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理を灯す少年 〜祈り万能世界で、AIを宿す俺だけが“理論魔法”を使えた件〜  作者: いい加減工房
第3章 黒い膜の匂い、煙の契約で足場を増やす

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第45話 炭焼き小屋の煙と、スモークハウンドの影

 

 夜の教会は、いつもより静かだった。

 廊下の先から、遠くミサの歌がかすかに漏れてくる。けれど、この部屋の中までは届かない。

 机の上には、白紙の紙束と、借りたままの鉛筆が一本。

『……さて、と』

 頭の中で、リラが小さく息をつく。

『約束はしちゃったからね。“明日の朝までに、危なくないひと手間を一本”』

「そこを蒸し返さなくていい」

 椅子の背にもたれながら、俺は天井を一度見上げた。

(炭焼き小屋の煙。山の上の、異常な煙。村の燃料線と、人の線。その全部を、少しでも安全側に寄せるための……)

「まずは、連絡手段だな」

『うん。バルドさんが言ってたやつ』

 リラの声が、昼の作戦会議をなぞる。

『“撤退を判断するなら、その合図が全員にちゃんと届く仕組みを考えろ”』

「言われたから、ってだけじゃないけどな」

 俺は自分の左手首を見下ろした。

「煙と音で視界も声もぐちゃぐちゃになる。そういう場面こそ、冷静に“引き際”を共有できるようにしておきたい」

『合理的だね。……じゃあ、材料を出すよ』

 リラの言葉とともに、視界の端に薄い光の板がいくつも浮かび上がる。

 ギルドの資料室を借りて、自主勉強会をした日のメモ。

「召喚」「使役」「離れた場所の様子を掴む手段」──そんな見出しの並んだページだ。

 紙をめくる感触はない。全部、リラの記憶の中身。

「……ギルドのマナ水晶の仕組み、もう一回」

『了解』

 図と文字が、見やすい形に組み替わる。

 世界のどこかに立てられた大きな水晶塔。

 そこから伸びる、細く淡いマナの線。

 その線に、自分の持つ小さなマナ水晶を“ひも付けて”通信する仕組み。

『大雑把に言うと、“共通のルートに、決められた揺らぎのパターンでマナを流すと、その揺らぎを聞き取れる人同士で会話できる”』

「つまり──線と、中継点と、合図のパターンさえ決めればいい」

 俺は鉛筆を手に取り、紙に簡単な図を描く。

 真ん中に一つ、丸。そこから、いくつも伸びる線。線の先に、小さな輪。

『真ん中の丸が、“中継石”』

「そう。今回の隊の中で、一番線の状況を見てるのは俺だから……中継点は俺が持つ。その代わり、輪のほう──受け取る側は、全員に配る」

『で、“輪”をどこにつけるか、だね』

 リラがわざとらしく問いかけてくる。

 俺は、さっき見た自分の左手首をもう一度持ち上げた。

「手首に統一しよう」

『統一?』

「耳とか足首とか、それぞれに合う場所を考えたけど……よく考えたら、“全員同じ場所につける”って、それ自体が合図になる」

『ああ、たしかに』

「手首の輪をつけている人間は、この“線”の中にいる。そう決めておけば、一目で“誰が中継に入ってるか”分かる。それに──」

 自分で言っておいて、少しだけ笑みがこぼれた。

「同じ輪っかをつけてるって、分かりやすい“仲間印”になるだろ」

『そういうの、嫌いじゃないくせに』

「やかましい」

 笑いを飲み込み、図に「輪」と書き添える。

「輪の中に、小さなマナ石を仕込む。俺の中継石と同じ“揺らぎの癖”を持たせて、決まったパターンで震えたときだけ反応するようにする」

『信号のパターンは?』

「最低限、三つ」

 紙の余白に、短く書き込む。

 ・一回、すっと冷たくなる → 注意・警戒

 ・二回、間を空けて冷たくなる → いったん停止

 ・連続してじわじわ冷たくなる → 撤退

『うん。それくらいなら、混乱しないで済むね』

「それと……短い単語だけ」

『単語?』

「ギルドの水晶みたいに、べらべら喋れるようにしちゃうと目立つ。でも、簡単な“名前”とか“方向”とかを共有できるだけでも、連携はだいぶ違う」

 紙に、さらに一行足す。

 ・一人だけ発言できる「指揮チャンネル」。

 “北”“右”“今は止まれ”くらいの短文まで。

『声そのものじゃなくて、簡略信号をパターンに変換する感じだね』

「うん。あくまで『ちょっと便利な祈り札』の範囲。教会やギルドに、“あの隊だけ妙に通話が精密だ”って思われないように」

 そこで一度、鉛筆を置いた。

 紙の上には、中央の中継石と、八つの腕輪。

 三種類の冷たさの合図と、短い指示だけが飛び交う簡易ネットワーク。

(……やりすぎず、でも足りなくもない)

『セイ』

 リラが、少しだけ声を落とす。

『この“揺らぎの癖”、どうする?』

 光の板の端に、細かい数式と波形が並んだ。

 ギルドのマナ水晶で使われている、標準的な信号パターン。

 そして、そこからほんの少しだけ外した、別パターン。

「中継石と輪は……ギルドの規格に、近づけておいてくれ」

『近づける、だけ?』

「もし、この村で作った仕組みが、どこかで広まることがあったらさ。同じ揺らぎの波長を“鍵”にしておいたほうが、将来、線を繋ぎやすい」

 自分で言いながら、心のどこかが冷たくなる。

(どこかの誰かが、この先もっと大きな濁りに飲まれかけたとき。世界中に張り巡らされた“線”ごと、何かをしなきゃいけない瞬間が来るかもしれない)

