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理を灯す少年 〜祈り万能世界で、AIを宿す俺だけが“理論魔法”を使えた件〜  作者: いい加減工房


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第38話 預け線と、「危険だから帰る」と言うとき

 黒い膜は、さっきよりも大きく見えていた。

 距離が縮まったせいだけじゃない。

 川面を覆う黒い帯の“存在感”そのものが、じわじわとこちら側へ膨らんでくるような気がした。

『推定危険度、六・二〜六・五。ここから先、上昇カーブがきつくなると予想されます』

(Bまではまだ距離がある。けど、“戻れるうちに決めろ”って帯だな)

 足元の土は、さらに頼りなくなっていた。

 踏むと、表面だけサラサラ崩れて、下の粘つく層がじわりと顔を出す。

 右側の斜面は高く、木の根がむき出しになっている。

 左側の崖は逆に低くなり、川面までの落差が少ない。

 その川面を、黒い幕がゆっくりと流れていた。

 風が吹くたび、幕の表面は揺れる。

 けれど、その揺れは水面の波とずれていた。

 普通の水は、風の向きと速さに素直に従ってざわめく。

 黒い幕の部分だけ、別の何かに引っ張られているみたいに、ねじれて揺れる。

(……見てるだけで酔いそうだ)

『視線を長く置きすぎないほうが良いですね。祈りと理術の“基準線”がぶれやすくなります』

 リラの忠告に従って、俺は膜から視線を切った。


 どれくらい歩いただろう。

 足首の上あたりに、じわじわと重さが溜まってくる。

 ふくらはぎの筋肉が、踏み込みのたびに遅れて抗議してくる。

 前を行くバルドの足取りは相変わらず安定していたが、鎧の鳴る音がさっきより少しだけ重く聞こえる。

 後ろを振り向けば、ミナの肩が上下していた。コルトは無言で彼女のペースに合わせ、リアンは祈り珠を握る手に汗を滲ませている。

『全体の平均心拍、Aライン時より二五%増。“疲れの線”は越え始めてますね』

(Bまで戻るには、まだ余力がいる。Cは、その手前で引かなきゃいけない線だ)


 少し先で、地形が変わった。

 川側の崖が、ぐっと削れて低くなり、代わりにその向こうに岩の棚が顔を出している。

 川が大きく曲がる手前。

 ちょうど、上から黒い膜の帯を見下ろせるような位置だった。

 道の幅は狭い。

 人が二人並ぶのがやっと。

 けれど、一歩だけ川側に張り出した岩場があり、その上なら数人が立って景色を見下ろせそうだ。

(……あそこだな)

 俺は手を挙げて、列を止めた。

「一旦ストップ」

 バルドが足を止め、ガランさんとセラ、後ろからレオンの転送板を抱えた補佐役が前に出てくる。

 黒い幕は、ここからだとよく見えた。

 川幅いっぱいに広がる黒い帯。

 ところどころに、ぽこり、と膨らんだ部分がある。

 膨らみは、しばらくするとぺたりとつぶれて、また別の場所で盛り上がる。

 まるで、何かが、水面のすぐ下で動き回っているみたいに。


「セイ」

 ガランさんが、短く呼んだ。

「ここを、Cラインにするかどうか――判断はお前だ」

「……その前に、各機関の“ここまで来て見えたもの”を聞かせてください」

 俺は自分でも驚くくらい、落ち着いた声でそう言っていた。

「現場判断は俺がする。でも、“どこが預け線にふさわしいか”の材料は、多いほうがいい」

 レオンが、転送板を軽く持ち上げる。

「じゃあ、学院から」

 彼は黒い幕と、足元の土と、谷の形を順番に見渡した。

「まず、濁り密度。リラからの数値を見ても、祈律帯の外縁を越えて“戦ランクB戦”帯に片足を突っ込んでる状況だね。危険度で言うなら七前後」

 ミナが、小さく息を呑んだ。

「戦ランクB……」

「本来は、Bランクパーティ+支援が前提の帯だ。

 今いるのはCランク中心の混成隊。前提からして、ちょっと背伸びしてる」

 レオンはそこで肩をすくめる。

「観測だけで言うなら、あと五十メートルほど先に、もう少し広い岩棚が見える。あそこまで行ければ、“膜の厚い部分”と“薄い部分”の分布がもっと正確に取れる」

『学院案C+:膜視認+観測効率優先の候補地点、ですね』

(また“もう少し先”か)

