第25話 風走ジャッカルと、理をまとう刃
砂色の影が、丘の上を一気に駆け上がってくる。
足元で巻き上がる砂と枯れ草が、小さな竜巻みたいにねじれては、すぐにちぎれて飛んだ。
『接触まで、あと十秒。ジャッカル六。隊列は縦一列、先頭二、後方四』
リラの声が、心の中で淡々と数える。
(危険度は3〜4帯、だな)
シャドウウルフより速く、軽い。
けれど、線の質だけ見れば、まだ“手が届く”範囲だ。
俺は丘の斜面の途中に立っていた。
足元の土をすでに一度踏みしめ、滑りやすい小石は先に足でどけてある。
後ろには、小川へと続く緩やかな斜面。
ここが、俺のAライン。
ここで止められれば、危険度は3〜4の帯のまま。
抜けられたら、小川手前のBラインまで下がって、もう一度線を引き直す。
『ヒトリ2号、上空から追尾中。後方の濁り帯との距離、およそ五百メートル』
(“後ろ”の線も忘れるなよ)
『もちろんです。濁り帯の広がり速度はいまのところ緩やかですが、マナの流れは乱れています』
丸窓の中で、灰色のもやが草地の向こうに揺れているのが見えた。
黒い糸みたいなものが、その中で何本もねじれている。
(あれが村まで伸びたら、危険度が一気に跳ねる)
逆に言えば、今はまだ“帯の端から逃げるジャッカル”が問題だ。
『距離、三十メートル』
風が鳴った。
砂色の影が二つ、ほとんど同時に飛びかかってくる。
先頭の二匹だ。
右のやつは、俺の腰の高さ。
左のやつは、膝の少し上。
足元で起こした風を、そのまま突進の勢いに乗せてくる。
(正面からは受けない)
左足を軸に、右足を斜め後ろへ送る。
腰をわずかにひねり、上半身の線をかすかに薄くする。
右側のジャッカルの牙の軌道から、身体を半身分だけ外へ滑らせる。
同時に、右手の木の棒を、その首の横に差し込んだ。
ガッ、と固い感触。
首を折るほどの力は使わない。
ただ、噛みつきの線を外へ押し出す。
牙の軌道が、俺の腰から空中へ変わる。
勢いを殺しきれずに地面へ転がったところへ、左手で抜いたナイフを一突き。
喉元を浅くも深くもない角度で切り、速く意識を落とす。
『一体、戦闘不能。危険度スコア、3.3』
二匹目は、足元を狙ってくる。
膝下を噛まれたら、斜面では致命的に崩れる高さだ。
俺はその牙が届く直前に、左足を後ろへ引いた。
さっきまで足を置いていた地面を、牙が空振りする。
その流れに乗せるように、棒の先で後脚を軽く払う。
体重を前に預けていたところへ、支えを一瞬だけ消した。
ジャッカルの身体が前のめりに崩れ、斜面を転げる。
転がった背中に膝を落として体勢を封じ、喉へナイフを差し込んだ。
『二体目、戦闘不能。残り四。危険度スコア、3.5』
「ここまでは予定通り」
息を一つ吐き、周囲の線を見る。
残り四匹のうち、一匹が俺から視線をそらした。
丘の斜面の横、俺の立ち位置の少し外側――
そこにある“抜け道”を、すぐに見つけたらしい。
砂色の影が、空気を切り裂いて横へ走る。
俺の横をかすめるようにして、丘の頂上へ向かう線。
「……抜ける気だな」
残り三匹は、俺の周囲に距離を取って散った。
囲むというより、「こいつは相手にすると面倒だ」と判断して、最低限の牽制だけ残そうとしている動きだ。
『群れの優先度、完全に“村側への逃走”に切り替わっていますね』
(だろうな)
視界の端で、ヒトリの映像が切り替わる。
丘の向こう側――村へと続く緩やかな下り坂。
その先に、麦畑と小さな見張り小屋の屋根。
さっき抜けていった一匹が、そちらへ向かって走っている線が見える。
残り三匹も、俺との距離を保ちつつ、じわじわとそちら側へ重心を寄せてきた。
『このままではAライン突破確定。Bラインまで下がって迎撃しても、二匹は村近くまで到達します』
「……畑の柵のすぐ外で風を暴れさせる、か。それはさすがにまずい」
麦も柵も、人もまとめて巻き込まれる。
そうなれば、村の日常の危険度が一気に跳ね上がる。
それだけは、上流祈律帯へ向かう前に避けたい。
「リラ」
『はい』
「変装モード、オンにできるか」
一瞬、リラの反応が止まる。