 それでも、口に出すのは一部だけにしておく。

「ただ──この村で使う分に限っては、俺とリラだけが分かる“裏口”を残しておいて」

『裏口』

「同じパターンで流れてる信号なら、少しだけ“聞き取りやすくなる”ように。誰にも気付かれない程度の差でいい」

 それは、未来の自分への貸しだ。

 そして、他人には絶対に言えない、小さな反則。

『……分かった。その設計は、私とセイだけの秘密にしておく』

「頼む」

 やりとりを終え、紙の上を見直す。

「連絡手段、ひとつ目完了。次は──矢と、山の煙のほうだな」

 次の日の朝。

 ギルド前の広場には、いつもより多めの荷車が並んでいた。

「やっぱりさ」

 矢束を数えていたコルトが、渋い顔でため息をつく。

「昨日の話、思い出してみると……矢、いくらあっても足りない気しかしないんだけど」

「同意」

 ミナが、杖の先で矢の木箱を小突く。

「濁りボアクラスが群れで来たら、一本一本大事に撃ってる余裕ないもんね」

 俺は二人の会話に割って入った。

「じゃあ、運搬のほうで少し楽をしよう」

「運搬?」

 コルトが首をかしげる。

「コルトが普段持ち歩ける本数は変えない。その代わり、“予備の矢束”を俺のボックスで預かる。前線が減ったタイミングで、俺がまとめて運んでく」

「あー」

 ミナが目を細めた。

「前にも話してた、『危ないものを運ぶだけに使う収納』の出番ね」

「そう。生き物は入れない。人も入れない。矢みたいな“飛び道具”や、封をした薬品とかだけ」

 俺は、自分の腰のポーチを軽く叩いた。

「見た目はただの腰袋。でも、中身はちょっとした矢倉にしてある。炭焼き小屋の手前までなら、まだ俺も走れるしな」

「それ、聞くだけだと反則級なんだけど」

 コルトが苦笑する。

「まあ、今回はありがたく甘えさせてもらうわ。矢の前線補給があるって分かってるだけで、撃ち方も変えられる」

「その代わり、ちゃんと“ここから先は撃たない”って線は守ってくれよ」

「分かってるって」

 矢束をいくつかボックスに預け、残りを荷車に固定する。

 準備がひと段落したところで、俺は声を上げた。

「じゃあ──もう一つの“ひと手間”、配るよ」

 ________________________________________

 教会で借りた小部屋の机を、そのまま広場の端に移したみたいな光景。

 その上に、革と布で作られた細い輪が八つ並んでいる。

「なに、それ」

 ミナが興味津々といった様子で覗き込む。

「腕輪?」

「腕輪」

 俺はうなずいた。

「今回の“連絡札”だ。札そのものは、内側の布に縫い込んであるから見えないけど、輪っかが合図を受け取る」

「ほう」

 バルドが一つ手に取ってみる。

 厚手の布と、内側に仕込んだ薄い金属板。

 指で押すと、かすかにひんやりする。

「手首に統一か?」

「はい。全員、利き手じゃないほうの手首に。輪がひとつある人は、“この線の中にいる人間”ってことにしておきたいので」

「線、ね」

