第42話 濁りボアと、パンの線
畝の上から、奴がぬるりと出てきた。
まず見えたのは、泥だらけの鼻先と、曲がった牙だ。
続いて、肩のあたりまで黒い土をまとった胴体が斜面の縁を越える。
毛は、ところどころ束になって固まっている。
ただ濡れているだけじゃない。
川底の泥と、黒い膜と、腐った草をまとめて塗りたくったみたいな、嫌な色だ。
体格は、普通の巨大イノシシよりひと回り大きい。
背中が、俺の胸の高さより上にある。
(……あれが、“濁りボア”候補ってやつか)
『外見パラメータ、巨大イノシシ+濁り付着。分類は濁り獣で仮置きですね』
ごう、と。
喉の奥で岩を転がしたみたいな唸り声が、段々畑の土ごと震わせた。
『危険度スコア、4.9。……ぎりぎり5未満です』
(ここで跳ね上がったら、迷わず叫ぶ)
俺は一度、Bライン上の白布と、その先の一段目の畦道――Aラインを確認する。
そのどちらも越えさせない、という線を頭の中でなぞる。
「前衛、位置そのまま。突っ込みを待つぞ」
バルドの声が、低く、はっきり響いた。
右足を、崩れかけた畝のギリギリに一歩出す。
左足は畦道側に半歩残す。
重心は、わずかに後ろ。
いつでもBラインの上に、腰ごと引き戻せる場所だ。
「テオ、畝の端、印つけておけ。滑りやすい場所と、逆に固い場所、両方だ」
「了解。簡易土杭、三本追加します」
テオが杖の先で土を叩いた。
畝の端に、拳大の盛り上がりが三つ、ぽこりと顔を出す。
ミナは一段上から、両手を胸の前で組み、息を整えている。
サラとリアンは、Bライン上の白布のところに膝をつき、祈りの準備だ。
俺はバルドの斜め後ろ、一段上の畦道に右足を一歩置いた。
村側へ抜ける道と、濁りボアの突進線、その両方が見える位置だ。
『隊列確認。前列にバルドさんとコルトさん。中列にミナさんとテオさん。後列にセイさん、リアンさん、サラさん』
(オヤジとファルドは?)
『Aラインより後ろ。ガランさんの指示で、さらに一段上に下がりました』
(よし。“パンの持ち主”は線の外)
濁りボアの前足が、畝の縁を踏みしめた。
泥がじわりと沈み、蹄の周りで黒い水がにじむ。
そのまま、頭を低く下げた。
牙が、畝の土を削る高さまで降りる。
(来る)
『突進予測。初速は人間の全力疾走以上。距離、十歩』
「――来るぞ!」
バルドが叫び、盾を前に一歩出した。
次の瞬間、濁りボアの体が、斜面を滑り落ちるように前に出た。
四つの蹄が、泥を高く跳ね上げる。
その泥が飛ぶ軌道の先に、バルドの右足がある。
(あのままだと、畦道ごと削られる)
俺はバルドのかかとが乗るあたり――畦道の土の一点に視線を落とした。
そこから、細い線が土の奥へ沈んでいくのが見える。
(ここを、少しだけ固く)
『局所理術、出力1。土の締まりを少しだけ上げます』
足元の土の線がきゅっと締まる感覚が、足裏越しに伝わってきた。
バルドは、右足を半歩だけ後ろに引いた。
重心を畦道側にわずかに移し、盾の角度を牙に合わせる。
どすん、と。
盾と牙がぶつかる重い音が、腹に響いた。
バルドの足が、畦道の土にめり込む――が、そこで止まる。
膝も腰も折れない。半歩後ろに引いていた分だけ、衝撃が土の中へ逃げていく。
『衝突ライン、ギリギリBライン上で止まりました』
「コルト、肩!」
「了解!」
コルトが、バルドの左肩越しに半歩だけ横へずれる。
前には出ない。盾の斜め後ろ、矢を通せるぎりぎりの位置だ。
左足を少し開き、弓を引き絞る。
狙うのは、濁りボアの肩と泥の境目――一瞬だけ見えた筋。
「風よ、その矢の背を少し押せ」
テオの短い声が飛んだ。
コルトは、眉をぴくりと動かしただけで、弓から指を離す。
放たれた矢が、盾の縁すれすれをかすめて飛び出した。
本来の軌道なら泥に弾かれるはずの角度だ。
その矢羽根のあたりを、細い風が一度だけなでる。
矢が、肩口の泥を割ってずぶりと刺さった。
