第43話 濁りボア戦のログと、《鎚灯り》の型
濁りボアの巨体から、もう新しい霧は立ちのぼっていなかった。
畝の上に横たわったまま、ただ重さだけが土に沈んでいる。
『危険度スコア、3.8。……3台前半で安定しつつあります』
(よし。“今ここで増える要素”はなさそうだな)
「――今日は、ここまでにしましょう」
俺は短剣を布で拭いながら、バルドたちに向き直った。
「この状態なら、あとはギルドの解体班と、教会の本隊に回せます」
「そうだな」
バルドが大きくうなずき、盾を背中に回した。
「ここで欲張って“もう一頭くらい”なんて言い出す奴がいたら、ぶん殴るところだ」
「言い出さないでくださいよ」
コルトが弓を肩に掛け直し、苦笑する。
「今の一頭で、だいぶ“危険の感覚”が変わりましたし」
ミナはというと、まだ爆ぜた泥の跡をじっと見ていた。
「これで“一枚だけ”なんだもんね、鎧……」
「一枚剥がしたから、みんなまだ元気で帰れるんです」
リアンが小さく笑って、ミナの腕をぽんと叩く。
サラは、Bラインの白布を静かに畳んでいた。
祈りの光が抜けたあとの布は、ただの布切れに見える。
けれど、その端には、土と汗と、少しだけ涙の跡がついていた。
「オヤジさん、ファルドさん」
俺はAラインの方へ歩いていき、二人に頭を下げた。
「畝、完全に元通り、とはいきませんけど……パンの線は、守れたと思います」
「十分だ」
オヤジが、土まみれの手で俺の肩を叩いた。
「俺ひとりだったら、とっくにここ諦めてた。……よう守ってくれた」
「ボアの肉も、ちゃんと村に戻しますから」
ファルドが、まだ少し震える声で言う。
「明日、親父と一緒に、きっちり燻製にしてやります」
(パンの線と、パンの具材か)
それはそれで、悪くない落としどころだ。
「じゃあ、いったん撤収だ」
バルドが全員を見渡す。
「ファルドさんとオヤジさんは、灯籠と畝の見回りだけ続けてくれ。今日は“ここから奥へは行かない”」
「はいよ。……約束だぞ」
オヤジが俺たちを順番に見回してから、しっかりと頷いた。
俺たちは、段々畑をゆっくりと下りはじめた。
振り返れば、Bラインの白布が一本、風に揺れている。
さっき見たときより、やっぱり少しだけ軽く見えた。
村へ戻る道すがら、誰も派手にはしゃがなかった。
けれど、足取りが絶望的に重いわけでもない。
危険と安堵が半々、その上に、ほんの少しだけ誇らしさが乗っている。そんな空気だった。
『ログ保存完了。“濁りボア戦 A-1”として登録しました』
(A-1?)
『はい。“鎚灯り+灯+教会サブ班、濁りボア規模への初動パターンA”です』
(ずいぶん長い名前だな)
『後で短くしましょう。“鎚灯り型・パン守りパターン”とか』
(それを口に出したら殴られるぞ)
「セイ?」
隣を歩いていたリアンが、首を傾げた。
「ちょっと、顔が緩んでました」
「いや……ここから“危険の話”をしなきゃいけないな、と思って」
「……そうですね。今日は、ちゃんと数えた方がいいです」
夕暮れどき、ギルド二階の小部屋。
いつもの打ち合わせ用の机の上に、俺は簡単な地図を広げていた。
段々畑を横から見た断面図と、上から見た図。
そこに、赤と青と黒の線を、できるだけシンプルに書き分ける。
「じゃあ、始めようか」
バルドが椅子に深く腰掛け、腕を組んだ。
周りには、テオ、サラ、コルト、ミナ、リアン。
ガランはまだ一階で別の報告をさばいていて、「先にお前たちだけで反省を出しておけ」と言われている。
「まずは、ざっくり三本だ」
俺は地図の上で、赤い線を指でなぞる。
「一本目、“突進を止める場面”。二本目、“鎧を剥ぐ場面”。三本目、“核まで通す場面”。それぞれ、誰が何をしたか、どこが危なかったかを共有したいです」
「名前付けると、急にそれっぽいな」
コルトが苦笑する。
「俺は一と三だな。矢の仕事」
「俺は一と二か」
テオが頷く。
「足場と風と土。あと、酸素」
「私は二。あと、ちょっとだけ一?」
ミナが胸の前で指を折る。
