第66話 山煙の契約と、西外縁の神殿
最初に意識が拾ったのは、土の匂いと、あったかい毛の感触だった。
それから、鼻の奥をくすぐる、かすかな煙の匂い。
ぼんやりと目を開けると、視界いっぱいに、灰色の毛並みが広がっていた。
すぐ横には、丸くなった大きな山犬の背中。
反対側には、子どもサイズの山犬が二匹、俺の腹の上に乗って、すうすう寝息を立てている。
「……おはようございます、山犬御一行」
声を出した瞬間、腹の上の二匹がびくんと跳ねた。
琥珀色の目が二対、ぱちくりと瞬く。
『起きた』
『起きた』
頭の中に、短い声が二つ、重なって届く。
どうやら、まだ夢じゃないらしい。
『セイ、おはよう。――一応、確認するけど、ここは“山煙の里”ね』
リラの声が、いつもの位置で笑う。
「……だよな。俺の寝床の中じゃないと思った」
上体を起こそうとすると、腹の上の子山犬たちが慌てて転がり落ちた。
もふもふの背中がごろごろ転がり、周りで寝ていた大人の山犬たちが、片目だけ開けてこっちを見る。
見上げると、巨大な木の根が、アーチ状に空間を作っていた。
根と根の間に積まれた枝と葉で、即席の寝床が作られている。
昨夜、自分で組んだブッシュクラフト寝床とは違う、獣の体温で温められた巣。
(……そうだ。核を落として、そのあと、山犬が何か言って……)
そこまで思い出して、こめかみを指で押さえる。
「リラ。俺、どれくらい寝てた?」
『核浄化が終わって、スモークラインたちと話して、意識が落ちたのが夕方。今が、外界時間で四日目の早朝。丸一晩、ぐっすりだね』
「ぐっすりってレベルじゃないだろ。途中経過の記憶がごっそりないんだが」
『契約の“前振り”で、思ったよりマナを流したからね。自分のタンクをほぼ空にした状態で、山犬たちに抱えられて里まで運ばれて、そのままバタン。……体は無事。足も問題なし』
「足は大事」
反射的に、足首を回す。
ふらつきも、重さもない。
高位の浄化系理術をぶっ放した次の日とは思えないくらい、体は軽かった。
(マナを流せば流すほど、自分の中の“器”の方が広がって、寝ているあいだにまた満ちる。……どう考えても、この世界の理の仕組みはチートじみてるよな)
「で、実際のところ、その“器”の容量はどれくらい増えた?」
『確認する? ……ちょっと待って』
リラが一瞬、黙り込む。
頭の奥で、何かを計っている気配がした。
『はい、結果発表。――えげつない総量になってるよ』
「雑な感想きたな」
『数字で言うとね、二日前の外縁入り直後を“1”としたら、今の総マナ上限が“2ちょい”。昨日の浄化と契約で一回ほぼ空にした分が、きれいに上乗せされてる感じ』
「……つまり、昨日と同じことをもう一回やっても?」
『まだ半分以上残る。さすがに連続で三回はきついけど、“昨日規模×2”までは理層的には許容範囲』
「まさにチート前提だな、それ」
『前提だね。理が“そういう器”にしてるから。だからこそ、“全開で遊び撃ちしない”って線引きが大事なんだけど』
「そこは分かってる。減らすのは“ここぞ”だけだ」
とはいえ――。
ふと、自分の腕を嗅いで、顔をしかめる。
「……リラ」
『うん』
「昨日の夜、俺、“洗浄”かけてから寝たっけ?」
短い沈黙。
『かけてない。倒れたあと、そのまま山犬の巣』
「やらかしたな」
自分の体から、汗と土と煙と、山犬の毛の匂いが混ざった何かがする。
周りにいるのが全員獣だからいいものの、人間がいたら確実に顔をしかめるレベルだ。
「起き抜けルーチン変更。――洗浄」
小声で呟くと、ひやりとした膜が肌を撫でた。
汗と汚れと匂いが、するりと剥がれ落ちていく感覚。
同時に、腹の上から転がり落ちていた子山犬たちにも、薄く水の膜がかかったらしい。
『ひゃっ』
『ぬれた』
子山犬二匹が、同時にぶるぶると身震いする。
飛び散った水滴と煙が、朝の光の中で細かく揺れた。
「ごめんごめん。寝床を貸してもらった礼のつもりなんだが」
