第36話 仲間線と、「怖い」と言える場所
赤い布が、風に揺れていた。
さっき打ったばかりの三本の杭――第一命綱チェックポイント、Aライン。
少し進んで振り返ると、布はもう指先ほどの大きさになっている。
戻れる場所が、目に見えて小さくなる感覚は、思った以上に胸に来た。
『退路マーカーA、視界からの縮小率三〇%。心理的距離の変化としてログに残します』
(ログにまでされると、余計に帰りたくなくなるな)
『では“帰りたくなくなった”ときの心拍と呼吸も、怖さログに追加しておきますね』
(やめろ、全部記録するな)
内心でぼやきながらも、足は前へ出る。
俺の前には《鎚灯り》のバルドたち、後ろには《リュミエルの灯》の三人と、教会・学院の面々。
ガランさんは列の中ほど、全体の様子を見渡せる位置を保っている。
そのさらに後ろで、学院のレオンが羊皮紙に何やら細かく書き込み、教会のセラが小さな祈り珠を指で転がしていた。
川の音は、Aラインよりも少し大きくなっている。
道は相変わらず細いが、岩の露出が増えて、斜面の角度もきつくなってきた。
『推定危険度、三・〇前後。足場要注意。転倒時の滑落シミュレーションを表示しますか?』
(表示したら怖くなるだろ)
『“怖くなる”のも、大事なデータですよ?』
(それはそうなんだけど)
視界の隅に、うっすらと「もしここで足を滑らせたら」という筋道が浮かぶ。
膝を打ち、肩をぶつけ、最悪川べりまで転がっていく自分の姿。
喉の奥が、少しだけ渇いた。
どれくらい歩いただろうか。
時間の感覚よりも、足首とふくらはぎの張りのほうが先にはっきりしてくる。
前を行くバルドが、ふと足を止めた。
その先で、道がふわりと広がっている。
片側の斜面が少し後ろへ引っ込んで、三、四人なら横に並べそうな、土と小石の踊り場みたいな場所。
川までの落ち込みは相変わらずだが、この一角だけは、崩れた木の根や岩が“段差”になって、転げ落ちる前に引っかかりそうだ。
俺はそこまで歩いていき、足元を一度ぐるりと見回した。
つま先で土を踏む。
かかとを落とす。
重心を前に乗せて、わざと小石を鳴らしてみる。
右足を半歩前に。
左足で体重を受けて、そこから振り返る――。
頭の中で、行きと帰りの通り道が重ね合わさっていく。
(ここだな)
手を挙げると、列が止まった。
「一旦ストップ。ここを、Bライン――第二命綱チェックポイントの候補にしたい」
ざわ、と小さなざわめき。
バルドが振り返り、ガランさんとレオン、それからセラも前に出てくる。
「理由を聞こうか」
ガランさんの声は落ち着いている。
さっきAラインを認めたときと、同じ調子。
「ここまでで、足と肺に“最初の重さ”が乗ってきてる。まだ動けるけど、油断すると足を滑らせる人が出そうな頃合いです」
周囲の顔を順番に見る。
コルトの額にはうっすら汗。
ミナは肩で息をしながらも、意地で歩幅を保っている。
リアンは表情こそ変えないが、指先の数珠を握る力が強い。
《鎚灯り》の三人は、さすがCランクだけあってまだ余裕があるように見える。
でも、余裕があるかどうかだけで線を決めたら、いつか誰かを置いていくことになる。
「ここから先は、川側の斜面がもっときつくなる。戻るとき、全員が“走って”この踊り場までたどり着ける保証がある場所が、ここです」
土をつま先で押し、踊り場の端から端まで、一歩ずつ刻んで見せる。
「この幅なら、二列で駆け上がってもぶつからない。転んでも、この根っこや岩が引っかかりになる。“誰かを支えながら”でも、全員で引き返せる」
『退路シミュレーション、四パターン完了。最大で十二人同時退避可能、と』
(そういうのは俺の頭の中だけに流しとけって)
心の中で突っ込みながらも、言葉は続ける。
「Bラインは“仲間線”だって、昨日説明しました。ここは、自分のことだけじゃなくて、隣の顔を見る場所にしたい」
ミナとコルト、リアン。
それから、後ろの予備班の若い冒険者たち。
