第33話 西側の野と、「怖い」と言う練習
三日なんて、案外あっという間だった。
線の説明用にメモを作って、地図の上に赤い印を増やして、何度か頭の中で言い回しを組み直して――気づけば当日の朝になっている。
『睡眠時間、通常より一時間マイナスです』
(知ってる)
『講習内容の反芻に、就寝直前まで処理を割いていましたからね』
(だから知ってるって)
教会の窓から差し込む朝の光が、床の上に細い線を引いている。
その線をまたぎながら靴を履き、腰の小さな短剣を確認する。
今日は戦う日じゃない。
でも、何も持たずに外に出るほど、ここは甘くない。
ギルドの前には、いつもとは違うざわつきがあった。
若い声が多い。
まだ革の匂いが抜けきっていない防具。
新品に近い木槍。
DとEランクの面々――村の「若手」たちが、入口前の広場に集められていた。
「おー、セイだ」
「本当に来た。『線を見る子ども』だ」
「講習ってことは、今日も“前に出ない”の?」
好き勝手なひそひそ声が、風に乗って耳に入ってくる。
『注目度、平常より150%増しですね』
(数字にしなくていい)
そんな喧噪を割るように、低い声が響いた。
「静かにしろ」
声の主は、いつものギルドマスター――ガランさんだ。
広場の一角に立ち、集まった若手たちをぐるりと見渡している。
「今日は“仕事の講習”だ。遊びじゃない。……が、いきなり上流に放り込むほど俺も無茶はしない」
場に、少し笑いが漏れた。
「行き先は、村の西側だ。灯籠の先、外縁の手前まで。《鎚灯り》と《リュミエルの灯》が先頭を務める。お前たちは、その後ろから“何を見ているか”を学べ」
視線が、俺たちのほうに向く。
「セイ」
「はい」
「お前の役目は、“線の説明役”だ。現場で、自分線・仲間線・預け線――三本の線を、そいつらに叩き込め」
「了解です」
『講師業、正式発注きました』
(緊張を煽るな)
先頭には、《鎚灯り》の三人。
バルドが槌を肩に担ぎ、その少し後ろをテオとサラが歩く。
その後ろに、《リュミエルの灯》の三人。
コルトが弓を肩に背負い、ミナが腰のポーチをいつもより多めに、リアンは祈りのローブの裾を少しだけたくし上げている。
さらにその後ろに、俺と、十数人の低ランクたちが連なる形になった。
「じゃ、行くか」
バルドの一声で、列がゆっくりと動き出した。
村の西側へ向かう道は、南とは少し違う。
家々の並びが途切れた先に、すぐ緩やかな丘が広がっている。
遠くには、低い森の縁。
その手前を、マナ灯籠の光が半円を描くように守っていた。
線を見ていると、村の内側と外側がはっきりと分かる。
足もとから伸びる生活の線と、遠くから染み込んでくる濁りの線。
そのあいだに、細い細い境界が走っている。
『今日歩くのは、その境界の“内側ギリギリ”ですね』
(だからこそ、線の話をするにはちょうどいい)
ある程度歩いたところで、バルドが手を挙げて合図を送った。
「ここで一旦、止まるぞ」
列がゆっくりと止まる。
若手たちがざわざわと周囲を見回した。
村の屋根はもう見えない。
けれど、灯籠の光はまだ強い。
空気の濁りも、ほとんど感じない。
「セイ」
「はい」
「まずは、ここだ。――説明してやれ」
バルドに促され、俺は一歩前へ出た。
周囲の線を一度見回してから、足もとの土を軽く蹴る。
乾いた土の色に、マナの薄い光が混じっている。
その線は、村の中の線とまだ繋がっていた。
「ここが、今日の“自分線”だ」
わざと、少し大きめの声で言う。
「自分線……?」
後ろのほうで、誰かが小さく繰り返した。
「そう。最初に一回、“自分の足と怖さ”を測る線。ここまで歩いてみて――息が上がってるやつはいるか?」
数人が、苦笑しながら手を挙げた。
「昨日飲みすぎたやつも、正直に挙げろ」
もう一人、ちょっと視線を逸らしながら手を挙げる。
笑いが起きる。
でも、その笑いの下で、何人かの肩の力が抜けたのが分かった。
「今日は講習だから笑えるけど――本番の日にここで息が上がってたら、その時点で“今日はここまで”って決める場所だ」
土を指でひとすくいし、地面に小さな印をつける。