『“きれいになった”って。ちょっと驚いてるけど、嫌じゃないって』
リラが翻訳してくれる。
「良かった。俺の“就寝前ルーチン”から、足と洗浄を外すわけにはいかないからな」
『就寝前の、“足のケア”と“洗浄忘れなし”ってやつね。……昨日は例外として記録しとく』
「例外多いとシステムが腐るんだが」
ぼやきつつ、俺は立ち上がった。
枝と葉で作られた寝床は、山犬たちの体温でほどよく温まっていたが、壊すのは彼らの仕事だろう。
肩にマントをかけ直し、深く息を吸う。
木の根元を包むように広がる巣から、一歩外へ。
里の中心には、大きな煙の渦が立ち上っていた。
山肌から立ち上る白い煙と、山犬たちの吐息が混ざり合い、空に薄い帯を描いている。
その前に、三頭の大きなスモークラインが並んでいた。
昨日、俺に話しかけてきた“長”格の一頭と、その隣に、少し若い二頭。
長が、ゆっくりとこちらに視線を向ける。
『“起きたか”』
灰色の瞳が、じっと俺を映した。
「起きた。……昨日は、途中で落ちて悪かった」
『“落ちるほどマナを出したのはそっちだ”。“山犬に運ばれる栄誉、そうそうない”』
「それを栄誉って言い切るあたり、山犬らしいな」
苦笑すると、横で子山犬たちが尻尾を振った。
『“昨日の話の続きをする”。“線の契約”』
長が、一歩前に出る。
その背から、薄い煙の帯がふわりと立ち上った。
リラが、すぐに補足をくれる。
『昨日、セイが落ちる直前に聞いた“申し出”の本体だね。――“山の煙の主になれ”、“外側の線を守るとき、我らを呼べ”ってやつ』
「ちゃんとログは残ってるのか」
『もちろん。セイ本人の記憶が飛んでも、ログは飛ばないから安心して』
「安心していいのか、それ」
苦笑しながら、俺は正面から長を見た。
「もう一回、条件を聞かせてくれ」
長は、少しだけ首をかしげ、それから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
『“山の煙をつなぐ主”。“外縁の煙、灯籠の煙、山犬の煙。それらを一本に結ぶ手”』
『“お前はすでに、灯籠と煙を結んだ”。“山の外側の線も読んだ”。“ならば、山の煙も結べる”』
里の上に漂う煙が、風に揺れる。
その揺れが、俺の足裏の感覚と、ヒトリの視界に、線として重なった。
『“我らは山の中を守る”。“お前は山の外を守る”。“外で線が荒れたとき、呼べ”』
『“呼び声に応じて、山の煙を辿り、お前のもとへ駆ける”』
長の言葉に、隣の二頭が低く吠える。
それは、承認の印のようだった。
「……見返りは?」
俺が問うと、長は少しだけ目を細めた。
『“お前のマナの匂いを、山に刻ませろ”』
『“山の煙が流れるとき、その匂いを目印にする”』
『“それがあれば、遠くの外縁でも、お前の呼び声を聞き分けられる”』
「俺のマナに“名札”をぶら下げる感じか」
そう言うと、リラが小さく笑った。
『その比喩、だいたい合ってる。――今回の契約は、“召喚獣との主従契約”に近いけど、常時マナを三割固定、みたいな重いものじゃないよ』
「それは助かる。常時三割持っていかれたら、リラに怒られる」
『怒るね。即座に契約解除案を出す』
即答だった。
『今回の“線契約”はね。ざっくり言うと――』
『一度きり、大きめのマナを“契約の印”として山側に預ける』
『その印を通して、“セイのマナの匂い”と、“山の煙の流れ”を結ぶ』
『結んだあとは、維持コストはごく薄い。普段はほぼゼロ。呼び出すときだけ、セイが召喚魔法分のマナを払う仕組み』
「つまり、昨日俺がぶっ倒れたのが“初回契約料”ってわけか」
『そう。濁り核の浄化+契約初回料で、タンクが空っぽになった』
「そりゃ落ちるな」
苦笑しながら、俺は長を見る。
「呼び方は、どうなる?」
『“煙の線に名を投げろ”。“山煙の名と、お前の名を、一本の線に結ぶ言葉で”』
「……詩的だな」
少しだけ考え、口を開く。
