第30話 斜面の下で、線を繋ぐ
牙の列が、目の前で開いた。
泥と水しぶきと、濁りの黒。
右足を、半歩だけ前に送る。
川石の上、滑らないところ。
左足は、斜面側に残す。
重心は、川じゃなくて斜面寄り。
俺の一歩は、逃げるための一歩じゃない。
――戻れるための一歩だ。
(リラ、手前三体の接触タイミング、出せるか)
『はい、手前右から、0.8秒、1.1秒、1.5秒後に順次接触ラインです』
視界の端に、薄い三本の線が走る。
ジャッカルたちの足の運び。
右前脚から踏み込んで、次に左後ろで地面を掴む、その癖。
最初の一本が飛び込んでくる瞬間に、俺は右足のつま先だけを外へずらした。
踏み込んでくる爪の線から、半足ぶんだけ外側。
右手の刃が、すれ違いざまに前脚の外側を撫でる。
深くは切らない。
踏み切りに使う腱だけを、線の通り道から外す。
砂色の身体が、予定していた着地線を失って、横へ滑った。
そのまま川の中へ、泥水を跳ねあげて転がり込む。
『一体、戦闘不能。危険度スコア、5.6から5.4に低下』
間髪入れず、二体目。
こいつは、一歩目が小さい。
前脚で探るみたいに地面を確かめてから、二歩目で一気に距離を詰めてくるタイプ。
俺は左足を、後ろの石から斜面側の泥へ滑らせた。
わざと、ぬかるんだところ。
重心を落として、腰を落とす。
二体目の前脚が石を踏んだ瞬間、俺は左足を軸に小さく回る。
斜面側へ体を開きながら、右膝をわずかに曲げて、自分の肩をジャッカルの肩にぶつける高さに合わせる。
肩と肩が当たる直前、右足のかかとで川石を軽く蹴った。
その反動を上半身に伝えて、相手の肩を押し上げる。
前のめりに駆け上がろうとしていた重心が、わずかに上へ。
着地の線が、斜面から川側にずれる。
「っ……!」
牙が俺の耳元をかすめて、すぐ後ろの斜面の土を噛んだ。
そのまま二体目も、泥ごと川に滑り落ちていく。
『二体目、体勢崩壊。流れに飲まれます。危険度スコア、5.1』
三体目は、小さく唸って足を止めた。
前の二体とは違う。
間合いを計る目。
(……賢いな、お前)
こっちも一度、足を止める。
右足は石の上、左足は斜面寄りの泥。
どっちにでも一歩出せる位置で、腰だけひとつ落とす。
川の音が、妙にはっきり聞こえた。
その向こうで、斜面の上、アヤたちの気配。
震える祈りの光と、短く区切られた呼吸。
そこへ――
「全員、その場でかがめ!」
森の奥、北側から響いた怒鳴り声。
腹に響く低さ。
聞き慣れた、ギルドマスターの声だった。
斜面の途中で、アヤたちのマナの線が一斉に沈む。
コルトも、ミナも、リアンも。
全員が、地面に身を伏せる線へと切り替わる。
その瞬間。
斜面のさらに前――川と斜面の間に、太い線が一本引かれた。
土と石とマナが、一緒くたになったような、極太の線。
まっすぐ、川岸をなぎ払う軌道。
『大振りの“線”来ます。推定ガランさん。巻き込まれますよ!』
(分かってる!)
