第46話 山奥の濁りと、影抜きの契約
すみません、今回長くなりました。
夜。
教会の小さな部屋に戻って、祈りの服を引っかけたまま椅子に沈み込むと、背中越しにリラの気配がふっと寄ってきた。
『……で、本気で行くつもりなんだね、山のほう』
「行かないと、あの煙の通り道がどこまで悪さするか分からないからな」
さっき炭焼き小屋で見た、地下から逆流してくる黒ずんだ筋が頭から離れない。
あれは村の祈り帯にまで届いている“枝”で、本体はもっと奥だ。
机の上に、いつもの革袋と予備のシャツを放り出す。
その横に、リラがそっと半透明のウィンドウを重ねてきた。
『じゃあ、先に“姿”のほうを決めよっか』
「……姿?」
『山に行くのは、《教会のセイ》のほうじゃないんでしょ?』
自分でも分かっていることを、はっきり突きつけられる。
「……そうだな」
『それなら、前に話してた“アレ”、そろそろ出番じゃない?』
「“アレ”って?」
『ジャッカルを討伐したときに話してた装備。“いつものセイ”じゃない戦い方をする為の、影抜きモデル』
ああ、と小さく声が漏れた。
あの日。
風走ジャッカルを倒した後で、「服も刀もまとめて変えないと、戦い方でバレる」って話をして、二刀流の試作案を出した。
「……もう、できてるのか?」
『とっくに。試作は何回かやって、ログも取ってある。あとはセイが“このスタイルで行く”って決めるだけ』
「じゃあ――今回、それで行こう」
自分の声が、思ったよりあっさり出た。
「山に行くのは《教会のセイ》じゃなくて、“ジャッカルのあとで話してたほうの俺”ってことで」
『了解。“変装モード・山仕様”、起動準備するね』
「名前つけなくていいって」
苦笑しながら立ち上がると、リラのウィンドウが視界の端でくるりと回った。
『じゃ、影抜き装備プランA。そこに立ってて。動かないでね』
「……また妙な機能増やしたな?」
返事をする前に、空気がひやりと肌を撫でた。
教会の白い服の裾が、糸になってほどけるように揺らぎ、
次の瞬間には、濃い灰色の布地がそこに編み直されている。
『布と革は、教会の予備と村の安物をベースにしてるからバレにくいよ。
形と色だけ、こっちでちょっと書き換え』
「ちょ、腰回りいじるときは一声かけろって……!」
腰骨のあたりを、冷たい指先でなぞられたようなくすぐったさが走る。
その感覚のあとには、暗い色の丈夫な布の感触と、ベルトの重みだけがちゃんと残っていた。
足元を見下ろせば、さっきまでの教会靴ではなく、山道向けの軽いブーツがしっかりと地面を踏んでいる。
『教会の白い服よりは、山で浮かないでしょ?』
「まあ、山道で白は目立ちすぎるしな」
マントのフードを指先でつまんでかぶると、視界の上半分が、すっと影に沈んだ。
口元には、薄手の布が自然と巻きつき、息をしても邪魔にならない位置で落ち着く。
机の上に、二本の刃が並ぶイメージが重なる。
『で、こっちが影抜きモデル・タイプ1』
右手用の片手剣。
刃はドランの刀よりわずかに短く、重心も手元寄り。
左手用の短剣は、逆手でも握りやすいバランス。
どちらの刀身も、黒鉄に煙の筋が走ったような色をしている。
「……本当に、俺が振っても大丈夫か?」
『大丈夫、というか。“いつものセイみたいには振れないように”作ってあるから』
リラが、少し意地悪そうな声で言った。
『柄の長さも重心も、普段の刀とずらしてある。いつもの癖で振ろうとすると、わざとやりづらい。その代わり、二刀流用の動きに合わせれば、ちゃんと切れる』
「自分の手癖を、自分で妨害する武器ってどうなんだ」
『変装って、そういうもんでしょ?』
まあ、と肩をすくめる。
リラがさらに、半透明の注意書きを重ねてくる。