「でもね」

 レオンはそこで言葉を切った。

「ここまでの土の状態、崩落痕、風の向き――全部合わせて考えると、“この先で崩れた場合にBまで戻れる余裕”は、かなりギリギリだと思う」

 ガランさんが、わずかに眉を上げる。

「学院としては、どう見る?」

「本音を言えば、“データだけならまだ欲しい、けど現場としてはここいらが筋”かな。今日の俺は現場側じゃないから、案としてログに残すだけにしておく」

 転送板に、さらさらと文字が刻まれていく。

「学院ログ:C案1=現在地。C案2=+五十メートルの岩棚。結論は村へ戻ってから」


「教会側からも、一つ」

 セラが黒い幕のほうを見ながら、静かに口を開く。

「ここから先、“祈りの線”がねじれっぱなしになります」

 リアンが、握っていた祈り珠を見下ろした。

「さっきから、祈りを送るたびに、どこかで曲がっている感覚があって……」

「Aラインまでは、揺れてもすぐ戻っていました。

 Bラインのあたりでは、揺れてから戻るまでに少し時間がかかった。

 でも、今は――」

 セラは、指で空中に細い光の線を引く。

 その線は黒い膜のほうへ伸びていき、途中でぐにゃりと折れ曲がって、別の場所に落ちた。

「この通りです。“ねじれたまま戻らない”」

 ぞわ、と背筋が冷える。

「教会としては、ここを“祈り限界線”の候補と見ます。この先、祈りだけで押し返すのは難しい帯になります」

「祈り限界線……」

 ガランさんが、低くうなった。

「ギルドで言うところの、“支部の限界帯”と重なるな」


 そのときだった。

 黒い幕の表面が、ひときわ大きく盛り上がった。

 ぽこり、ではない。

 どん、と内側から殴られたみたいに、帯の一部が大きく膨らむ。

「――来る!」

 リラの警告と、俺の声がほぼ同時だった。

 膨らみが弾け、黒い水しぶきがこちら側の崖に向かって飛んでくる。

 水しぶき――だと思った一瞬後、それは、まとまった形を取った。

 獣のような輪郭。

 だが、体は水と黒い泥の塊でできている。

 泥と水と、濁ったマナ。

 濁り獣。

「二体!」

 俺の口が勝手に数を言う。

 一体は崖を這い上がってくる線。

 もう一体は、崖にぶつかる前に散って、細かい飛沫になってこちらに降り注ぐ線。

『危険度、一時的に七・〇へジャンプ。接近速度は遅いですが、崖側の足場が崩れる可能性あり』

「前衛、崖側一歩下がって“受け”じゃなく“いなし”で!」

 叫ぶと同時に、俺自身も半歩だけ前に出る。

 崖縁から、一歩分だけ離れる。

 右足を岩のくぼみに乗せ、左足は土の固い部分を踏む。

 もし崖縁が崩れても、自分ごと落ちない線。

 前に出ているけれど、前に落ちないための足位置。

 バルドが大盾を構え、俺と同じ場所を踏まないよう、少しだけ内側へずれる。

