第32話 いない席と、「危険でない」線
朝の教会は、やけに静かだった。
祈りの声も、子どもの笑い声もない。
石の床を流れる祈りの線だけが、薄く揺れている。
『心拍、平常時より一割ほど高めです』
(そりゃあな)
『アヤさんの病室へ向かっている状況と、前夜の会議内容を踏まえた観測です』
(分かってるよ)
回廊の角を曲がると、見慣れた扉が見えた。
昨日まで、足首に包帯を巻いた前衛が寝ていた部屋。
扉の前まで来たところで、足が止まる。
中にいる気配が――薄い。
ノックをしてから、そっと扉を開けた。
「……あ」
ベッドはきれいに整えられ、毛布はきちんと畳まれていた。
薬草の匂いも、包帯の気配もない。
窓からの光だけが、白いシーツを照らしている。
その光の中で、シーツを抱えていたリアンが振り向いた。
「セイ君。おはようございます」
「……おはよう。アヤは?」
聞きながらも、答えはほとんど分かっていた。
ベッドに残っている線は、もう“今いる人”のものじゃない。
ほんの少しだけ残った体温の跡と、「ここにいた」という痕跡だけだ。
「夜明け前に、王都から使いの方が来ました」
リアンは、畳んだシーツを胸の前に抱え直す。
「アヤさん、一度王都に戻ることになりました。足首のことと……ここしばらくの無理を、まとめて診てもらうために」
「やっぱり、そうなったか」
『記録と一致します。“王都への一時帰還”ですね』
(ああ)
「そんなに、状態は悪いのか?」
「傷だけなら、祈りでだいぶ落ち着いてます」
リアンは、言葉を選ぶみたいに少し間を置いた。
「でも、“前に立たない”って自分で決めたでしょう? その気持ちと体をちゃんと揃えるには、ここより王都のほうがいいって。……そう、言われたそうです」
「……なるほどな」
前に出る癖を止めるには、いったん前線から離す。
理屈としては、よく分かる。
頭では分かるけど、胸のあたりが少しだけ空っぽになった。
「行く前に、何か言ってなかったか?」
俺がそう聞くと、リアンは少しだけ困ったように笑った。
「『しばらく任せる』って。『ちゃんと戻る場所、残しといて』って」
「ズルいな、あいつ」
口から出たのは、ため息まじりの笑いだった。
危ないところまで踏み込みかけて、怒られて。
そこまでの流れを全部置いていって、最後だけ「任せた」だ。
『大人のやり口ですね』
(否定はしない)
それでも、その言葉をもらった以上――
「ガランさんから何か預かってるか?」
「はい。ギルドに来るようにって。『昨日の続きだ』って言ってました」
「了解。……シーツ、手伝おうか」
「大丈夫です。これは私の仕事ですから」
リアンはそう言って、もう一度ベッドに向き直った。
祈るときとは少し違う、でも似たような手つきで、いない人の形を整えていく。
教会を出ると、村はもうすっかり朝になっていた。
パンを焼く匂い。
井戸の水を汲む音。
マナ灯籠の光が、家々の合間を細い回路みたいに走っている。
その中に、一人分、足音が抜けた場所がある。
ギルドの扉を押すと、受付のリーナが顔を上げた。
「セイ君、おはよう。ちょうどよかったわ。支部長が呼んでるの。小さいほうの会議室よ」
「やっぱりか。ありがとう」
軽く会釈して廊下に回る。
小会議室の扉の前まで来ると、中から人の気配がした。
深呼吸をひとつしてから、ノックして扉を開ける。
長机を挟んで、見慣れた顔が並んでいた。
一番奥にガランさん。
その右側に、《リュミエルの灯》の三人――コルト、ミナ、リアン。
左側には、《鎚灯り》の三人――バルド、テオ、サラ。
アヤの椅子だけが、今日はここにもない。
「来たか、セイ」
「おはようございます」
いちばん手前の席に腰を下ろすと、木の硬さが妙に現実的だった。
ガランさんは、机の上の紙を指先でこん、と叩いた。
「まず、アヤの件だ」