「じゃあ、こうしよう。――“山煙の道を借りる。外縁の線を守るために、山の番犬を貸してくれ”。そこに、俺のマナをひと筋」
胸の奥で、マナの流れを意識する。
濁り浄化で使い切ったはずのマナは、一晩でかなり戻っていた。
その一部を、細く一本にまとめる。
「リラ。制御、頼む」
『了解。――“契約印”として流す分だけを、線に乗せる。セイ本体側のタンクは、半分以上残す』
「それでいい」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……じゃ、もう一回。山煙の道を借りる。外縁の線を守るために、山の番犬を貸してくれ」
言葉に合わせて、胸の奥からマナが立ち上る。
薄い煙のような光が、俺の胸から里の中心に向かって伸びていった。
長が、その光を舌でぺろりと舐め取るように、口を開いた。
『“受け取った”。“お前の匂い、山の煙に刻んだ”』
里の上を巡っていた煙が、一瞬だけ濃くなる。
それから、山肌に沿って、細い帯となって駆けていった。
灯籠列から伸びる白い煙の線と、山肌から上がる自然の煙の線。
それらが、ヒトリの地図の上で、一本の環のように結ばれた。
『契約完了。――“山煙契約:スモークライン”』
リラの声が、ほんの少しだけ誇らしげに響く。
『これで、セイが外縁の外側で“呼ぶ”と、山の中から最短ルートで駆けつけてくれる。呼び出しコストは、中級召喚一回分+距離補正。維持コストは環境マナから山犬側が持つ』
「……つまり、俺が払うのは“呼び鈴を鳴らす分”だけか」
『そういうこと』
「リラ、ナイスアシスト。君の愛を感じるよ」
『そこは“理を組んだ側の良心”って言ってほしいな』
軽口を叩き合っていると、長が低く吠えた。
『“外縁の外は、まだ荒れている”。“大きな肉の匂い、硬い石の匂い、深い水の匂い”』
『“お前一人で狩りに行くには、少しうるさい場所だ”』
「狩りに行くんじゃなくて、見に行くだけだよ」
俺は肩をすくめる。
「今日は、西外縁の“外側”の地表を一通り見る。上級魔物の分布と、濁りが抜けたあとの流れを確認する。……必要なら、そのときに、お前たちを呼ぶ」
『“呼べ”。“煙の線が届くところなら、いつでも行く”』
長が振り向き、里の奥で眠っていた山犬たちが次々と体を起こした。
十数頭のスモークラインが、静かに立ち上がる。
『“山は山で守る”。“お前は外縁で守れ”』
「了解。山の番犬殿」
軽く頭を下げ、俺は里の外へと歩き出した。
足裏に、いつものジオセンスを薄く流す。
根と岩の隙間、雨で削れた斜面。
“沈む土”と“踏ん張れる帯”が、青と黄色の線になって視界に重なる。
ヒトリから送られてくる俯瞰映像と、自分の足裏の感覚を、頭の片隅で重ねていく。
『セイ。里から灯籠列までの“安全帯”、昨日の帰路ログと合わせてルート引き直すね』
「頼む。山犬の里は、そうそう人に知られちゃまずい。けど、いざってときに俺だけは迷わず来られるようにしとかないと」
里から少し離れたところで、振り返る。
巨大な木の根の下に隠れるようにして、山犬たちがこちらを見ていた。
子山犬が一匹、こっそりついてきていて、長に首の皮を咥えられて引き戻されている。
「……じゃあ、行ってくる」
手を軽く上げ、俺は山肌を下った。
里から灯籠列までは、昨日山犬たちが作ってくれた“煙の道”と、俺の足場線が重なっている。
急斜面を避け、崩れやすい崩れた岩の斜面の縁を大きく回り込むルート。
途中で一度だけ、ぬかるみの帯を跨ぐ。
沈む帯の手前で止まり、青く光る踏ん張り帯へと足を滑らせる。
ジオセンスが、足裏に“ここなら耐えられる”と教えてくれる。
そうして一時間ほど下った頃、灯籠の列の金属光沢が視界に入った。
西外縁をぐるりと囲む灯籠の鎖。
そこから、一本だけ外へ伸びている白い煙の線。
それが、今しがた結んだ“山煙契約”で、山犬の里と繋がっている。
「……よし。外縁側との接続点は、この灯籠三つ分の区間だな」
