第40話 線を読み合わせる日
翌朝、ギルドの鐘が三つ鳴ったころ。
俺は、胸のあたりがいつもより落ち着かないのを自覚していた。
(……胃が重い)
『心拍数は、普段の講習前より一割増しですね』
(黙れログ管理AI)
『ちなみに原因候補の一位は、「自分で書いた“心情ログ”を人前で読まれるかもしれない不安」です』
(やめろって言ったろ昨日のうちに)
宿の簡単な朝食を腹に入れて、顔を洗い、装備はごく軽め。
今日は外に出ない。
剣も短槍もいらない日だ。
その代わり、腰のポーチには折りたたみ地図と、昨日までの小さなメモ。
川沿いのA/B/Cラインに、自分で赤鉛筆で印をつけた紙だ。
『講習資料ですね』
(うん。どうせ、途中でガランさんに何か振られる)
ため息を一つ吐いて、ギルドの扉を押し開けた。
大広間の手前には、もう人だかりができていた。
D/Eランクの若い連中だ。
昼の依頼前なのか、軽装のままのやつが多い。
「セイさん!」
トムが手を振る。
隣にはナナと、あのとき西側講習にいた顔ぶれがちらほら。
「おはよう。全員、ちゃんと起きてきたか」
「起きますよこんなの」
「“怖くなって帰ったやつを褒める会”なんですよね、今日」
ナナが、半分わくわく、半分不安、という顔で言う。
「……あれ、もう噂になってるの?」
「リーナさんが言ってました」
「『支部長がそう言ってた』って」
トムが肩をすくめる。
「でも、“褒める会”って言われると、逆に緊張するなあ」
「褒められる側って、慣れてないもんな」
「セイさんもでしょ?」
ぐさりと刺さったので、笑ってごまかした。
大広間の扉は、いつもより大きく開かれていた。
中に入ると、普段は丸テーブルが置かれているスペースが空けられ、その奥に長机が三列。
ギルド側、教会側、学院側で、それぞれ代表が座る形になっている。
壁際の一面には、でかい地図板。
川上流に向かって、灰色の帯が一本。
その帯に沿って、赤と青と白の布が小さく貼り付けてある。
AラインとBラインの赤。
Cラインの青。
それから、祈り場と灯籠を示す白。
(昨日のうちに、まとめてあったのか)
『はい。ガランさんたち、けっこう夜遅くまで会議室にいましたよ』
視界の端で、リラが小さな透明ウィンドウを開く。
濁り密度のグラフ、祈りの揺れ回数の表、危険度スコアの折れ線。
昨日見たやつの、きれい版だ。
(……本番仕様って感じだな)
「お、来たな」
前のほうから手を挙げたのは、ガランさんだ。
支部長席の左隣には、マルセル神父。
右には学院のレオン。
その少し後ろ、ギルド側の列には、リーナや解体班のヒューゴ。
教会側にはリアンとセラ。
学院側には、見慣れない年配の術者も一人座っている。
「《灯》と《鎚灯り》は、前のほうだ」
ガランさんが顎で示す。
「お前らは今回の“現場班”だ。
後ろの若いのに見せたいものがある」
言われた通り、俺たちは前列の右側に並んだ。
背後から、D/Eランクのざわめきと椅子のきしむ音がする。
やがて鐘が一つ鳴り、大広間の扉が閉じられた。
ざわめきが、すっと引く。
ガランさんが、ゆっくりと立ち上がった。
「よし。じゃあ――始めるか」
低い声が、板張りの床と壁に吸い込まれていく。
「今日の題目は一つだ。
“上流祈律帯予備調査は危険だったか。
もし危険だったなら、どこで、どうやって、誰が“帰る”と言ったのか”」
言葉の一つずつを、かみしめるように区切っていく。
「結果は知ってる通り、全員生存だ。
死人も、重傷者も出していない。
だから、外から見りゃ“成功”だろう」
そこで、わざと少し間を置いた。
「だが今日の会は、“成功したからよし”じゃない。
“怖くなって帰ったやつを、村できちんと褒める会”から始める」
後ろのほうで、若い連中が小さくざわついた。
隣でミナが、こっそり俺の袖をつまむ。
「ほんとに言った……」
(言うって言ってたろ)
「まず、現場の話を聞く前に――」
ガランさんが、俺たちの列を見回す。
「上流に行ったやつ、全員立て」
俺たち《リュミエルの灯》と、《鎚灯り》。
それから、ギルド側から数名、教会側からセラ、学院側からレオン。
