第55話 川沿いの部落と、線が効かない場所
ギルド会議室を出てから、一晩。
朝のギルドは、いつもより少しだけ静かだった。
受付前のざわめきも、壁に貼られた依頼書の前の人だかりも、いつもと変わらないはずなのに、耳の奥だけが変に澄んでいる。
ガランの部屋の扉をノックすると、すぐに中から声が返ってきた。
「入れ」
扉を開けると、支部長席の前に、報告書の束と封蝋付きの封筒が一つ。
ガランはそれを指先で弾き、俺を見た。
「東の川沿いだな」
「はい。北の危険地点Aから下流側へ。外縁の内側をなぞって、部落の有無と濁りの線を確認します」
「四泊想定。戻りは五日目の昼前を目安に、だったな」
「その線で考えています」
ガランが一度頷き、封筒に視線を落とした。
「……その前に、一つ」
嫌な前置きだな、と直感が告げる。
ガランは封蝋を指でなぞりながら、言葉を選ぶように口を開いた。
「濁りに関して、王都とギルド本部の一部が掴んでいる情報だ。
本部経由で、エルディア支部、それからお前――セイへの共有許可が下りた」
そこで、ふっと目が合う。
『セイ』
リラの声が、頭の中に静かに響いた。
黙って聞け、とも、逃げろとも言っていない。ただ、少しだけ音が硬い。
「共有……許可、ですか」
思わず、口に出していた。
「そうだ。お前は外縁線の設計と、濁り案件の一次調査を任されている。この先もソロで外縁を回るつもりなら、知らないままでいられる立場じゃない」
ゆっくりと、封筒が俺のほうへ押しやられる。
手を伸ばせば届く距離。
それだけの話のはずなのに、指先が重くなった。
(……これを受け取った瞬間、“村のDランク”じゃなくなる)
直感だった。
前の世界で、社内システムの閲覧権限が一段上がったときに近い感覚だ。
「見なかったことにできる領域」が、確実に減る。
濁りの正体。
王都の思惑。
ギルドの内側。
ここに書かれているのは、多分そういう種類のものだ。
それを知ってしまえば、この先「村の線だけ見ていればいいです」とは、もう言えない。
少しだけ息を吸って、吐く。
自分の声が、思っていたより落ち着いていることに気づいた。
「……今回は、その封筒、受け取りません」
ガランの眉が僅かに動いた。
拒否の言葉を想定していなかった、というより、「ここでそう来るか」という顔だ。
「理由を聞こう」
「それを知った瞬間、多分俺の線が変わります。今はまだ、村と外縁の“戻れる線”を見ていたい。王都の線は、そのあとでいい」
言ってから、自分でも少し勝手だと思う。
でも、今ここで一段上の線に足を掛けたら、そのまま引きずられる気がした。
『セイ、それは――』
リラの声が一瞬揺れて、すぐに落ち着いた。
『……うん。“今聞かない”っていう線も、選んでいいと思う』
ガランは少しだけ沈黙し、封筒を指先で摘まんで戻した。
「これはいずれ、お前が開けることになる」
「はい。いつかは」
「今日ではない、というわけだな」
「今日の俺は、川を見に行く日ですから」
ガランの口元が、わずかに歪む。
笑いとも、ため息ともつかない、支部長の顔だった。
「……この話から逃げ続けることはできんぞ、セイ」
「逃げるつもりはありません。ただ、今の俺の足で届く線と、届かない線は分けておきたいだけです」
ガランは目を細め、椅子にもたれた。
「必然からはいつか捕まる。だが――“いつ捕まるか”までは、お前の線で決めろ」
それが、この場で出せる譲歩なのだろう。
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。今回は、外縁の内側まで。外側で何かあったら……そのときは、また相談させてください」
「必ずそうしろ。それともう一つ」
ガランの視線が、俺の胸元をかすめてから、すぐに目に戻ってきた。