 サラが、どこか面白そうに目を細める。

「で、その輪がどうなるの?」

「三種類の冷たさの合図を覚えてください」

 俺は、皆に見えるように手を掲げた。

「一回、すっと冷たくなるときは──注意・警戒。

 二回、間を空けて冷たくなるときは──一度停止。

 連続してじわじわ冷たくなるときは──撤退」

「撤退だけ妙に重たいわね」

 ミナが苦笑する。

「実際、撤退の線を決めるための仕掛けだからな」

 バルドは輪を手首にはめながら、感触を確かめた。

「これ、誰が合図を送るんだ? セイか?」

「基本、俺の“中継石”から一括で。ただ、祈りの線を借りれば、サラさんとリアンにも限定的に“送る側”になってもらえるはずです」

「なるほどね」

 サラがうなずく。

「祈りの中に、『冷たさの祝福』を紛れ込ませておけば、違和感も少ない」

「それから──」

 俺は少しだけ間を置いた。

「短い指示だけ、送れるようにしてあります。“右”“左”“一度下がって”くらいの二、三語まで」

「会話ってほどじゃないけど、最低限の指揮はできるってわけね」

「そうです。ギルドのマナ水晶みたいに、本格的な通話をするつもりはありません。あくまで、『煙と音で前が見えないときに、最低限の情報を揃えるための輪』です」

「十分だ」

 バルドが短く言った。

「声を上げられない状況で、“撤退”の合図があるのはデカい。……その代わり、全員、普段からこの輪の冷たさを“癖”で覚えておけ」

「癖?」

「そうだ。何かあったときに、“あ、冷たい。何の合図だっけ”って考えてる暇はない。腕を組む癖と一緒に、この輪に指を添えるのを普段からしておけ。体に染み込ませるんだ」

「ああ、それは分かる」

 コルトが輪を見ながらうなずく。

「弓の弦の張り具合みたいなもんだな。違和感をすぐ拾えるように、普段から触っておく」

「そういうこと」

 全員に輪を配り終え、最後に自分の手首にも一つはめる。

 内側の小さなマナ石が、リラの気配と同期して、かすかに震えた。

『接続、良好。中継石も問題なし』

(よし)

 小さくうなずき、皆を見渡す。

「今日の炭焼き小屋は、“ここまでなら踏ん張れる”“ここから先は撤退”の線を探るのが目的です。その線を決めるための道具として、この輪を使わせてください」

「頼りにしてるわよ、撤退判断役さん」

 ミナがにやりと笑う。

「じゃあ、行きましょうか。炭焼き小屋までの、最初の線探しに」

 夕方。

 山道の途中、炭焼き小屋の手前の林。

 湿った土の匂いと、木炭の甘苦い香りが混じり合う中で、俺たちは布陣を整えていた。

「小屋そのものは、Bライン扱いだ」

 バルドが大盾を構えながら確認する。

「この手前の開けた場所までが、今日の“前線”。ここを越えられそうになったら、セイの輪が撤退の合図を出す」

「了解」

 テオが、足元の土を固めながらうなずく。

 サラは小屋へと続く細い道の両側に、静かに祈りを刻んでいく。

 俺は、炭焼き小屋の煙突から上がる煙を見上げた。

(……いつも通り、とは言い難い)