コルトの肩が、わずかに強張る。
ミナは指を組んだまま、視線を落とした。
リアンは、胸の前で祈る形を作っている。
「今朝、王都から正式な通達が届いた」
低い声が、板張りの壁に染み込むみたいに広がる。
「アヤは、一時的にエルディアを離れる。理由は、負傷の療養と、ここしばらくの疲労の精査だとある」
「療養、ですか……」
リアンの声は、思ったより落ち着いていた。
「ああ。足首だけじゃなく、積み重なった無理も含めてだろう」
ガランさんは、空いている椅子を一度だけ見てから、視線を戻した。
「この村の依頼からは、当面完全に外れる。現場復帰の時期は未定だ。……今、出せるのはここまでだ」
「戻ってきますよね」
コルトが、膝の上で握った拳を見つめながら言う。
「戻ってくる前提で話をする」
即答だった。
「戻る場所を残せ、と本人も言っていったそうだな」
リアンが小さく頷く。
「だからこそ、こっちもやることを整える」
ガランさんは、別の紙を取り出して机に広げた。
村の周囲をぐるりと囲む線と、北の川、森、そして上流の小さな祠が描かれた地図だ。
「次に、撤退ラインと運用の話だ」
空気が、別の意味で締まる。
「昨日の会議で、A・B・Cの線はもう一度整理したな。Aは足慣らしと観察。Bは全員の顔色を確認する地点。Cは、予備調査班が踏み込んではいけない限界――本隊に任せるべき場所だ」
そう言ってから、ガランさんは俺のほうを見る。
「そのうえで、だ」
「はい」
「お前たちが次に現場に出るとき――目指すべきなのは、“ぎりぎりどうにかなる場所”じゃない。“今のメンバーでも危険度を落として戻れる線”だ」
コルトが、はっとしたように顔を上げた。
「……昨日のあれは、“どうにかなっただけ”ってことですよね」
「ああ」
ガランさんは、あっさり肯定する。
「アヤたちは危ないところに入り込んでいた。セイが自分の線を越えて走ったから、今日は全員この場にいる。ああいう生還を、今後の基準にはしない」
ミナが、ぎゅっと指を組んだ。
「すみません。……分かってたはずなのに、戻ってくる途中で少しだけ浮かれてました」
「それは、昨日全部言った。繰り返さないぶんには構わん」
そこで一度、空気を切り替えるみたいに、ガランさんは地図の南側を指でなぞった。
「大事なのは、これからだ」
「これから……」
「危険度の線をどう扱うか、実務で決める」
指先が、村の外縁のあたりをこん、と叩く。
「今後の依頼で、俺たちが目指すのは、“危険を消す”ことじゃない。“危険度を落として、危険ではない帯まで戻る”ことだ」
「危険ではない帯、ですか」
思わず、口の中で繰り返す。
「濁り帯に足を突っ込んでいる時点で、絶対安全なんて場所はない。だが、“一人くらいなら倒れても仕方ない”場所と、“全員そろって帰れる可能性が高い”場所は違う」
ガランさんの指が、地図の上で二度、軽く叩かれた。
「今後の依頼では、常に後者を目指す。危険度を落として、“危険ではないほうの線”まで戻る。それができなかったときは、たとえ魔物を片付けても、それは良い仕事とは言えん」
『目的関数の再設定ですね』
(表現が固い)
「セイ」
名前を呼ばれて、背筋が自然と伸びる。
「はい」
「お前の役目は、“撤退を判断する役”だ」
その言葉は、もう何度も聞いているはずなのに、今日の響きは少し違った。
「お前が“危険だ”と言ったとき、それは『このままだと危険でない帯まで戻れない』という意味だ。逆に、“今なら危険度を落として戻れる”と判断した地点が――お前たちの、その日の終着点になる」
喉の奥に、言葉がひとつ落ちた。
「……そんなに重く見ていいんですか」
「そう決めた」
ガランさんは、きっぱりと言い切る。
「昨日の件を、本当に次の線に変えたいならな」
昨日、アヤのベッドのそばで交わした拳が、頭の中でよみがえる。
「線を越えた」と認めた顔。