「ここまで来て『体が重い』『危険』って思ったら、その自覚のほうを優先する。“自分はまだ行ける”じゃなくて、“今日の自分はここまで”って決める線。だから“自分線”」
若手たちが、顔を見合わせながら頷いていく。
「怖くないって言うのは、この辺りまではまだ簡単なんだよな」
俺は、自分の胸を指で軽く叩く。
「この先で“危険”って言えるかどうかが大事になる。だからまずは、ここで自分の状態をちゃんと見る癖をつける」
『導入としては、十分分かりやすいですね』
(ほめて伸ばそうとするな)
自分線に印をつけ終えたところで、列は再び歩き出した。
今度は少し足元が悪くなる。
丘の傾斜がわずかにきつくなり、草むらが増えた。
前のほうで、バルドたちがさりげなく歩き方を変える。
足の置き場を見ながら、後ろに小さく合図を送っている。
それを見ながら、若手たちの足もとの線を確認する。
つま先に余計な力が入っているやつ。
槍の柄を握りしめすぎているやつ。
逆に、妙に浮ついた足取りになっているやつ。
怖さの出方は、それぞれ違う。
『セイ、後ろから三番目、左側。足首の角度がおかしいです』
(ああ、あれはそのうちひねるな)
「そこの槍」
声をかけると、若い男がびくっと振り向いた。
「は、はい!」
「足、内側に入りすぎてる。丘でそれやると、踏み抜いたときに捻るぞ。かかとから置いて、指先で地面を撫でるくらいでいい」
「あ、はい!」
少しぎこちないが、足の向きが直る。
線の流れも、さっきよりまっすぐになった。
やがて、バルドがもう一度手を挙げた。
「ここで二本目だ」
周囲の空気が、さっきよりほんの少し重くなっている。
濁りの線が、遠くの森のほうから薄く伸びてきていた。
灯籠の光はまだ強い。
けれど、ここから先は外縁に近い。
何かが出てもおかしくない匂いがある。
「ここが、“仲間線”だ」
俺は、さっきより少し真面目な声で言う。
「仲間線……」
誰かが小さく繰り返した。
「ここでは、自分のことだけじゃなくて――隣の顔を見ろ」
意図的に、間を取る。
「息が上がってるやつ。顔色が悪いやつ。いつもより口数が多い、少ない。それを見て、“このメンバーでこの先に行っても、全員で戻れるか”を考える線だ」
後ろから、ざわりと視線が動く気配がした。
誰か一人だけを見るんじゃない。
全体を見渡す癖をつける。
「ここで、『誰か一人でもきつい』って言ったら――今日はそこが終点だ。それ以上は、“今日のメンバーでは危険だ”ってことになる」
「……じゃあ、そのとき前に出られる奴がまだ余裕あっても、そこで帰るってことですか?」
後ろのほうから、少し不満混じりの声が飛んだ。
まだ若い男の子の声だ。
「そういうことだ」
振り返らずに答える。
「“自分だけなら行ける”距離と、“全員で戻れる”距離は違うからな」
「でも、それじゃあ“もったいない”ときも……」
「あるだろうな」
言葉を遮る形にならないように、あえて相手の言い分を肯定する。
「その“もったいない”を、ここで飲み込む練習をする。魔物を二、三匹多く倒せるかどうかより、今日のメンバーが明日も歩けるほうが大事だ」
少しの沈黙のあと、別の声がした。
「……危険って言うの、かっこ悪いって思ってました」
そう言ったのは、小柄な女の子だった。
軽装で、短い剣を二本腰に下げている。
「でも、自分はまだまだ行けるって顔して、その先で誰か倒れたら――そっちのほうが、もっとかっこ悪いですよね」
「そういうこと」
俺も、小さく息を吐いた。
「だから、ここで練習する。せっかくだから――“危険”って、今言ってみろ」
「え?」
場がざわつく。
「今、別にそんなに怖くないだろう?」
「……うん」
「危ないときに、“危険”って口に出すのは、案外難しい。本当に怖くなったときに、初めて言おうとしても喉がつっかえるからな。だから、今のうちに練習しておけ」
『いいですね、“空撃ち”です』
(勝手に名前をつけるな)
「じゃあ、三つ数える。せーの、で、“危ない”って言え。声の大きさはどうでもいい。自分の耳に届けばそれでいい」
若手たちが、顔を見合わせる。
「……一、二の――」
「せーの」
「「危ない……」」
