第39話 『怖かった』を、村まで持ち帰る
Aラインの赤布が、思ったよりも早く見えてきた。
さっきCラインで全員そろって踵を返してから、まだそれほど時間は経っていないはずだ。
それでも、背中側にあるはずの黒い膜の気配が、だんだん薄くなっていくのが分かる。
『危険度スコア、六台から五台前半へ下降中。歩幅も呼吸も、ほぼ“行きのAライン”水準まで戻ってきてます』
(いい感じだな。“危険だから帰る”って言ったあと、きちんと危険度が下がるのを全員で体感できる)
Aラインの杭の横で立ち止まり、振り返る。
遥か向こう、川の曲がり角の先に、ほんの小さく青い布が見えた。
Cライン――預け線。
その手前に、もう一枚の赤。
Bライン――仲間線。
行きは、あっち側を「目標」にしていた。
帰りは、全部「背中側の味方」になっている。
「……ふーっ」
ミナが大きく息を吐き、膝に手をついた。
「Aラインまで戻ってきただけで、なんか安心するね」
「戻ってきたから、だろ」
コルトが苦笑しながら、水筒を渡す。
「行きは“ここから先に怖いのがいる”って前提で歩いてた。今は“ここから後ろに怖いのを置いてきた”って前提だ」
「言い方の問題?」
「けっこう大事な差だよ」
俺はそう言いながら、自分の呼吸を確かめる。
わざと少しだけ早くしていた心拍を、意図的に落としていく。
筋肉に溜まっていた疲労も、ストレッチするみたいに少しずつほどいていく。
『実際の疲労度は軽度ですしね。今日はちゃんと、必要以上に前に出てません』
(そういうログは黙ってていいから)
『前は、もっと無茶してましたから。今日はそれよりずっとマシです』
(……それは、そうかもしれない)
バルドが肩の鎧をぐるぐる回しながら、Aラインの杭を軽く蹴った。
「ここが、“自分線”だっけな」
「はい」
俺は頷く。
「足慣らしと観察。D/Eランクの講習にも使える帯です」
「今日、ここを“帰り道の線”として通れたのは、でかいな」
バルドは空を一度見上げてから、俺のほうを見る。
「CからB、BからAって戻る感覚、身体で覚えられた。こいつはうちの連中にも教えられる」
「じゃあ、今度《鎚灯り》用の講習もやりますか」
「やめろ、ガランに“講師手当なしの講師”にされる」
そんな冗談を交わしているあいだにも、川の流れの音は少しずつ穏やかになっていく。
黒い膜の“ねじれた揺れ”は、もうほとんど感じない。
風に乗ってくる水の匂いも、普通の川のそれに戻りつつあった。
「よし。ここから先は、“いつもの帰り道”扱いで行こう」
ガランさんがそう言って、肩をぽんと叩いた。
「もう一回危険度が跳ねたら別だが……今日は、さすがに勘弁してやる」
「“今日は”ってつけるんですね」
テオが苦笑する。
「次もこういうの、ある前提なんですか」
「上流に黒いのがある限り、な」
ガランさんは、遠くの川上を短く一瞥した。
「でも、今日の分は“帰ったあとに文句を言う日”だ。今は、村までちゃんと辿り着くことに集中しろ」
Bラインの赤布を通り過ぎるころには、皆の息もだいぶ整っていた。
リアンは、祈り珠を胸元から外して、指の間でころころ転がしている。
その表情には、疲労と同じくらい、安堵が混じっていた。
「……こうやって戻ってくるの、ちょっと不思議な感じがします」
「不思議?」
「はい。
“危険だから帰る”って、ちゃんと言って、実際に帰ってきたわけじゃないですか」
リアンは足元を見下ろしながら続ける。
「祈りの場でも、“危ないからやめておきましょう”って言うことはあるんですけど……
今日みたいに“ここから先は預けます”って、はっきり線を引いたのは、初めてで」
「どうでした?」
「正直に言うと、ちょっとだけ悔しいです」
リアンは苦笑する。
「“自分の祈りでどうにかしてあげたい”って気持ちが、やっぱりあって。でも同時に、“ここから先は自分たちだけじゃない”って線を見て、安心もしてて」