「ブレーキになって」と言った声。
その全部を、次の線に変えるための役目。
「もちろん、判断を一人で抱え込む必要はない」
ガランさんは、机の上を軽く指さす。
「迷ったら、いくらでも周りを巻き込め。俺でも、《鎚灯り》でも、《灯》でもいい。祈りの線が揺れていると思ったら、リアンでも構わん。黙って突っ込むのだけは禁止だ」
「はい」
答える声は、思ったより普通に出た。
「“危険だ”と思ったら、ちゃんと口を開きます。迷ったら、ちゃんと相談します」
『宣言、ログに保存しました』
(お前、本当に何でも記録するな)
「それでだ」
ガランさんは、地図の端にもう一枚紙を重ねた。
「A・B・Cって記号だけじゃ、低ランクの連中には頭に残りにくい。数字や記号じゃなく、“誰を基準にした線か”で覚えさせたい」
「誰を……」
「セイ。お前のほうで、覚えやすい呼び名を考えろ。三つともだ。親しみやすくて、理由を聞いたら『ああ、なるほどな』と思えるやつ」
「いきなりハードル上げるんですね」
『ネーミングセンスの見せ所です』
(うるさい)
地図の上で、A・B・Cを見比べる。
Aは、一番手前。
まだ村の空気に近くて、自分の足の調子を確かめられる場所。
Bは、その先。
ここまで来れば、その日のメンバーの顔色も呼吸もはっきり分かる。
Cは、さらに先。
村の調査隊の足だけで踏み込むべきじゃない帯。
(……基準ごとに分けるか)
『いいですね。“誰のための線か”で切ると、分かりやすいです』
「Aは、“自分の線”」
自然と、口が動いていた。
全員の視線が、こちらに向く。
「最初に足を踏み出すのは、自分の足だから。
Aまで歩いて、『今日は体が重い』『怖さがいつもより強い』って感じたら、その時点で引き返せる。ここは、自分の足と怖さを測る線。だから“自分線”」
ミナが、ペン先をとん、と紙に当てた。
「自分線……。うん、悪くないです」
「Bは、“仲間の線”」
地図のBに指を置く。
「ここまで来たら、一度立ち止まって全員の顔を見る。
足取りも、息の上がり方も、祈りの揺れ具合も。
ここで誰か一人でも『きつい』『怖い』って言ったら、そこがその日の終点。だからBは、“仲間線”」
コルトが、ゆっくり頷いた。
「……ここまで来たら、一回ちゃんと『もうやめとこう』って相談する線、ってことですね」
「そう。怖いって言う練習をする場所」
『“怖がる練習ライン”、略して仲間線です』
(略になってない)
「で、Cは?」
バルドが、腕を組んだまま問いかける。
「Cは、“預ける線”」
Cの印に指を移す。
「ここから先は、自分たちじゃなくて、本隊や王都側に預ける。
村の調査隊だけで踏み込まないって、最初から決めておく線です」
「預ける線、か」
ガランさんが、腕を組み直して目を細める。
「自分線、仲間線、預け線」
ミナが、紙に三つの言葉を書きながら、口の中で繰り返した。
「基準が“自分”“パーティ”“本隊”で揃ってるの、いいですね。順番に遠くなっていく感じも覚えやすいです」
「数字だけよりは、まだ頭に残るだろう」
コルトが、肩の力を少し抜いた。
「A・B・Cって聞いても正直ぼんやりしてましたけど……“自分線越えたら一回止まる”“仲間線を越える前に帰る”“預け線から先は預ける”って言われたら、なんか、しっくりきます」
『しっくり評価、いただきました』
(いちいち実況するな)
ガランさんは、しばらく考えるように顎に手を当てていたが、やがて頷いた。
「よし。正式な記録では今までどおりA・B・Cラインを使う。だが実地講習では、“自分線”“仲間線”“預け線”で通そう」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「セイ」
「はい」
「三日後、村の西側で安全ラインの講習会をやる。低ランク――DとEの連中を集める予定だ。お前はそこで、今の三つを地形に合わせて説明しろ」
