第37話 黒い膜の匂いと、「本隊案件」の手前
Bラインの赤布が、背中のほうで揺れていた。
足元の土はさっきよりも、ほんの少しだけ柔らかい。
斜面の角度も、川側へ向かってなだらかに沈んでいる。
『危険度、五・六から、じわじわ六寄りに上昇中です』
(“支部の主戦場帯”から、“限界帯の手前”に足を突っ込み始めたあたりか)
ガランさんの説明が、頭の中で蘇る。
危険度五〜六は支部の主戦場帯。
六を越えたあたりから先は、支部の限界帯――本隊案件。
その境目を、今、足で踏みに行っている。
川の音が、少しずつ低く聞こえるようになってきた。
水量が増えたわけじゃない。
川面と道の高さの差が、じりじり詰まってきているのだ。
右は、高い土の斜面と木の根。
左は、だんだんと低く狭くなっていく崖と川面。
さっきまで「崖の上から川を覗き込む」だったのが、今は「川を横から見る」に近づいている。
『斜面角度、平均で三度低下。
そのぶん、崩れたときに“川側へ滑り落ちやすい”形になってますね』
(落ちても即死じゃない代わりに、濁った中で溺れるってやつか……)
どっちがマシか、なんて考えたくもない。
「セイ」
前を歩いていたガランさんが、わずかに歩幅を落として俺を待った。
「今のところ、“危険だ”までは行ってないか」
「はい。五・六から六に向かって上がり始めてますけど……まだ“今すぐ帰る”ほどじゃないです」
俺は足場を見ながら答える。
「ただ、Bラインからここまでの間で、“退路の選択肢”はほぼ一本に絞られてます」
振り返れば、確かに道は一本。
森側に逃げ込めそうな緩い斜面は、もうほとんどない。
少し崩落痕のある逆三角の谷筋を、川に沿って進んでいる形だ。
「何かあったら、“とにかくBへ戻る”しかない帯です。ここから先は、その一本をどこまで伸ばせるか、って話になります」
「よし。じゃあ、その一本の先端をどこにするか決めに行くか」
ガランさんは、それ以上は何も言わない。
“危険だ”と言うタイミングは俺に任せる――そう決めたうえでここまで来ている。
少し先で、地形が変わった。
川側の崖が、一度ぐっと削れて低くなり、
その少し先で、逆に大きな岩が川のほうへ張り出している。
道は、その岩の手前で一度すぼまり、
その向こうで、また少しだけ広がっていた。
ちょうど、崩落痕の縁に立っているような場所。
『ここから十メートル先、“Cライン外縁候補1”としてマークしていた地点です』
「一旦ストップ」
俺は手を挙げて、列を止めた。
バルドが真っ先に足を止め、その後ろでミナとコルト、リアン、サラたちが順番に距離を取る。
レオンが転送板を抱えたまま前に出てきて、セラも祈り珠を握り直しながらついてくる。
目の前の地面には、崩れた土と、新しくむき出しになった岩が混ざっていた。
崖縁の一部は、もう川に落ちている。
その先にある岩場が、辛うじて道を支えている状態だ。
(……ここが“外縁の外縁”ってところか)
「ギルド視点の、“ここまで来て見えたもの”を教えてください」
俺がそう切り出すと、ガランさんがわずかに目を細めた。
「まず足場だ。ここから三十メートルほど先まで、道幅は人二人分。崩落痕の縁をなぞる形になってる」
ガランさんは、指で谷筋をなぞる。
「崩れたときの落差は、さっきまでより浅い。だが、落ちた先が“濁りの流れ込み口”だ」
川面を見る。
まだ、黒い膜そのものははっきりとは見えない。
けれど、水の色は確かに、さっきよりも濁っている気がする。
「ギルドログとしては、ここを“支部主戦場の上端”と見る。これより先は、支部としては“本隊同行が前提”の地形だな」
「……ギルド評価だと、ここをCラインにしますか?」
「安全側に振るなら、そうだな」
ガランさんは、あっさりと言った。
「ただ、今日はギルドだけの現場じゃない。“本隊に預ける線”を決めるための、三機関合同の調査だ」
「じゃあ、学院と教会も」
「はいはい、学院です」
レオンが、転送板の端を軽く叩いた。