『変装中の注意、もう一回確認ね。声、くせ、術の偏り、残る跡、目撃者数。戦闘後は撤退と痕跡処理までセット』
「分かってる。今回は“山の濁りの枝をちょっと削る”だけだ。本体まで手を出したら、それこそ通り道が伸びすぎる」
それでも。
炭焼き小屋の上の、あの濁り沼みたいなものは、このまま放置したら、じわじわ村を締め上げてくる。
『……スモークハウンドの目の前でやるんだよ?』
リラが、少しだけ真面目な声になる。
『こっちの“本気”を見せすぎるのも危ないけど、弱すぎても、相手は“主”として認めてくれない。どこまで見せるか、ちゃんと考えてね』
「分かってる。今日は“そこそこ強い”までだ」
椅子の背にもたれながら、昼間リラが出してくれた「召喚契約の基礎」の見出しを思い出す。
──自我と知能があること。
──上下を理解し、その線を共有できること。
──互いに恩や利があること。
(スモークハウンドは、たぶん全部満たしてる)
昼間、小屋の煙の向こうからこちらを見ていたあの目は、獲物を狙う目じゃなく、「山の異常を測っている」目だった。
(こっちがあの濁りを削ってみせれば、“自分たちの縄張りを守れる相手”だと分かってくれる)
その上で。
マナの糸を分け合って、主従と、呼び出す条件を決める。
(……うまくいけば、だがな)
村の外れ、炭焼き小屋へ向かう道の途中で、俺は一度足を止めた。
薄い山霧と、かすかな煙の匂いだけが、足元の世界を教えてくれる。
人の目には何も見えない漆黒の闇だが、俺の視界には、理とマナが描く輪郭線と、リラが重ねた淡い光の線だけが浮かんでいた。
「ここから先は、“あっち側の俺”だ」
誰もいないのを確認してから、ゆっくりと息を吐く。
意識を、皮膚のすぐ下の層に沈める。
光の屈折。色の吸い方。声の響き。
リラが、すぐ横で囁いた。
『髪、一段暗くするよ。目の色は、黒に灰を一滴。声は、半音落とす』
「よろしく」
ふっと、世界の見え方が変わる。
風の中に、自分の髪が揺れる感触は同じなのに、目に映るそれは、より黒に近い濃茶になっている。
手の甲を見れば、血の色はさっきと変わらない。
けれど、瞳に映る色だけが、落ち着いた灰に寄っていた。
『うん、いい感じ。“教会のセイ”って言われたら、ちょっと首をひねるレベル』
「歩き方も、だな」
肩の力を抜く。
視線を、必要以上には合わせない。
マントのフードを目深にかぶり、口元を布で軽く覆う。
腰には、マジックボックスを偽装した革袋。
その左右に、影抜きモデルの鞘を下げた。
「……とりあえず、“ソロで仕事してる無愛想な二刀流”って顔だ」
『うん、村の誰かが山道で見かけても、“ギルドから来た人かな?”くらいで済むね』
「……よし。じゃあ、あとは部屋のほうだな」
俺は一度深呼吸してから、机に向かう。
紙切れを一枚引き寄せ、ペンを取った。
『何書くの?』
「念のための言い訳、部屋を覗かれた時の保険だね」
少し迷ってから、さらさらと書きつける。
『少し体を動かしてきます。物音を立てるとよくないので、窓から出入りします。セイ』
『……真面目すぎて、逆に笑うんだけど』
「本気だぞ。昼間の件で頭が冴えちゃってるしな。トレーニングで疲れさせたほうが、まだ寝られる」
『うんうん、“トレーニングで体をいじめれば眠れるかなって思いました”って顔だよね、今』
「悪いかよ」
苦笑しながら、書き終えた紙を机の上、目につきやすい場所に置く。
誰かがもし部屋に入っても、「勝手に消えた」にはならない程度の痕跡だ。
扉の鍵を静かに回し、内側から施錠する。
鍵はそのままポケットへ。
『鍵までかける?』
「“個人で祈り中”ってことで通してもらう。あ、そうだ!」
そう言いながら、扉の前に立てかけてあった小さな札を手に取る。
