第28話 二つの班と、森のゼロライン
ギルドの正面玄関に、朝の冷たい空気が溜まっていた。
「お前らは今夜、自分で考えろ。“自分は何を守りたいのか”“どこまでなら引けるのか”。その答えを、明日の朝――ギルドの正面で聞かせてもらう」
昨夜、ガランさんにそう言われた場所だ。
まだ陽は高くない。
けれど、扉の外には、もう全員が揃っている。
アヤ、コルト、ミナ、リアン。
それから、村のCランクパーティー《鎚灯り(つちあかり)》の三人――タンク兼剣士のバルド、後衛魔法使いのテオ、僧侶のサラ。
俺を入れて、八人。
並んだ顔ぶれをざっと眺めると、前に立ったガランが、短く息を吐いた。
「……さて」
低い声が、朝の空気を押し広げる。
「昨日の会議で決めた通り、今日は“森の中心の祠”と“村北部から川沿いまで”――この二方面の線を整える」
「はい」
返事をしたのは、真っ直ぐな声のアヤだ。
その横で、コルトが肩の弓を軽く持ち上げ、ミナが腰の瓶の感触を確かめる。
リアンは、胸元の小さな祈りのペンダントにそっと手を添えていた。
ガランは一度頷き、続けた。
「……その前に、昨日言った“宿題”の答えを聞いておくか」
低い声が、朝の空気をさらに引き締める。
「アヤ。お前は“何を守りたいのか”“どこまでなら引けるのか”――今の答えを言え」
名指しされたアヤは、びくりと肩を揺らし、それから真っ直ぐ前を向いた。
「私は……《灯》のみんなと、この村を守りたいです」
「濁りの原因も、本当は自分の目で確かめたい。危険なところに誰か別の人を行かせるくらいなら、自分が前に出たいって、今でも思います」
「でも前みたいに、自分の“行きたい”だけでみんなを巻き込むのは違うって分かりました。だから――AラインとBラインまではちゃんと全員で行って、そこで危険なら戻る。その線は、私自身も破りません」
その横顔には、昨夜の会議室で見た迷いよりも、わずかに固い決意の色が乗っていた。
「よし」
ガランは短く頷き、今度は俺を見る。
「セイ。お前はどうだ」
「俺は、八人全員で生きて帰ることと、この村の“いつもの危険度”を守りたいです」
「俺も、目の前の誰かに無茶させるくらいなら、自分が動いたほうがマシだとは思ってます」
「でも、今回それを“調査のやり方”にはしません。俺の役目は、八人全員で生きて帰って、Cラインの手前で本隊にバトンを渡すことです」
「だから、線はAラインとBラインで一度ずつ全員の顔色を確認して、危険が跳ねそうならそこで戻る。Cラインより先は、本隊の仕事だと決めてます」
「そのうえで――誰かの命の線が、今まさに切れそうだって時だけは、自分が前に出て危険を被ります。それ以外は、八人まとめて無茶はしない」
自分の声が、思ったよりも落ち着いていることに気づきながら、そう言い切った。
「――よし」
ガランさんは、俺たち二人を見渡し、ようやく口元をわずかに緩める。
「じゃあ、それを踏まえて今日の隊列を決める。……だが、当初の“八人一緒に動く”案は、変更だ」
「え?」
アヤがわずかに眉を動かす。
ガランは視線を全員に一周させてから、はっきりと言った。
「セイとアヤのお前ら、どっちも、いい意味でも悪い意味でも“わがまま”が強い。昨日の議論で、それはよく分かった」
「う……」
アヤが一瞬、目をそらす。
俺も、思わず頬をかいた。
「なので、今回は“二班”で行く」
ガランは手を挙げ、指を折っていく。
「森側――祠の手前までは、セイと《鎚灯り(つちあかり)》の三人」
「了解しました」
バルドが胸に拳を当てて頷く。
隣のテオとサラも、緊張と期待が混ざった顔でぺこりと頭を下げた。