灯籠三基を基準に、地面に小さな印を残す。
他人にはただの石ころにしか見えないが、ヒトリの地図上では“山犬接続ポイント”としてマークされる。
『マーク完了。――“山煙ノード1:西外縁・北西区”』
「命名センスは相変わらずだな」
『機能的でしょ?』
軽く笑い合ったところで、俺は西外縁の外側へと視線を向けた。
灯籠列の外。
昨日まで濁りの枝が伸びていた方向は、今は黒い線が消えている。
核を落としたことで、マナの流れはかなり落ち着いた。
だが、そのさらに向こう。
山裾から広がる岩と森の境目。
そこに、別種の“うるささ”が漂っているのが見えた。
『ヒトリ、外縁外側の“熱の地図”モード、オン』
視界の端に、薄い色の層が重なる。
地表温度とマナの流れを重ねた簡易マップ。
いくつかの地点で、赤と青が強く輝いていた。
「……上級魔物の寝床、って感じだな」
赤は、爆裂系や火力の高い魔獣。
青は、冷たさや静けさを宿す魔獣。
その周囲を、薄い紫や緑が縁取っている。
『北西側の山裾に、ベア(爆裂)クラスの反応が二つ。少し離れた岩場に、オーガ(重力)クラスが一体。更に上空には、ワイバーン(風)と思われる熱源パターン』
「おまけに、林の境目にはパンサー(影)と、それっぽい足跡の線もあるな」
地面に刻まれた爪跡。
ヒトリの“景観差分強調モード”が、昨日までなかったわずかなえぐれを赤く縁取る。
『単体ならBランク。組み合わせによっては、Aクラス相当の“事故”になるね』
「だから今日は、“戦う日”じゃなくて“線を引く日”だ」
俺は、外縁外側へと一歩、足を踏み出した。
「ジオセンス、足場優先。外縁の外側に、“人間用の安全帯”を引く」
灯籠の列から外へと伸びる青い帯。
それを、上級魔物たちの“縄張りエリア”をぐるりと避ける形で描いていく。
一歩ずつ、一呼吸ずつ。
足裏に伝わる地面の硬さと、ヒトリの俯瞰映像を重ね、最小限のリスクで歩けるラインを探す。
遠くで、低く響く咆哮が聞こえた。
爆裂ベアの咆哮だ。
地面が、ほんの少しだけ震える。
その震えの波が、ジオセンスの感覚を通じて脚に伝わる。
「……今の距離なら、こちらに気付いてはいない」
足を止めず、角度だけを少し変える。
咆哮の方向と風向きを考え、ベアの嗅覚の“届かない帯”を選ぶ。
頭の中で、何本もの線を引いては消す。
危険の線、安全の線、人間にとっての“撤退ライン”。
その全部を、一本の青い帯に収束させていく作業。
『セイ。足場線、いい感じにまとまってきた。――“西外縁外側・安全帯(暫定版)”ってラベル付けておくね』
「暫定でいい。どうせ、帰り道でまた修正する」
そんなふうにして、半日ほどかけて、西外縁外側の“ぐるり一周”を終えた頃。
太陽は、山の稜線に向かい始めていた。
『……セイ、広域マナマップに一個“変なの”がある』
「変なの?」
『うん。西外縁のさらに外側。今いる位置から見て、少し西寄りの山裾の向こう側。周囲のマナ濃度を“1”とすると、そこだけ“10近く”まで跳ね上がってる』
「濁りか?」
『色としては濁りじゃない。黒じゃなくて、ただ“濃すぎる”。マナの塊が、一ヶ所に押し込められてる感じ』
「映像は?」
『距離が遠すぎて、ヒトリ本体をそこまで飛ばすと途中で感覚が飛ぶ。今の高度と距離だと、数値ログだけが限界。“マナ異常数値エリア”が一つ、ってところまでは分かるけど、中身はまだ見えない』
「……今からそこまで行くと、日が沈むな」
太陽の位置を確認する。
ここからそのポイントまで、安全帯を辿って行くと、最低でも半日はかかる。
「今日はここまでにしておく。“異常マナ地点”の中身を見に行くのは、明日の朝一番。その前に、安全帯の中で寝床を決める」
『了解。“マナ異常数値エリア”の座標は、わたしのほうでヒトリの行動ログとして記録しておくね』
「頼んだ。……じゃあ、そろそろ今日の寝床を決めるか」
ベアの縄張りからも、オーガの住処からも、ワイバーンの巡回高度からも外れた場所。