教会で、個室祈りのときに使うやつだ。
《個人祈り中 朝まで入室不要》
そう書かれた札を、そっと外側のノブにかける。
『ここまでやると、もう誰も様子見に来ないね』
「そのつもりだ」
窓辺に歩み寄り、外をうかがう。
理とマナの線を細く開いて、周囲の気配をなぞった。
中庭のほうには、人の線はない。
教会の裏手、物置の影にも、今は誰もいない。
「……よし。今ならいける」
窓の留め金を外し、きしりと音を立てないよう気をつけながら開ける。
夜気と、かすかな湿った土の匂いが流れ込んできた。
『ほんとに窓から出るんだね』
「手紙にもそう書いたしな。筋は通しておかないと」
『そういうところだけ、変に律儀なんだよね、セイ』
苦笑混じりのリラの声を背中で聞きながら、俺は窓枠に片足をかける。
外の地面の高さを確かめてから、音を立てないように身を滑らせた。
膝を軽く曲げて着地し、もう一度だけ周囲の線を確認する。
誰もいない。気配もない。
「……誰も部屋をノックしませんように、だな」
小さくつぶやいてから、教会の壁際の影を伝い、村の外れへと足を向けた。
何事もなくそのまま、炭焼小屋までやってきて、周りを見回した。
そのまま、炭焼き小屋を通り過ぎると、山の斜面から上がってくる煙の匂いが、少し変わる。
炭の香ばしさに混じって、金属を濁らせたような、鉄錆と脂の混ざった嫌な匂い。
(……あっちのほうだ)
“通り道”を見る目を、少しだけ開く。
土の下。
細い水脈の合流点のところに、黒ずんだ濁りの糸が絡みついているのが見えた。
その先、谷の窪地。
そこだけ、煙の流れが不自然に渦を巻いている。
『あれが、山側の“濁り沼”だね』
(ああ)
足音を抑えながら、木々の間を進む。
一歩ごとに、靴底の下で小枝が折れる気配を、土の柔らかいところへ逃がしていく。
やがて、開けた窪地の縁に出た。
そこは、小さな盆のような地形だった。
雨水と湧き水が集まってできた浅い池。
本来なら澄んだ山水で満ちているはずの場所が、墨を溶かしたような灰黒い水で占められている。
表面には、とろりとした膜のようなものが張りつき、風が吹いても、その部分だけ波立たない。
(……上流祈律帯の黒膜の、縮小版か)
質は同じだが、規模が違う。
池の縁から、細い黒い筋が地下へ潜り、そこから山の下へと伸びている。
炭焼き小屋の煙と絡んでいたのは、この枝の先だ。
『セイ』
リラの声が、いつもより低くなる。
『周り、見て』
言われるまでもなく、視線を巡らせる。
木立の影。煙の陰。
気配を消して潜んでいるが、“目”だけはこちらを覗いている。
輪郭を持たない、暗い穴のような視線。
(……見てるな)
スモークハウンドたち。
群れの本隊ではない。
炭焼き小屋に顔を出していた“見張り組”だろう。
吠えもせず、近づきもしない。
ただ、山の異常に対する自分の反応を、じっと見ている。
「……まあ、いい。見てろ」
小さく呟いて、窪地の縁に片膝をつく。
「やることは三つ。一つ、濁りを集めて形にする。二つ、冷やして動きを鈍らせる。三つ、村側への抜け道を切って、行き先を山奥にずらす」
『うん。“世界を書き換えない範囲での道筋の付け替え”。そこだけ守って』
(了解)
掌を、濁り沼の表面に向ける。
イメージするのは、薄い水の膜と、その下に沈む異物。
水だけをそっと持ち上げ、濁りだけを底に沈めていくような操作。
目に見える水面が、かすかに揺れる。
《ウォーターシート》
声には出さない。
理とマナを引き合わせるイメージを頭の中で思い浮かべ、その名を添えるだけ。
透明な膜が、濁り沼の上を覆う。
上澄みの比較的きれいな水が、ふわりと持ち上がり、すぐ脇の地面へ、別口の小さな流れとして移されていく。
残ったのは、底にたまった黒い泥と、その中でうごめく濁りの塊。