「村北部から川沿いは、《リュミエルの灯》の四人で担当。アヤ、お前が現場リーダーだ」
「……はい」
アヤの返事は、ほんの僅かに硬い。
それでも、その目には火が灯っている。
「ただし」
ガランの声が、ぐっと重くなった。
「両班とも、撤退ラインは同じ定義だ」
「Aラインが、足慣らしと観察」
「Bラインが、一回顔色を全員で確認する地点」
「Cラインが――」
俺は、少しだけ息を飲んでから、言葉を継いだ。
「“腹の底が冷える地点”。予備調査班が入ってはいけない、本隊案件の線、ですね」
「そうだ」
ガランは満足そうに頷く。
「Cラインを越えたら、どんな言い訳も聞かん。特にアヤ、分かってるな?」
名指しされたアヤは、きゅっと唇を結んだ。
「……分かってます。森の中でも、川沿いでも、“怖い”って思った時点で戻る。セイの線の意味は、もう嫌というほど分かりました」
「“怖い”を言葉にするのは、勇気が要る」
ガランは静かに続ける。
「だが、それを言わないまま進むのは、仲間を殺す覚悟と同じだ。どっちの班でも、“撤退した自分を褒められるかどうか”が大事だと思え」
「……はい」
今度は、全員の返事が揃った。
ガランはそれを聞き届けてから、俺のほうを向く。
「セイ」
「はい」
「森側の撤退判断は、お前の役目だ。《鎚灯り(つちあかり)》の命、意識して線を引け」
「了解。――“今日はここまで”を先に決めてから、足を出します」
「よし」
ガランは、最後に《灯》の四人へ視線を移した。
「北側ルートの撤退判断役は、アヤ。ただし、迷ったらコルトとリアンに必ず相談しろ。“一人で背負わない”ことも、今回の条件だ」
「……分かりました」
リアンが小さく、だがはっきりと頷く。
ミナは瓶の口を握りしめ、「撤退用のフラッシュも多めに持ってきたからね」と小声で付け足した。
ガランは、ふうと息を吐いた。
「じゃあ――二班とも、出発だ」
ギルドを離れ、石畳が土の道に変わる。
森側へ向かう俺たち四人の班は、村の外れの灯籠列を横切ったところで、一度足を止めた。
「ここが、ゼロラインだな」
村をぐるりと囲む灯籠。
その光の端、森側に向かって一歩目を踏み出す手前の地点。
俺の言葉に、バルドが興味深そうに辺りを見回した。
「ゼロ、ってことは……危険度のスタート地点、だっけか」
「そんな感じです。ここより村側は、基本“危険度1未満”って扱いでいい。ここから先、歩くごとに“点数”が上がっていく」
俺はヒトリ2号の視界を半分だけ開きながら、森の方角へ目を細める。
木々の枝の線。
根の張り方。
風の流れ。
それらの中に、少しずつ混じり始めた、灰色がかった“乱れた線”。
「今日の目標は、“祠まで行く”ことじゃない」
俺は三人に向き直った。
「森の外縁から、危険度が上がる帯の位置を三本、見つけて帰ること。“ここまでなら戻れる”って線を、実際の足で踏んで覚える」
「了解」
サラが、杖をぎゅっと握り直す。
「Aラインが、“足慣らしと観察”。Bラインが、“一度みんなで顔を見合わせて、続行か撤退かを決める地点”。Cラインが、“セイさんの腹の底が冷えた場所”」
「うん。……それと」
サラが、少しだけ手を挙げた。
「Cラインのちょっと手前で、一回必ず“祈りの時間”を挟みたいです。そこまでで見たものを言葉にして、ちゃんと怖がる時間」
「いい案だな」
俺は笑った。
「じゃあ、その祈り休憩も含めて、今日は“Bラインまで行けたら上出来”くらいにしておこうか」
「祠まで行かないんですか?」
バルドが、わずかに驚いた顔をする。
「祠そのものは、今日の“本命”じゃない。あそこは、本隊案件に近い。今の目的は、その手前で“線がどう変わるか”を測ること」