十数人が立ち上がった。
「こいつらは、“危険だから帰る”と言って帰ってきた連中だ」
ガランさんが、人差し指でこちらを示す。
「まずは村として、そこに拍手しろ。
“ちゃんと帰ってきた”ことに、だ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、後ろのほうからぱらぱらと拍手が鳴り始めた。
トムとナナが一番手。
それにつられるように、D/Eランク、ギルド職員、教会の若い祈り手たち。
広間中に、手のひらの音が広がっていく。
(……やめろ、照れる)
『照れログ、記録しておきますね』
(削除しとけ)
小さく肩をすくめながら、頭を下げた。
「よし、座れ」
ガランさんが手を挙げると、拍手がすっと収まる。
「今ので分かったな。
“危険だから帰る”と言って戻ってきたやつに、村は拍手をする。
それが今日ここにいる連中全員の、最低限の合意だ」
後ろの椅子の列で、何人かが小さく頷くのが見えた。
「で、そのうえで――」
ガランさんは、壁の地図板のほうを向いた。
「実際、どこまで行って、何があったのか。
数字と祈りと“怖かった”を並べて、線を読み合わせる」
まず立ち上がったのは、レオンだ。
転送板を持ったまま、地図板の左端に立つ。
「では、学院側の観測ログから。濁り密度と環境マナの揺らぎについて、ご報告します」
淡々とした口調だが、声はよく通る。
転送板に指を走らせると、地図板の上に淡い光の線が浮かび上がった。
川沿いの灰色の帯に重なるように、オレンジ色の折れ線。
『こっちは、昨日のグラフの本番表示ですね』
(だいたい同じか)
「こちら、行きのAラインからBライン手前までが、危険度四から五台。Bラインを越えたあたりから、濁り密度が上昇し始め――」
レオンの指が、折れ線の上をなぞる。
「およそ、このあたりで六台。ここが、昨日皆さんが“足が重くなってきた”と証言されていた地点です」
大広間のあちこちで、うなずきや小さなざわめきが起きる。
俺も、あのときの足の重さを思い出していた。
「さらに、Cライン近傍。ここで一時的に危険度七台前後へと跳ね上がっています」
折れ線が、ぐっと上へ突き出る。
「黒い膜の盛り上がりと、濁り獣の出現が重なった地点。濁り密度の異常値が、はっきりと出ていました」
次に立ったのは、セラだ。
胸の前で手を組みながら、一歩前へ出る。
「教会側の祈りログです」
彼女の前にも、薄い板が一枚。
そこには、一定の間隔で並ぶ小さな峰のような線――祈りの揺れの回数が記録されている。
「AラインからBライン手前までは、祈りを流すと、すぐに“戻ってくる”感じでした。祈りの線が、軽く揺れて、また真っ直ぐに」
セラは、片手で空中に一本の線を描き、それを指で軽く弾いて見せる。
「ところが、ここ。Bラインを越えて、濁りの気配が濃くなり始めた帯では――」
指先が、記録板の中ほどを示す。
「祈りを流すと、“ねじれて戻る”感覚が何度かありました。いったん向こう側で絡め取られて、少し遅れて戻ってくる。回数としては、行きで四回、帰りで二回」
大広間に、少し重い空気が落ちた。
祈りが“ねじれて戻る”。
それは、この世界の人間にとって、ただの数値以上の意味を持つ。
『祈りの伝送路に、濁りのノイズが乗ってる状態ですね』
(言い方を変えると、もっと怖くなるからやめろ)
「そして、Cライン近傍」
セラは、指先を一番端の山のところへ移動させた。
「ここでは――祈りを流しても、“戻らない”と感じた瞬間がありました」
広間の空気が、ぴしりと張り詰める。
「マルセル神父様の祈りで押さえ込んで、しばらくしてから、別の道を通って戻ってきた感覚です。ですが、少なくとも“直接の道”は、一度途切れていました」
マルセル神父が、静かに頷く。
「祈りの側から見ても、ここが“限界線候補”です」
数字と祈りの話が終わったところで、視線がこっちへ戻ってくる。
ガランさんが、椅子から立ち上がった。
「数字と祈りの話は以上だ。どちらも、“ここから先は予備調査班だけで支えるにはきつい”という線を示している」