『……ここで使いますか?』
「丘の向こう、見張り小屋がある。誰もいないかもしれないけど、誰かいたら“教会の少年”がBランク相当の斬撃を飛ばしたって話になる」
『それは、あとあと面倒ですね』
「だから、“どこかの冒険者”に見せかける。ちょうどテストにもいいだろ?」
『了解。変装モード、出力抑えめで起動します』
視界の隅に、小さな確認用ウィンドウが浮かぶ。
そこに映る“俺”の瞳の色が、いつもの暗い茶色から、少し灰がかった色に変わっていく。
髪も、光の加減で印象が違って見える程度にトーンが落ちた。
実際に体を作り変えているわけじゃない。
光の線と、人の“見え方”の認識を少し曲げているだけだ。
『ギルドタグの位置情報も、数分間は誤差を多めにします。「危険地点A付近」とだけ表示されるように』
「助かる」
胸元の水晶タグが、ほんのり熱を帯びた。
監視タグであり、肩書タグであり、いまはちょっとした偽装タグでもある。
『セイ』
「ん」
『ここから先の一撃は、“Bランク昇格に伴う日本刀の初実戦使用”と位置づけましょう。出力はBランク帯の上限まで。村人目線では、“そこそこ腕の立つ冒険者が一度だけ本気を出した”くらいに抑えます』
「了解。やりすぎたら止めろよ」
『いつも通り、ブレーキは任せてください』
右手の棒を一度だけ握り直し――そのまま手を離す。
意識を向けた目の前の空間に、マジックボックスの口がすっと開き、棒はそこへ吸い込まれるように消えた。
空いた右手を、左腰の柄へ伸ばす。
黒い鞘。
安物にしか見えない鉄剣。
実際のところ、鍛冶屋ドランの日本刀はマナを通しやすい構造に特別に作成されている。
そのため、柄に指をかけた瞬間、刃の内側の線が、俺の意識に応えるように震えた。
(Bランクから解禁、か……)
少しだけ、胸の中の空気が変わる。
期待と、警戒と、責任の混ざったもの。
『マナソード第一段階、準備できます』
「名前のセンスはさておき、頼む」
鞘から、ゆっくりと刃を抜く。
光を吸い込むような、地味な鋼の色。
そこに、理層側から薄く光の膜がまとわりついていく。
炎でも雷でもない。
色のない、きめ細かい光。
刃の輪郭だけが、世界の“線”の上にぴたりと重なった感覚。
『出力、この場の危険度で許される範囲いっぱいに固定。一撃分だけ、理をまとわせます』
「一回だけだ。やるのは、“濁りと余計な勢いを切る”仕事」
短く息を吸い、右足を半歩前へ送る。
左足を後ろに置き、腰と肩の向きを村と反対側へ向ける。
剣先を、丘の頂上、ジャッカルたちがこれから通過するであろう空間へ向ける。
彼らの足元から立ち上る風の線。
濁りのもやが張り付いた、“村へ向かう道”の線。
それを一本にまとめるイメージ。
『タイミング、カウント開始。3、2、1――今』
「――はッ!」
掛け声と同時に、右足で斜面を蹴る。
腰を回し、肩の線をそのまま刃に乗せる。
日本刀が、空を横薙ぎに走った。
耳に届いたのは、風を裂く乾いた音だけ。
けれど俺には、別のものが見えていた。
ジャッカルたちの足元から伸びる、灰色がかった風の帯。
濁りに引きずられて、村へ村へと方向づけられていた線。
その帯だけが、刃先に触れた瞬間、薄い幕みたいに裂けた。
ぱん、と小さな音が、理層のほうで鳴る。
破れた幕に風が吹き込むみたいに、灰色の濁りが霧散していく。
ジャッカルたちの輪郭から、灰色の膜がするりとはがれた。
同時に、斬撃の線にかすった二匹の胴体に、浅くない切り傷が走る。
肉を断ちすぎない深さで、風の勢いだけを断ち切る。
『濁りの付着、ほぼ剥離完了。斬撃が直撃した二体、戦闘不能。残り二体、行動パターンの乱れを検知』
「よし」
剣を構えた姿勢のまま、斜面を一歩滑り下りる。
マナソードの光は、すぐに落とす。
これ以上は、“見せすぎ”だ。
斜面を駆け上がっていたジャッカルたちが、バラバラに転がる。
勢いを失いかけた一匹は、その場で足を止め、明らかに迷っている動きだ。
別の一匹は、今来た道を戻るように踵を返した。
村へ向かう線が、一度消えたのが分かる。