それでいて、外縁全体と灯籠の列が見渡せる小さな丘。
そんな条件に合う地点を、昼のうちに一つ、目星をつけてあった。
『候補地A。――“西外縁外側・西部の小丘”。土質安定、風通し良し、視界良好。敵性反応、遠距離にのみ』
「そこだな」
丘の上に立ち、ぐるりと周囲を見渡す。
遠くに、ワイバーンの影が小さく見えた。
それ以外は、風と草の音だけだ。
「ソイルリペア」
足元の土が、ゆっくりと均されていく。
小石が脇に寄せられ、表面がなめらかになる。
その上に、拾ってきた枝と葉で寝床を組む。
荷物はマジックボックスから出し入れするので、ここに痕跡を残すのは寝床と焚き火跡程度だ。
最低限の枝を組んで風避けを作り、焚き火の位置を決める。
煙が上級魔物の方向に流れないよう、風向きを何度も確認する。
「就寝前の“足のケア強化版”だな」
寝床の隣に腰を下ろし、ブーツを脱ぐ。
足裏を軽く叩き、土と汗を落としてから、薄くマナを流す。
ハリが出過ぎた筋を撫でてほぐす程度。
セイの身体は“疲れない”が、足の皮や爪は物理的に傷む。
そこで出る小さな傷や歪みを、毎晩のケアで潰しておく。
『就寝前の“足のケア”、今日はちゃんと入れたね』
「そう。三日目、四日目で“崩れない足”を維持するための投資」
足のケアを終えたところで、マジックボックスから水袋を出す。
「喉が渇く前に、水を一口」
軽く飲み、口の中で転がしてから飲み込む。
喉と頭の中が一段階クリアになる。
軽く喉の渇きを潤したところで、焚き火に火を入れ、簡単な食事を済ませる。
日が完全に落ちる前に、もう一度まわりのマナの流れを確認する。
『西外縁外側、安全帯上。敵性反応、接近なし。――“今日の撤退ライン”は、灯籠の列まで』
「了解。問題が出たら、即撤退。……その前に、寝る前ルーチンだ」
「洗浄」
ひやりとした膜が、体の表面を一度なぞっていく。
汗と土の感触がすっと抜けて、体が一気にさっぱりする。
ようやく一日の終わりの顔になる。。
『今日は“洗浄忘れ”ゼロだね』
「昨日分まで挽回したつもりでいる」
そんな会話をしながら、俺は枝葉の寝床に体を預けた。
ジオセンスを切る直前、足元の帯だけを確認する。
青い帯が、寝床の下で、安定して続いている。
「……明日の朝も、同じ足で立てる」
『明日は、“異常マナ地点”だね』
「ああ。ヒトリが拾った“マナ異常数値エリア”の中身を、ちゃんとこの目で見に行く。
……その前提で、今日はここまで」
そう心の中で明日の仕事に線を引き、目を閉じた。
四日目の夜は、静かに過ぎた。
五日目の朝。
薄明かりの中で目を開けると、空はまだうっすらと青いだけだった。
山裾に沿って何度かカーブを切り、上級魔物たちの縄張りを大きく迂回する。
遠くでワイバーンの影が旋回するのを見上げ、風の流れからこちらに来ないことを確かめる。
やがて――。
地面の感触が、ふっと変わった。
「……ここから、何かが“削れてる”」
ジオセンスが拾うのは、自然に崩れた岩場ではない。
一定のリズムで切り取られた段差。
人間の歩幅に近い幅と高さで、何段も続いている感触。
『ヒトリ、前方俯瞰、拡大』
視界の隅に、上から見下ろした映像が重なる。
山肌の一角が、不自然なほど“平ら”になっていた。
周りの岩は風に削られてごつごつしているのに、そこだけがまっすぐに切り落とされた壁みたいだ。
その平らな部分の真ん中に、横長の黒い穴――石造りの門のような開口部が口を開けている。
「……なんでこんなところに、神殿の入口みたいなもんが出てくるんだ」
開口部の内側は、完全な闇だ。
その闇の奥から、冷たいマナの霧が、壁から染み出すみたいに、ゆっくりと外へ流れ出していた。
『マナ濃度、外界比で五倍。――“濁り”じゃないけど、“濃すぎる”』
「ヒトリ、階段の手前まで。高精度観測モード」
『了解。――“セイとヒトリを壊さないための避難ルート付き高精度観測モード”、起動』