ばらばらなタイミングで、ばらばらな大きさの声が上がった。
照れ笑いするやつ。
真面目に小さな声で呟くやつ。
ふてくされたように言い捨てるやつ。
形はどうであれ、一回は通った。
「はい、合格」
俺は、地面にもう一つ印をつける。
「ここが、“仲間線”」
そのときだった。
前のほうで、草むらががさりと動いた。
細い線が、視界の端で跳ねる。
濁りの線ではない。
生き物の、単純な動きの線。
「来るぞ」
バルドの低い声が飛ぶ。
ほどなくして、灰色の影が飛び出した。
中型犬ほどの大きさの、猪に似た魔物――ハスクボアだ。
濁りに侵されていない、ただの“野生の厄介者”。
「ここは俺たちでやる。お前たちは、下がって線を見てろ」
バルドの声と同時に、《鎚灯り》と《灯》が前に出る。
テオが横から回り込み、サラが足を狙い、コルトの矢が飛び、ミナの小瓶が閃く。
リアンの祈りの線が、後方から全体を支える。
俺は若手たちの前に立って、両手を広げた。
「ここから先、三歩以上前に出るな。今のは――“誰かが倒れる前に危険度を落とせる”相手だ。だから、“預け線”の手前だと思って見てろ」
『いいですね。危険度2〜3程度です』
(うん)
戦闘は、拍子抜けするくらいあっさり終わった。
ハスクボアが一匹、土の上に転がる。
その周りの線は、すぐに落ち着いていく。
息を整えたバルドが、こちらに振り向いた。
「今のが、“危険度を落とす”ってやつだ。このくらいなら、押し返せる。押し返したら、そこで一回止まって考える」
俺は頷き、三本目の印を指さした。
「この向こうが、“預け線”だ」
若手たちの視線が、一斉に地面へ向かう。
「ここから先は、今日のメンバーの仕事じゃない。何か異常が見えたら、印をつけて戻る。“ここから先は、本隊に預けます”って、線のほうから教えてやる場所だ」
静かな空気の中で、誰かが小さく息を呑む音がした。
「全部、自分たちで片付けなくていいんですね」
さっきの女の子が呟いた。
「全部自分たちで片付けようとして、全滅した話なら山ほどあるぞ」
バルドが、肩の槌を軽く叩いた。
「預けられる先があるなら、ちゃんと預けろ。そのために、本隊や王都の連中がいる」
「お前たちの仕事は、“預ける線”まで生きて帰ることだ」
ガランさんのいない場で、代わりにそう口にした。
戻り道は、来たときより少し静かだった。
自分線の印。
仲間線の印。
預け線の印。
その一つ一つを踏み越えながら、若手たちが何かを噛みしめている気配がある。
「さっき、“危険”って言ったとき、どうだった?」
帰り道の途中で、後ろのほうに声をかけた。
「……結構、恥ずかしかったです」
「でも、一回言ったから、次はもう少し楽になる」
『経験値+1ですね』
(そういうゲームじゃない)
「本当に危険なときは、喉が固くなる。頭も回らなくなる。だから、今日みたいに“まだ危険でないとき”に何回か空撃ちしておく」
女の子が、小さく笑った。
「次は、ちゃんと大きい声で言ってみます」
「それで十分だ」
村の灯籠の光が、前方に戻ってきた。
西側の丘を下り、いつもの道に足を踏み入れると、空気の重さが一段階軽くなる。
「そこまで」
ギルド前で、バルドが列を止めた。
「今日の講習はここまでだ。怪我したやつはいないな?」
「「はい!」」
若手たちの声が揃う。
さっきより、少し息が合っていた。
「……よし。じゃあ解散――と行きたいところだが」
低い声が、その言葉を追い越した。
ギルドの入り口の陰から、ガランさんが出てくる。
「最後にもう一つだけ、話しておく」
若手たちの視線が、一斉にそちらへ向いた。
「今日は西側の野で、自分線・仲間線・預け線の話をしたな」
ガランさんは、広場の地面を指でとんと叩く。
「覚えておけ。あれは“今日だけの遊び”じゃない。これから先、エルディア村の周りで何かあったとき――ギルドは、あの三本の線を基準に動く」
ざわ、と小さなざわめきが走る。
「例えば、村のそばで魔物を見つけたとき」
ガランさんは、指を一本立てた。
「一つ。まず、『どこで』『誰にとって』危ないかを叫べ。“自分線の外だ”“仲間線を越えた”“預け線の向こうに何かいる”――そういう言い方をしろ」