「それ、わがままですかね?」
「わがままじゃないですよ」
俺は首を振る。
「それが普通の祈り手なんだと思います。“全部なんとかしてあげたい”って気持ちがあるから、祈り手なんでしょうし」
「でも、それだけだと線を越えちゃうから」
「そう。だからこそ、“預け線”なんでしょうね」
リアンは少しだけ目を細めて、背中側――見えなくなった青い布のほうを振り返った。
「……あそこに布があるって思うだけで、“私たちはここで帰っていい”って言葉が、一緒についてきてくれます」
その言い方が、妙に印象に残った。
『“帰っていい理由が布の色になってる”ってことですね』
(布一枚で、帰る勇気がちょっと増えるなら、安いものだな)
Aラインを抜け、ゼロライン――村道と川沿いの分岐に着くころには、空の色も少し傾き始めていた。
村へ続く道の先に、柵と家々の屋根が見える。
何度も通った帰り道。
でも、今日は少しだけ違う。
マジックボックスの中には、川の水と泥、それからさっきの濁り獣から採ったサンプルが入っている。
重さは感じないけれど、「危険だったもの」の気配だけは、はっきりと胸のあたりに残っていた。
「村が見えると、やっぱりほっとするな」
ミナが、ようやく笑顔を浮かべる。
「帰ったら、お風呂とごはんと、甘いもの」
「順番に言え」
コルトが呆れたように言ってから、俺を見る。
「セイ、あの濁りの水、全部入ってるんだよな?」
「うん。川の流れごと持って帰るのはムリだけど、膜の厚そうなとこから何本かは採った。ボックスの中、今ぜんぶ“濁り区画”に隔離してある」
「……中で暴れたりしない?」
「水だからな。暴れたら怖いけど」
ミナが肩をすくめる。
「サンプル取るとき、ちょっと緊張したよ。瓶に詰めてるあいだ、なんか見られてる気がしたし」
『実際、濁り密度は高かったですしね。瓶の内側に結界張っておいて正解でした』
(あとで教会に渡すときも、そのへん説明しとかないとな)
村の柵をくぐると、ギルドの前に何人かの若い冒険者が立っていた。
D/Eランクの連中だ。
昼の依頼が終わったばかりなのか、まだ軽装のままのやつもいる。
「おかえりなさい!」
「どうだったんですか、上流!」
トムとナナもいた。
この前、西側講習で一緒だった二人だ。
「全員、無事」
俺はそれだけ先に言ってから、続ける。
「危険だった。だから、“危険だから帰る”って言って帰ってきた」
トムが一瞬きょとんとして、それから少し笑った。
「それ、講習でやったやつだ」
「うん。あのときは危険度一とか二で空撃ちしてたけど、今日はちゃんと危険度六とか七でやった」
「本番で“危険だから帰る”って言えたってことですよね」
ナナが、少し真剣な顔になる。
「……それ、すごいです」
「すごいかどうかは、これからガランさんと神父さんと学院が決めるんだろうけど」
俺は苦笑して、ギルドの扉のほうを顎で示した。
「詳しい話は、あとで“大人の会議”でまとめるってさ。明日か明後日には、みんなにも共有されるはず」
「へー……“大人の会議”か」
トムが気のないような声を出しながらも、目はしっかり興味で光っている。
「俺たち、聞きに来てもいいのかな」
「ガランさん次第ですね」
リアンが穏やかに笑う。
「でも、“線の話”は、本当は全員で共有したいので……きっと、聞けるようにしてくれると思います」
「……そっか」
トムとナナは、それぞれ小さく頷いて、俺たちを見送った。
まず向かったのは、教会だった。
濁りに触れた部分を、できるだけ早く処理するためだ。
「ミナ、頬と腕。それからバルドさん、盾の表面に少し付いてました」
教会の小さな清め場で、俺は手短に指摘する。
「テオと俺は靴だけ。リアンとサラは、祈りの反動で少し手が痺れてるはずだから、あとで温めてもらってください」
「はい」