「……なるほど。線を測るための線、か」
タンクらしい、地に足のついた言い方だ。
「そういうこと」
俺は一歩、ゼロラインの外へ足を出す。
踏みしめた土の感触。
わずかに、湿気が増えた空気。
その変化を、ヒトリと一緒にログに刻みながら、ゆっくりと森へ進んでいく。
森に入ってしばらくは、拍子抜けするほど静かだった。
野鳥のさえずり。
木と木の間を抜ける風。
足元の草には、まだ濁りの灰色はさほど混じっていない。
『危険度スコア、0.8から1.2の間を推移。まだ“日常の外縁”レベルです』
リラの声が、こめかみの奥で淡々と報告する。
(だな。……この辺が、今日の“足慣らしAライン”か)
俺は、適度に見通しのきく小さな広場を見つけて、そこで一度足を止めた。
「ここを、一時的なAラインにしよう」
三人が、俺を見る。
「前に進んだとき、必ずここまで戻ってくる。視界と足場がそれなりに良くて、退路が一本以上ある場所。ここを起点に、“一歩ずつ先を覗きに行く”イメージで」
「了解」
バルドが剣の柄に手を置き、周囲の木を見て位置関係を頭に叩き込んでいる。
テオは杖の先で土をつつき、小さな印をつけた。
「Aライン、ですね。……次に戻ってきたときも分かるように」
「助かる。サラは――」
「はい。帰ってきたとき、いつでも簡単な《守り》と回復ができるよう、ここに簡易の祈り陣を描いておきます」
サラは地面にしゃがみ込み、白い粉で小さな輪を描き始める。
その輪の線を眺めながら、俺は少しだけ別の方向へ意識を伸ばした。
(リラ、北側の班の様子は?)
『はい。ヒトリ2号の片側視界を切り替えます』
視界の端に、もう一つの“映像窓”が開く。
そこには、北側ルートを歩く《リュミエルの灯》の姿。
アヤが先頭で草をかき分け、コルトがその少し斜め後ろ。
ミナは腰の瓶を確かめながら、小さなメモ帳に何かを書き留めている。
リアンは、時折周囲の木々に手を触れて、祈りの気配を確かめている。
危険度の線は、まだ1台後半。
(今のところは、こっちと似たようなもんか)
『はい。どちらの班も、ゼロラインから“遠足圏内”程度の危険度ですね』
少しだけ、肩の力が抜けた。
(……よし。じゃあ、まずはこっちのBライン探しに集中しよう)
Aラインから、さらに森の奥へ。
足場の良いところを選びながら、少しずつ距離を伸ばしていく。
しばらく進んだところで、空気が変わった。
風が、ほんの少し重くなる。
木々の葉の揺れ方に、わずかな“引っかかり”が混じる。
足元の草の中に、灰色の斑点がちらほらと見え始めた。
『危険度スコア、1.8から2.3へ上昇。濁り成分、微量検知』
リラの声と同時に、俺の腹の奥も、わずかに冷えた。
「ここを、仮のBラインにしよう」
視界の開けた斜面の途中。
前にも後ろにも、逃げ道がある。
バルドたちにそう告げると、三人ともすぐに周囲の確認に散っていった。
「後ろは、さっきのAラインまで緩やかな下り坂。転がりながらでも戻れそうだな」
「右側は、木が多いです。でも、細い獣道が一本通ってます。逃げるときは、こっちに敵を誘導しないほうがいいかも」
「ここで一回、簡単に祈っておきましょう。……“ここまで戻る”って、先に神さまにも約束しときます」
三人の報告を聞きながら、俺はBラインの位置を頭の中の地図に刻み込む。
そして、もう一度だけ北側の映像を覗いた。
『北側班、危険度スコア2.0前後。川べりの草地を進行中です』
映像の中で、アヤが足を止め、何かを指さしている。
その先には、川へと落ち込む小さな斜面。
コルトが距離を測るように弓を構え、ミナが瓶を一本握りしめる。
