第29話 川沿いの斜面と、残る役目
腹の底の冷たさを、もう一度だけ確かめる。
まだ、“凍りつく”手前。
けれど、このまま黙って見ていられる温度じゃない。
「……ガランさんに怒られるな、これ」
自分でも分かるくらい、乾いた声が出た。
「セイさん?」
バルドが眉をひそめる。
テオとサラも、不安そうにこちらを見ていた。
北側の映像は、視界の端で揺れている。
川沿いの斜面。
その一番前で、アヤが崩れ落ちたまま、必死に体を起こそうとしている。
そのすぐ前に、砂色の影。
ジャッカルの一本が、獲物を守るみたいにアヤの前に立っていた。
(時間がない)
腹の底の冷えが、じわじわと広がっていく。
「今から、プランを“撤退モード”に切り替える」
俺ははっきりと言った。
「ここから先、森の奥へは進まない。今日の森側はこれで“一区切り”だ。……あとは、状況報告込みで村に戻ってもらう」
「待ってください、セイさんは?」
バルドの目が見開かれる。
俺は視線だけ北側に向けたまま、息を吸った。
「俺は――別の線を、見に行く」
バルドたちの気配が、一瞬止まる。
「別の……」
「まさか、一人でですか?」
テオの声が震えた。
「全部一人でどうにかする気はないよ」
そこで、ようやく三人のほうへ向き直る。
「まず、《鎚灯り》の三人は、ここからAラインまで戻る。途中でウルフが残っていても、さっきより危険度は落ちてる。無理に追い払わず、“こっちへ来る線”だけ折って、そのまま村まで」
「村まで戻って、報告……ですね」
サラが確認する。
「そう。森側のBラインまでの状況と、ウルフ十一体との交戦ログ。あと――」
俺は一瞬だけ視界の隅を北に向け、すぐ戻した。
「北側の危険度スコアが5まで跳ね上がったこと。その理由は、俺が戻ってから、ちゃんとまとめる」
「……セイさんは、その“理由”のほうに向かうんですか」
バルドの問いは、ほとんど確信だった。
「本当は、行っちゃいけない。こっちのCラインを、踏み越えることになるから」
腹の底のきしみを、そのまま言葉にする。
「でも、“命が落ちる瞬間だけは例外”って、ガランさんもアヤさんも言ってた。……今、あっちでそれが始まりかけてる」
バルドが、歯を食いしばる音がした。
「だったら、俺たちも――」
「ダメ」
言い終わる前に、はっきり遮った。
「ここから先は、《鎚灯り》の仕事じゃない。今日の任務は“予備調査”と“線引き”だ。ちゃんとBラインまで伸ばして、“戻れる線”を確認して、村に掲示板を立てる――そこまでが、三人の責任範囲」
テオが、悔しそうに俯く。
「……でも、セイさん一人を行かせるのは」
「一人じゃないさ」
俺は軽く笑ってみせた。
「リラもいるし、《塔》のみんなもいる。それに――」
胸の前で、軽く拳を握る。
「“戻れる線”を引き直しながら行く。帰ってくるつもりで行くから」
沈黙。
やがて、サラが小さく息を吐いた。
「……分かりました」
祈りの輪に触れていた手を離し、こちらを見る。
「でも、ひとつだけ、約束してください」
「何を?」
「さっき、Bラインを引いたときみたいに」
サラは、土の上に描いた白い輪を指さした。
「“ここまで戻る”って、どこかに約束してから行ってください。……私たちにも、神さまにも」
腹の底の冷えが、少しだけ形を持った。
「……そうだな」
俺はサラから粉袋を受け取り、Bラインの少し手前、足場のいい場所にしゃがみ込む。
土の上に、小さな輪をひとつ。
その外側に、さらにもう一つ、小さく重ねた。
「内側が、森班の“戻りライン”。外側が、俺の」
輪を描き終えて、立ち上がる。
「俺が戻ってくるのは、この外側の輪まで。……そこより奥で倒れそうになったら、ちゃんと諦めて戻る」
「それ、ちゃんと守ってくださいよ」
テオが笑おうとして、うまく笑えない顔をした。
「守らないと、ガランさんとアヤさん、両方から怒られるからな」
自分で言って、少しだけ呼吸が軽くなる。
「じゃあ、合図の確認だけ」
三人のほうに手を伸ばした。
「撤退合図“一回”は、さっきと同じ。……それと、新しく一個。もし、途中で道を引き返すことになったら――」
俺は胸の前で、握った拳を二回、軽く打ち合わせた。
「これを、できるだけ大きく。声を出さなくていいから、腕だけでも」
「“戻る”って合図ですね」
「そう。俺がどこまで踏み込んだか、村で報告するときの目印にもなる」
バルドが、同じ動きを真似る。
テオとサラも、順番に拳を打ち合わせた。
「よし」
腹の底の冷たさと一緒に、そのリズムを刻み込む。
「じゃあ、《鎚灯り》は撤退開始。……森側の線は、任せた」
「はい!」
三人の声が揃った。
それを背中で受け止めるようにして、俺は森の奥とは逆側――北へ向けて、走り出した。
◇ ◇ ◇
斜面の横腹を抜け、木々の少ないところを選んで、一歩ずつ距離を稼いでいく。
右足を一歩、前に出す。
柔らかい土を踏み抜かないように、体重を半分だけ預ける。
左足を、その少し斜め上に置く。
根の張った場所を踏むことで、蹴り出す支点にする。
足場を選ぶたびに、腹の底の冷たさが揺れた。
『ヒトリ2号、北側へ寄せます』
(頼む。川沿いの斜面までの最短ルート、出せるか?)
