第24話 影狼の群れと、風を裂く前ぶれ
北側の林に向かう道を、一人で歩く。
朝の空気は冷たくて、肺のあたりがきゅっと締まる。
『体調、問題なさそうですね』
胸元の水晶タグが、かすかに脈打つ。リラの声が頭の中に響いた。
「ああ。寝不足もなし。筋肉痛も許容範囲」
教会の客間で簡単に身体を伸ばし、神父に挨拶をしてから出てきた。
今日は《リュミエルの灯》とは別行動。
危険度3〜4帯の、ソロ討伐依頼。
対象は――
「シャドウウルフ、六匹」
ギルドの依頼票にはそうあった。
村北側の林の外れ。
畑からは離れているが、狩り場を間違えると、柵の向こうまで足を伸ばす可能性がある。
『危険度ログとしては、3スタート想定ですね』
「そうだな。3から、動き次第で4。
俺が変にしくじらなければ、最後は2まで落とす」
そんなふうに、数字で自分に約束しておくと、余計な無茶をしにくい。
危険度6とか7の場所を歩く前に、こういう3〜4帯でちゃんと身体と感覚を合わせておく。
上流祈律帯の予備調査まで、あと数日。
それまでに、「一人で線を引く感覚」をもう一段、細かくしておきたかった。
林が近づいてくる。
視界の端に、小さな半透明の窓が開いた。ミニマップの表示だ。
『現在位置、村北門からおよそ一キロ。
ここから先、林の入口までが危険度1〜2。
ウルフの痕跡は、まだ検知されていません』
「了解」
マジックボックスの一覧を呼び出す。
持ち運び用の紙地図、ギルドから預かった簡易標識、予備のマナ灯、小分けの保存食。
それから、ギルドから借りている汎用ナイフと、教会からもらってきたただの木の棒。
腰のベルトには、Bランク昇格とともに実戦使用解禁になった日本刀が一本、収まっている。
黒い鞘に、地味な布巻の柄。
見た目だけなら、どこにでもある安物の鉄剣だ。
「……今日は、まだお前の出番じゃないといいんだけどな」
柄にそっと指を触れ、すぐに手を離す。
濁りボア戦や村襲撃クラスならともかく、危険度3〜4帯で最初から剣に頼るのは、さすがにやりすぎだ。
『それでも、持っているだけで選択肢が増えますから』
「まあな。ただ、選択肢が増えると、変な突っ込み方も増えるからな……そこは俺とリラでブレーキ管理」
『了解しました。制動担当、がんばります』
冗談まじりの声に、小さく笑う。
林の入口が見えたところで、一度立ち止まり、周囲を見渡す。
草の倒れ方、土の乱れ、匂い。
「ここが、今日のAラインだ」
村側から見て、“ここを越えたら警戒開始”という地点。
危険度でいうと、2から3が顔を出し始めるあたり。
足元の土を軽く踏み
、感触を確かめる。
わずかに柔らかい。
けれど、水気は多くない。
雨上がりよりはずっとマシだ。
『足場、自己流体術との相性は悪くなさそうですね』
「だな。ウルフ相手なら、“滑らせる一歩”も、“引っかける半歩”も使える」
林に入る。
木々の間を抜けながら、VR地図で見ておいた地形と、実物の差分を確認していく。
少し進んだところで、折れた枝が目についた。
地面には、犬のものに似た足跡がいくつか重なっている。
「……いたな」
爪の跡が深い。土を抉った先に、黒く濁ったマナが薄くしみている。
普通のウルフじゃない。影属性を帯びた、シャドウウルフ。
危険度ログに、頭の中で数字を刻む。
(2.5……3)
まだ、致命的に危ないわけじゃない。
ただし、放っておけば畑の方に回り込む線は十分にある。
少し開けた場所に出た。
片側は小さな斜面、もう片側は太い木が数本並んでいる。
(偵察ユニット《ヒトリ》発信で。)
『偵察ユニット《ヒトリ》1・2・3合発信』
ここなら、背中を木に預けて戦える。
ウルフたちの進路を、村と逆方向に曲げることもできる。
「ここを、俺の戦闘Aラインにする」
低くつぶやいてから、足を止める。
左足を半歩前、右足を少し後ろ。重心をやや前寄りに。
木の棒を右手に、日本刀は左腰の鞘に。
視界の端で、リラが危険度ログの表示を立ち上げた。
『ヒトリ3号からです。受信しますか?』
(頼む!)
