隊が返す札ですよ。」

 俺は箱の中の木札を一枚つまみ上げて見せる。

「これを取ったからって、確実に生きて帰れる保証にはならない。それは最初から言っておきます。」

「なら、なおさら要らんだろう。」

「そうでもないですよ。」

 札の端を指でとんと弾きながら、わざと軽い声で続ける。

「これは“逃げるための札”じゃない。“ここまでにする”って決めて、それを本当にやり切って戻ってきた隊が、『自分たちは戻れた』ってはっきり分かるようにする札です。それと同時に、『まだ戻れていない隊がいる』ってことを忘れないための札でもある。」

 男が唇を歪めた。

「自分の足で前に出りゃいいだけだ。わざわざ札まで作って、逃げ道を飾り立てる必要はない。」

「逃げ道を飾ってるつもりはないですよ。」

 俺は札を箱に戻し、ひとつ息を吸った。

「――ただ。」

 足元の線を一本だけ、HUDの中で太くする。

 風を通す道と、人の足の向き。

 武功派の男が一歩こちらに踏み出した瞬間、その足元だけを狙って、ほんのひと息分だけ風を強くする。

 乾いた土埃が巻き上がり、男の足首を払った。

「うおっ――」

 派手に転ぶほどではない。

 だが、前のめりに出た体勢のまま、ぐらりとバランスを崩して尻餅をつくには十分だった。

「おい、大丈夫か?」

 取り巻きの一人が慌てて腕を掴む。

 だが、さっき前に出ようとしていた二人目も、同じ向きに足を出していたらしく、一緒に尻をついた。

 二人とも鎧のおかげでほとんど痛くはないはずだ。

 ただ、土埃だけが盛大についている。

 東野営地の空気が、一瞬だけ静まり返った。

「……今のは何のつもりだ。」

 立ち上がりながら、男が低く唸る。

「前に出る足の向きと、“戻る線”の方向が、さっきから真逆なんですよ。」

 俺は肩をすくめた。

「札のことを否定するのは、別に構いません。やりたくないなら、最初から札を取らなければいい。」

 視線を武功派の連中から外さないまま、祈り場の横の箱を指さす。

「これは“札を持たないと出撃できません”ってものじゃないし、さっきも言ったが、やったからって生きて帰れると保証する物でもない。ただ、自分が選んだ足の向きに対して、あとから責任を持つための札です。“ここまでにする”って決めて、それを実際にやってここまで戻ってきたって、自分でちゃんと認めるための。」武功派の男の眉間に、わずかな皺が寄った。

「そんなもの、心に決めておけばいい。」

「それで足りる人は、それでいい。」

 俺は素直に頷く。

「ただ、さっき会議室で見た感じだと、“前に出るのは得意だけど、戻る線の話になるとすぐ黙る人”も、けっこういましたから。」

 取り巻きの一人が、何か言いかけて口をつぐむ。

「このやり方に納得できないなら、無理に札を取る必要はありません。でも、ここで文句を言うなら、札じゃなくて“戻る線をどうするか”の方に言ってもらえます?」

 言い終えてから、ほんの少しだけ笑みを浮かべる。

「札をひっくり返すのは簡単ですけど、線をひっくり返すのは、そう簡単じゃないんで。」

 武功派の男は舌打ちを飲み込んだ。

「……好きにやれ。俺たちは、前に出る方で名を上げる。」

 捨て台詞だけ残して、彼らは天幕の方へと去っていく。

 背中についた土埃が、遠目にも目立っていた。

 その場に残った兵たちのあいだから、ぽつりと笑いが漏れる。

「線引き屋、なかなかやるじゃないか。」

 誰かが、からかうようにそう言った。

 その声を合図にしたように、何人かの兵が祈り場の横の箱へ歩み寄る。

 一人が、仲間に向かって親指をぐっと立てて見せるサムズアップをひとつ送ってから、木札を一枚つまみ上げた。

「俺はもらっておく。帰ると決めた時に、胸を張って戻れたって言えるようにしておきたい。」

「じゃあ、俺も。」

「隊ごと一枚って話だったな。うちの分も。」

 札が、少しずつ箱から減っていく。

 その中に、見慣れた二つの手があった。

「エドガーさん。」

「撤退の印か。」

 エドガーは木札を一枚取り上げ、親指で軽く撫でる。

「戻ると決めた隊と、その指揮官が“無事に戻れた”ことをあとで確認するための札だな。戻れなかった隊の札が箱に戻っていないなら、その分は戦場に取り残されたってことだ。」

 そう言ってから、ちらりとこちらを見る。

「“ここで戻ると決めた判断”を、あとで評価するためにも使える。」

「そうしてもらえるなら、作った甲斐があります。」

 ミナがほっとしたように笑う。

 もう一人、箱の前に影が落ちた。

「ガランさんも。」

「支部長が自分の分を取らんでどうする。」

 ガランは苦笑しながら木札を一枚抜き出し、軽く掲げてみせた。

「エルディア支部一隊、帰ろう札一枚。――まあ、なるべく全部、ちゃんと返ってきてほしいもんだな。」

「全部戻ってきた日が、いちばんの勝ちですね。」

 ミナの言葉に、周囲から小さな笑いが起きる。

 夕方になり、王都本隊の天幕群に灯りがともり始める。

 村の中の灯りと、本営の灯りが、東と西に二つの塊として浮かび上がった。

 焼け跡は、そのちょうど中間に、黒い穴のように口を開けている。

 ギルドの屋上からその光景を見下ろしながら、俺は深く息を吐いた。

『どう。』

 リラが問いかけてくる。

「線が、また増えたな。」

 頭の中のHUDには、いくつもの新しい線が走っている。

 王都から伸びてきた本隊の線。

 村の中の“戻る線”。

 本営から川上へ伸びていく出撃線と、その途中に設ける撤退ラインA・B・C。

 そして、祈り場と帰ろう札を結ぶ、見えない線。

「増えた線のうち、どれを残して、どれを切るか。」

『うん。』

「明日から、それを決め続ける役がこっちに回ってきた。……前に出る連中より、ずっと地味で、ずっと重たい仕事だ。」

『重いけど、セイがやるべき仕事。』

「分かってる。」

 夜風が、焼け跡の上を通り抜けていく。

 東と西の灯りのあいだにできた暗がりを見下ろしながら、俺は、明日引くべき線のことを考えていた。

 その暗がりの向こう、上流の方角から、ほんのかすかに祈りのざわめきが逆流してくる。

 HUDの端で、まだ名前のない細い線が、ちらりと揺らいで消えた。

 それが、明日いちばん最初に確かめに行くことになる線だと、このときの俺はまだ知らない。


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