(ここからが本番だな)
もう片方の手を、冷気のイメージで満たす。
《アイスランス》
数本の氷の杭が、空気の中に静かに形を取る。
それを、沼の底、黒い塊の中心へと打ち込んだ。
じゅ、と音がした気がした。
水の表面が、一瞬だけ大きく波打つ。
その瞬間――
沼の中央から、黒い影が飛び出した。
それは、狼のようで、狼ではなかった。
全身を薄い煙と泥の膜で覆われた獣。
骨格は山狼に近いが、目の部分だけが穴のように抜けている。
地面に足をついているのに、足跡が残らない。
(……濁りに喰われかけた山狼、か)
危険度をざっと見積もる。
(危険度4.5前後。……スモークハウンドより一段上。村に降りてきたら、小隊じゃないときついレベル)
こいつが、この沼の「番犬」だとしたら、この場で落としておく価値はある。
『セイ』
「分かってるよ。こっちが被害ゼロで済むうちに終わらせるさ」
『それそれ、そのくらいの自重でお願い』
ゆっくりと、影抜きの柄を握る。
右手の片手剣を抜いた瞬間、刃の周りに、薄いマナの膜が走った。
左手の短剣も抜き、逆手に構える。
普段の刀とは、重さも重心も違う。
けれど、二刀で“流れを押さえ、別の道に逃がす”ために調整された形だ。
濁り狼が、無音で飛びかかってくる。
前足が沈み込む寸前、肩の筋肉がわずかに盛り上がる。
そこから背骨を通って、顎へと力が集まっていく――噛みつきの軌道。
(通り道だけ見ろ)
俺は左足を半歩だけ引き、体の軸を後ろの右足に預ける。
正面から噛みつきを受けないよう、上体をわずかに右斜め後ろへ開いた。
飛び込んでくる濁り狼の顎の外側に、右手の刃を差し込む。
真正面からぶつけず、顎の付け根から首筋へと、刃筋に沿って横一文字に切り払う。
ヌルリとした重さが、刃を通して手首に絡みつく。
そのまま獣の体が横をすり抜けようとした瞬間、左足を内側へ送り込み、腰をぐっと左へ回す。
回転に合わせて、左手の短剣を、今度は後ろから首筋の根元に突き立て、斜め上へえぐり上げるように振り抜いた。
ザン、と骨と泥をまとめて裂く手応え。
濁り狼の体が、煙を撒き散らしながら俺の脇を抜け、斜面を転がる。
黒い泥が地面に飛び散り――
すぐに、立ち上がってくる。
(やっぱり、一度じゃ足りないか)
沼の濁りとつながっている分、
しぶとさも増している。
なら――
「二本まとめて、だな」
次に跳んできたとき、 今度は逆に、左手の刃で顎の軌道を受け、右手で背中側へはね上げる。
足は、常に一枚板の上を滑るように動かす。
前に出した足の裏で、地面の柔らかさを確認しながら、滑る場所を避ける。
二度、三度。
切り捨てるごとに、濁り狼の体から黒い煙が剥がれ落ちていく。
体勢を崩すだけで止める一太刀と、芯を削る一太刀を、意図的に分ける。
やがて、その中心に、普通の山狼の骨格が、ぼろぼろに崩れながら姿を見せた。
「――寝てろ」
最後にもう一度、右足を軸に体を半歩だけ回し、右の刃で噛みつきの顎を外へいなし、左の刃で首筋を断つ。
濁り狼の体が、崩れ落ちる。
黒い煙は、先ほど打ち込んだ氷の杭に絡まり、じわじわと薄くなっていった。
『……うん、“そこそこ強い”ちゃんと守ったね。ギリギリだけど』
「ギリギリ守ってるならセーフだろ」
そう言いつつも、自分の呼吸を一度整える。
窪地の縁、木陰の中から、スモークハウンドたちの目がこちらを見ていた。
怯えの色はない。
ただ、獣としての“格”の差を測っている視線。
(ちゃんと、見てろよ)
濁り狼が倒れたことで、沼の底の濁りの流れが少し変わった。
今なら、水の道を組み替えられる。
俺は地面に片手をつき、地下の水脈の通りをなぞる。
黒い筋を、村側とは逆のほうへ。
山の奥、何もない岩場のほうへ。
