第34話 村の線と、「帰る」に印をつける日
三日前に自分線だの仲間線だのと言い出してから、村の空気が、ほんの少しだけ変わった気がする。
『「気がする」ではなく、実測でも変化がありますよ』
(また数字の話か?)
『ええ。西側講習に参加したD・Eランクの依頼成功率が、直近三日で一割ほど上がっています』
(それは……まあ、悪くない副作用だな)
教会のベッドから半身を起こしながら、窓の外を見る。
朝の光が、マナ灯籠の線と重なって村の輪郭を浮かび上がらせていた。
今日の予定は、ひとつだけ。
村全体での「上流祈律帯会議」。
ギルド。教会。学院。
それから、上流に関わる予定の冒険者たち。
そこに、俺も呼ばれている。
(線の説明係、再びってわけか)
『それに、“帰る”の話を、今度は大人全員に通す回ですね』
(プレッシャーかけるなって)
ギルドの大広間は、いつもより少しだけぎゅうぎゅうだった。
カウンター前には、ギルド組――
エルディア村ギルド支部長のガラン・フォード。
その少し横に、受付のリーナ。
前衛側として《鎚灯り》、その隣に《リュミエルの灯》の面々。
壁際には、教会側。
エルディア教会のマルセル神父と、その横に祈り手のリアン。
さらに本部から来ている祈律研究寄りのシスター、セラ・ルミナ。
その隣には、灰色のローブ姿の学院組。
王立ことわり理術学院から派遣されたレオンと、若手研究者のフィン・ハルトだ。
奥のほうには、こないだ西側で一緒に歩いた若手たちの姿も見えた。
Dランクパーティ《風切り》、Eランクの《木陰》。
弓のゲイルと、近接修行中のルカ。
みんな、いつもより少し背筋が伸びている。
アヤの姿だけが、ここにもない。
王都に一時帰還、傷の療養――そう聞かされてから、もう少し経った。
(本人には、しばらく会えない、か)
『今は、“線を整えるターン”ですからね』
(分かってる)
そんなことを考えているうちに、前のほうでガランさんが立ち上がった。
「全員、揃ったな」
低い声が、ざわめきを切り裂く。
「今日ここに集めたのは、村の“上流側”に関わる連中だ。ギルド、教会、学院、それから現場に出る冒険者たち。D・Eランクも含めてな」
名前を挙げるたびに、あちこちで軽い頷きが返る。
「まずは現状の共有からだ」
ガランさんは、背後の壁に貼られた地図を叩いた。
村の北側。川。祈律帯。上流の祠。
その手前に、細く引かれた三本の線。
A。B。C。
そのそばに、小さく「自分」「仲間」「預け」と書き添えられている。
「川の上流にある祈律帯。川面の濁り。祠の影。これらについては、すでに二度、予備調査をしている」
二度。
最初は、ただ「怪しい地点」に目印をつけて戻ってきた日。
その後、崩落と奇襲があって、リアンを救い出した日。
石が崩れる音と、濁りに侵された魔物の線は、まだ体の奥に残っている。
「結果として分かったことは三つ」
ガランさんは、指を折った。
「一つ。祈りだけでは、上流から流れ込んでくる“濁り”は押し返せない。二つ。川面には、黒い膜のようなものが張っている。三つ。今の村の戦力だけで、あそこを“片づける”のは無理だ」
マルセル神父が静かに目を閉じ、学院側のレオンが苦い顔をした。
「だから、上流祈律帯そのものの掃討は、本隊――王都側の仕事になる」
広間の空気が、少しだけざわつく。
「だが、本隊が動く前に、俺たちがやっておくべきことがある」
ガランさんは、今度は地図に引かれた三本の線のほうを指さした。
「“どこまで行ったら危ないか”と、“どこまで戻ったら危険ではないか”。この二つを、村全体で共有しておくことだ」
その言い方に、胸の中で何かが「カチ」とはまった。
行ける限界と、戻るべき限界。
その両方に、線を引いておく。
『いいですね。行きと帰りの両方に閾値を設ける運用です』
(つまり、“行き過ぎない線”と“ちゃんと戻る線”を決めたってことな。用語が固いっての)
「そこで、だ」
ガランさんは俺のほうを顎でしゃくる。
「セイ」
「はい」
「お前がこの三日で整理した線の話を、ここでもう一度やってくれ」
ギルドの大広間にいる全員が、いっせいに俺を見た。
若いのも、年寄りも。
槍を持った連中も、ローブ姿も。
その真ん中に、俺。
(……やるしかない)
『プレゼンモード、お願いします』
「ええと」
喉の奥で息を整えてから、一歩前に出た。
「まず、この三本の線のことから」
地図の手前側――村の近くに引かれた線を指さす。