(外縁の外側に出るときは、“もう一人の顔”を使う。村の少年じゃなく、“名前のないBランク剣士”として――それが、俺とリラの間で引いた線だ)
『変装モード、起動準備しておくね』
リラの声が、少しだけ明るくなる。
ガランは短く頷き、最後にいつもの台詞をくれた。
「線を決めろ。戻る線を忘れるな」
「はい」
そう答えてから、俺は部屋を辞した。
封筒は、支部長の机の上にそのまま残った。
今日の俺が持ち歩くには、重すぎる線だ。
ギルドを出ると、東の空はもうしっかりと明るい。
教会の尖塔の向こうに、薄く白い雲が伸びていた。
『セイ』
「分かってる。まずは村の外側まで、いつもの顔で」
腰の刀の重さを確かめ、荷物のバランスを確認する。
マジックボックスには、テントと寝具、予備の水袋。
外縁用に少し厚めのロープと、簡易の杭も追加してある。
それから、村の飯屋で仕込んでもらった四日分十二食の《お外仕事定食》が、一食ずつ包まれて詰まっている。
『ヒトリ一号、起動するよ』
意識を少しだけ外へ伸ばすと、視界の端に小さな光の鳥が形をとった。
ヒトリだ。
羽ばたくたびに、空気の線がわずかに揺れる。
まだ村からそう離れていないので、光は抑えめだ。
「光量、三割。村を出るまでは頭上禁止、側面固定」
『了解、三割固定。セイの右前方、十メートル上で並走するね』
頭の中に、小さなミニマップが描かれていく。
村から東へ伸びる道。
南側に畑と牧草地。
北の森の端をかすめて、川沿いへ。
足が土の道に馴染んでくると、呼吸も自然に外縁モードになる。
(今日は“見に行く日”だ。全部は削らない。撤退路と拠点候補、それから――統率役)
『キングとシャーマン。あと、濁り獣の小核だね』
「ああ。全部潰したら、本隊の花がなくなる」
自分で言っておいて、少しだけ苦笑する。
敵の花を残す、なんて物騒な表現だ。
村の灯籠が背後に遠ざかる。
灯りの線が細くなり、代わりに川音が近づいてきた。
危険地点Aの手前で一度立ち止まり、周囲を見回す。
ここまでは見慣れた川沿いだ。
湿った土の匂いと、木々のざわめき。
濁りの気配は、以前より少し濃い程度。
『危険度、二・三。許容範囲内』
「ここまではいつもの外縁内側。問題は、この先だな」
俺は一度だけ深呼吸し、フードを目深に被る。
「リラ。変装モード、テスト起動」
『了解。髪色・瞳色・声、印象差三割。出力は抑えめで』
視界の色味が、ほんの少しだけ変わる。
前髪の感触が軽くなり、喉の奥に違和感が走った。
鏡があるわけじゃないが、何度か試したおかげで分かる。
今の俺は、村の少年セイじゃない。
外縁の少し先で噂になる程度の、見覚えのない剣士だ。
(外側で何をやらかしても、村のログとは線を分けておきたい。卑怯かもしれないが――今は、そういう線だ)
『卑怯って言うなら、王都の情報を今受け取らないほうがよっぽどだよ』
「それは言わない約束だ」
独り言のように返し、危険地点Aを越えて川沿いの斜面へ足を踏み入れる。
土の硬さが、一歩で変わった。
足首を泥に掴まれたみたいに、重さが増す。
見た目の色は変わっていないのに、沈む帯と踏ん張れる帯の境目が、線になって見える。
『濁り係数、ここから先が急に跳ね上がるね。二・三から、三・一』
「……まだギリ、戻れる」
戻れる。
そう判断して、一歩、また一歩と進む。
川の音が、ただの水音じゃなくなっていく。
水面の上を、何か柔らかい膜が撫でているような、嫌なざわつきが混ざる。
やがて、木々の隙間から川が見えた。
そこには、線があった。
人の線でも、灯籠の線でもない。
濁りとゴブリンの群れが、川沿いに点々と並んでいる。
それぞれ二十体前後。小さな部落が、いくつも。
焚き火の煙が、まっすぐ上に立たず、灰色の帯になって川に寄りかかっている。
「……戦線だな、これは」
『戦場用語、出た』