リアンは、その斜面の上で祈りの言葉を口にしていた。
(……まだ、落ち着いてるな)
『はい。今のところ、“様子見の足取り”です』
それを確認してから、俺は視界の半分を再び森側に戻した。
「じゃ、Bラインから先は、“覗きに行く”だけだ」
三人を見る。
「前に出るのは、俺とバルド。テオとサラは、必ずBラインの内側に残ること。何かあったら、合図一回で“即撤退”」
「了解」
「分かりました」
「はい」
バルドが剣を抜き、俺は棒とナイフの位置を確かめる。
(……さて)
腹の底の温度を、もう一度確認する。
まだ、“冷えきる手前”。
(この線までなら、踏んでもいい)
そう自分で決めて、一歩前に足を出した。
最初の“それ”に気づいたのは、耳だった。
サラがBラインの少し後ろで、何かに気づいたように顔を上げる。
「……今、聞こえました?」
「何が?」
バルドが小声で問い返す。
「……足音、みたいな。重さの軽い、走る音」
彼女の耳に、俺の「線」が重なった。
枝の揺れ。
地面の振動。
森の奥――斜面の下のほうから、複数の線がこちらに向かって伸びていた。
軽くて、速くて、地面すれすれを走る線。
(……ウルフか)
前にも見た。
シャドウウルフの線に、よく似ている。
ただ、数が――やけに多い。
『数、十一。シャドウウルフ系と推定』
リラの分析が、それを裏付けた。
(十一、ね……)
腹の底が、少しだけ重くなる。
けれど、“凍る”ところまではいかない。
「バルド」
俺は、短く指示を飛ばした。
「はい」
「Bラインを、ここに引き直す。――あいつらが斜面を駆け上がってくる位置が、この辺りだ」
そう言って、足元の土を軽く蹴る。
「俺は“線をずらす”役。バルドは、ここから半歩分だけ後ろ。ウルフの突進を受け止めるんじゃなく、“滑らせる壁”になるイメージで」
「滑らせる、壁……」
「正面から噛まれたら、盾でも足でも持っていかれる。だから、牙を真正面に受けない。一瞬だけ肩を貸して、横に逸らす。――その横から、俺が線を変える」
「分かった」
バルドの目が、すっと真剣になる。
「テオは、Bラインのちょっと後ろ。ウルフが斜面を半分上がってきたところで、足元に《フラッシュ》を一発。サラは、いつでも“逃げ用の祈り”を唱えられるようにしておいて」
「了解です」
「任せてください」
準備が整う。
斜面の下の茂みから、低い唸り声が聞こえた。
『距離、二十メートル』
(ここだな)
俺は、右足を半歩前に出し、左足を少しだけ後ろに引いた。
溜めを作るための一歩じゃない。
いつでも“下がれる”ように、重心を後ろ側に置くための位置取りだ。
バルドは俺の左斜め後ろ、半歩分だけ下がった位置に立つ。
盾を少し斜めに構え、ウルフの突進を滑らせる角度を意識している。
息を殺す。
次の瞬間、斜面の下から、影が飛び出してきた。
黒に近い灰色の毛皮。
瞳の中で、淡い紫の光が揺れる。
シャドウウルフが三体、ほとんど同時に斜面を駆け上がってきた。
『先頭三。残り八、後方を追随』
(三から、か)
右足を、半歩だけ左へ滑らせる。
前に出るんじゃない。
線を、ずらす。
一体目のウルフの牙の軌道が、俺の腰の位置を狙って伸びてくる。
その線を、半身分だけ外へ逃がすように、腰をひねった。
牙が空を噛む。
同時に、右手の棒で、その首の付け根を“押す”。
叩き折るんじゃない。
突進の線を、斜面の横へ滑らせる。
ウルフの身体が、俺の横を掠めるようにして、地面を転がった。
『一体、姿勢崩れ。危険度スコア、3.2』
(次)
二体目が、今度は膝下を狙って突っ込んでくる。
噛みつかれたら、斜面の上では終わりだ。