「最初の一発、あれがなかったら“ここが薄そう”って当たりがついてなかったし」
「サラと私は、一と三の“下地”ですね」
リアンが続ける。
「足と心を持たせる祈り。……それと、最後の霧を薄くするところ」
「俺は……三の、最後の一歩だけだな」
短剣を握った右手の感覚を、思い出しながら言う。
「それ以外は、後ろで線を数えていただけです」
「それが一番大事なんだがな」
バルドが、ふっと笑った。
「“どこで危険だと決める奴”がいなきゃ、俺らはいつまでたっても猪と一緒に突っ込むだけだ」
そう言われると、ちょっと背中がむずがゆい。
「じゃあまず、突進止め場面から――」
その瞬間。
コンコン、と軽く扉が叩かれた。
「入るぞ」
ガランの声だ。
扉が開き、ギルドマスターが顔を出す。
その横に、もう一人。
土の匂いをまとった男――ファルドが、少し気まずそうに頭を下げていた。
「悪いな。呼び戻した」
ガランが短く言う。
「“見回り”の件で、本人の口から一回聞いといた方がいいと思ってな」
「……すみません」
ファルドが喉を鳴らして、地図を覗き込む。
「俺、畑の当番で、朝からちょいちょい見てたんです。……あそこ、変でした」
俺は、ペン先で畝の角をトントンと叩く。
「ここの話ですか」
「そう。そこ」
ファルドが頷く。
「確かに、あのへん、朝からずっと水溜まりが残ってました。畝の裏が、いつもより柔らかかったんです」
「……マジか」
テオが目を細めて地図を覗き込む。
「それが分かってたなら、事前に土を締められたな」
「俺の感覚でも、“ちょっと嫌な柔らかさ”はあった」
バルドが顎に手を当てる。
「だから半歩後ろに引いた。……が、あの半歩だけじゃ足りなかったってことか」
「はい」
俺は、畦道側に小さな矢印を書き足した。
「今後“似た状況”では、テオが“簡易土杭”を打つ位置を、足のすぐ後ろだけじゃなく、一歩後ろの安全地帯に増やせるといいです。前はギリギリ、後ろは絶対崩れない場所。二カ所用意しておけば、バルドさんがどっちへ逃げても持ちます」
「ふむ……」
テオがうなずいた。
「杭の本数は増えるが、やれない量じゃないな。土の締まりを確かめる時間を事前にもらえれば」
「そこで“事前の危険確認時間”を取るわけです」
俺は少し笑う。
「突っ込んで来る前に、一呼吸。“ここが嫌だな”って思ったところは、全部テオに言ってほしい」
「嫌なところだらけだったらどうする?」
コルトが茶々を入れる。
「そのときは、“今日は帰る”でいいんじゃないですかね」
「……そうか」
バルドが少しだけ真面目な声で言う。
「そういう選択肢も、もう一回確認しとくべきなんだよな」
「次、“鎧剥ぎ場面”」
俺は地図の、濁りボアの背中のあたりを指で叩いた。
「ミナのファイアボルトと、テオのオキシブースト、それからアースウォールの位置取り。ここは、成功例としてそのまま残していいと思ってます」
「えっ、ほんと?」
ミナがぱっと顔を上げる。
「はい。ただ、もし爆発でもっと深く泥が削れてた場合、こっち側に吹き返しが来た可能性がある。次からはもう半歩だけ高く、厚くしてもらえると」
「了解。じゃあ次からは“熱と泥を受け止める用アースウォール”で分けとく」
ミナの声には、明らかにやる気が乗っていた。
「オキシブーストの方は?」
テオが俺を見る。
「完璧でした。ただ、一回であそこまで燃えたってことは、盛りすぎると周りの空気まで一緒に燃えるってことでもあります」
『燃焼ログ的には、あと一・五倍で“こちら側にも被害”ですね』
(だよな)
「だからテオには、すぐに上を狙わないでほしい。今は“狙いがきっちりついたときだけ起こす必殺剥ぎ”として使いましょう」
「了解。しばらくは“二連コンボ前提の二発目用”で固定だな」
テオは腑に落ちたように頷いた。
少し空気が落ち着いたところで、俺はペンを置いた。
「……三本目に行く前に、一つ聞いていいですか」
バルドの方を見る。
「バルドさんは、今日どこで一番“危険”を感じました?」
「そうだな」
バルドは腕を組んだまま、しばらく天井を見てから視線を戻した。