「一番村寄りのAが、“自分線”です。ここまでは、とにかく一回歩いて、自分の足と“危険に気づけるかどうか”を測る線」
西側講習組から、小さな「ああ」という声が漏れた。
「ここまで歩いてみて、『今日は体が重い』『なんか危ない気がする』って感じたら、その時点で“今日はここまで”にしていい場所です」
マルセル神父が、興味深そうにこちらを見た。
「それは、祈りの場でも応用できそうだね。『今日の自分はここまで』と認める線、というわけだ」
「そんな感じです」
軽く答え、指をBに移す。
「次のBが、“仲間線”。ここでは、自分のことだけじゃなくて隣の顔を見ます。息が上がっているか。顔色はどうか。祈りの線は揺れていないか」
リアンが、小さく頷いた。
「誰か一人でも『きつい』『危険かも』って思っていたら――そこで終わり。“今日のこのメンバーで行けるのはここまで”って決める線です」
「“へばったやつを置いて先に行く”を禁止する線でもあるな」
《鎚灯り》のバルドが、腕を組んだまま口を挟む。
「昔はよくやったが……結果として戻れなかった仲間の数を考えると、な」
その言葉に、何人かの古参が目を伏せる。
「最後のCが、“預け線”です」
祈律帯の手前に引かれた線を指さす。
「ここから先は、自分たちでどうにかしようとしない。“王都側”とか、“本隊”に預ける線です」
学院側のレオンが、少し眉をひそめた。
「預ける、ね……。しかし、現場にいるのは君たち村側の人間だろう? 危険を見て見ぬふりをして戻る、というわけには――」
「見て見ぬふりは、しません」
言い切る。
広間の空気が、少しだけ変わった。
「預け線まで行ったら、そこで“印”をつけて戻ります。濁りの濃さ。祈りの効き具合。魔物の数。そこまでの情報をちゃんと持ち帰って、『ここから先は本隊の仕事です』って渡すんです」
レオンが、腕を組み直した。
「……戻る前提で動く、ということか」
「はい」
頷きながら、自分の胸を軽く叩く。
「全部自分たちで片づけようとして、全員倒れたら、それこそ誰にも何も伝えられませんから」
数人が、苦笑混じりに吹き出した。
マルセル神父が穏やかな声で言う。
「“預け線”を祈りの言葉で言い換えるなら――『任せる』だね。自分たちで抱えきれないものを、抱えきれる者に任せるための線」
「そうです。そういう線を、最初から決めておきたいって話です」
「で」
ひと通り説明し終えたところで、ガランさんが前に出た。
「今の三本の線は、村の周りや西側の丘での話だ。これから問題になるのは――上流祈律帯で、この線をどう引き直すか、だ」
地図の北側。
祈律帯の入り口。
その奥に、濁りの帯。
「上流には、すでに“黒い膜”が張っている」
ガランさんの声が低くなる。
「祈りだけでは押し返せない濁り。増え続ければ、いずれ村の灯籠ともぶつかる」
リアンの祈りの線が、胸の前でほんの少し強く揺れた。
「だから本隊が必要だ。だが、本隊を呼ぶにも準備がいる」
視線が、ギルドのカウンター前の大人たちに向かう。
「本隊が動くには、“どれだけ危険か”“どこまでなら拠点を置けるか”を、俺たちが先に示しておく必要がある」
学院側のフィンが、深く頷いた。
「キャンプ予定地。祈り場。逃走路。そういったものを、事前に洗い出す……というわけですな」
「そうだ」
ガランさんは頷き、指で三本の線をなぞる。
「そのための“前座調査”を、近いうちにやる。ギルド・教会・学院の混成チーム、それに《リュミエルの灯》と《鎚灯り》を含めた部隊でな」
広間に、ざわめきが走る。
上流へ。
また。
『心拍、少し上昇してます』
(黙ってろ)
「ここからが、本題だ」
ガランさんは、俺の隣に立った。
「この“前座調査”では、三本の線をこう使う」
地図に指を走らせながら言う。
「村を出て、最初に足を止める地点を“自分線”。祈律帯の手前で、一度全員の顔を確認する地点を“仲間線”。濁りの膜が見えてくる直前――そこを“預け線”とする」
線の位置は、すでに仮で書き込まれている。
あの日の記憶と、リラのログを元にした位置だ。
「この三本の線を前提に――撤退の判断をする役を、あらかじめ決めておく」
そこで、俺の胸あたりを軽く小突く。
「上流の“撤退判断役”は、セイだ」
「え」
思わず変な声が出た。
「ちょっと待ってください。俺は――」
「前にも言ったが、お前の役目は“倒す”ことじゃない」
ガランさんの声は淡々としている。