『シャドウウルフ六。時計回りに、正面二、右前一、右後ろ一、左後ろ二。距離、およそ二十メートルから接近中』
「ありがと。……よし、来い」
草むらが、低く鳴った。
影のような毛並みをした狼たちが、木々の間から滑り出てくる。
一匹目が、正面から飛びかかってきた。
その線が見えた瞬間、俺は右足を半歩だけ、斜め右前に送る。
突進の軌道から、上半身を紙一枚分だけ外す。
同時に、右手の棒を、狼の首の下に差し込むように滑らせた。
牙は空を噛み、棒に乗った首の重みで、狼の身体がわずかに浮く。
浮いた後ろ脚の着地点を読んで、左足でそこを軽く蹴り、土の抵抗を変える。
ぐ、と狼の体勢が崩れた。
そのまま地面に転がった首筋へ、左手でマジックボックスから抜いたナイフを一閃。
闇の毛並みの間から、赤いものがにじむ。
『危険度3.5。残り五』
二匹目が、右側面から走り込んでくる。
今度は、その足の運びが少し浅い。距離の測り方が甘い。
(新規個体かな)
そう判断して、あえて踏み込みを許す。
右足を引き、左足のつま先を半歩だけ内側へ。
わざと隙に見える姿勢を作る。
狼が牙を向けて飛びついた瞬間、俺は左足で地面を“滑らせる”。
ほんの数センチの段差をイメージし、理術を混ぜて土の抵抗を変える。
狼の前足が、何もないところでつんのめった。
その頭が、俺の腰の高さを通り過ぎる線を描く。
そこに、棒の先端を差し込む。
横から打ち抜くようにして、体の向きを変えさせる。
地面に叩きつけられた胴体の真上を、俺は右足を送って飛び越えた。
着地と同時に振り向き、後脚の付け根を一突き。
短い悲鳴が、森に溶ける。
『危険度3→2.8』
「いい子だ。ちゃんと倒れとけ」
冗談を口にしながらも、目と耳は常に周囲に開いている。
右後ろからの気配。踏み込み音。
振り返らない。
棒を背中越しに送るようにして、肩の後ろで水平に構えた。
三匹目の牙が、棒に弾かれる。
噛みつこうとした勢いのまま、首の骨が無理な角度に曲がった。
俺はそこから、右足を後ろに送り、棒を支点に体を半回転させる。
背後に回り込んだ狼の喉元を、反対側からナイフで払った。
血飛沫が飛ぶ前に、一歩横へ抜けておく。
地面に赤い点々が落ちるのを見て、それが村の畑じゃないことに、少しだけ安堵する。
『残り三』
左後方の二匹は、距離を詰めずに回り込もうとしていた。
群れの中の、少し賢い個体だ。
「そっちは、行かせない」
左足で地面を踏みしめて、わざと大きな足音を立てる。
狼たちが一瞬そちらを見る。
その“視線の線”に、自分の身体を滑り込ませるように前へ。
右足を大きく踏み込み、棒を低い位置からすくい上げる。
二匹の前足が、同時にすくわれた。
重心が浮いた瞬間、俺はさらに半歩前へ踏み込む。
一匹目の喉元を、ためらいなく突き上げる。
短く、正確に――息が漏れる間もなく崩れ落ちた。
間髪入れず、体をひねって二匹目に向き直る。
逃げ腰になったその肩に棒を滑らせ、強く叩き込む。
悲鳴とともに体勢を崩した個体を、地面に倒れ込む隙を与えず、喉元へ一閃。
確実に、止めを刺した。
音が止む。
血の匂いと、草の揺れる微かな音だけが残る。
両方とも――動かない。
確認を終えてから、意識を残る気配に切り替える。
――正面。
最初に飛びかかってきた個体とは違い、息が整っている。
群れのリーダー格。
互いの距離、およそ十メートル。
ここで、ほんの一瞬だけ、柄に触れた指の感覚がよみがえる。
腰の日本刀。
使えば、きっと一撃で終わる。
でも、それは“この程度の危険度”には過剰だ。
『セイ』
「分かってる。……ここは、ナイフと棒で十分」
自分に言い聞かせるみたいに答える。
狼が、地面を二度、軽く蹴った。
そこで得た反発を、次の一歩に乗せてくる。
正面突破。
遅くはない。
むしろ、普通の冒険者からすれば十分に速い。
けれど、線が見える俺からすると――
(さっきの二匹目より、ちょっとだけ丁寧な踏み込みだな)
右足を半歩だけ外側へ送る。