「撤退ラインを引く前に、どこもかしこも前線みたいになってるって話だよ」
部落一つなら、「ここ」と「向こう」に線を引ける。
けれど、川沿い全体が小さな部落の鎖になってしまうと、線を一本引くだけじゃ意味がなくなる。
どこを通っても、誰かの射程に入る。
それが、今目の前にある状況だった。
『セイ。どうする?』
「まずは、戻るときの息継ぎ場所を作る」
そう決めて、最初の部落を見下ろす位置まで、足を滑らせずに降りていく。
斜面の木の根を足場にして、川辺を覗き込む。
焚き火を囲むゴブリンが十数体。
周囲の草むらには、短槍と粗末な弓。
濁った皮膚のやつが混じっているが、まだ完全な濁り獣にはなっていない。
『ゴブリン十二。うち四体、濁り寄り。ホブゴブリンは……一体』
「シャーマンはいない。ここは“通り道の掃除”でいい」
足場を一歩ずらし、重心を川側に落とす。
膝を緩め、斜面を滑るように降りた。
落ち葉が小さく鳴る。
その音に、一番近くのゴブリンが振り向いた。
目が合った瞬間には、もう間に合わない。
――だから、その瞬間は作らない。
俺は斜め前に半歩踏み込み、膝を曲げたまま地面を蹴る。
足の裏が硬い根を捉え、体が低く滑る。
最初の一体の喉元に、刀の背を当てる。
刃は、まだ抜かない。
勢いのまま肩で押し、焚き火の中へ突っ込ませる。
火の粉が上がる。
周囲のゴブリンが一斉にこちらを向いた。
「うるさい」
息を吐くと同時に、鞘から刃を抜き放つ。
マナ膜が一瞬だけ薄く光り、すぐに見えなくなる。
正面から飛び掛かってくる一体の槍先。
その線を、半歩右にずらした足でいなす。
槍の穂先が俺の腰の横を通り過ぎ、その柄に刀の腹を当てる。
叩く。
力任せじゃない。
相手の重心と足の位置を見て、前に倒れ込ませる角度だけを選ぶ。
槍ごと前のめりになったゴブリンの首筋に、刃を滑らせる。
濁りの気配だけを断ち、血の線は最小限に。
背後から短い叫び声。
振り向かなくてもいいように、ヒトリの視界が送られてくる。
『右後ろ、短弓。四十度上から』
「了解」
足を一度だけ止め、膝を落とす。
耳の横を矢が通り過ぎる。
その矢筋のまま、刀を上へ突き上げる。
矢と刃が擦れ、火花が散った。
驚いたような声が上から降ってくる。
その声の元に向けて、左足を軸に半回転。
斜面の木を踏み台にして、一気に距離を詰める。
目を見開いたゴブリンの胸元に、柄頭を叩き込む。
骨の軋む感触と共に、体が後ろに倒れ――そのまま斜面を転がり落ちた。
残りのゴブリンたちは、もう戦うというより散り始めている。
濁り寄りの個体だけが、こちらに歯を剥いてきた。
『濁り率四割。ここは削ってもいいかな』
「戻りの邪魔になるやつだけ、落とす」
足場を踏み換え、一体ずつ線を潰していく。
足の位置、膝の角度、刀の軌跡。
どれも派手ではないが、戻るための道筋だけは確実に開けるように。
数分後。
焚き火の周りには、動かない体が十体ほど。
逃げ出した数体は、川下へ消えていった。
俺は刃を軽く振って血を払い、鞘に戻す。
『ログ:部落一つ、濁り寄りを八割削除。生存ゴブリン二体、逃走方向は下流側』
「いい。今日の仕事は殲滅じゃない」
焚き火の残り火に砂をかけながら、周囲を一瞥する。
ここは、戻りのときの息継ぎ候補だ。
斜面からの死角が少なく、川も浅い。
灯籠さえ持ち込めば、一泊もできる。
(……“戻れる”ための線は、まだ引ける)
そう確認してから、俺はさらに下流へと足を向けた。
二つ目、三つ目の部落は、少し様子が違っていた。
川面に、濁りの塊が浮かんでいる。
ぬるいゼリーのようなものが、水流に逆らって、ゆっくりと岸に寄ってくる。
『濁りスライム。核は浅め。ゴブリンと同じくらいの危険度』
「スライム単体なら、まだ可愛いほうなんだけどな」