若手の中から、「はい」と小さな返事がいくつか返ってくる。
「二つ。現場に《鎚灯り》や《リュミエルの灯》がいて、セイも一緒にいるときは――」
そこで、俺の肩を軽く叩いた。
「撤退の線を決める最終判断役は、セイだ。俺がいようがいまいが、“ここまで”“ここから先は預け線だ”って言葉は、ギルドとして最優先で聞く」
若手たちの視線が、まとめてこっちに刺さる。
『視線集中率、一気に上がりましたね』
(黙ってろ)
「もちろん、こいつ一人に全部押しつけるつもりはない」
ガランさんは続ける。
「ギルドのリーダー、パーティのリーダー、祈り手や学院のやつら――全員で相談しながら決める。だが最終的に、“危険ではない線まで戻れるかどうか”を見て『危険だ』と言う役は、こいつに任せた」
若手の一人が、おずおずと手を挙げた。
「あの……セイさんがいないときは、どうすれば?」
「そのときは、各パーティのリーダーが“仲間線”を基準に決めろ」
即答だった。
「仲間線を越えたと思ったら、それ以上は前に出ない。“危険だ”って声が出たら、一度は必ず止まって相談する。そこで預け線まで行くかどうか決めるのは、お前たちじゃなくて、ギルドと教会と学院だ」
男は、ほっとしたように息を吐いた。
「三つめだ」
ガランさんは、三本目の指を立てる。
「預け線から先は、“勝手に英雄になる場所”じゃない。
村の外で何かあったときに、お前たちがやるべきことは、村の中に危険を持ち込まないことと――誰がどこまで行って何を見たかを、ギルドまで持って帰ることだ」
その言葉に、数人が苦笑する。
「全部自分たちで片づけようとして、全員倒れたら、村に何も伝わらん。
セイがいなくても、《鎚灯り》がいなくても、《リュミエルの灯》が別の依頼に出ていても、だ」
ガランさんは、一人ひとりの目を確かめるように見回した。
「今日教えた三本の線は、“エルディアの基本方針”になる。
自分線を越える前に、自分の足と怖さを見ろ。
仲間線を越える前に、隣の顔を見ろ。
預け線を越える前に、一度ギルドに任せることを考えろ」
短い沈黙のあと、「はい」と返事が重なった。
「よし。今日の講習は、本当にこれで終わりだ」
ようやく解散の言葉が出て、広場は一気に散り始めた。
「お疲れさま、セイ君」
人の波が途切れたところで、リアンが近づいてきた。
「ちゃんと、“怖い”って言わせられてましたね」
「まあ、初回にしては上出来だろ」
『自己評価、控えめ方向ですね』
(うるさい)
ミナがメモ帳をぱらぱらとめくる。
「“自分線・仲間線・預け線”って言い方、やっぱりいいですね。あれなら、私でも覚えられます」
「それはたぶん、ミナの頭がいいだけだ」
「それもありますね」
「自分で言うのか」
コルトは、少し離れたところで弓の手入れをしていた。
ふと顔を上げる。
「線を名前で呼ぶの、案外効きますね。“自分線まで”“今日は仲間線まで”って考えると、変な意地を張りにくくなる」
「意地を張りたいときは、仲間線の手前までにしとけ」
「はい」
ギルドの入り口の陰から、また視線を感じた。
さっきと同じ人だ。
「うまくやったな、セイ」
「見てたんですか」
「少しくらいはな」
ガランさんが近づいてきて、短く言う。
「次は――村全体だ」
「村全体?」
「上流祈律帯の予備調査に向けた全体会議だ」
ガランさんは、北を指さした。
「今日教えた三本の線と、今話した緊急時の方針を、今度は村の代表全員で共有する。
ギルド、教会、学院、低ランクも含めてな」
「……分かりました」
自分線。
仲間線。
預け線。
今日、西側の野で地面に刻んだ三本の印が、今度は村の地図の上に引き直される番だ。
『セイ』
(なんだ)
『今日のログタイトル案ですが――』
(はいはい)
『「西側の野と、『怖い』の空撃ち練習」、など、いかがでしょう』
「……悪くない」
思わず口に出してしまってから、俺は少しだけ笑った。
怖いと言う練習。
危険ではない線まで戻る練習。
緊急時の「ここまで」と「ここから先は預ける」の決め方。
その全部が、まだ見ぬ上流と、その先にある“預け先”につながっている。
次は、村全体で、その練習をする番だ。