リアンが頷く。
マルセル神父が、清め水の入った盆を持ってきた。
「濁りは、祈りの場に持ち込まないに越したことはない。……でも、今日のは“知るために持ち帰った”濁りでもあるからね」
神父は穏やかに笑いながら、ミナの頬にそっと布を当てる。
「冷たい……でも、さっきの変な冷たさとは違う」
「こちらは、“祈りの水”ですから」
神父は冗談めかして言う。
「濁りの冷たさは、芯までしみ込んでくるでしょう?祈りは、表面を一枚剥いでから、内側を温め直す感じです」
「表現がこわいです、神父さま」
「実際こわいからね、濁りは」
マルセル神父は、そこで俺のほうに目を向ける。
「マジックボックスの中身は?」
「瓶に入れた濁り水を数本。泥のサンプルが二つ。あとは、崖に張りついていた黒い膜の一部を、擦り取った布ごと」
「それも、後で地下の保管庫へ」
神父は真顔に戻る。
「濁りを“見て確かめる”仕事は、学院と教会の役目だからね。運んでくれてありがとう」
「運んだだけですから」
「運ぶ人がいなければ、そもそも見に行けないんですよ」
そう言って笑う顔が、妙に印象に残った。
教会での清めと簡単な報告が終わったあと、次はギルドだ。
ギルドの裏手――解体場には、今日は大きな獲物は並んでいない。
代わりに、濁りに触れたらしい小型獣の死骸が、いくつか縄で吊るされていた。
「これ、上流の?」
「いや、これは別件だ」
解体班のヒューゴが、血抜き中の獣から視線を外さずに答える。
「北側の畑のほうで、“黒い水飲んでふらふらしてた兎と鹿”だとよ。直接の濁りじゃなく、流れてきたのを舐めちまったパターンだな」
「……そっちにも、影響出てるんですね」
「ああ。だからこそ、お前さんたちの“預け線”は大事だ」
ヒューゴは手を止めずに続ける。
「これ以上上流で溢れたら、今度は人間がふらふらしだす。そうなる前に、“ここから先は村の仕事じゃない”って線を引いてもらわなきゃ困る」
「……うん」
言葉に詰まりそうになって、俺は小さく息を吐いた。
「だから、“危険だから帰る”って言ったのは、ちゃんと村の仕事ってことですね」
「そういうこった」
ヒューゴは短く笑う。
「で、例の“危ない水”は?」
「ボックスの中。教会と学院に回す分、あとで受け取りに来るって」
「了解。こっちはこっちで、普通の魔物のほう片づけとく」
ギルド内に入ると、カウンターの向こうでリーナが大きく手を振った。
「おかえりなさい!」
「ただいま戻りました。上流祈律帯予備調査、撤退ラインCまで到達後、Bまで戻って帰還。――全員無事です」
形式的な報告をすると、リーナはほっとしたように胸を撫で下ろした。
「よかった……支部長、会議室で待ってます。教会と学院の代表も、もう集まっているので」
「代表だけ?」
「はい。“まとめ会議”は明日。今日は“とりあえずどうだったか”の簡単な聞き取りだけって言ってました」
リーナは、書類束を手に取りながら言う。
「《鎚灯り》と《灯》は、先に受付で仮報告を書いてから行ってくださいって」
「仮報告って、あれだろ。“怖かったです”って書く欄があるやつ」
ミナがぼそっと言うと、リーナは吹き出しそうになるのをこらえた。
「……ほんとに、そういう欄あるから困るんですよね」
「いい欄じゃないですか」
リアンが微笑む。
「“怖かった”って書けるようになったの、最近ですし」
「それはそうなんですけど……」
リーナは肩をすくめ、俺たちに用紙を配った。
項目は、いつも通りだ。
依頼名/参加メンバー/戦闘の有無/怪我の有無。
そして、最近増えた欄。
『危険度の推移』
『どこで戻ると決めたか』
『その時の気持ち』
ペン先が、その三つ目の欄の前で止まる。
(……気持ち、か)
『はい、“心情ログ”欄ですね』
(お前、勝手に名前つけるな)
『でも実際、後から読み返した時に効くんですよ、こういうの』