『はい。現在位置から北北東へ二百三十メートル。途中に小さな窪地と倒木が一本。……ミニマップに表示します』
視界の片隅に、小さな地図が浮かぶ。
森の線と、川の線。
その間に、細い点線が一本引かれた。
(この点線どおりに行けば、アヤたちの斜面の上側に出られるな)
『はい。ただし、途中の窪地は、雨のせいで泥が深くなっています。足を取られると、時間ロスと危険度の上昇が予想されます』
(じゃあ、そこは避ける)
右へ半歩、進行方向をずらす。
倒木の上を踏み台にして、一気に斜面を駆け上がる。
木々の間を抜けながら、視界のもう片方――北側の映像を覗いた。
斜面の一番前に、アヤ。
片膝をついたまま、片手で地面を掴んでいる。
そのすぐ後ろ右に、コルト。
矢を番えたまま、肩で息をしていた。
左側には、ミナ。
割れた瓶の欠片が足元に散らばっている。新しい瓶を引き抜きたいのに、腰を落とせずにいる。
リアンは、一段上。
崩れた足場のぎりぎりで、震える手を伸ばし、祈りの光を繋いでいた。
その斜面の下から、ジャッカルが四体。
泥を跳ね上げながら、風の線を引いて駆け上がってくる。
『危険度スコア、5.2。……5.3』
リラの声が、俺の耳の奥で低く鳴る。
(まだ上がる?)
『アヤさんの足首の損傷。リアンさんの足場崩落リスク。……それと』
(それと?)
『川の上流側、濁り成分の増加。まだ“塊”にはなっていませんが、線のねじれ方が嫌な感じです』
腹の底が、さらに冷えた。
(まずは、今見えてる線からだ)
右足を前へ一歩。
土の斜面を踏みしめて、重心を少しだけ前に送る。
息を吐く。
(この一歩は、《塔》のほう)
そう区切ってから、俺は川沿いの斜面へ向けて、最後の木立ちを抜けた。
◇ ◇ ◇
斜面の中ほど。
アヤは、右足を崩したまま立ち上がろうとしていた。
足首のあたりから、血が泥ににじんでいる。
その前に、ジャッカルが一体。
低く身を沈め、喉の奥で唸り声を鳴らしていた。
少し下の位置に、残り三体。
風の帯のようなものをまといながら、斜面を駆け上がる準備をしている。
(間に合うか)
右足を斜め前に一歩。
崩れかけた土の縁を踏まないよう、斜面の上側に重心を寄せる。
左足を、そのすぐ隣に寄せる。
体を前に倒し、斜面に沿って滑るように走った。
「アヤ!」
叫びながら、斜面の横から飛び出す。
アヤの前にいたジャッカルが、こちらを振り向いた。
砂色の瞳が、ぎらりと光る。
その顎が、開く。
ゴブリンよりも細いが、骨を砕くには十分な牙。
牙の線が、アヤの喉元へ向かって伸びた。
『その一撃で、アヤさんの危険度6.0』
(そこは、折る)
俺は右足を半歩だけ前に出し、斜面の上側へ体重を乗せた。
同時に、右手のナイフを握り直す。
刃先を、横へ。
ジャッカルの頭が、こちらに向かって跳ね上がる。
そのすれ違いざまに、首の側面を浅くなぞった。
血が飛ぶ。
けれど、骨までは届かない。
ナイフを抜きながら、そのまま肩でジャッカルの胴を押す。
斜面の下側へ、突進の勢いを流した。
砂色の身体が、アヤから離れる方向へ転がる。
『一体、戦闘不能ではありませんが、戦線離脱。アヤさんの危険度、5.5まで低下』
「っ……セイ!?」
アヤが驚いた顔を上げた。
「立てるなら、一歩だけ後ろ!」
叫びながら、俺はアヤの前に滑り込む。
右足を前に、一歩。
土が崩れない位置を選び、斜面に対して半身になる。
左側に、コルトとミナ。
少し後ろ上に、リアン。
俺の前には、斜面の下から駆け上がるジャッカル三体。
(位置関係、固定)
頭の中で、簡単に並べ直す。
『セイ、右下から一体、特に速度が高い個体が来ます』
(了解)
一番右のジャッカルが、風に乗って跳ね上がる。
狙いは、俺の腰のあたり。