 窯から立ちのぼる煙は、それ自体は正常だ。

 けれど、その向こう。山の谷間から降りてくる煙が、どこか不自然にうねっている。

『山の上のガス孔地帯。そこを棲み処にしている魔獣がいる、っていうのが学院の記録』

 昼間の作戦室で、ガランがあえて名前を伏せた一文が、頭の中でリピートする。

 リラが、その記憶の隣に別のページを重ねた。

『召喚・使役・遠隔観測の基礎メモ。……出す?』

(今かよ)

『今だからこそでしょ。ほら』

 半透明の見出しが、煙の向こうに重なる。

 ──「召喚契約の基礎(ギルド標準・抜粋)」

【定義】

 ・召喚契約とは、術者(召喚者)と精霊/魔獣/幻獣/守護獣などの

 超常存在が結ぶ「相互合意の約束」である。

 ・呼び出し条件・代償・制約・解除条件を決めることで、

 一時的にその力を安全に借りる術とする。

【対象】

 ・自我と理性を持つ存在(精霊、魔獣、守護獣など)。

 ・濁りに呑まれて理を失った魔物は、原則として契約対象外。

【前提条件】

 一、相手に自我と知能があること。

 二、主従・上下関係の線を理解し、その線を共有できること。

 三、術者だけでなく、相手側にも“恩”や利益があること。

 四、両者の意思にもとづいて「従う/預ける」に合意していること。

【契約内容の主な項目】

 ・代償……マナ/祈り/時間/物品/加護など、術者が支払うもの。

 ・制約……呼び出し回数、一度に出しておける時間、行動範囲など。

 ・維持……呼び出しているあいだに消費するマナや集中力。

 ・安全策…暴走・濁り汚染の際に契約を停止・封印する符や条件。

【禁止事項】

 ・意思ある存在を、一方的に縛り、代償や恩を与えず働かせる術は、

「召喚」ではなく「支配術」として扱う。

 ・支配術は、教会・ギルドともに原則禁止。

『……だいたい、こんな感じ』

 リラが補足する。

『要するに、“ちゃんと話が通じて”、“上下関係を分かってて”、しかも “お互いに得がある”相手だけが、正式な召喚契約の対象ってこと』

(知能あり。群れの上下があって。恩を返そうとする余地があるやつ、か)

 俺は小さく息を吐いた。

(スモークハウンドに限らず、まともな魔獣相手なら、この条件はそのまま使える)

(相手に頭があって、こっちを“主”として認めてもらうこと。見返りとして、マナや安全を渡すこと。──それが、“対等寄りの主従関係”の召喚契約)

 山の上の煙の向こうにいるスモークハウンドたちが、

 自分たちのテリトリーの異常を嗅ぎつけて、見張りに降りてきているのだとしたら。

(濁りの巣を叩いて、“お前たちの縄張りを守ったのはこっちだぞ”って見せる。

 そのうえで、マナを分けて線を結ぶ……)