血と黒い水が混ざったものが飛び散る。
だが、根元までは届かない。肩まわりに固まった泥が、鎧みたいに矢柄を受け止めていた。
「……今の、風がなかったら止まってたな」
コルトが小さく息を吐いた。
「初めてやったけどな。矢の背を押すの、結構いけるだろ?」
テオが、いつもの落ち着いた声で言う。
「悪くない。――もう一射いく」
コルトの声に、俺は頷いた。
「テオ、今度は“同じところ”を狙う。二射目は本命だ、さっきの倍くらい押してくれ。軌道の微調整も任せた」
さっきの傷の奥に、心臓の方向へ細い線が一本伸びているのが見えた。
同じ筋をなぞれれば、その線のもっと奥まで届く。
「倍は盛りすぎだが……さっきよりは強く押す。ぶれさせるなよ」
「ぶれさせないようにします」
サラが、Bラインから声を上げた。
「命の線を、腕と足から支えます」
リアンも、その隣で祈りの印を結ぶ。
コルトは一度目を閉じ、静かに息を吐く。
左足を畦道に深く据え、右足で地面を軽く蹴るように踏み込んだ。
「風よ、その矢の道筋をなぞれ。さっきより、半歩ぶん強く」
テオの詠唱が重なる。
放たれた二射目の矢は、さっきよりわずかに速かった。
羽根のところで、細い風がずっと背中を押している。
矢が、一射目で割れた泥の隙間に吸い込まれていく。
さっきの傷の内側――泥の薄い線をなぞるように。
泥を割り、肉を裂き、今度は肩の奥まで深く潜り込んだ。
「よし、今のは入った!」
コルトの声と同時に、濁りボアが大きくのけぞる。
左側の前足がわずかに崩れ、巨体のバランスが乱れた。
「……これ、慣れたらもっとえげつないことできそうだな」
コルトが、弓を握り直しながらぽつりと言う。
「危険度スコアが跳ね上がらない範囲でな」
テオが、いつもの調子で返した。
『風+矢コンボ、初回ログ保存しておきます?』
(しといてくれ。“今後のコンボ候補”ってタグもつけといて)
「ミナ!」
「分かってる!」
ミナが杖を突き出した。
「《ファイアボルト》!」
圧縮された熱弾が、濁りボアの背中めがけて一直線に飛ぶ。
着弾の瞬間、小さく爆ぜた。
毛が焼けて、黒い泥の表面に焦げ跡が残る。
本来、普通の魔物相手なら外皮ごと吹き飛んでいていい威力だ。
だが、その奥まではまるで届いていない。
爆ぜた熱と衝撃を、泥がぐっと飲み込んだ。
『濁りが、熱と衝撃の両方を吸っていますね。“熱弾キラー”みたいな鎧です』
(やっぱり、“濁り相手”だと一段重いな)
「ミナ、もう一発! さっきと同じところ狙えるか!」
「……同じとこでいいの? さっき、あんまり効いてなかったけど」
ミナが一瞬だけ眉を寄せて、ちらりとテオを見る。
「今度は俺が酸素を送る。熱弾で“狙い”だけつけてくれればいい。あとは任せろ」
「……そこまで言うなら――任せた!」
ミナが息を吸い直し、もう一度杖を構えた。
「《ファイアボルト》!」
二発目の熱弾が、さっきと同じ焦げ跡めがけて飛び出す。
「《オキシブースト》!」
テオが杖を横に払った。
飛んでいく熱弾のまわりの空気がきゅっと締まり、その一点に酸素が集まっていく。
熱弾が背中に突き刺さった瞬間、溜め込まれた酸素ごと、爆発的に燃え上がった。
鈍い破裂音とともに、泥鎧の一部が内側から弾ける。
黒い泥が砕け、ひび割れの隙間から、赤く焼けた皮膚が細く覗いた。
それでも、削げたのは鎧の一枚ぶんだけだ。
その下には、まだ分厚い濁りの層がどっしり残っている。
『今ので“通常相手なら装甲ごと蒸発”クラスですが……濁り鎧には、ようやく一枚剥がした程度ですね』
(十分だ。ここまで剥がせれば、あとは重ねられる)
「土で囲う。《アースウォール》、低め」
テオの杖が地面を打つ。
今、爆ぜた部分の両側に、膝の高さほどの低い土壁が立ち上がった。
吹き飛んだ泥と熱が、畑側に広がらないよう、土が壁になって受け止める。
熱そのものはさっきまでと変わらないが、“どこで受け止めるか”だけをぎりぎりで絞っている。