そう言ってから、俺のほうを見る。
「で――ここからが、“怖かった”の番だ」
(やっぱり来たか)
胃の重さが、さらに一段階増した気がした。
『はい、予測通りの展開です』
(お前、予測だけじゃなくて緩和もしてくれよ)
「セイ」
名前を呼ばれたので、立ち上がる。
「はい」
「お前の仮報告書、読んでいいか?」
逃げ道は、最初から用意されていなかった。
「……どうぞ」
ガランさんが、手元の書類束を一枚抜き取る。
あの、“心情ログ”欄に、俺が昨日の夜、ちまちま書いた紙だ。
広間全体が、わずかに息を飲む気配がする。
「依頼名、上流祈律帯予備調査。参加メンバー、セイ、アヤ……云々。戦闘あり。怪我軽傷一」
形式的な項目を読み上げたあと、ガランさんは一行飛ばした。
「心情ログ。“怖かった。でも、『ここから先は本隊の仕事』と決めたことで、怖さが『自分たちだけのもの』じゃなくなった。Cラインの布を見て、『帰っていいんだ』と思えた”」
うわ。
声に出されると、想像以上にこそばゆい。
後ろのほうで、クスクス笑いが起きる。
でも、それは馬鹿にする笑いというより、照れをごまかす笑いだ。
『いいですね。“自分たちだけのものじゃなくなった”って表現、リラ的にもポイント高いです』
(黙ってろほんとに)
ガランさんは、紙から顔を上げて、広間をぐるりと見回した。
「これが、現場の“怖かった”だ」
紙を、軽く持ち上げて見せる。
「こいつが“怖い”と言って、帰る線を引いた。で、その線が、数字と祈りと、ちゃんと合っていた。それを、今日ここで村全体で確認した」
地図板の折れ線と、セラの祈りログと、手元の紙。
三つを順番になぞるように、指を動かす。
「Cラインの青布に、『ここから先は本隊の仕事』と書いたのはこいつだ。だが、“ここから先は村の仕事じゃない”と決めるのは、今日ここにいる全員だ」
後ろのほうで、誰かが小さく息を呑んだ。
「今日の読み合わせ会は、そのための場だ。数字と祈りと顔色と、“怖かった”を揃えて、“ここから先は預ける”と村で決める」
しばしの沈黙のあと、マルセル神父がゆっくりと立ち上がった。
「教会としても、ガラン殿の言に同意します」
柔らかな声だが、その芯は揺れない。
「祈りだけでは押し返せない帯があることを、私たちは昨日の現場で知りました。ならば、それを“知らなかったこと”にはしない。今日ここで、“ここから先は本隊、王都側の仕事”と、はっきり共有したい」
学院側の年配術者も立ち上がる。
「学院としても同じだ。濁り密度の異常は、手元のデータが示している。学生や村の調査班だけで、安易に足を踏み入れてよい帯ではない」
ギルド、教会、学院。
三つの席から、同じ方向の言葉が重なっていく。
(……これが、“村の線”ってやつか)
昨日、リアンが廊下で言っていた。
自分たちが上流でやったことを、“村の線”にする日だと。
今、その言葉が、目の前の光景とぴたりと重なっていた。
「……でだ」
一通りの確認が終わったところで、ガランさんが手を叩いた。
「ここまでが、“偉い人たちの話”な」
後ろのほうから、くすっと笑いが漏れる。
「次は――お前ら若いのの番だ」
ガランさんは、後方のD/Eランクの列を指さした。
「西側講習に出たやつ、立て。トム、ナナ。それから……そっちの列の三人も」
名前を呼ばれた若い連中が、おそるおそる立ち上がる。
「お前ら、前に出てこい」
促されて、五人ほどが広間の中央に立つ。
「西側講習で、何をやったか覚えてるか?」
ガランさんが問うと、トムが代表するように口を開いた。
「えっと……“危険度一とか二なのに、『危険だから帰る』って言う練習をしました」
「そうだな。危険になる前に、“怖い”“きつい”“危ない”を口に出す練習だ」
ガランさんは頷き、俺のほうを見る。
「セイが講師をやったやつだ」
若い連中の視線が、一瞬こっちに集まる。
(やめろ、視線が痛い)
『人気講師ですね』
(別に人気じゃない)
「じゃあ今度は、本番でやったやつの話を聞く番だ」
ガランさんは、俺たちの列と若手の列を交互に見た。