俺は三体目との間合いを詰めた。
わざと、太い線の“歯”の中へ。
右足を、川側へ踏み出す。
濁り混じりの水が跳ねて、脛を打った。
左足は、斜面と川の境目。
三体目のジャッカルが、反射的に飛び退く。
太い線から逃げようとした、その足。
俺は左足のつま先を、わずかに内側へねじった。
泥に沈んでいた石を踏む。
その小さな段差が、俺の体を上へ――
「っ!」
腰を支点に、上半身を前に倒す。
そのまま、ジャッカルの首筋の“外側”をなぞるように、右手の刃を走らせた。
致命傷じゃない。
だけど、首をひねって太い線から逃げようとした軌道が、半歩だけずれる。
その先に、ガランの線が来る。
地面の奥から、鈍い震えが上がった。
足裏から、骨に響く振動。
次の瞬間、川岸の土が一気に持ち上がり、横へ叩きつけられた。
土と石が、横倒しの波になって走る。
それが、濁り獣の群れの足元をまとめてさらっていく。
ジャッカル三体目も、他の数体も、土と一緒に斜面から引き剥がされ、濁った川へ落ちていった。
俺は、その波の“谷”に体を滑り込ませる。
右足を石から離し、左足を軸にしゃがみ込む。
頭を、ギリギリまで低く。
土の波が、すぐ頭上をかすめていった。
頬に、砕けた石の欠片が当たる。
痛みで、ようやく息を吐けた。
『……ガランさんの土撃、出力85%。セイさん、ぎりぎり外側です』
(ぎりぎりでいいよ……中にいたら、俺も川魚になるところだった)
波が収まった川岸には、抉られた土の跡と、濁り獣の残骸が混ざっている。
さっきまで整っていた斜面の線は、ぐちゃぐちゃに乱されていた。
けれど――アヤたちの線は、斜面の途中で、ちゃんと生きている。
伏せたまま、震えながらも、繋がったまま。
斜面の上から、重い足音が近づいてきた。
土の線が、ずしん、と沈む。
「お前は、ほんっっとに……」
顔を上げると、見慣れた大きな影があった。
分厚い土と祈りの線をまとった男。
ギルドマスター、ガランだ。
肩には、さっきの波を起こした戦鎚。
その周りには、土のマナがまだ、ほのかに渦を巻いている。
「“命が落ちる瞬間だけ前に出る”って話、覚えてるか?」
開口一番、それだった。
まあ、そうだよな。
「……落ちる手前でした」
自分でも分かるくらい、情けない声が出る。
ガランは、鼻で笑った。
「手前過ぎんだよ。あと一歩こっち側で止まる練習もしろ」
そう言いながらも、ガランの視線は俺じゃない。
斜面のほうだ。
アヤが、ゆっくりと上体を起こそうとしている。
その足首には、祈りの光。
リアンが、汗をにじませながら必死に祈っていた。
コルトは弓を抱えたまま、周囲を警戒している。
ミナは、割れた瓶の残骸を片付けながら、震えた手で新しい瓶を握りしめていた。
「全員、生きてるな」
ガランの声が、少しだけ柔らかくなる。
「は、はい……なんとか」
斜面の途中から、リアンの声が返ってきた。
祈りの光が、ほんの少しだけ明るくなる。
『危険度スコア、4.0まで下降。即時撤退であれば、安全圏内です』
(撤退一択だな)
俺は、立ち上がりながらガランのほうを見た。
「ガランさん。《鎚灯り》は、森側のAラインまで下げてます。村への報告と、今日の森側のログ取りを任せました」
「ああ、さっきすれ違った。ちゃんと“セイの判断に従う”って顔してたぞ」
ガランはそう言って、戦鎚を肩に担ぎ直す。
「で、こっちはこっちで、どういうわけだ?」
視線の先には、抉れた斜面と、川の濁り。
上流からは、まだ小さな黒い泡が時々流れてきている。
『濁り成分、さっきよりは薄いですが、通常比で1.5倍。長居は非推奨です』
「上流側に“塊”の予兆。さっきより少し弱くなってますけど、まだ嫌な線のねじれ方してます」
俺が答えると、ガランは短く唸った。
「……祠の影、だな」
その言葉に、背筋が少し冷える。
危険地点Aの上流。
いずれ本隊を連れて行かなきゃいけない場所。
「今日はここまでだ」