 テオはその後ろ、杖の先端に光をためる。

「祈り、準備します!」

 サラとリアンの声が重なった。


 最初の濁り獣が、崖を這い上がってくる。

 泥の塊なのに、四足獣の形をしている。

 爪に見える部分は、黒く固まったマナの塊。

 崖の縁にのしかかろうとした瞬間――。

「バルド、左半歩!」

 俺の声に、彼は即座に応える。

 左足を半歩だけ引き、盾の角度を変える。

 濁り獣の前足が盾に触れる直前、バルドは“受け”るんじゃなく、“滑らせる”。

 盾の面を気持ち下向きにして、濁り獣の体の線を崖側ではなく、右の斜面側へ流す。

 力任せに弾き飛ばすんじゃない。

 重心の向きを、ほんの少し変えてやるだけ。

 濁り獣は、崖の縁を越えきれず、そのまま右の斜面にぶつかって崩れた。

 泥と黒い水に分かれ、地面に飛び散る。

 そこで、サラとリアンの祈りが重なった。

「光よ、線を守って――!」

 祈りの光が、飛び散った泥に降りかかる。

 ――が。

 光は、泥の上で、一瞬だけ歪んだ。

 普通なら、汚れを洗い流すように広がるはずの光が、

 泥の一部に妙に集中し、別の部分を素通りする。

 押し返す力が、まっすぐ伝わらない。

「くっ……!」

 リアンの額に汗が浮かぶ。

『祈り出力に対する有効面積、四割減。濁幕帯(にごりまくたい)の影響ですね』

 二体目の濁り獣が、飛沫になって降ってくる。

 こちらは獣の形をとらず、ただの黒い雨のように見えた。

「テオ!」

「やってる!」

 テオの杖先から、風の刃が放たれる。

 本来なら、飛沫ごと切り裂いて川側へ払い落とすはずの風。

 だが、風の線もまた、途中でねじれた。

 飛沫を弾き飛ばしきれず、一部がこちら側へ抜けてくる。

 バルドの盾に当たった部分は、ぬらりと張りつき、すぐに流れ落ちた。

 ミナの頬にかすった飛沫は、皮膚の上でじりっと嫌な感触を残す。

「っ、冷た……!」

『表皮への濁り付着、微量。今のところ危険度は変わりませんが、長時間放置は非推奨です』

(祈りも理術も、“まっすぐ”届かない。

 これが、濁幕帯(にごりまくたい)の“本番の手前”か)

 崖際の土が、さっきから少しずつ崩れている。

 バルドの足元を、細かい土砂がさらさらと流れ落ちていく。

 もし、さっき半歩分位置を変えていなかったら、盾ごと川へ落ちていたかもしれない。

 俺は、喉の奥で何かがひっかかるのを感じながら、息を整えた。


(ここから先、もっと数が出てきたら?)

 黒い膜のあちこちに、小さな膨らみがいくつもできては消えている。

 今は二体だけだった。

 でも、本番では、十体でも二十体でも、同時に来るかもしれない。

(そのとき、祈りも理術もこんなふうにねじれて、足場も崩れやすくて――それでもここを押さえ続けろ、って言えるか?)

 答えは、すぐに出た。

(……言えない)