「西側で“空撃ち”をしたお前らが、上流で“本番”をした連中の話を聞く。それを聞いたうえで、今度はお前らが、自分の依頼で“怖かった”をちゃんと書く番だ」
トムが、ごくりと唾を飲み込むのが見えた。
「西側の講習で、“危険だ”って言ったとき、どうだった?」
俺は、前に出ているナナに問いかける。
「……恥ずかしかったです」
素直な答えが返ってきた。
「みんなの前で、“怖いかも”って言うのが。でも、言ったあと、少し楽になりました」
「じゃあ、昨日の話を聞いてみて、どう思った?」
「……」
ナナはしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。
「“本番で『危険だから帰る』って言えた人がいるなら、自分もいつか、そうやって言えるようになりたいです」
その言葉に、後ろの若い連中の何人かが頷いていた。
ガランさんが、再び前に出る。
「そういうことだ」
短く言って、両手を広げた。
「今日を境に――ギルドの報告書にある“心情ログ”欄は、ただの飾りじゃなくなる。“怖かった”と書くのは、恥ずかしいことじゃない。お前らが次に森や畑に出るとき、“今日ちょっときつかった”を一行でもいいから書け」
リーナが、前の席でこくこくと頷いている。
「数字と祈りと、“怖かった”が揃って初めて、線は引ける。 Aライン、自分線。 Bライン、仲間線。 Cライン、預け線」
地図板の三枚の布を、順番に指差す。
「“ここまでなら自分たちで戻れる”線と、“ここから先は村の仕事じゃない”線を、紙の上にも、頭の中にも引いておけ」
読み合わせ会は、そのあとも続いた。
各パーティごとの小さなヒヤリハットの共有、
教会の祈り手たちから見た「戻りやすい祈り場」の話、
学院側からの「濁り密度が上がるときの前兆」の説明。
その合間合間に、D/Eランクの若い連中が、ぽつぽつと自分の“怖かった”を話す時間も挟まれた。
西側の野で、初めて見たスライムに足をすくわれた話。
畑の柵の外で、野猪の鳴き声を聞いて腰が引けた話。
どれも、聞いてしまえば小さな話だ。
けれど、その小さな“怖い”を言葉にしておくことが、いつか誰かを助ける。
そんな空気が、広間全体に少しずつ染み込んでいくのが分かった。
会がひと区切りついたころ。
「最後に、一つだけ」
マルセル神父が、再び前に出た。
「“怖かった”と書くこと、口に出すことを、どうか自分を責める理由にはしないでください」
静かな声が、ひとつひとつの席に落ちていく。
「怖さを感じる心は、祈りの一部です。“怖かった”と書いた紙は、誰かを責めるためではなく、次に生きて帰るために使います」
その言葉に、リアンも小さく頷いた。
横顔は、昨日より少しだけ晴れやかに見える。
読み合わせ会が終わり、解散の鐘が鳴ったころには、陽はもう高く昇っていた。
大広間を出るとき、トムとナナが駆け寄ってくる。
「セイさん!」
「ん?」
「……あの、“怖かったです”って、ちゃんと書くようにします」
トムが、少し照れたように笑う。
「今日みたいな会が、またあったときに。『怖くて帰った』って胸張って言えるように」
「いい心がけですね」
リアンが、その隣で柔らかく微笑んだ。
「私も、祈りのほうで“怖さ”をちゃんと見るようにします。セイさんの“怖かった”も、また一緒に読み合わせましょう」
「……勘弁してくれ」
口ではそう言いながら、胸のあたりの重さは、朝よりずっと軽くなっていた。
(怖かった、を村で分け合って。数字と祈りと紙切れにして、次の誰かのために取っておく)
『良い循環ですね』
(ああ。こうやって、“帰る線”が村の中に増えていくなら――)
川上の黒い膜は、まだそこにある。
あれをどうにかするのは、本隊や、もっと後の自分たちの仕事だ。
でも少なくとも。
今日、この村の中には、“怖くなって帰ったやつを褒める線”が一本、はっきり引かれた。
それだけでも、この世界の理は、ほんの少しだけ整った気がした。
――次は、その線を持ったまま、何を守りに行くかだ。
そう思いながら、俺はギルドの階段を降りていった。
昼前の光が、石畳の上で、やわらかく揺れていた。