問題は、その隣に立っているやつだ。
身長が他のゴブリンより少し高い。
骨ばった腕。
手には骨の杖。
目の周りに、黒い線が描かれている。
「シャーマンか」
『うん。マナの流れが、スライムと繋がってる』
シャーマンが杖を振ると、スライムの表面に黒い紋様が浮かぶ。
それが、川の流れの線を無視するように、こちら側へとせり上がってくる。
普通のスライムなら、斬れば飛び散って終わりだ。
だが、濁りが混じると、話は別になる。
『マナだけで散らすのは効きにくい。物理+理術推奨』
「了解」
俺は斜面を降りながら、足場を選ぶ。
泥に沈まない根と石。
そこだけを踏んで、川辺まで距離を詰める。
スライムの表面が、伸びた。
触手のようなものが数本、地面に向けて伸びてくる。
その線を見て、一歩早めに止まる。
足首に絡みつく前に、刀で触手だけを払う。
刃にまとった薄いマナが、濁りの線に噛みついた。
ぐにゃりとした抵抗のあとで、触手がばらばらに崩れる。
シャーマンが苛立ったように叫び、杖を振る。
そのたびに、スライムの表面に黒い紋が増えていく。
『マナの流れ、シャーマン→スライム→川底。アンカーは川底側だね』
「なら、川の中は踏みたくない」
濁りのアンカーごと切り落とそうとすれば、下流全体に影響が出る。
ここでやるべきは、あくまで“今日の線”を守ることだ。
俺はスライムの真正面ではなく、少し斜めから回り込む。
川とスライムとシャーマンが作る三角形の、頂点を変えるイメージで。
シャーマンの杖がこちらを向いた瞬間、地面を蹴る。
右足を強く踏み込み、左足で滑るように前へ。
スライムの表面が、一瞬だけ割れた。
シャーマンとのマナの線が、視界の中で僅かにたわむ。
そこに、刀を通す。
刃が叩き切るのは、肉体ではない。
シャーマンからスライムへ伸びている黒い線だけだ。
手応えは、紙を裂くより軽い。
だが、切った瞬間、シャーマンの目の光が一度だけ濁った。
『接続切断成功』
リラの報告とほぼ同時に、スライムの表面から黒い紋様が消える。
ただの濁り寄りスライムに戻ったそれは、動きが鈍くなった。
あとは、いつも通りだ。
刀の角度を変え、核だけを狙って斜めに斬り込む。
ゼリー状の身体が左右に分かれ、中央に隠れていた黒い核が露出したところを、もう一撃で砕く。
シャーマンは杖を取り落とし、膝から崩れた。
濁りが抜けた分だけ、ただのやせこけたゴブリンに戻る。
『この個体は、生命反応ギリギリ。どうする?』
「……とどめを刺す。死んでからなら、マジックボックスで運べる」
短く息を吐き、刃を一度だけ振るう。
喉元を静かに断ち切ると、シャーマンの体から力が抜けた。
動かなくなったのを確かめてから、腕を掴んで斜面の上まで引きずる。
マジックボックスを開き、隔離用の仕切りに死体ごと放り込んだ。
「濁りとの繋がり方、あとでリラが解析したいだろ」
『するけど。するけどさ、セイ』
「何だよ」
『さっき“今日は村の線だけ見ていたい”って言ってた人が、普通に王都レベルの研究素材持ち歩いてる矛盾について』
「それは、それ。これは、これ」
苦しい言い訳だとは分かっている。
だが、今ここで線を全部揃えようとしたら、身が持たない。
『はいはい。“今日のセイは川を見る日”ね』
リラの苦笑混じりの声を聞きながら、俺は川沿いの視線をもう一度上げた。
下流側。
さらにいくつかの焚き火と、小さな影の集まりが見える。
そのうちの一つの周囲に、妙な空白があった。
そこにたどり着く前に、最初のそれはやってきた。
地面の震えが、足の裏に伝わる。
一定のリズム。
複数の足音が、同じテンポで地面を叩いている。
『騎兵』
「ゴブリンライダーか」
川沿いの獣道から、体格のいい狼型の魔獣が飛び出してきた。
背中には小柄なゴブリン。
粗末な槍と短い弓。
数は四。