 ここから先は、本隊じゃないとムリだ。

 このメンバーで、ここを正面から支え続けろ、とは言えない。


「――危険だ」

 自分の声が、思ったよりはっきり響いた。

「ここから先は、予備調査班では持たない。本隊じゃないとムリな帯だ」

 全員の視線が、俺に集まる。

「ここをCライン――預け線にする」

 喉が、ひりひりと痛くなった。

「ここから先は、自分たちで片づけない。“ここから先は本隊の仕事です”って、ちゃんと印をつけて戻る線にする」

 ガランさんが、ゆっくりと頷いた。

「聞いたな、全員」

 ギルドマスターの声が、川の音に負けずに広がる。

「ここがCラインだ。ここから先は、本隊案件。今日の俺たちの仕事は、ここまでだ」

 ミナが、肩で息をしながら笑った。

「……よかった。“もうちょっとだけ”って言われたら、どうしようかと思った」

「“もうちょっと”は村に戻ってから会議で言うって、決めたろ」

 コルトが苦笑する。

 リアンは祈り珠を握りしめたまま、目を閉じた。

「“危険だ”って言ってくれて、ありがとうございます」

 その一言で、胸の奥がぐっと熱くなる。


「じゃあ、線を刻むぞ」

 俺はマジックボックスから、三組目の杭と布を取り出した。

 ここで使う布は、他の二つとは違う色――黒に近い深い青だ。

 会議で決めたとき、誰かが言っていた。

「Cラインは、“そこから先は夜だ”って印にしたい」と。

 踊り場――というほど広くはないが、足場として使える部分の入口と、その少し手前の両脇に杭を打つ。

 バルドが崖から半歩離れた位置に杭を打ち込み、テオが反対側を支える。

 サラとリアンが深い青の布を結び、セラがその前でひざまずいた。

「ここから先は、神にさえ“預ける”場所」

 セラの声は、かすかに震えていた。

「ここで止まり、引き返す者たちが、後ろを向く勇気を持てますように。

 ここから先に進む者たちが、自分の力だけでなく、仲間と本隊を信じられますように」

 祈りの光が、布の周りに薄くまとわりつく。

 さっきまでのような、綺麗な円ではなかった。

 少し歪で、揺れながら、それでも布にしがみつくように留まろうとする光。

『祈りの乱れは残っていますが、“ここまでは届く”という目印としては十分ですね』

(それでいい。

 “ここから先は、お前たちだけじゃない”って印だ)


 レオンが転送板を掲げる。

「学院ログ:Cライン=危険度七帯の入口。祈り・理術ともに“ねじれたまま戻らない”兆候あり。これより先は、観測・討伐ともに本隊が担当――と、王都に送っておくよ」

「教会ログも同様です」

 セラが頷く。

「ここを“祈り限界線/預け線”として記録し、本隊編成時に、必ず祈り手と共有するようにします」

 ガランさんは、青い布を一度だけ見上げてから、全員を振り返った。

「ギルドログ:ここから先は、本隊じゃないと無理。エルディア支部単独での踏み越え禁止」

 その言葉は、俺のさっきの判断を、ちゃんと“村のルール”に変えてくれた。


「じゃあ――」

 俺は深く息を吸い込んだ。

「Cラインまで、今一度“戻る”練習をします」

「え、ここまで来て、まだやるの?」

 ミナが情けない声を上げる。

「ここまで来たからこそ、やるんだよ」

 俺は笑ってみせる。

「本番で“危険だから帰る”って言うのは、今だ。ここで一回、全員でBラインまで戻る練習をする」

 リアンが目を瞬かせる。

「……Cラインで『危険だから帰る』って言うための、練習」

「そう。預け線って言っても、線に気持ちが追いつかなきゃ意味がないから」

 ガランさんが、口元にわずかな笑みを浮かべる。

「よし。セイの案を採用する。Cライン設置後の“即時帰還訓練”、一回やるぞ」

 全員が、少しだけ姿勢を正した。

 黒い幕の気配は、相変わらず重い。

 だけど、背中には青い布がある。

 さらにその向こうには、赤い布が二つ。

 行けるところじゃなく、戻れるところに印をつけた結果が、ちゃんと背中側に並んでいる。


「危険だ。今はここまで。――帰る」

 俺は、さっきよりもはっきりと言った。

「全員、Bラインまで撤退!」

 その声を合図に、俺たちは一斉に踵を返した。

 Cラインの青い布が、風に揺れる。

 その向こうに、Bラインの赤い布。

 さらに遠く、Aラインの赤がかすかに見える。

 預け線に印をつけて、

「今はここまで。危険だから帰る」と言って。

 俺たちは、命綱チェックポイントを辿りながら、村への道を駆け戻っていった。

 ――この線が本当に正しかったかどうかは、村に戻ってから、数字と祈りと顔色で、もう一度確かめる。

 それでも今はただ一つ。

「危険だから帰る」と言えたことだけを、胸の真ん中に置いて。


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