その牙が届く直前に、俺は左足を後ろへ引いた。
さっきまで足を置いていた土を、牙が空振りする。
勢いを殺しきれなかったウルフの前脚を、棒の先で軽く払う。
重心を前に預けていたところへ、支えを一瞬だけ消してやる。
ウルフの身体が前のめりに崩れ、そのまま斜面を転がった。
『二体目、転倒。危険度スコア3.0』
その陰から、三体目が飛び出してくる。
今度の狙いは、俺ではない。
バルドの盾と、露出した肩の線。
「任せろ!」
バルドが一歩、俺の前へ出た。
ただし、真正面には立たない。
斜面に対して半身になり、盾を斜めに構える。
ウルフの牙が、その盾にぶつかった。
ガン、と鈍い音。
だけど、バルドは敢えて“受け止めない”。
肩をわずかに引いて、盾の面を滑り台みたいに使う。
牙が、滑る。
ウルフの突進が、盾の端を伝って横へ流れ、体勢を崩したところを――
「はい、ストップ」
俺はその首筋に棒を差し込んで、足をすくうようにして転ばせた。
転がった背中に膝を乗せ、喉にナイフを一突き。
浅すぎず、深すぎず。
意識を素早く落とす角度。
『三体、戦闘不能。危険度スコア、2.8』
「テオ!」
「はいっ!」
テオの声と同時に、Bラインの少し後ろで、白い閃光が弾けた。
斜面を駆け上がってこようとしていた残りのウルフたちの足元で、光が炸裂する。
吠え声と、足を取られる音。
俺はその隙に、バルドと一緒に後ろへ下がった。
重心を後ろに置いていたおかげで、一歩でBラインの内側に戻れる。
そこから先は、“いなす線”だけを選ぶ。
ウルフたちの視界が乱れたところへ、バルドが斜めから体当たりを入れる。
正面ではなく、肩口に。
力をぶつけるんじゃなく、“向きを変える”ための衝突。
テオの小さな火球が、狙っていない場所――逃げ道のほうにだけ落ちる。
サラの祈りで、俺たちの足元に薄い光の膜が張られる。
“守り”というより、“戻るための滑走路”だ。
俺は棒とナイフで、牙の軌道だけを外していく。
膝下を狙ってきた牙を、半歩下がって空振りさせる。
肩を狙った爪を、棒の先で“少しだけ”押し出して、空中へ逃がす。
倒しきれなかった個体は、わざと“痛くない方向”へ滑らせてやる。
斜面の横。
森の奥とは逆側。
牙の線が、俺たちから逸れた瞬間――
「そこまで!」
俺は、撤退の合図を出した。
「一度下がる! ここで全部狩りきる必要はない!」
バルドが即座に後退し、テオとサラもBラインからさらに後ろへ下がる。
視界の端で、ウルフたちの線が乱れ、何体かが森の奥――俺たちから遠ざかる方向へ走り去っていくのが見えた。
『討伐五。残り六、森の外側へ離脱中。危険度スコア、2.0まで低下』
リラの報告に、俺は小さく息を吐いた。
(……上等だな)
全滅させることが目的じゃない。
“こっちへ来る線”を折って、“戻れる線”を守ること。
それができた時点で、この戦いは勝ちだ。
「全員、怪我は?」
「俺はかすり傷程度だ」
「魔力、まだ半分以上残ってます」
「こっちも、大きな怪我はありません」
三人とも、息は上がっているが、目はしっかりしている。
その顔色を確認してから、俺は視界の半分を、再び北側に切り替えた。
『……セイ』
リラの声の調子が、わずかに変わっていた。
(どうした?)
『北側班の危険度スコア、急上昇。3.5から4.5へ』
視界の窓に映ったのは、川沿いの斜面。
そこに、砂色の影が四つ。
ジャッカル。
あいつらが、アヤたちの斜面に殺到していた。
(こっちにはさっきまでウルフ、向こうにはジャッカルか)
(別々の場所で、ほとんど同じタイミングで“押し出されてる”ってことか?)