狼の足は、濁りにまだ侵されていない。
純粋に速い。
こいつらが川沿いの斜面を自由に走り回れるようになると、戻り道が一気に削られる。
「ここは、潰す」
斜面の少し高い位置を選び、両足を肩幅に開く。
左足を半歩前。右足を斜め後ろ。
背中側の木に軽く左手を当て、体の軸を固定する。
一騎目が、短い距離を詰めてくる。
まっすぐじゃない。
斜面を上りながら、左右に揺れる線だ。
その線を、半歩早く切る。
右足で小さく踏み込み、左足の位置を変えないまま腰だけを回す。
刀は大きく振らない。
狼の前足が地面を踏み込む瞬間、その足首の少し上を斜めに払う。
骨と筋が切れる感触。
体重を支えきれなくなった狼が、前のめりに崩れた。
背中のゴブリンが空中に放り出される。
そこに柄頭で一撃。
頭蓋を割るほどではなく、意識だけを刈り取る力加減で。
二騎目、三騎目は、仲間の転倒に反応して軌道を変えた。
斜面を下りて包囲しようとする動き。
『下の二騎、足元の土が柔らかいところを踏むよ』
「じゃあ、そのまま踏ませる」
自分から動かない。
足の位置を変えず、腰と肩だけで視線を追う。
狼の足が、ぬかるみの帯に入る。
その瞬間、地面の線が崩れた。
体重が沈み、前足が半歩余計に滑る。
そこに、刀の切っ先を差し込む。
前に出てくる力と、刃の角度。
それが噛み合うだけで、深く切る必要はない。
筋をほんの少し断てば、後は自重が勝手に仕事をしてくれる。
二騎目も、三騎目も、同じように前のめりに転がった。
背中のゴブリンだけが宙に放り出され、地面に叩きつけられる。
最後の一騎は、さすがに異常を察したのか、距離を取りながら弓を構えた。
『射線、右目の高さ』
「うん」
弓の弦が鳴る音と同時に、腰を落とす。
矢が頭上を通り過ぎ――そのまま背後の木に突き刺さった。
矢が揺れている。
その少し下、木の幹に、自分の重心を預けるようにして飛び込む。
木を支点にして体を回転させ、斜め前へ踏み出す。
狼の首筋に、刀を浅く突き立てる。
貫通させず、神経の束だけを断つ。
狼が崩れ落ち、ゴブリンが悲鳴を上げる。
その悲鳴ごと、柄で顎を打ち上げた。
静寂。
さっきまでの蹄の音が、嘘みたいに消える。
『ライダー四騎、戦闘不能。狼三、致命傷。残り一は軽傷』
「生き残った一匹は、野に返す」
『理由は?』
「全部殺したら、ここも“何もいない線”になっちゃう。王都本隊が通る頃には、ちょうどいい“危険度の見本”になってるかもしれない」
リラが小さくため息をついた。
『セイ、それ、さっきから王都を遠ざけたいのか近づけたいのか分からないよ』
「俺にも分からん」
半分冗談で返しながら、倒れた狼から視線を外す。
ゴブリンライダーを片付けた先。
そこに、さっき見えた「妙な空白」があった。
周囲には濁りゴブリンの気配があるのに、その一角だけはぽっかりと穴が開いたように静かだ。
草が踏まれた跡も、焚き火の跡もない。
ただ、川から吹き上がる風だけが通り抜けていく。
『ここ、マナが薄い。濁りが集まってるわけでもないのに、周りと空気の重さが違う』
「……祠か、“何か”の前兆だな」
踏み込むには、もう少し情報が欲しい。
今日はまだ、全体像を掴む一日目だ。
「ここを、ひとまず仮の野営地にする」
『え、ここ? 空白だよ』
「だからだよ。濁りもゴブリンも、この場所だけは避けてる。理由が分かるまでは、むしろ“境目”のほうが様子を掴みやすい」
斜面の少し高い位置を選び、テントを張るスペースを確保する。
地面を足で踏みしめ、石をどかし、根っこを避ける。
ロープを杭に結び、木と木の間に渡す。
布を掛け、風向きに合わせて入口の位置を決める。
手を動かしながら、頭の中ではずっと地図を描いていた。
川沿いの部落の位置。
濁りスライムとシャーマンの組み合わせがいた場所。
騎兵が走れる獣道の線。