 そこまで考えたところで──

『今はまだ、“机の上のシミュレーション”だからね』

 リラが軽く釘を刺してきた。

『まずは今日を乗り切ること。契約云々は、その先』

「分かってるよ」

 独り言のように返したところで、

「セイ」

 コルトの声が飛んできた。

「輪のテスト、やっとこうぜ」

「ああ」

 俺は中継石に指先を触れ、リラに合図を送る。

『注意信号、一回』

 次の瞬間、左手首の輪が、すっと冷たくなった。

 同時に、周囲から小さな息を呑む気配。

「おお……」

 テオが自分の輪をさすりながら目を丸くする。

「ちゃんと、合図って分かる」

「二回目行きます」

 間を空けて、もう一度指先を動かす。

 二度、間を置いてひやりとした感覚が走り、全員の動きが一拍遅れて止まる。

「一度停止。……いいな」

 バルドが満足げにうなずく。

「……じゃあ、最後。撤退合図」

 そう言いかけて、俺は一度口をつぐんだ。

「本番まで取っておくって手もあるけど……」

 そこで、バルドさんが首を横に振る。

「いや、だからこそ今やるべきだ」

「え?」

「本番で初めて感じる感覚に、足を止められたら意味がない。今ここで、一度だけ“訓練として”叩き込んでおく。その代わり──それ以外では絶対に鳴らすな」

 静かな声だったけれど、誰も反対しなかった。

「……分かった」

 俺は深く息を吸い込み、腕輪に意識を集中させる。

「いくよ。撤退合図」

 中継石に触れ、決めておいた揺らぎを流し込む。

 次の瞬間、腕輪が、さっきまでとは別種の冷たさで締め付けてきた。

 さっと冷えるのではなく、氷水に沈められたみたいに、

 じわじわと、逃げ場のない冷気が皮膚の内側まで入り込んでくる。

「……っ」

 思わず、誰かが小さく息を呑む気配がした。

「これを感じたら、迷わず退く」

 バルドさんが、全員を見回す。

「“もう少し粘れるかも”とか、“あと一発だけ”とかは要らん。この冷たさは、“おしまいだ”の合図だ。いいな?」

 それぞれが真剣な顔でうなずく。

「よし。撤退合図は、今日ここで確認した一回きりだ。本番までは二度と鳴らさない。だからこそ──忘れるな」

 手首に残る嫌な冷たさが、逆に心に刻み込まれていくのを感じながら、

 俺も小さくうなずいた。

「了解」

 (さて──問題は、煙の向こうだ)

 炭焼き小屋の窯の煙。

 その中に、山の谷から降りてきた煙。

 そして──そのあいだを縫うように、一本の黒い線が動いた。

「……来た」

 俺の中で、線を見る感覚がざわつく。

 炭焼き小屋から立ちのぼる白い煙の層を、

 山側から流れ込んできた薄灰色の煙が押しのける。

 その境目を、黒い線が逆流するように走っていた。

 やがて、その線が窯の前で立ち上がる。

 煙の中から、四つ足の影が形を持ち始めた。

 輪郭は、まだ揺らいでいる。

 けれど、耳と牙の形だけははっきりと分かる。

 スモークハウンド。

 山のガス孔地帯をテリトリーにする、煙の猟犬。

 煙の波長で仲間と連絡を取り合う、追跡役の魔獣。

 地面には、足跡が残らない。

 残るのは、煙の揺らぎだけ。

(危険度……三・七ってところか)

 戦えば勝てる。

 だが、その背後にいる“群れ本隊”の気配を考えると、軽々しく手を出すのは怖いレベル。

『線、どうする?』

 リラの声が低くなる。

『炭焼き小屋を越えた先まで追い払う? それとも……』

(まだだ)

 俺は、左手首の輪にそっと指を添えた。

 スモークハウンドの“目”が、こちらを見た気がした。

 光のない穴みたいな目。

 それなのに、“見られている”感覚だけが妙に強い。

(……あいつも、線を読んでる)

 山の煙の流れ。

 濁りの筋。

 炭焼き小屋から上がる、人の生活の煙。

 その全部を嗅ぎ分けて、そのうえでここまで降りてきている。

 ただの獲物目当ての魔獣なら、とっくに小屋を襲っているはずだ。

(たぶんこいつは、“ここが自分たちのテリトリーの端かどうか”を確かめに来てる)

『見張り役、ってこと?』

(たぶん)

 俺は小さく息を吸い込み、輪に意識を流した。

『注意信号、一回』

 手首が、すっと冷たくなる。

 同時に、周囲で皆がわずかに体勢を低くした。

「バルドさん」

「なんだ」

「“ここ”を線にしましょう」

 窯の手前、少し開けた場所。

 俺たちが土の足場と祈りの境界線を重ねて作った、仮の前線。

「炭焼き小屋の手前。

 こっち側には、絶対に来させない。

 逆に言えば、向こう側にいる限りは、“手を出さない”」

 言葉にして、ようやく自分の中の線がはっきりする。

 バルドが短く笑った。

「いい線だ」

 そして、大盾を一歩だけ前に押し出す。

 その動きに合わせて、サラの祈り布がふわりと揺れ、

 テオの固めた土の足場が、窯側へとわずかに伸びた。

 コルトの弓がきしり、ミナの杖の先に小さな火が灯る。

 リアンの祈りの布が、夕暮れの光を反射してかすかに輝いた。

 煙の向こう。

 スモークハウンドは、ゆっくりと窯の前へと足を踏み出した。

 炭焼き小屋の窯の中では、まだ木がゆっくりと燃え続けている。

 その上を、煙の犬が静かにまたいだ。

 けれど、その足は、土の足場と祈りの境界線の、ほんの少し向こう側で止まる。

 黒い鼻面が、こちらの空気を嗅いだ。

 俺は、呼吸をひとつ整えた。

(……ここから先は、今日の線の外だ)