「……やっぱり俺が講師なんですね」
「線を見ているのはお前だろう。
“どこまでなら危険ではないか”“どこから先は預けるか”を、言葉にできるのもお前だ」
それは、まあ、否定しづらい。
「分かりました。自分線、仲間線、預け線で、ちゃんと説明してみます」
『講習用のメモ、あとで一緒に整理しましょう』
(頼んだ)
「《鎚灯り》は、その講習の実地担当だ」
ガランさんは、左側の三人へ視線を向けた。
「村の西側で、安全ラインの確保を実際にやってみせる。リーダーはバルド」
「了解しました」
バルドが短く答える。
「《リュミエルの灯》は副リーダーと補助。コルト、段取りは任せる」
「はい」
コルトが背筋を伸ばした。
「セイと低ランクたちは、その後ろから見学だ。お前はついて行って、『今ならまだ自分線』『ここが今日の仲間線』『この先は預け線』ってのを、その場で言葉にする」
「言う練習ってことですね」
「そうだ。お前が“危険だ”って言う側の練習と、言われた側がちゃんと止まる練習だ」
ガランさんは、最後に地図の北を指さした。
「上流祈律帯の件は、そのあとだ。本隊からの返事が来次第、全体会議を開く」
祠の印と、その先に描かれた灰色の帯が目に入る。
「焦ってもどうにもならん。まずは村の周りで、“危険ではない線”を身体に入れろ」
「……了解です」
「以上だ」
ガランさんが手を叩いて、会議を締めた。
椅子がきしみ、背もたれが鳴る。
小さい会議室の空気が、少しだけ軽くなる。
廊下に出ると、《鎚灯り》の三人はそのまま受付のほうへ向かっていった。
こっちはいつもの四人――アヤ抜きの《灯》+俺。
「……本当に、王都か」
コルトがぽつりと呟く。
「ちゃんと帰ってきます」
ミナが、わざと明るい声を出した。
「あの人、そういう約束だけは守るから」
「そうですね」
リアンは、胸の前で小さな祈りの形をつくる。
「祈りも、ちゃんと届いてます。……今は、“危険ではないほう”で少し休んでもらうのが、いちばんだと思います」
「危険ではないほう、ね」
口の中でその言葉を転がす。
昨日までは、「どこまで踏み込めるか」を考えていた。
これからは、「どこまで戻れるか」を先に決める。
「セイさん」
コルトが、廊下の途中で足を止めた。
「さっきの、自分線とか仲間線とかの話」
「うん」
「俺、自分の線より先に踏み込みそうになったら、ちゃんと『怖い』って言います。だから、セイさんも遠慮なく“ここまで”って言ってください」
その目は真面目で、少しだけ悔しそうだった。
「あの斜面みたいには、もうならないように」
「分かった」
自然と笑いがこぼれる。
「じゃあ、三日後の講習で練習しよう。怖いって言うほうも、“危険ではない線”を見るほうも」
「はい」
ギルドの出入口から外に出ると、昼前の光が村全体を照らしていた。
マナ灯籠の淡い光と、太陽の光が重なって、道の上に薄い線を描いている。
家々の屋根。
畑の畦道。
教会へ続く小道。
そのどれにも、しばらくアヤの足跡は残らない。
いない席。
いない前衛。
けれどその代わりに――今日、新しく決めた三本の線がある。
自分の線。
仲間の線。
預ける線。
全部、「危険ではないほう」に戻るための目印だ。
『セイ』
(なんだ)
『今日のログタイトル案ですが』
(嫌な予感しかしない)
『「いない席と、『危険でない』線」、などいかがでしょう』
「……悪くないな」
思わず、口に出していた。
「え、何が?」
「いや、こっちの話」
俺の役目は、危険そのものを消すことじゃない。
危険度を落として、危険ではない帯まで戻るために、「危険だ」と言葉にすることだ。
アヤが戻ってくる席を、“危険ではないほう”に残しておけるように。
そのための練習を、村の南側から始める。