行を一つ空けてから、ゆっくりと文字を置いていく。
『怖かった。でも、「ここから先は本隊の仕事」と決めたことで、怖さが“自分たちだけのもの”じゃなくなった。 Cラインの布を見て、「帰っていいんだ」と思えた』
……そんな感じのことを書きながら、ふと気づく。
(これ、明日の会議で読み上げられたりしないよな)
『可能性はありますね』
(やめてほしいな)
『ガランさんは、そういうとこ容赦ないですからね』
ひと通り書き終えると、リーナがそれを受け取って、丁寧にトレーに重ねた。
「ありがとうございます。この仮報告と、教会・学院さんのログを合わせて、明日、“線の読み合わせ会”をやるそうです」
「読み合わせ会……」
ミナが、少しだけ身構える。
「吊るし上げにならないですよね?」
「ならないって支部長が言ってました」
リーナはくすっと笑った。
「“吊るすなら、こっちだ。村全体で”って」
「それはそれでこわいんだけど」
「でも、少なくとも明日は、“危険だった”って言えたことを真面目に扱ってくれる日ですよ」
リアンがそう言うと、ミナもコルトも、少しだけ顔を緩めた。
簡単な聞き取りと、細かい数値の確認は、ギルドの会議室で行われた。
今日は本格的な総括ではなく、ほとんど“明日の準備”みたいなものだ。
レオンが転送板を叩きながら、濁り密度のざっくりしたグラフを見せてくれる。
セラが祈りの揺れの回数を数えたメモを読み上げる。
ガランさんが、それらを一つの板にまとめていく。
「……ふむ。だいたい、行きのBライン手前で危険度六台、Cライン付近で七台前後。祈りと理術は、“ねじれて戻る”のがこの帯から、ってところか」
『前に取ったログと、きれいに一致してますね』
(だいたい想像してた通りってことか)
数値の話が一段落したところで、ガランさんが俺たちのほうを見た。
「今日のところは、これで終わりだ。明日、全員もう一度ギルド大広間に顔出せ。ギルド・教会・学院揃って、“危険だったかどうか”を読み合わせる」
「全員って?」
「今日行ったやつはもちろん、D/Eの若いのも呼ぶ。線の話は、“現場に出る可能性があるやつ全員”の宿題だからな」
ガランさんは、いつもの意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「安心しろ。明日の会は“吊るし上げ”じゃない。ちゃんと、“怖くなって帰ったやつを褒める会”から始める」
「から?」
「から、だ」
嫌な予感しかしない言い方だったが、そこは深く追及しないことにした。
会議室を出て廊下を歩く途中、リアンが俺の横に並ぶ。
「セイさん」
「ん?」
「今日、“危険だから帰る”って言えたこと――明日、ちゃんと皆の前で話してくださいね」
「……やっぱり、そこ来る?」
「はい」
リアンは、少しだけいたずらっぽく笑う。
「セイさんが講習で教えてくれたことを、私たちが上流でやれたって話ですから。それを、“村の線”にするための日なんですよね、明日は」
「プレッシャーかけるの上手いなあ」
「祈り手ですから」
胸を張って言うその顔を見て、俺もつられて笑った。
(怖かった、を村まで持って帰って。明日、“危険だった”って数字と祈りと顔色で確かめて。その上で、次の濁りボアだのなんだのに備えるわけか)
『やること、いっぱいですね』
(まあな。でも、“怖かった”を一人で抱え込まずに済むなら、安い仕事だよ)
外に出ると、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
川上のほう――黒い膜が見えなくなった向こう側にも、同じ色が広がっているはずだ。
明日は、ギルドの大広間でその話をする。
線と数字と、“怖かった”を並べて。
――その前に、今日はちゃんと飯を食って、風呂に入って寝よう。
そう決めて、俺は宿へ向かって歩き出した。