 左手首の輪に、もう一度意識を流す。

『一度停止、二度信号』

 二度、間を置いてひやりとした感覚。

 皆の動きが、そこでぴたりと止まった。

「このまま、睨み合いにしましょう」

 自分でも驚くくらい静かな声だった。

「向こうが線を越えないなら、こっちも越えない。

 山の中の問題まで、今ここで手を出したら、線が一気に伸びすぎる」

 バルドが、ゆっくりと頷く。

「撤退の合図は?」

「向こうが、一度でもこっちの線を踏んだら。

 そのときは、迷わず“撤退”を打ちます」

「任せた」

 短い言葉に、全員の視線が重なる。

 炭焼き小屋の煙が、夕暮れの空に溶けていく。

 その中に浮かぶ一本の黒い線を、俺たちは全員で見つめていた。

 スモークハウンドの“視線”と、俺の“線を見る目”が、そこでかすかに噛み合う。

(お前は、“ただの敵”じゃない)

 心の中でだけ、呟く。

(山を守る側の、見張り役だ。

 もし、その目で“濁りの線”を一緒に見てくれるなら──)

 スモークハウンドの影が、煙の中でひとつ瞬いた。

 やがて、その体は、来たときと同じように、煙へとほどけていく。

 山の谷から降りてきた煙の筋が、ゆっくりと上へ戻っていく。

 地面には、やはり何一つ足跡は残っていなかった。

 村への帰り道。

 夕暮れの山道を下りながら、俺はそっと手首の輪を外した。

『……今日の線は、守り切ったね』

「ああ」

 輪の内側の布を指でなぞりながら、答える。

「明日は──“もう一歩先”の線を引く」

『山の奥?』

「うん。

 炭焼き小屋の手前までが、今日の線。

 その先、山の中腹にある“濁りの巣”までは……俺が行く」

『一人で?』

 リラの声が、わずかに低くなる。

「一人で。

 ただし、《教会のセイ》じゃなくて──前にジャッカルを討伐したときに話してた、“あっち側の俺”で」

『……変装モード、だね』

「そう」

 山の上の煙。

 スモークハウンドたちのテリトリー。

 その中に入り込んで、濁りの線を叩き、

 “お前たちの縄張りを守ったのはこっちだ”と見せる。

 そのうえで、マナを分け合い、線を結ぶ。

 頭の中で描いた「机上の契約」が、少しずつ現実味を帯びていく。

(召喚契約の一般条件。

 知能。上下関係。恩。

 スモークハウンドは、たぶん全部満たしている)

 自分のマナを三割ほど“山との線”として封じる覚悟。

 呼び出している間だけ、じわじわと削られる維持費。

 長く付き合うほど、相手が強くなっていく代わりに、

 その進化の方向を“守護獣としての線”に限定する制限。

 そして、最悪のときにだけ使う、契約そのものを切るための小さな札。

『……ゲームのルール表みたいだね』

「だな」

 苦笑しながらも、胸の奥は不思議と静かだった。

「でも、ここから先は、実際に顔を合わせてからだ。

 線を見る目と鼻を持った相手に、ちゃんと“話して”決めないと」

『うん』

 リラが、静かに頷く気配を送ってくる。

『じゃあ今夜は、変装モード用の装備と、山用のプランを詰めようか』

「頼む」

 腕輪をもう一度はめ直す。

 その冷たさは、さっきまでより少しだけ心強く感じられた。

 ──炭焼き小屋の煙と、スモークハウンドの影。

 今日引いた線の先に、明日踏み込むべき“もう一本の線”が、ぼんやりと浮かんでいた。


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