ガランはきっぱりと言った。
「森の中心と、この川沿い。どっちも、“今のメンバーで戻れる線”は分かった。これ以上前に出れば、戻りの線が薄くなる」
「でも――」
斜面の途中から、掠れた声がした。
アヤだ。
「今なら……私、まだ動けます。斜面を降りて、川沿いを少しだけ……」
そこで、彼女の声が途切れる。
足首をかばう痛みが、線を揺らしたのが見えた。
ガランは、ゆっくりと斜面に目を向ける。
「アヤ」
名前だけ。
けれど、その一言に、全部が詰まっていた。
「今回の依頼の目的、覚えてるか?」
「……森中心の祠と、その周辺の線引き。村北部から川沿いまでの……線引き」
「そうだ。線を“埋める”んじゃない。線を“決めて戻る”のが仕事だ」
ガランの視線が、一瞬だけ俺のほうをかすめる。
怒っているというより、確認している目。
「お前たちがやったのは、祠の手前までの線決めと、川沿いの“ここまで”の線決めだ。今日の仕事は、そこで終わってる」
「でも、この先を確かめておかないと――」
「その先は、本隊の仕事だ」
ガランは、斜面の上を指さした。
村のほう。
灯籠の光が、かすかに見える方向。
「セイの線と、お前らの線だけじゃ足りない場所がある。そこに無理やり踏み込むのは、仕事じゃなくて我慢比べだ」
アヤは、しばらく黙っていた。
祈りの光が、足首のあたりで揺れる。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……撤退します」
絞り出すような声だったけれど、その線はまっすぐだった。
ガランが、わずかに口元を緩める。
「よし。じゃあ、もうひとつだけ、残ってる役目を片付けるぞ」
「残ってる……?」
思わず聞き返すと、ガランは抉れた川岸を顎でしゃくった。
「ここを、“次に来る奴らへの線”にしていく。濁りに触れた土と石を、一箇所に集める」
『即席の焼却ポイント、ですね』
(……祈り穴の原型、か)
俺たちは、まだその名前を知らない。
けれど、やることは分かる。
俺は川岸に近い石の上を選んで立ち、右足から順番に土を蹴り出した。
濁りを吸った泥と、砕けた骨。
それらを、斜面から少し離れた窪地に集めていく。
コルトは、矢でまだ動く気配のある獣の線を止め、ミナは割れていない瓶を慎重に抜いて、火の代わりに薬品で濁りを弱める。
リアンは、その窪地の上で静かに祈りを重ねていた。
「ここに残すのは、汚れた土と……戻れたっていう“印”だけだ」
ガランの声が、窪地の上に落ちる。
「それ以上は、ここまでにする。痛みも、悔しさも、怖さも、いったんここで区切る」
俺は、集めた泥を最後に一度踏み固めた。
右足を乗せて、重心をかける。
ここから先へ行かない、という線を、自分の足で決めるみたいに。
(……戻る線を引くって、こういうことか)
戦っている間より、今のほうが、腹の底が冷たくなる。
この先に何があっても、今日はここまで。
そう決めてしまう怖さ。
『セイさん』
リラの声が、少しだけ柔らかく鳴った。
『ここで一度区切ったからこそ、次に“前に出る線”が引けます。今日の怖さは、ログに残しますから』
(頼む。数字でも、線でもいい。今日の冷たさを、忘れないようにしてくれ)
『了解しました。今日の撤退ライン、祈り穴(仮)とともに保存します』
斜面を登るとき、右足から一歩ずつ、戻る線を辿る。
川の音は、少しずつ遠くなる。
代わりに、灯籠の光の線が、近づいてくる。
振り返れば、抉れた斜面と、小さな窪地。
そこに残る黒ずんだ土は、きっとすぐに草に隠されるだろう。
それでも。
(あそこに残るのは、“負けた印”じゃない)
誰かが前に出て。
誰かが戻る線を引いて。
全員が帰るために、ここでいったん止めた記録。
それを背中に貼りつけたまま、俺たちは森を後にした。
まだ、祠の影までは届いていない。
けれど――そこへ向かうための線は、今日、ひとつ増えた。