そこからアヤまで抜けていく線が見えた。
右足を半歩だけ後ろに引く。
牙が通るはずだった位置を、空に変える。
すれ違いざまに、ナイフの背で顎を弾く。
狙いを上にずらして、風の帯だけを空に散らした。
ジャッカルの身体が、俺の肩の上をかすめていく。
『一体、体勢崩れ。危険度スコア、5.1』
「コルト!」
「分かってる!」
俺の後ろから、矢が一本、風を裂いて飛ぶ。
体勢を崩したジャッカルの後脚に突き立ち、その動きを鈍らせた。
「ミナ、フラッシュ!」
「っ、はい!」
ミナが、斜面の少し下へ向けて瓶を投げる。
瓶が割れ、光と音が弾けた。
残り二体のジャッカルが一瞬だけ目を細める。
(今)
俺は左足を斜め前へ一歩。
斜面の下側へ滑り込み、ジャッカルの前に出る。
目を細めた一体の前脚を、ナイフの柄で払う。
支えを失った体が、泥の上に崩れた。
その首筋に、浅く一突き。
意識だけを落とす深さで止める。
『二体目、戦闘不能。危険度スコア、4.8』
残り二体。
ひとつは、矢を足に受けている。
もうひとつは、フラッシュから少し遅れて動き出した個体。
「アヤ、後ろ一歩!」
「……っ、分かってる!」
アヤは、痛む足を引きずりながらも、一段上へ退いた。
その動きに合わせて、リアンが祈りの光を広げる。
「光よ、ここまで――!」
崩れかけていた結界の線が、もう一度だけ厚みを取り戻した。
その内側に、《リュミエルの塔》の四人。
その少し前に、俺。
斜面の中ほど。
下には、まだ牙をむき出しにしたジャッカルが二体。
(このまま押し返せれば、なんとかなる)
『……セイ』
リラの声が、また調子を変えた。
『北側上流、濁り成分の集中を確認。危険度スコア、6.0相当の“塊”が形成されつつあります』
(どのくらいで、ここに?)
『川の流れに乗れば、五分以内。……早ければ三分』
三分。
腹の底の冷えが、一気に広がる。
(ジャッカル四体だけなら、《塔》と一緒に引きながら対処できる。でも)
そこに、濁り獣の群れが重なる。
斜面の足場はすでに崩れかけている。
誰かが足を滑らせれば、そのまま川へ。
濁りの塊ごと、飲み込まれる。
『セイ、危険度スコア、全体で6.2まで上昇』
(――ここは、“線”の引き直しが必要だ)
右足を半歩、斜面の上側へ引く。
ジャッカルとの距離を、一呼吸分だけ開けた。
「アヤ!」
振り返らずに、名前を呼ぶ。
「な、なにっ」
「ここから先は、“撤退戦”に切り替える」
斜面の中ほどで、言い切る。
「ジャッカル四体は、この場で押し返す。それと同時に、上流から濁り獣の群れが来る」
「……え?」
アヤの息が止まる気配がした。
「ヒトリが見てる。川の線が、内側からねじれてる。……だから、ここで長居すると、本当にまずい」
ジャッカルの一体が、こちらへ低く走り込んでくる。
それを棒のように構えたナイフの背で受け、斜面の横へ滑らせる。
土が飛び、砂色の身体が転がった。
『三体目、戦線離脱。残り一』
「コルト!」
「了解!」
コルトの矢が、最後のジャッカルの肩を射抜く。
動きが鈍ったところへ、ミナのフラッシュが重なった。
視界の端で、砂色の影が揺らぎ、斜面の下へ逃げていく。
『四体目、退避。ジャッカルの直接危険度、3.0まで低下』
それと同時に、リラの声が続く。
『濁り成分の塊、形成完了。危険度スコア、6.5。……川上から、複数の獣影を検知』
(やっぱり来るか)
腹の底の冷えが、完全に“氷”になった。
「アヤ、《塔》は全員、斜面の上まで下がって!」
「ちょ、ちょっと待って! セイは――」
「俺は一番下で、こっちへ来る線を折る」
振り返って、はっきり言う。
「ここから先、“残ってもいい人間”は一人だけだ。……前衛じゃない俺が、残る」