「突進を受けた瞬間も怖かったが……一番ゾッとしたのは、そのあとだ」
「そのあと?」
「押し返し始めたときだよ」
バルドが、自分の足型の位置を指でとんとんと叩く。
「牙を受けて、足場も持って、“まだ行ける”って分かった瞬間な。あのとき一瞬だけ、“もう半歩前に出れば押し切れるかも”って欲が出た」
部屋の空気が、少しだけ重くなる。
「昔の俺なら、たぶん出てた。でも今日は――」
バルドは、Bラインの線を指でなぞった。
「セイに言われた“Bライン最優先”が頭から離れなかった。パンの線を守るって約束もな。だから足を止めた。……止められた自分に、あとからじわっと怖くなった」
「半歩で、誰が死ぬかが変わる」
俺は小さく息を吐いた。
「ああ」
バルドが頷く。
「今日みたいな戦いが続くなら、俺はその半歩を毎回、ちゃんと怖がらにゃならん」
俺は、地図の端に小さく書き足す。
――“前に出る条件”。
・撤退ラインをまだ割っていないこと。
・誰かが次の一撃を耐えられないと判断されたとき。
・一撃で状況がひっくり返せる筋が一本見えたとき。
「この三つが同時に揃ったときだけ、俺は前に出ます。それ以外は、どれだけ行けそうでも行きません」
しばらく、誰も口を開かなかった。
沈黙を破ったのはサラだった。
「……いいと思います」
サラは、指で布の端をつまみながら言う。
「私たち祈り手も、“どこまで願っていいか”を迷います。でも、線が言葉になってると、安心できます」
「今日は……最後の一歩、ちゃんと“押しつけずに”引けた気がします」
リアンが続けた。
「大げさだって」
思わず頭をかく。
「大げさでいいのよ」
ミナが笑った。
「今日、誰も死ななかったんだから。大げさに褒めといて、次もそうするために“危なかったところ”を残す。それでしょ? セイのログ」
「はい。あとで読んだ人が、“ちゃんと危険になれる”材料になるように」
そこで、ガランが机の端に手を置いた。
最初から全部聞いてた顔だ。
「いい。……よくできてる」
短く言ってから、目を細める。
「濁りボアの件は、王都本部にもすぐ上げる。解体班にも回す。あいつらは“崩れた場所”の情報があると仕事が早い」
俺は背筋を正す。
「名前は伏せてくれますよね」
「もちろんだ。書類上は“撤退判断役”くらいで十分だ」
ガランは軽く笑う。
「向こうが欲しいのは、お前の名前じゃない。“怖がり方の手順”だ」
俺は地図の端に書き込む。
――濁りボア戦ログ:共有先・王都本部。
「で、次の話だ」
ガランが視線を上げる。
「今の七人。鎚灯りと灯。この組み合わせを、しばらく固定にする。濁り絡みが来たら、基本セットとして出す」
全員が固まる。
バルドが先に口を開いた。
「……それ、ギルドの方針ってことでいいのか」
「ああ」
ガランが頷く。
「名前は味気なく、“エルディア第一濁り対応班”でいい。現場の呼び方は好きにしろ」
「現場では勝手に呼べってやつだな」
コルトが小さく笑う。
「ただし、浮かれるな」
ガランは笑わないまま続けた。
「濁りボアを一回止めた程度で、“村の外が終わった”とは思うな。むしろ、ここからだ」
そう言って、視線を扉の向こうへ向ける。
「明日から三日は、危険度の低い仕事で体を整えろ。畑の見回り、荷運び、柵の修理。……線を越えない仕事を回せ」
(……三日)
その区切りが、なんだか嫌に具体的だった。
「それと」
ガランが最後に、ぽつりと付け足す。
「炭焼き小屋の方、夜に“煙が妙だ”って話が出てる。見回りを増やす。……犬みたいな影を見たって爺さんもいる」
ミナが目を瞬かせる。
「犬?」
「犬かどうかは知らん。だが、“燃えると困る場所”の近くだ」
ガランが言う。
「短い線ほど、切れたら面倒になる。覚えとけ」
窓の外では、村の灯籠にひとつずつ灯りが入っていくところだった。
今日守ったパンの線の向こうで、また別の線が引かれようとしている。
その線が、ちゃんと危険になれる人たちの手で引かれますように。
そう思いながら、俺はペンを置いた。