「濁りの密度は、ここから先で一段階上がる予測。さっきまでのBライン帯が“危険度五〜六の山の手前”だとすると――」
『現在地、危険度スコア五・八。ここから先十〜二十メートルで六を跨ぐ見込みです』
「……こういう感じかな」
レオンは、板の上に簡単なグラフを描く。
危険度のカーブが、ここから先で急に立ち上がる形。
「学院案としては、“ここをCラインにする”のが一つ。もう一つは、濁りの本体――黒い膜がきちんと見える場所まであと少し進んで、“膜の観測しやすさ”とセットでCラインを決める案」
つまり、もう少し先まで行けと言っている。
「その場合は?」
「ここを“C−1:外縁候補”として記録。黒い膜が視認できる位置を“Cライン”候補にする」
レオンは俺のほうを見る。
「ただし、その場合でも“今日のメンバー構成で短時間観測まで”。長居する場所じゃないことは変わらないよ」
軽くは言うが、そこそこ重いアンチテーゼだ。
「教会側は?」
今度は、セラが一歩前に出た。
「祈りの揺れは、Bラインを越えたあたりから増え始めています。今いるこの地点では、祈りの糸はまだ戻ります。ただ、揺れの大きさは、“日常の倍”です」
セラは、指で空中に細い光の線を描いた。
その線はまっすぐ川のほうへ伸びていき、途中でぐにゃりと揺れ、
それでも最後には元の位置へ戻ってくる。
「この揺れ方なら、“祈り限界線の手前”と見ます。ここから先、揺れが戻らなくなった地点が“預け線”になるでしょう」
リアンが、ぎゅっと祈り珠を握りしめた。
「……揺れが戻らなくなったら」
「その先は、祈りだけで押し返すのが難しい帯です」
セラは静かに言う。
「だからこそ、セイ君の“危険だ”と、ガランさんの“支部の限界”、そしてレオンさんの“本隊が観測したい帯”を合わせて、線を決める必要がある」
(ギルドの“ここで止まりたい”、学院の“もう少し先まで見たい”、教会の“祈りが限界になる手前を知りたい”)
それら全部が、俺の足元に集まっている。
『この地点を“C外縁候補1”としてタグ付けしました』
(タグ付けはいいから、足元を見てろ)
『見てますよ。崩れたらちゃんと知らせます』
相変わらずの調子で言いながらも、リラの計算は真剣だ。
(……ヒトリ、飛ばせば、もう少し先の様子も安全に見られるか?)
ふと、頭の片隅にそんな考えが浮かんだ。
川面の先。
黒い膜の帯。
あそこまで人間が行かなくても、ヒトリに見せに行かせれば――。
(リラ。ヒトリ使えないか?俺たちはここで待機して、ヒトリを先に飛ばす、って形で)
少しの沈黙。
いつもの軽口ではない間があってから、リラの声が戻ってきた。
『結論から言うと、“今は無理”やめておくのが妥当です』
(なぜ無理?理由、教えてくれ)
『まず一つ目。ここは濁幕帯の近くで、マナノイズが異常に強い帯です』
『ヒトリはセイのマナで維持している“遠隔センサー”なので、そのノイズの中に突っ込むと、リンクがブレて、“見えているつもりで見えていない”状態になりやすいです』
(間違った位置情報を信じて前に出るのが、一番危ない、ってやつか)
『はい。それが一つ』
リラは、少し声を落とす。
『もう一つ。こちらのほうが、今はより問題です』
(まだあるのか)
『ヒトリとセイは、マナの線で繋がっています。 もしヒトリ側に濁りの揺れが強く乗った場合――その揺れが線を伝って、セイ側に“キックバック”する可能性があります』
(……俺のほうの“線を見る”感覚が、濁りに汚されるかもしれないってことか)
『はい。最悪の場合、一時的に“線”そのものの基準がずれて、今日決めるA・B・Cライン全部の信頼性が落ちます』
喉の奥が、きゅっと縮まる感覚がした。
(それは、マジで洒落にならないな)
『なので、濁幕帯のそばでのヒトリ運用は、現仕様だと“禁止”が安全です』
(分かった。じゃあ、今日はナシだ)
『了解。“ヒトリは村近く専用”。濁幕帯周辺では使用禁止――という運用ルールを、ここで仮決定にします』