「サラさん、リアンさん!」
「はい!」
サラが、Bラインの白布に手を置いた。
リアンも、その手の上に自分の手を重ねる。
「大地と防御の神よ。この盾を支え、バルドさんの腕と足に、あと一歩ぶんの力を」
「命の線が切れないよう、この場に立つ者の息と心を支えてください」
二人の声が重なった。
白布から、淡い光がじわりと広がる。
俺の足の裏に、土が少しだけざらつきを増す感触が伝わった。
同時に、バルドの肩と腰のあたりから、ふっと力の通りが良くなる気配がする。
『祈りは仲間の体にはきちんと届いています。全快ではありませんが、“さっき潰れかけた一歩ぶん”筋肉の出力が底上げされています』
(濁りそのものには通りにくくても、“こっち側”を支える力はいつもどおりか)
バルドが、ぐっと踏ん張った。
「――押し返す!」
右足を半歩前に出す。
畦道側に乗せていた重心を、今度はほんの少しだけ前に送る。
盾が、じわじわと前へ出る。
二発分の熱と小爆発でわずかに薄くなった側面装甲を押されて、濁りボアの牙が畝側の泥を削りながら、Bラインから押し戻されていく。
「今!」
テオの声が飛んだ。
杖を振り下ろすと、先ほど立てておいた土杭の一つが、濁りボアの後ろ足のすぐ後ろで、ぱきんと砕けた。
砕けた土が泥と混ざり、その一帯だけ一瞬ぬかるみになる。
押し返されかけていた後ろ足が、そのぬかるみにずぶりと沈んだ。
巨体のバランスが崩れる。
前後の足の高さがずれた。
巨体が前のめりに傾く。
「コルト、左! 首の付け根!」
「了解!」
コルトが、バルドの左肩越しに畦道側へ半歩ずれる。
前に出した左足に重心を乗せ、静かに弓を引き絞った。
狙うのは、さっき熱弾と爆発で泥鎧が薄くなった、首と肩の境目だ。
「《ウィンドガイド》、矢筋補正」
すぐ後ろで、テオが低く呟く。
弦を放った瞬間、細い風が矢羽根のあたりを一度だけなでた。
矢が、盾の縁すれすれをかすめて飛び出す。
さっき剝がした泥鎧の隙間を抜け、濁りボアの首の付け根にずぶりと食い込んだ。
手応えは、さっきまでとは明らかに違う。
泥で止まる前に、肉の奥まで刺さっている。
濁り混じりの血が矢柄の根元から噴き出した。
ボアが喉を鳴らして暴れ、頭を左右に振る。
(まだ“線”の途中だ。けど今ので、核までの道はだいぶ太くなった)
コルトはすぐに次の矢をつがえる。
バルドは暴れる首を盾でいなしながら、一歩もBラインを割らせないよう踏ん張っていた。『危険度スコア、4.93。動きの乱れで、一時的に上昇』
(このまま畝を全部崩されたら、5を超える)
「バルドさん、無理に追わないで! Bラインを割るのが最優先です!」
「分かってる!」
バルドは、あえて一歩下がった。
右足を畦道側に一歩。
左足を半歩引いて、また“いつでも退ける立ち方”に戻す。
濁りボアは、その場で体をひねって暴れた。
崩れかけていた畝が、さらにぐしゃりと潰れる。
土の塊が滑り落ち、三段目と二段目の境目に小さな崖ができた。
(あの崩れ方は、使える)
『自己流体術、提案。崩れた土の“滑り筋”を、少しだけずらしますか?』
(頼む。“たまたま崩れた”くらいで)
俺は右足を半歩だけ前に出した。
視線を、崩れた土の一番上の角に向ける。
(ここが、落ちる線)
足裏から、土の中の水の流れをなぞる。
ほんの少しだけ、粒の並びをずらすイメージを送る。
『局所理術、出力1。土の抵抗値を、5%だけ下げます』
ぱらり、と。
崩れた土の角が、さらに一塊、滑り落ちた。
その瞬間、濁りボアが後ろ足で踏ん張ろうとした。
その足が、ちょうど崩れた土の上に乗る。
ずるっ。
後ろ足が外側に滑った。
体が畝側に傾く。
前足は、まだ畦道の端を掴んでいる。
そのせいで、首から肩にかけての筋肉が、一瞬だけ伸びきった。
(――今だ)
「バルドさん、半歩右!」
俺は叫びながら、右足を斜め前に一歩出した。