「そんな理屈、あるかよ!」
コルトが叫ぶ。
「前衛は俺だ。前に残るのは――」
「前衛が残ったら、“戻れる線”がなくなるだろ」
コルトの言葉を遮る。
「アヤの足も、リアンの祈りも、ミナの瓶も、コルトの矢も、村に戻して報告して、次の線を引くために必要なんだ」
息を吸う。
「俺は、そもそも本来“前に出ちゃいけない”人間だ。ガランさんとも、そういう話をしてる」
それを聞いて、《塔》の三人が一瞬、息を呑んだ。
「だから、例外も俺が引き受ける。……命が落ちる瞬間だけの例外なら、俺一人で十分だ」
アヤが、唇を噛む気配がした。
「……セイ、あんた、自分がどれだけ危ないことを言ってるか分かってんの?」
「分かってる。だからさっき、《鎚灯り》の輪も作った」
斜面の上のほう――森側のBラインのほうを、ちらりと見る。
そこに、小さな白い輪が二重に重なっているはずだ。
「戻るつもりで、残る。……その線は、さっき自分で引いた」
アヤはしばらく黙っていた。
やがて、肩の力が少しだけ抜ける。
「……分かった」
悔しさと、諦めと、どこかの信頼が混ざった声だった。
「どうせ止めても、行くんだろうし。だったらせめて、あたしたちのほうが先に動く」
アヤはコルトとミナを振り返る。
「コルト、矢と腰袋、全部持って上へ。ミナは瓶とマジックボックス。リアン、あんたはセイの背中が見えるギリギリまで祈りを伸ばして」
「分かった」
「了解……っ」
リアンが、ぎゅっと両手を合わせる。
「セイさん」
祈りの光が、少しだけ強くなった。
「戻ってきてください。……“ここまで戻る”って、さっき、神さまに約束したでしょう?」
胸の奥で、別の線が鳴った気がした。
「了解。……戻るよ」
そう答えて、俺は斜面の一番下へ向かって、一歩を踏み出す。
◇ ◇ ◇
川の音が、近くなる。
斜面の下、川岸の土がところどころ黒く濁り始めていた。
水面には、墨を垂らしたみたいな筋がいくつも走っている。
『濁り獣、接近。数十体規模』
(種類は?)
『犬型・猪型・不定形……判別しきれないほど濁りが強い個体も含まれます』
「贅沢は言ってられないな」
右足を前に出す。
斜面と川の境目――崩れた土の縁を、一歩で跨ぐ。
そこを、“最終ライン”と決めた。
(ここより川側には、足を出さない)
自分で決めて、腹の底に刻み込む。
川上から、獣の影が現れた。
泥をまとった猪のようなもの。
骨が外に浮き出た狼のようなもの。
形を決めきれないまま、ぐにゃりと揺れるもの。
それらが、濁りの流れごと、こちらへ押し寄せてくる。
『危険度スコア、7.0』
(おい、さっき6.5って言ってなかったか)
『増えました』
(さらっと言うなよ)
つい、口元が歪む。
『でも――』
リラの声が、少しだけ柔らかくなる。
『アヤさんたちの位置は、さっきより安全側に移動しました。危険度スコア、全体で6.0まで低下』
(なら、上出来だ)
右足を半歩、後ろに引く。
川との距離を、ギリギリまで取る。
その場で、息を吐いた。
(ここまでが、“戻せる線”。ここから先は、“稼ぐだけの時間”)
濁り獣の群れが、牙と爪と濁った目をこちらに向ける。
腹の底の冷えは、そのまま。
だけど、その上から別の熱が重なった。
「――さあ、こっちだ」
俺は棒代わりのナイフを構え、川岸に向かって声を張った。
その瞬間。
森の奥――北側のほうから、別の声が届いた。
「全員、その場でかがめ!」
腹に響くような、太い声。
聞き慣れた、ギルドマスターの声だった。
「――ガランさん」
思わず、名前が漏れる。
濁り獣の群れと俺の間に、もう一本、太い線が伸びてくるのが見えた。
その線が、どこまで届くのかを確かめる前に――
俺は、迫ってくる牙のほうへ、もう一歩を踏み出した。