『濁り帯との繋がりも、一時的に切断。後ろからは追い風が来なくなりました』
その報告を聞きながら、俺は最も近くにいるジャッカルへ駆け寄る。
剣を使う必要は、もうない。
鞘へ戻し、マジックボックスのナイフを抜く。
足場のいい場所を選びながら、倒れかけている個体の首筋に棒を当て、体勢を固定。
喉元を最小限の距離で断つ。
次。
『残り一。逃走線は村と逆方向+濁り帯からも離脱中』
「じゃあ、そいつはこのままでいい」
息を整えながら、丘の上から見張り小屋のほうをちらりと見る。
屋根の上に、小さな人影がひとつ。
遠目に見ても、こっちを凝視しているのが分かる。
『さっきの一撃、“何かが光った”程度には見えているでしょうね』
「顔までは分からん距離だろ」
『変装モードの効果もありますし、せいぜい“どこかの冒険者がすごい斬撃を一度だけ放った”くらいの印象ですね』
「そのくらいなら、噂話で済む」
屋根の上の人影に向かって、軽く手を挙げてみせる。
驚いたように一瞬身を引いたあと、おそるおそる手を振り返してきた。
それ以上は何も言わず、俺は森の影へ身を引く。
丘の肩のラインを越える前に、変装モードをオフにした。
瞳と髪の色が、いつもの自分に戻っていく感覚がする。
『危険度スコア、3から2へ。村外れへの被害線、ゼロ』
「……ふう」
日本刀の柄を軽く叩いてから、鞘ごとマジックボックスの“装備欄”に一時収納する。
村に戻るときは、いつもの“ただの鉄剣”として腰に戻しておけばいい。
『マナソードのログ、一撃分だけ抜き出して保存しました。
出力・タイミング・濁り帯の反応、全部“撤退判断役の判断材料”としてまとめておきます』
「よろしく」
倒したジャッカルの死体を、一体ずつマジックボックスに収納していく。
風属性の魔石と毛皮は、ギルドが喜ぶ素材だ。
『ジャッカル(風)六体中、五体回収。残り一体は逃走/軽傷からの回復と推定。村と濁り帯からの距離は、今のところ安全圏です』
「十分だな」
最後に、ヒトリの映像をもう一度開く。
濁り帯の端。
灰色のもやは、相変わらず地面の上で蠢いている。
『危険度スコア、5弱。帯そのものは、まだ今日のCラインの外側に留まっています』
「今日は踏み込まない。濁り帯そのものに手を出すのは、上流の予備調査メンバーが揃ってからだ」
『その判断に賛成です』
自分で決めたCラインを、頭の中でもう一度なぞる。
「今日はここまで」と最初に決めた線は、こういうときのためにある。
振り返って、村の方角を見る。
丘の向こう、麦畑の緑がかすかに揺れている。
さっきまで、そのすぐそばまで危険な線が伸びかけていた。
今は、風の流れだけが穏やかにそこへ向かっている。
(……間に合ってよかった)
そう思うと、腹の底のほうが少しだけ熱くなった。
『ギルドとガランさんへの簡易報告、送信しておきますか?』
(戻ってから報告するよ、《ヒトリ》での連絡は後日何処かのタイミングで時間を作ろう)
丘を下り、森を抜ける。
土の匂いから、麦と人の匂いへ、風の中身が変わっていく。
村の外れでは、子どもたちが畑の端で追いかけっこをしていた。
柵の向こうで、農夫のおじさんが苦笑しながら見守っている。
その柵のすぐ外まで、さっきジャッカルたちの線が伸びようとしていた。
胸元の水晶タグに指を添える。
そこから、村全体へ細い線が伸びているのを感じる。
(今日は、この線を“いつもの危険度”のままにしておけた)
それだけで、シャドウウルフ六匹とジャッカル五匹分の疲労に、ちゃんと意味があった気がした。
『変装モードもマナソードも、一応、初実戦運用は成功ですね』
「便利すぎて、ちょっと危険だとも思ったけどな」
小さく笑って、手のひらを見る。
「線をいじれるってことは、その気になれば、どこまでも切れるってことだ。
濁りも、風も、骨も、いろんなものを」
『だからこそ、“使う場面”と“使わない場面”を最初に決めておく必要があるんです』
「分かってる。今日は、“村の危険度が跳ねる線”を手前で折るために、一回だけ使った。それ以上は、しない」
『そのログを積み重ねていけば、“ここまでなら安全”という実績にもなりますからね』