誰か一人でも「きつい」と思っていたら、そこで今日の“このメンバーで行ける場所”は終わりにする線。
「セイさん」
静かだったレオンが、そこで口を開いた。
「学院の視点から、一つだけ提案と質問をしてもよろしいかな?」
「どうぞ」
「距離と高低差、足場の条件だけを見るなら――」
レオンは視線で、踊り場の少し先を示した。
そこには、もう一段登ったところに、似たような幅の場所が見えている。
「あと二百メートル先のあの膨らみでも、今のメンバーなら戻ってこられると判断できます。体力の余裕を見る限り、ここをBラインにすると“かなり安全寄り”です」
さらり、と言いながら、羊皮紙に何かを書きつける。
「学院としては、“怖さ”だけでなく、体力・魔力の消耗率もデータ化したい。もう少し先まで進み、そこで顔色と脈を測ったほうが、耐久の指標としては有用かもしれません」
軽い口調。
だが、言っていることはちゃんとした意見だ。
安全寄りに線を引くのはいい。
けれど、あまりに早い段階で「怖いから帰る」を選び続けたら、いつまでたっても身体も心も育たない――そんな懸念。
俺は一度だけ深呼吸し、踊り場の端から端まで視線を往復させた。
「レオンさんの言う通り、今のメンバーなら、まだ行けます。今日、この顔ぶれでの“限界”を測るだけなら、あっちがBラインでもいい」
「では――」
「でも、今日決めたいのは、“この顔ぶれ”の限界じゃないです」
言葉を区切って、レオンを見る。
「ここに立つのは、今日だけこのメンバー、ってわけじゃない。今後、本隊が来たとき。もっと疲れた部隊が、交代で上り下りするとき。Bラインにたどり着くのが“ギリギリの人”が混じる前提で決めたい場所なんです」
脳裏に浮かぶのは、名前も知らない誰かの顔。
寝不足の兵士。
祈りを繰り返しすぎて、手が震える神官。
何日も行軍してきた後衛魔術師。
「そういう人たちが、息を切らしながらでも走って戻ってこられる。誰か一人が転んでも、隣が手を伸ばせる。その“余白”まで含めて、ここを仲間線にしたい」
『補足:将来利用者の体力分布を考慮した安全マージン……いいですね』
(理層用語に翻訳しなくていい)
ガランさんが、腕を組んだままうなずいた。
「こっちはギルドの立場からも補足をしよう」
皆の視線が、自然とギルドマスターに集まる。
「学院は、“どこまで行けるか”を測る。教会は、“祈りがどこまで届くか”を見たい。それぞれ正しい」
そこで一拍置いて、続ける。
「だがギルドは、“戻れなかった人数”で責任を取るところだ。線を一つ間違えたせいで帰ってこられなかったやつが出たら、そいつは統計じゃなくて遺影になる」
レオンが、少しだけ目を伏せた。
「現場のルールは、昨日も確認したな。――危険だ、戻ろう、って言葉は、セイが出す。異論は受け取るが、撤退の合図はそこで決まりだ」
短く息を飲む音が、あちこちから聞こえた。
「学院の意見は、後で会議で全部聞かせてくれ。ここでの提案は、記録に残す。だが今日のBラインは、セイの言うこの踊り場とする」
レオンは、やれやれと肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「了解した。現場ルールは現場ルール、だね。では学院の記録には、“第二案:+二百メートル地点”と添えておくよ。戻ったあと、数字と一緒に検証しよう」
「助かります」
軽い――けれどちゃんとした反論。
そして、それを“提案”として預かったうえで、現場では線を一本に揃える。
それでいい。それがいい。
「教会側からも、一つ」
セラが一歩前に出て、踊り場をぐるりと見回した。
「ここまでの道、祈りの響きと皆さんの息の乱れ、両方を見てきました」
そう言いながら、リアンのほうをちらりと見る。
リアンは少しだけ背筋を伸ばした。
「Aラインまでは、“怖さ”よりも“緊張”の揺れが主でした。ここに来るまでの間に、何度か祈りの線が小刻みに揺れる瞬間があった」
「……すみません」
リアンが小さく頭を下げる。