「線を見ること。危険度を落として、危険ではないほうまで戻るために、“危険だ”と言うこと」
広間の視線が、また俺に集まった。
「もちろん、最終的な責任は俺やマルセル神父、学院側の責任者が持つ。だが、“このままだと危険ではない帯まで戻れない”と思ったとき、お前が口を開かなかったら――俺は二度目は任せない」
喉が、からからになった。
『プレッシャー・レベル、最大値近くです』
(静かに応援しろ)
「……分かりました」
唾を飲み込んでから、ゆっくりと言葉を出す。
「上流でも、“危険だ”と思ったらちゃんと言います。迷ったら、ちゃんと相談もします」
「それでいい」
ガランさんは、満足そうに頷いた。
「仲間線で“危険だ”“危ない”と言えるかどうか。預け線で、“ここから先は預けます”と言えるかどうか。その二つができれば、今日の話は半分成功だ」
「質問、いいですか」
手を挙げたのは、Cランクパーティ《野守り》のリーダー、ラグナだった。
「俺たちみたいなCランクが、“危ないから帰りたい”って言ったときも、ちゃんと聞いてもらえるんですか?」
どこか自嘲気味な言い方だ。
「今までは、“危ないなんて言うな”って怒られることのほうが多かったんで」
「聞く」
即答。
ガランさんは、真っ直ぐその男を見た。
「今日ここにいる全員の前で、はっきり決める。上流では、“危ない”は撤退理由として認める」
広間の空気が、わずかに揺れた。
思っていたよりも強く、その言葉が響いたのが分かる。
「ただし、工夫も求める」
ガランさんは続けた。
「“危ないから帰りたい”と言うだけじゃなく、“どこまでなら危なくないか”も一緒に言え。
さっきの三本の線を基準に、“今はもう預け線の手前だ”とか、“仲間線を越えた”とか」
中堅リーダーが、苦笑交じりに頷く。
「……なるほど。“怖い”の言い訳じゃなくて、“怖さの説明”をしろってことですね」
「そういうことだ」
「もう一つだけ」
今度は、学院側のフィンが手を上げた。
「君の能力についてだ、セイ君」
少しだけ嫌な汗が出る。
「君の“線を見る力”は、非常に有用だ。だが、現場で頼り過ぎれば、君が倒れたときに全体が立ち行かなくなる」
「それは……そうですね」
「ゆえに」
フィンは、少しだけ口元を緩めた。
「この前座調査では、“君がいない前提の線”も同時に確認させてほしい。君の判断を基準に、コルト君やバルド君たちが自分たちの感覚をそろえる。そうすれば、将来君が別の場所にいるときにも、この村は動ける」
「……了解しました」
それは、ありがたくもあり、少しだけ寂しくもあった。
『でも、それが目的でもありますからね』
(分かってる)
俺がいなくても動ける村にする。
そのための線。
会議は、そのあと細かい実務の話に移っていった。
誰が祈り場を整えるか。
誰がキャンプ予定地を見て回るか。
いつ出発するか。
《鎚灯り》や《野守り》みたいな中堅パーティたちは、やはり前座と裏方だ。
崩落地点の周辺で、逃げ道や隠れ場所になりそうな地形を洗っておく役目。
《リュミエルの灯》は、その中で線と足場の確認役だ。
どこなら全員で引き返せるか。どこから先が“預け線”になるか。
それを、上からなぞるように決めていく。
そのどれもが、「危険ではない帯まで戻るため」の準備だ。
会議が終わった頃には、外の光はもう少し傾きかけていた。
人が引き、広間が静かになったところで、リアンが近づいてくる。
「セイ君」
「ん」
「さっき、“危ない”を撤退理由にしていいって決めてくれたの、すごく嬉しかったです」
「決めたのはガランさんだろ」
「でも、セイ君が線を引いてくれたから、言葉にできたんだと思います」
リアンは、胸の前で小さく祈りの形をつくった。
「上流でも、“危険だ”“危ない”をちゃんと言えるように祈りますね」
「頼りにしてる」
そう答えると、リアンの祈りの線が、少しだけ明るくなった。
『セイ』
(なんだ)
『今日のログタイトル案ですが』
(早いな)
『「村の線と、『帰る』に印をつける日」など、いかがでしょう』
「……採用」
小さく呟いてから、俺はギルドの外へ出た。
村の上に広がる空は、少しずつ夕方の色に変わり始めている。
上流の祈律帯。
黒い膜。
その手前に、新しく引いた三本の線。
行けるところではなく、戻れるところを決める線。
その線を、次は実際の地面に刻みに行く。
(帰るための線を引く――それが、俺の仕事だ)
そう自分に言い聞かせて、俺は北の空をもう一度だけ見上げた。