完全に消すのではなく、“ここから先は、村の祈律帯に噛まない”ように、流路だけ変える。
水の圧力。地形の傾き。
土の粒の間を抜ける冷たさ。
《ウォータージェット》を細く長く使い、地下に小さな穴を穿つ。
そこへ、《ウォーターシート》でまとめた上澄みの水を流し込み、《アイスランス》で一部を冷やし固めて、濁りの塊を封じる。
祈りを、一筋だけ添える。
(アクアエリア。)
ここだけでいい。
この山腹の水が、村を傷つけないように。
濁りが外に漏れないように。
光が、指先から静かに落ちる。
沼の表面を覆っていた膜が、ゆっくりと薄くなっていく。
黒い水は、山奥側の小さな裂け目へと吸い込まれ、代わりに、少しだけ澄んだ水が湧き上がってきた。
(……これで、この枝の分は、だいぶマシになる)
本体はまだ奥だ。
上流祈律帯の黒膜は、別の話。
そこまで手を伸ばしたら、今の俺の守備範囲がいっきに広がりすぎる。
今日はここまで。
『セイ』
リラが、静かに囁く。
『来るよ。真正面から』
沼の向こう、煙の渦が一つ、ゆっくりと形を取った。
足跡を残さない犬たちとは違う、一回り大きな影。
煙そのものが四本足の獣を形作り、その中心に、二つの“穴”が空いている。
目。
光を持たないはずなのに、そこからこちらを見られている感覚だけが、強く刺さってくる。
(……群れの上のやつ、か)
スモークハウンドのリーダー。
昼間、小屋の煙の中から覗いてきた穴の視線と、同じ質感だった。
煙の獣は、沼の縁まで歩いてきて、俺との間に、一本、目に見えない境界線を引いた。
足跡はない。
けれど、煙の揺らぎが、そこだけ変わる。
「……ここから先は、お前たちの道か?」
問いかけると、煙の獣の喉の奥から、低い唸りとも風音ともつかない音が漏れた。
言葉にはならない。
けれど、揺れ方の意味は、なんとなく伝わってくる。
──そうだ。
──この煙の道は、俺たちのテリトリー。
──さっきまで、濁りに荒らされていた。
「だから、見張りに出てきてたわけか」
煙が、わずかに肯定の色を帯びる。
後ろの木陰に潜んでいた他のスモークハウンドたちも、静かに立ち上がり、半円を描くように沼を囲んだ。
誰も吠えない。
ただ、主と俺とのやりとりを見ている。
(知能あり。上下も分かってる。そして、さっきの濁り狼を落としたことで“恩”も感じている)
昼間、ギルド標準の召喚契約メモで見た条件を、一つずつ心の中でチェックしていく。
『あとは、“相手がどうしたいか”だね』
リラの声が、静かに添えられる。
俺は、ゆっくりと片膝をついた。
「……一つ、提案がある」
煙の獣の“目”をまっすぐ見返す。
「お前たちは、この山の煙の道を守っている。濁りに喰われれば、獲物も、棲処も、仲間も死ぬ」
煙が、微かにざわめいた。
「俺は、山の外側――村や人間の線を、できるだけ折らない方向で守りたい。さっきみたいに、濁りの枝を見つけたら、村のほうへ流れないように通りを組み替えることができる」
ここまでは事実。
「そこで、だ。俺のマナを少し、お前たちに預ける。代わりに――」
言葉を区切る。
「この山の煙の道に、異常が出たとき。お前たちの判断で、俺を呼べるようにしてほしい。それから、俺が呼んだときには、何匹かを“外側”へ協力してほしい」
人間の言葉で言えば、“山の守護獣”としての役目を続けてもらいながら、必要なときだけ、こちらの守り手にもなってもらう契約。
煙の獣は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙の中で、後ろのスモークハウンドたちの視線が、少しだけ変わる。
さっきまでの警戒から、“測っている”眼差しへ。
やがて、リーダーが低く唸った。
──マナを渡す?