「正式名称が長い」
苦笑しながら、俺は神殿の入口の手前、マナの風がギリギリ届く位置で立ち止まる。
ヒトリの小さな体が、肩からふわりと浮かび上がり、階段の上空へと移動する。
視界の中に、ヒトリの視点が重なった。
岩壁の真ん中あたりに、横長の黒い穴――石造りの門のような開口部が口を開けている。
地面から入口の下端までは、二、三メートルといったところか。
「……その気になれば、フリーで登れなくもない高さだな」
岩肌には、手と足を掛けられそうな出っ張りがいくつも見える。
ただ、落ちたらただでは済まない高さでもある。
「……ガランさんたちと調査に来た時、“濁り最深部の観測をヒトリ経由でやるか”って話になって――リラ、お前が止めたやつか」
『うん。あのときは、“濁りのノイズがヒトリ経由でセイの感覚に逆流する”って解析が出たから。最悪、セイの神経の一部が焼き切れる』
「焼き切れるのは勘弁してほしいな」
『だから今回の高精度観測モードは、“深く覗く前に、ノイズが規定値を超えたら即切断”って避難ルート付き。――行けるところまで行ってみるけど、“無理なところは諦める”前提で』
「線を引け、ってことだな。了解」
ヒトリの小さな体が、肩からふわりと浮かび上がり、岩壁の黒い穴――神殿の入口の少し上へと滑っていく。
視界の中に、ヒトリの視点が重なった。
開口部の内側は、完全な闇だった。
その闇の中へ、ヒトリが数メートルだけ滑り込む。
入口から五メートル。
十メートル。
石の壁に、かすかな光る線が走っているのが見えた。
自然石のヒビ割れとは違う、滑らかな曲線と直線。
それは、マナそのものが刻まれた回路のようにも見えた。
『マナパターン、自然のマナの流れ方じゃない。完全に“誰かが組んだ回路”のパターンだね』
「自然に風と水で削れた岩じゃ、こうはならないな」
石の壁には、かすかな光の線が走っている。
滑らかな直線と、ぐるりと巻いた曲線。
自然石のヒビ割れとはまるで違う、意図して刻まれた“魔術回路”としか思えない線だった。
今、ヒトリの視界の中で光っている線は、それと同じ“匂い”を持っていた。
『……ここから先、ノイズレベル上昇』
視界の端が、じわりと滲む。
黒い霧のようなものが、ヒトリの視界の輪郭を侵食し始めた。
耳鳴りに似たノイズが、ほんの少しだけ頭の中に引っかかる。
「……ここまでだな」
小さく息を吐き、俺は言う。
「ヒトリ、退避」
『了解。――高精度観測、ここで切断。ログを保存して引き返す』
ヒトリの視界が、するりと黒い穴から離れる。
俺の肩の上に戻ってきた瞬間、頭の中にまとわりついていたノイズが、すっと軽くなった。
『今の深度から内側は、“無理して覗くとセイごと焼ける”ラインだね。……濁りそのものじゃないけど、“マナ濃度と構造が沼”』
「焼けるかどうかはともかく、“今一人で突っ込む場所じゃない”のは確定だ」
開口部の奥から、冷たいマナの風が、ゆっくりとこちらに染み出してくる。
腕の毛が総立ちになる。
「正式な扱いは、もう少し状況を整理してからだな。今は、“西外縁外側に高濃度マナの人工構造物の入口を確認(詳細調査は保留)”って、俺とリラとヒトリだけの裏ログにしておく」
そもそも、この神殿の入口まで自力で辿り着ける冒険者なんて、そう多くない。
俺レベルでも、足場線を引きながら慎重に歩いて、ようやく届く場所だ。
もし、いつかここまで来られるやつが現れたなら――そのときは、そいつにギルドへの正式な報告を任せればいい。
今の俺がわざわざ「勝手に外縁の外まで見てきました」なんて言いに行く線じゃない。
『了解。そのラベルで仮保存しておく。ギルド向けの文面は、戻ってから一緒に考えよ』
「……で、ここで山犬たちを呼んだらどうなる?」
『“呼べば来る”。さっき結んだ“山煙の線”は、ここまで届いてる。――試しに、軽く呼んでみる?』
「本番前の接続テストか。いいな」