それら全部を、戻る線と結びつけていく。
けれど、どれだけ線を引いても、違和感が消えない。
『セイ。危険度ログ、今の時点で三・八。北外縁のときより、数値の揺れが大きい』
「だろうな」
灯籠も祈り場もない川沿いで、ゴブリン部落が鎖になっている。
戻る線を一本引いたところで、その線ごと飲まれかねない。
(今回は、“線引きどころじゃない”)
頭では分かっていた。
外縁の内側と違って、ここはもう、村の延長ではない。
村の線。
外縁の線。
その外側にある、「王都の線」と「誰かの線」。
ガランの机の上に残った封筒が、頭の奥でちらついた。
『セイ』
「何だ」
『今日はここまでにしよう。ログも十分溜まってる。明日の朝、一回全部整理しよ?』
「そうだな」
テントを張る前に、足元の土を一度ざっと撫でる。
アースシフトで小さな凹凸をならし、ソイルリペアで水が溜まりにくいように少しだけ盛り上げる。
根っこや小石をどかしてから布を敷き、その上にマジックボックスから寝具を引き出して並べた。
横になり、頭の下に荷物袋を枕代わりに押し込む。
テントの外では、川の音と風の音が重なっている。
ゴブリンの叫び声も、濁りスライムのぬるい気配も、今のところは遠い。
だが――遠いままでいてくれる保証は、どこにもない。
『セイ』
「分かってるよ。明日は、もう一歩踏み込む」
『ううん、そうじゃなくて』
リラの声が、少しだけ低くなる。
『この先にある祠と濁りの核、そして“誰かの手”の話。たぶん、ガランさんの封筒の中身と、どこかで繋がるよ』
「……だろうな」
だからこそ、今日の俺は封筒を開けなかった。
ここで全部を繋げてしまったら、村の線だけを見る余裕が、きっと消える。
目を閉じる。
瞼の裏に、ウツシの地図が浮かび上がる。
村の周りの線。
北外縁の灯籠の列。
それから、川沿いに鎖のように並ぶゴブリン部落の印。
その間に引いたはずの「戻る線」が、川の濁りにじわじわと溶かされていく。
線が効かない場所。
そんな言葉が、自然と浮かんだ。
(――この川沿いで、“戻る線”をどうやって守るか)
明日の自分に投げた問いを抱いたまま、意識が静かに沈んでいく。
そして、テントの外。
川下の闇の中で、小さな焚き火の数が、ひとつ、またひとつと増えていくことに――
この夜の俺は、まだ気づいていなかった。
◆55話に登場した魔物メモ
● ゴブリン/濁り寄りゴブリン
村の周辺でもおなじみの下級魔物。今回は、皮膚が灰色がかって「濁り寄り」になっている個体が混じっていて、群れ全体の気配を一段階きつくしている。セイから見ると「まだ完全な濁り獣ではないが、放置すると一線を越える連中」。
● ホブゴブリン
ゴブリンの中でも一回り大きく、部落の中で小隊長的な立ち位置になる上位種。力と耐久は普通のゴブリンより一段上で、群れの「押し」を支えるコマとして登場。
● 濁りスライム(濁り寄りスライム)
川面に浮かぶゼリー状の塊。核の位置は浅く、単体の危険度はゴブリンと同程度だが、濁りの影響で触手攻撃と範囲制圧が厄介。シャーマンにマナで強化されると、川の流れを無視して迫ってくる「前線固定用ユニット」みたいな役割を担う。
● ゴブリンシャーマン
骨の杖と顔の黒い紋様が目印の術師役。濁りスライムとマナの線で接続し、スライムを遠隔操作して川底のアンカーとつなげている存在。直接の戦闘力より、「濁りのギミックを動かすオペレーター」として怖いタイプ。
● ゴブリンライダー(騎獣:狼型の魔獣)
体格のいい狼型魔獣にまたがった騎兵ユニット。騎獣の足はまだ濁りに侵されておらず、「純粋な機動力」で戻り道の線を削りにくるタイプ。ライダー本体は下級ゴブリン相当だが、速度と位置取り次第で一気に脅威になるので、セイが真っ先に「ここは潰す」と判断した相手。