「俺の中にある“マナ”を、必要な分だけ分ける。その代わり、こっちが呼ぶ時に、お前たちに“来い”と触れる道を一本作る」
煙の揺らぎが、じっと俺を見据えた。
俺はゆっくりと立ち上がり、沼の縁の乾いた地面に、指で小さな円を描く。
円の内側に、山の輪郭と、炭焼き小屋と、村の祈律帯を簡略化した図を描いていく。
その中心に、自分の名前を。
そして、沼の向こう、煙のリーダーを指し示す印を。
『代償は、この山と村を守るのに足りるだけ。今のセイのマナの一部をまとめて一度流し込む。底が抜けそうになったら、私が外のマナでクッション入れる。行動範囲は、この山と村の外れまで。人の多いところでは、薄い霧か犬の姿限定』
「暴走したときは、俺の手元の札で道を断つ。その条件で、どうだ」
スモークラインは、しばらく黙っていた。
後ろのハウンドたちの煙が、わずかにざわめく。
やがて、リーダーが、短く頷いた。
──濁りが攻めてきて、山が軋むとき。
──我らが煙で主殿に知らせよう。
──さすれば、主殿が濁りを狩るのだろう?
──ならば、その心配はいらぬ。牙となる前に、線を断て。
──ここで倒れるのも、山の一部。
煙の獣が、描いた円をじっと眺める。
線の意味を、ちゃんと理解しているのが分かる。
やがて、前足――煙でできたはずの脚が、そっと円の縁に触れた。
その瞬間、胸の奥で、何かがきゅっと締め付けられるように重くなった。
(……今の残りをごっそり持ってかれたな)
足元の土の感触が、一瞬だけ遠のく。
膝に力を込め直さないと、座り込みそうなくらいのだるさ。
けれど、頭が割れそうなほどではない。
「今日はもう大技は打てないな」という程度だ。
目の前のスモークラインも、さっきとは違っていた。
半ば霧の塊だったスモークハウンドの輪郭が、一回り大きくしたような実体のある体格へと進化している。
肩から前脚にかけて、ちゃんと「骨」と「筋肉」の線が通った。
煙は毛皮の内側に押し込められたように揺らめき、目だけが、山の火のように静かに光っている。
ふっと意識を抜いた瞬間、輪郭がほどけて、全身が再び霧に溶けた。
もう一度、こちらに意識を向けると、今度はまた狼の姿に凝る。
(……実体と煙、どっちの姿にもなれるようになったか)
代わりに。
視界の端に、山の煙の流れの「俯瞰図」のようなものが、薄く重なった。
稜線・谷・風が通る筋。
その上に、スモークハウンドたちが歩く“煙の道”が走っている。
俺の意識が、その道の一点に触れると、そこにいたハウンドの気配が、軽く振り向いた。
「……なるほど。これが“別の目”としての視界か」
思わず呟く。
リーダーが、鼻先を軽く鳴らした。
──呼べ。
──名を決めろ。
『名前、どうする?』
(そうだな……)
山の煙と、道と、見張り。
「……“スモークライン”。煙の線、って意味で」
リーダーの煙が、一瞬だけ面白がるように揺れた。
──それでいい。
──我らの群れの名としても、悪くない。
どうやら、気に入ったらしい。
「じゃあ、改めて。俺はセイ。山の外側で、人の通り道を見張ってる」
そう名乗ると、リーダー――スモークラインの頭が、もう一度深く垂れた。
巣にいる者が、外の主に頭を垂れるしぐさ。
けれど、その背筋は折れていない。
山の守護獣としての誇りは、そのままだ。
『三番と四番の条件も、クリアだね。“お互いに得があること”と、“意思の合意”』
(うまく行きすぎてて、逆に怖いくらいだな)
心の中で苦笑しながら、俺は最後の安全策を口にする。
「最後に一つ。さっきも言ったけど――もしお前たちが、濁りに呑まれて“牙”になりそうになったとき」
胸元の中継石のあたりを軽く叩く。
「俺は、ここから道を断つ。お前たちにとっては嫌な条項かもしれないが、それ込みで“対等”だ」
スモークラインは、しばらく黙っていた。
後ろのハウンドたちの煙が、わずかにざわめく。
やがて、リーダーが、短く頷いた。
──よかろう。
──牙となるなら、その前に、道を絶て。
──ここで倒れるのも、山の一部。
覚悟の重みが、そこにあった。
(……上等だ)