(仮、ね)
『はい。今後の課題としては残します。マナ線の途中にフィルタを挟んで、濁りのノイズだけを落とせれば……“危険帯の手前からヒトリだけ少し先まで”という運用も、将来は可能になるかもしれません』
(ヒトリ用の耳栓と防毒マスク、みたいなもんか)
『イメージとしては近いですね。ただし今日中には絶対間に合いません』
そこで、ようやく少しだけ冗談の気配が戻った。
(じゃあ今日は、“自分の足と鼻と目”で決めるしかないってことだな)
『はい。それが一番“正確な線”になります』
「セイ」
現実の声が、思考の上にかぶさる。
ガランさんだ。
「ここを“C外縁候補”として刻むか、それとも“見に行くだけ”にするか。決めろ」
ギルド、教会、学院。
三つの視線が、俺一人に集まる。
喉の奥が、乾いた。
(ここをCラインにすれば、ギルド的には安全寄り。でも、“黒い膜の前で何が起こるか”は、本隊が来るまで誰も知らないままになる)
肩越しに、後ろを見る。
Bラインの赤布は、もう見えない。
さっき設置したばかりの「仲間線」は、谷筋の向こうに隠れている。
代わりに、川の匂いが強くなっていた。
鉄と、湿った土と、少し焦げた祈りの匂い。
(……本隊が来たとき、“この匂いの先で”誰かが死ぬかもしれない)
そんな想像が、勝手に浮かぶ。
『心拍、一時的に上昇。でも、足元を見る視線はぶれてません』
(当たり前だ。ここで足滑らせたら笑えない)
俺は一度だけ、深く息を吸った。
「――ここは、“C外縁候補”にします」
自分の声が、思ったよりはっきり響いた。
「ギルドログでは“ここまでなら、支部の主戦場の延長として何とか届く”線。教会ログでは“祈りの揺れは大きいが、まだ戻る”線。学院ログでは“危険度カーブが急に立ち上がる手前”――」
自分で言いながら、頭の中で線の図が組み立てられていく。
「ここから先、“黒い膜がはっきり見える場所”まで、もう一歩だけ進む。そこで、“本隊案件だ”と納得できるCラインを見つけたいです」
レオンが、口元に苦笑を浮かべる。
「学院案、“C−1:外縁候補”採用だね」
セラは、静かに頷いた。
「教会としても、“祈り限界線の手前”としてここを記録します。その先で“預け線”が見つかるように」
ガランさんは、短く息を吐いてから笑った。
「よし。じゃあ、この崩落縁を“ここまでは自分たちで責任を取る”線として刻んで、もう一歩だけ行くか」
マジックボックスから、二本だけ杭を取り出す。
崩れた縁から一歩離れた位置。
左右の土が、まだ固い場所を選んで打ち込む。
結びつける布は、Bラインと同じ赤。
「ここは“仲間線の伸びきり”扱いでいい」
ガランさんが言う。
「ここまで来たら、本隊じゃなくてもギリギリ戻れる。だが、これより先は“本隊が来る前提で話す”帯だ」
リアンが、布の前でそっと祈りを捧げた。
「ここまで来られた人たちが、ちゃんと“怖い”って言えますように。ここから先に進む人たちが、“自分たちだけじゃない”って分かりますように」
祈りの光は、さっきよりも揺れていた。
でも、それでもちゃんと、布のあたりに戻ってきて留まる。
「――じゃあ、行きますか」
俺は振り返って、全員の顔を順番に見た。
ミナは、緊張で頬を引きつらせているくせに、親指を立ててみせる。
コルトは、いつもの無表情で頷き、矢筒の重さを確かめている。
リアンは、祈り珠を握る手に汗をにじませながらも、しっかりと前を見ていた。
「次は、“本隊案件の手前”まで。そこで、“危険だから帰る”って言える場所を探しに行きましょう」
ガランさんが、にやりと笑う。
「よし、聞いたな。ここから先でセイが“危険だ”と言ったら、その日の“前に進む話”はそこで終わりだ」
その言葉が、胸の奥にずしりと乗る。
(本隊案件の線を、自分の足で決めに行く)
青ではなく、まだ赤い布の並ぶ背中側を一度だけ振り返ってから、
俺は一歩、前へ足を送り出した。
その先に――黒い膜の匂いが、はっきりと待っている。