「撤退判断役の仕事は、“危険だからやめた”ってログを残すことだしな」
ギルドの扉を押して中に入ると、ちょうど昼前の賑わいだった。
依頼を受けるパーティと、報告を済ませて帰ってくるパーティが行き交っている。
受付の前には、さっき見張り小屋の上にいた青年もいた。
仲間に身振り手振りで、「こうやって、空が一瞬光ってさ」と説明している。
(あれが、今日の“噂の種”か)
聞き耳を立てたい気持ちをぐっと抑え、いつものようにカウンターへ向かう。
「ただいま戻りました」
「おかえり、セイくん」
リーナが顔を上げる。
その表情はいつもの柔らかさだけど、目だけはちゃんと仕事モードだ。
「シャドウウルフ6体の依頼完了と……ジャッカル(風)5体分の、臨時報告です」
「臨時、ね」
「はい。“ジャッカル(風)6体、濁り帯から村方向へ逃走中だったのでAラインで5体迎撃。1体は反対方向に逃走。危険度は3〜4帯の範囲で制御。村への被害なし”」
リーナのペンが、すぐに紙の上を走り始める。
「詳しく聞かせてもらえる?」
俺は、紙地図をマジックボックスから取り出し、丘と小川と村の位置を簡単に描き込んでいく。
Aライン、Bライン、Cライン。
ジャッカルの進路。
濁り帯の位置。
どう判断して、どこで線を引いて、どこまで踏み込んだか。
そしてどこで止まったか。
他に冒険者がいて自分の戦闘の援護してくれた事
そのまま話が出来ずに別れた事
一つずつ説明しながら、自分の中でも今日の危険度の線を整理していく。
『他の冒険者の出現了解しました。目撃者がいるから仕方ないですね』
(変身のことは、他に冒険者がいて手助けしてもらったと報告したよ)
『今日のログは、“危険度3〜4帯でのソロ対応”と、“日本刀初実戦使用”として保存しました』
(次に刃を抜くときは、今日よりも危険度の高い場所になるだろうな)
上流祈律帯。
危険度6予定。
そこへ向かう前に、今日引いた線を忘れないようにしておこう。
村の日常の危険度を、できるだけ“いつもの範囲”に保つ。
そのうえで、必要なときだけ、理をまとう刃を振るう。
それが、Bランクになって初めて持たされた日本刀との、付き合い方だ。
教会の部屋に戻った俺は、靴を脱ぐのも忘れてベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げると、脳の奥のほうに、静かなノイズのような“声”が流れ込んでくる。
『お疲れ様。今日は大変だったね』
「……まいったよ、」
『うん。剣の軌道と重心の取り方、完全に“セイ”のままでしたよ。服だけ変えても無理だよ』
溜め息が漏れる。分かってた。けど、無意識ってやつは手強い。
「……戦い方を変えるにしても、急には無理だ。だったらいっそ、服装と、刀も変えて戦闘スタイルを一新しよう。マナ創生術で、仮の装備と武器は作れないか?」
『ふむ。理屈としては可能。衣装は質感より維持時間の問題。刀のほうは、マナ強度によっては実戦使用にも耐えられるけど……』
「けど?」
『“振り方”が変わらないと意味がない。柄の長さ、重心、鞘の位置……全部に差を出さないと、見る人が見たらバレる』
「つまり、“違う剣士”を演じきれってことか……。衣装はどこかのタイミングで手に入れて、マジックボックスに入れておく。使うときに、さっと着替えればいい」
『うん。舞台で役を演じるのと同じですね。』
「いっそ二刀流にするよ、自分を騙すくらいの気持ちでやらないと」
枕に顔を埋めて、もう一度息を吐いた。
簡単じゃない。けど、やるしかない。
「……刀の設計は、任せてもいいか?」
『うん。セイの戦闘ログから、“手癖が出にくい設計”でプロトタイプを仮生成してみる。あとは、自分で“馴染みのない構え”を練習すること』
「了解。……ちょっと、稽古用に“軽めの二本”から頼む」
『了解、指示受理。仮称:“影抜きモデル・タイプ1”』
「……名前、センスないな」
『いつも通りでしょ?』
思わず小さく笑ってしまった。
このやり取りがあるだけで、少し気が楽になる。