俺は、入口から数歩離れた場所に立ち、山側に顔を向ける。
「山煙の道を借りる。――外縁の外で線を守るために、山の番犬を貸してくれ」
胸の奥から、細いマナの線を一本だけ立ち上げる。
昨日の契約のときほど大きくはない、呼び鈴程度の量。
それを、山の方角へと投げる。
数息の間。
山肌から、白い煙の帯が一本、するりと伸びてきた。
その先端から、灰色の影が飛び出す。
一頭のスモークラインが、地面すれすれを駆けてきて、俺の目の前でぴたりと止まった。
『“呼んだか”』
短く、そう言った。
「呼んだ。……ちゃんと来るんだな」
『“山の煙は、山と外縁を繋ぐ”。“お前の匂いは、もうそこにある”』
スモークラインは、入口の階段の方に、ちらりと視線を向ける。
『“ここは、山の中ではない”。“でも、山の線は届いている”。“中に入るのは嫌な匂いだ”』
「嫌な匂い、ね」
濁りとは違うが、山犬にとっても“異物”なのだろう。
『“中に入るなら、たくさんの手と目が要る”。“一人と一頭で降りる階段ではない”』
「それは俺も同意」
そう答え、俺は神殿の入口から一歩下がった。
「今日は“見るところまで”。“中には入らない”」
そう口に出して、自分に線を引く。
スモークラインが、わずかに喉を鳴らした。
『“線を引く主”』
「線を引くのが、俺の仕事だからな」
軽く頭を撫でると、スモークラインは煙の帯に溶けるように姿を消した。
山の方へ伸びる白い線だけが、しばらく残り、それもやがて薄れていく。
「……さて。あとは、帰るだけだ」
灯籠の列までの安全帯を、逆に辿る。
行きのログと重ね合わせながら、危険の線を一本ずつ確認していく作業。
ベアの咆哮が聞こえた地点では、風向きが少し変わっていた。
そこを、行きとは違う角度で迂回する。
オーガの住処からは、低い振動音が聞こえた。
それも、ジオセンスの感度を上げて事前に拾い、距離を取る。
そうして、外縁の灯籠列に戻ってきた頃には、太陽はすでに西に傾き始めていた。
「ヒトリ。帰りは、“西外縁・内側ルート”で一気に村まで戻る。マナ配分、頼む」
『了解。――“帰還モード”。ジオセンスと足場線を優先、戦闘系は低出力待機』
灯籠列の内側は、すでに線を洗い終わっている。
沈む帯と踏ん張れる帯の位置は、昨日までのログでほぼ把握済みだ。
足場線をなぞるように走る。
脚は軽い。
高位浄化と契約で一度空になったマナも、今は半分以上戻っている。
山犬の里で一晩寝たおかげか、体の芯まで妙にすっきりしていた。
西外縁から村までの距離を、初日に歩いたときの半分の時間で駆け抜ける。
村の畑が見え始めたころ、日がちょうど山の向こうに沈みかけていた。
外縁の煙の線と、村の煙突から上がる煙の線。
それらが、夕焼けの中でゆっくりと溶け合っていく。
『セイ、おかえり』
「ただいま」
村の西門が見えた。
見張り台の上で、見慣れたギルドの旗が風に揺れている。
門番に軽く手を挙げ、通り過ぎる。
石畳を踏む感触が、外縁の土とは違うリズムを伝えてくる。
マジックボックスの中にしまってあった服を一式取り出し、人気の少ない路地で素早く着替える。
その前後にも、きっちりと“洗浄”を一回。
「これで、“山犬の匂い”は完全にオフだな」
『ガランたちには、山犬との契約はちゃんと話すけどね』
「もちろん。隠していい種類の線じゃない」
ギルドの建物の灯りが見えてきた。
中では、今日も誰かが依頼の紙とにらめっこしているのだろう。
俺は、扉の前で一度だけ振り返る。
西外縁の方角。
あの山の向こう、さらに外側に、石造りの“神殿”の入口が口を開けている。
その周りに、上級魔物たちの影。
そして、灯籠の煙と山煙の線が、そこに向かって細く伸びている。
「……次は、俺一人じゃない」
小さくそう呟き、ギルドの扉を押した。
このとき、自分が見つけた西外縁の“神殿”が、あとでどれだけ面倒な線を引き寄せることになるのか。
その未来を、俺はまだ知らない。