バルドの斜め後ろ、高い位置から、ボアの首の付け根が見える場所だ。
バルドは迷わず、右足を半歩右へ送った。
俺の視界から、盾が首元の前を開ける。
滑った後ろ足と、まだ畦道の端を掴んでいる前足。
そのアンバランスのせいで、濁りボアの体は自然と畦道側へ倒れ込む。
伸びきった首が、畦道側に露出した。
(線が、一本だけまっすぐになった)
俺の視界に、濁りボアの首から胸の奥へ向かって、細い線が一本伸びた。
そこが、濁りの核へ届く道だ。
『危険度スコア、4.87。今なら、一撃で“帰れる線”を作れます』
「……“命が落ちる瞬間だけ前に出る”って約束、覚えてます?」
(覚えてる。だから今だけ、だ)
俺は腰の短剣の柄を握った。
刃そのものは、村で使っている“ちょっといい短剣”のまま。
リラがほんの少しだけ、刃の縁にマナの膜を重ねる。
『補正モード、出力一段階。見た目の変化はありません』
右足を、畦道の端まで一歩出す。
左足を半歩後ろに残す。
いつでもBライン側に戻れるように。
そのまま、体を少し捻って、腕だけを前に伸ばした。
短剣の刃が、首の筋肉と泥の隙間に触れる。
そこで一度止める。
(深く、でも派手には切らない。核だけを、なぞる)
息を吐きながら、刃をななめ下へ滑らせた。
感触が変わる。
肉を裂く手応えのあとで、刃先が、何か固いものをなぞった。
そこだけ、冷たい硝子を割るみたいな感覚が走る。
次の瞬間、濁りボアの体がびくん、と跳ねた。
喉の奥でくぐもった声を一度だけ上げ、そのまま力が抜けていく。
泥に埋もれていた首の奥から、黒い霧がふっと漏れた。
それが、畑の上に散りかけて――サラとリアンの光に触れた。
霧の輪郭が、わずかに整う。
黒一色だったものが、灰色に薄まりながら、空に溶けていった。
『濁り核、消失確認。周辺マナ、ゆっくりと均一化中』
(……通ったな)
濁りボアの巨体が、畝の上に崩れ落ちた。
土と泥が、重たく揺れる。
コルトはいったん弓を下ろし、体勢を戻す。
バルドも、盾を構えたまま一歩下がった。
「全員、まだ油断するな。二の矢がないか確認してからだ」
バルドの声は、さっきより少しだけ軽い。
『危険度スコア、4.9から4.1へ低下。……3台まで下がるまで、数分かかりそうです』
(5に届く前に、止められた)
俺は短剣をゆっくり引き抜いた。
刃についた血と泥が、ぽたぽたと畦道に落ちる。
息を大きく三回吸って、同じ回数だけ吐く。
胸を大きく上下させて、“疲れたふり”も忘れない。
『疲労度、実測では“軽い散歩”レベルですが』
(そこは黙って合わせとけ)
「セイさん!」
少し離れたところから、ファルドの声がした。
振り向けば、Aラインの手前で、オヤジと一緒にこぶしを握りしめている。
二人とも土まみれの手で、帽子をぎゅっと押さえていた。
「そっちはまだ来ねえ。……ここまでだな、今日は」
バルドが、畑全体をぐるりと見渡す。
崩れた畝はあるが、灯籠の列より内側には、まだ大きな傷はついていない。
「セイ。“パンの線”は、守れたか?」
問われて、俺は段々畑の一番上――小麦の黄金色になりかけた穂を見上げた。
風が吹いて、穂が一度だけ揺れる。
その向こうに、村の屋根が見えた。
「……はい。パンも、命の線も、今日は両方守れました」
そう答えたところで、リラが静かに付け足した。
『今日のログ、どうします? “危険度5未満で抑えきれた現場例”として扱ってもよさそうですが』
(そうだな。“ギリギリで止められた例”として残しておこう)
俺は短剣を鞘に戻しながら、もう一度Bラインの白布を見た。
風に揺れるその布が、さっきより少しだけ、軽く見えた。
――村の畑の土の上に、“帰れる線”を一本引いた日として。
この日のログは、きっと誰かの「怖くなるための材料」になる。
そう思いながら、俺は畝の上の巨体を見下ろし、どこまでを村に見せるか、どこからを隠すかを、静かに考え始めた。