契約が結ばれた証のように、沼の上に立ち込めていた煙が、ゆっくりと薄くなっていく。
スモークラインの姿も、山の霧に溶けるようにほどけていった。
残ったのは、山の空気と、水の匂いだけ。
『……ふう。契約処理、完了』
『で、セイ』
「なんだ」
『さっきの一発で、残りマナ、全体の十五パーセントまで落ちてたよ。ギリギリ底抜ける手前』
「……は?」
思わず、息が止まる。
『昔のセイなら、その時点でしばらく寝込んでる量。
今は、自然界のマナをちょっと噛ませてクッション入れたから、この程度で済んでるけどね』
「先に言え」
『言ったら、手を抜こうとするでしょ?』
軽口みたいなやりとりの奥で、
さっき一気に抜けていったマナが、ゆっくりと戻ってくる気配がある。
転生したばかりの頃とは、もう比較にならない。
この村にいる誰よりも、今の自分の器は大きい――それでも、さっきの契約はギリギリだった。 胸の奥には、新しくできた一本の糸。
山の煙の道と、人の村との間に張られた、
細くて重い、召喚契約のつなぎ目。
『……どう? 重さ、行けそう?』
「今日は、常時ちょっとだるい、くらいだな。でも、これは“今使ったぶん”の反動だ。明日には戻る」
冗談めかして答えながら、自分の中のマナの流れを確かめる。
確かに、今は出力が落ちている。
けれど、その代わりに得たものは大きい。
山の“別の目”と、離れた場所から呼べる“牙”。
(村にとっても、俺にとっても、悪くない取引だ)
胸の奥には、完全には消えないごく細い引っかかりだけが残っている。
そこが、スモークラインへつながる“印”だ。
山を下りる道すがら、一度だけ、試しにその印を軽く弾いてみる。
胸の奥で、金属音のような微かな響き。
次の瞬間、足元の影から、薄い煙が一筋立ち上がった。
その中から、小柄なスモークハウンドが一匹、頭だけひょいと出す。
目だけで俺を見て、短く鼻を鳴らした。
──主。
──呼んだ?
「テストだ。今日はもう、山は落ち着いてる。戻っていい」
そう言うと、煙の犬は素直に尾を振り、影へと溶けていった。
召喚陣も詠唱もいらない。
理とマナのつなぎ目を弾くだけで、彼らは“鍵”に応じて飛び出してくる。
(……これが、召喚契約の実感ってやつか)
ギルドの資料で読んだ文字列が、ようやく自分の体感として腑に落ちた気がした。
村の屋根が見えてきた頃には、太陽はまだ中空にさしかかったばかりだった。
教会の尖塔を見上げて、俺はひとつ、深く息を吐く。
『おかえり』
「ただいま」
胸の奥の新しいつなぎ目は、まだ少し馴染んでいない。
けれど、その向こう側で、山の煙の道を歩く足音が、確かに響いていた。
炭焼き小屋の煙と村の灯りのあいだで、新しく結ばれた一本の契約線。
そのずっと先、川の上流には、あの黒い膜がまだ張りついたままだ。
いつかそこに踏み込むとき、今日結んだこの一本がどれだけの命綱になるのか――
今の俺たちは、まだ知らない。
教会の裏手に回り込み、窓の下の影で一度だけ周囲をなぞる。
人の線はない。リラの表示も静かなままだ。
「……よし」
変装を解き、昼間と同じ靴と服に戻る。
窓枠に手を掛けて、部屋の中へ音を立てないように身を滑り込ませた。
机の上には、「少し体を動かしてきます」と書いた紙切れが、そのまま残っている。
『取り越し苦労で済んでよかったね』
「まあな。昼間のこと考えたら、どうせ眠れそうになかったし。体をいじめてくたびれれば、ちょっとはマシだろ」
「……その前に、泥だけ落としておくか」
靴を脱いで部屋の隅にそろえ、裾についた土を軽く払う。
手を組み、短く息を整えた。
「清浄」
ほんのわずかにマナを流すと、肌と服の表面をなぞるように、見えない風と水が通り抜ける。
汗と土埃が薄れて、匂いも軽くなる。
『うん。このくらいなら、“戦い帰り”じゃなくて“ちょっと夜に体を動かしてきました”レベルだね』
「判断基準そこかよ……」
苦笑しながら、ようやく布団のふくらみに潜り込み、
胸の奥の新しい線に意識を向ける。
……とりあえずは、明日のギルド報告で、この山犬たちのことをどこまで話すか。
その小さな線から、頭を抱えるのが先になりそうだ。