(この前ガランさんに報告した、“濁りの流れに向きを指定されていた線”……あれが偶然じゃないなら)
(今日は、向きだけじゃなく“タイミング”まで誰かに合わせられている可能性がある)
(……考えるのは後だ。今は、線を折らせないほうが先だ)
風に乗った突進の線が、リアンのすぐ脇をかすり、その祈りを寸断しようとしている。 アヤは前に出て、必死にその線を切ろうとしていた。
けれど、足元の土が崩れ、バランスを崩した瞬間――
ジャッカルの一体が、その足首を狙って牙を伸ばす。
『……っ』
映像越しに見ても、嫌な角度だった。
アヤの体が、斜面に崩れ落ちる。
その瞬間、危険度の線が、俺の腹の奥で跳ね上がった。
『危険度スコア、5.0』
リラの声が低く鳴る。
ジャッカルが、倒れたアヤの前に立ちはだかる。
コルトが必死に矢を射ち、ミナがフラッシュを投げる。
リアンは、崩れた足場のすぐ脇で、どうにか祈りの光を保とうとしていた。
(――まずいな)
思わず、声が出そうになるのを飲み込む。
同時に、自分の足元を見る。
Bラインの内側。
息を整えようとしている、《鎚灯り(つちあかり)》の三人。
バルドは肩で息をしながらも、まだ剣を手放していない。
テオは、魔力の余韻をなだめるように、杖をぎゅっと握り直していた。
サラは、祈りの輪に手を当てて、仲間の無事を確かめていた。
こっちも、まだ“戦い終わり”じゃない。
ここで俺が勝手に飛び出せば、この班のCラインを踏み越えることになる。
腹の底が、きしむ。
『……どうする?』
リラの問いは、淡々としている。
だけど、そこに“焦り”の波形が、ごくわずかに混じっていた。
(――決めるしかない)
俺は、息を吸った。
「バルド、テオ、サラ」
三人が顔を上げる。
「今から、プランを“撤退モード”に切り替える。ここから先、森の奥へは進まない」
「……はい?」
「今の時点で、今日の森側の線引きは“一区切り”だ。あとは、状況報告込みで村に戻ってもらう」
「待ってください、セイさんは?」
バルドが目を見開く。
俺は、北側の映像から目を離さずに答えた。
「俺は――別の線を、見に行く」
アヤたちのいる斜面に向かって、伸びている線。
腹の底が冷え切る前に、誰かがそこへ足を踏み込まないといけない。
「三人は、このままBラインからAラインまで戻る。途中で新しい濁りや魔物を見つけても、“覗くだけ”にして必ず村まで報告に行ってくれ」
「そんな……俺たちだけで――」
「“俺たちだけで戻る”っていう訓練のために、今日はここまでの線を決めたんだ」
バルドの言葉を遮って、俺は静かに言った。
「ここから先の線は、“撤退役だけ”が踏んでいい場所だ。――だから、これは俺の仕事」
短い沈黙。
やがて、バルドがぎゅっと拳を握って、うなずいた。
「……分かった。じゃあ、俺たちは、絶対に“途中で振り返らない”。村まで戻って、ガランさんにも全部報告する」
「お願い」
テオとサラも、真剣な顔つきで頷く。
「セイさんも、生きて帰ってきてください。……祈りの線は、ちゃんと繋いでおきますから」
「ああ」
胸の中の線が、少しだけ軽くなる。
「じゃあ、ここで一回、“合図”だけ合わせておこう」
右手を胸の前に出し、軽く握る。
「全員で戻る線を選べたときは、この合図で笑おう。――あとで」
「はい!」
三人の声が重なる。
その声を背中で受けながら、俺は森の奥――北側へ向かって、ヒトリの線を伸ばした。
(リラ、北側班までの最短ルート、頼む)
『了解。地形データと危険度ログを参照して、ルートを提示します。――セイ』
(なんだ)
『Cラインを、越えないでください』
いつもの淡々とした声に、ほんの少しだけ滲んだ心配。
その“重さ”を、ちゃんと受け取ってから、俺は頷いた。
(分かってる。――“越えないギリギリ”で、線を引き直してくる)
森の中の線が、奔る。
俺は、Aラインへ戻ろうとする三人とは逆方向――
アヤたちのいる斜面へ向かって、走り出した。
腹の底の温度が、じわじわと下がっていくのを感じながら。