セラは首を振った。
「謝ることではありませんよ。揺れた地点、揺れ方、そのときの足場。全部、記録しています」
祈り珠が、かち、と柔らかい音を立てた。
「教会としては、Bラインを“怖さを口にしていい場所”として印づけたい。神に頼りすぎず、でも、怖さを押し込めない。ここで顔色と一緒に、“怖さの告白”をしてもらえれば、祈りの訓練にもなります」
セラの視線が、後ろの若い冒険者たちに向かう。
「『怖い』と言ったから弱いのではなく、『怖い』と言えないまま進んで崩れるほうが、よほど危ういのだと。教会としても、その考え方を共有したい」
ほんの少し、胸が軽くなった。
Bライン。
仲間線。
“怖い”を、ここで言っていい場所。
『怖さログのタグに、“Bライン・告白地点”を追加しておきますね』
(タグ管理までしてるのか、お前)
『将来の分析用ですから』
「よし」
俺はマジックボックスから、二組目の杭と赤布を取り出した。
踊り場の入り口と、その少し後ろの両脇に、三本の杭を打ち込んでいく。
バルドとテオが手際よくハンマーを振るい、サラが布を結んでいく。
赤い布が、また三つ。
今度は、道だけでなく、俺たちの顔色と心の向きを区切る印。
「ここが、第二命綱チェックポイント――Bラインだ」
皆に向き直り、声を張る。
「ここまで来たら、一回止まる。
自分の息と、隣の汗と、後ろの目線を見て判断する。
誰か一人でも、“きつい”“危ないかも”って思ったら、そこで今日は終わり」
ミナが、少し困ったように笑った。
「……正直に言っていい?」
「正直に」
「ちょっと、足、パンパン」
「ミナ」
コルトが苦笑しながら、彼女の背中を軽く叩いた。
「それ、さっきから言おうとして黙ってただろ」
「う、うるさいな」
「いいんだよ」
俺は二人のほうを向く。
「それをここで言う練習をするための線だから。今日の顔ぶれなら、まだ行ける。でも、“今日”は行けても、“別の誰か”には危ないかもしれない」
リアンが、杭の前に膝をついた。
「ここまで戻ってくる人たちが、ちゃんと戻ってこられますように。そして、ここで『怖い』と言った人が、責められませんように」
静かな祈り。
光が、杭と布の周りを淡く包み込む。
セラがまたそれをじっと観察し、祈り珠にそっと触れた。
「祈りの“揺れ”と、“戻る場所”の印……。教会の記録でも、AとBでどれくらい違いが出るか、楽しみですね」
『怖さログと、祈りログの同期も完了。リラ・セイ・教会側での三重記録です』
(情報化社会かよ)
全員が水を飲み、装備の締め直しを終えたところで、ガランさんがまとめに入る。
「では確認しよう」
ギルドマスターの声が、さっきより少しだけ低く響いた。
「Aラインは足慣らしと退路確認。Bラインは仲間線――顔と声で“今日のここまで”を決める地点」
指で、背後の赤布をとん、と叩く。
「この先に進むやつは、ここから先は“覗き”だと思え。怖さが六に近づいたとセイが判断したら、原則ここから引き返す」
レオンが手帳をぱらりとめくりながら、付け加えた。
「学院側の記録としては、A→Bまでの距離、時間、心拍、祈りの揺れを一度まとめて、“第二案Bライン”と比較検証する。……結論は、村に戻ってから、だね」
その言葉に、俺は小さくうなずいた。
(ここでは、提案。結論は、帰ってから)
それでいい。
目の前の命綱と、未来の議論を、きっちり分けておく。
「じゃあ――」
俺は、Bラインの杭を最後に一度だけ見てから、踊り場の先へ視線を向ける。
川の音は、さっきよりも低く、重くなっていた。
遠く、上流のほうに、黒い膜のようなものが薄く揺れているのが見える気がする。
『推定危険度、三・五〜四・〇。ここから先、怖さログの密度が上がることが予想されます』
(……そうだろうな)
足を一歩、Bラインの外側へ。
赤い布が、後ろで小さく揺れた。
「Bラインを越える。ここから先は、“怖くなったら帰る”の本番だ」
そう告げて、俺たちは再び、川上へと歩き出した。