その一歩は、「自分が安全な場所に立つため」の一歩であり、
同時に、「相手の踏み込みをわずかに外へ誘導する」一歩。
狼の前足が、俺の左側すぐ横を通り過ぎる。
牙の軌道は、俺の肩の場所をまっすぐ狙っていた。
そこに、棒の先を差し込む。
牙の根元と下顎の間に、ちょうど噛み合う角度で。
噛み付こうとして、棒に歯を立てた瞬間、その勢いのまま顎の関節に負荷がかかる。
ぐき、と嫌な音がした。
狼の身体がねじれる。
俺は棒を押し込むのではなく、むしろ引く。
その動きに合わせて、右足を軸に体を半回転させる。
背中合わせになりかけた瞬間、左手のナイフで首筋を切り裂いた。
リーダー格が崩れ落ちる。
残っていた傷だけの個体も、尻尾を巻いて林の奥へ消えていった。
『危険度3→2→1.5』
頭の中の数字が、静かに下がっていく。
呼吸だけが少し荒い。
心臓の鼓動は、まだ“戦闘モード”の速さを保っていた。
「……ふう。六体、処理完了。」
『はい。危険ログにも、そう記録しておきます』
倒したシャドウウルフの死体を、順にマジックボックスに収納していく。
闇牙魔石と毛皮は、ギルドがそこそこの値段で買い取ってくれるはずだ。
血の匂いが、風に流れていく。
このまま長居すれば、別の魔物を呼び寄せる可能性がある。
「撤収しよう。危険度、ここで1に戻しといてくれ」
『了解。村北側林外れ、危険度1〜2(通常)に回復』
棒の血を草で軽く拭い、ナイフも同じようにしてから鞘に収める。
マジックボックスに収納、マジックボックスのメニューを確認する。
死体を収納すると同時に、マジックボックスの表示が自動で更新される。
《シャドウウルフ:6体》
《闇牙魔石:6個》《毛皮:3枚+半端》
素材の識別は、箱の解析機能による自動処理だ。 予定通りの成果だ。
「よし、ギルドに戻って――」
その瞬間、視界の端で、別の窓が点滅した。
いつものミニマップとは違う、丸い小窓。
偵察ユニット《ヒトリ》からの通知だ。
『ヒトリ2号から緊急ライン。
受信しますか?』
「もちろん」
丸窓が大きくなり、風景が映し出される。
上空から見下ろす視点。
荒れた草地を、砂色の影が六つ。
地面すれすれの高さで、細い風の尾を引きながら走っている。
耳と尻尾の毛だけが、風に逆らうように逆立っている。
ジャッカル。風属性。
「……なんでお前らが、ここにいる」
本来の生息地は、もっと乾いた荒野や砂地だ。
エルディア村の北側で見るには、明らかに不自然。
『ジャッカル(風)ですね。数、六。全員、同じ方向へ走行中』
丸窓の外側に、リラが簡易データを重ねていく。
推定速度、危険度、進行方向。
そして、その後ろ。
「……灰色の、もや?」
地面から、低く立ち上る何かが見える。
霧というには重く、煙というには広がり方が不自然な、灰色の帯。
そこに、黒い“糸”のようなものが混じっていた。
濁り。
ジャッカルたちは、その濁り帯から、こちら――村の方角へ逃げてきている。
『位置情報を重ねます』
マップ上に、赤い線が一本、引かれる。
濁り帯から村へ向かう、ジャッカルの進路。
それを横切るように、別の三本の線を俺が引いていく。
「この丘の上を、Aライン。
小川の手前を、Bライン。
村が見える手前の、この稜線を、Cライン」
Aラインは警戒ライン。
Bラインは撤退推奨ライン。
Cラインは、村側から見て「ここを越えたら、本隊案件」という限界ラインだ。
『現在位置は、セイがAライン手前。
ジャッカルたちは……』
「BラインとCラインのちょうど中間を、このまま突っ切るコース、か」
村の畑地帯まで、およそ二十分。
ギルドに戻ってガランに報告し、討伐隊を出してもらうには――
『走って戻る+ガランさんの判断+隊の編成+出発。最速で十五分。.そこから現場まで十五分以上。合計三十分』
「つまり、間に合わない」
自分で口に出すと、胸のあたりが冷える。
危険度ログの数字が、頭の中で勝手にせり上がる。
ジャッカル六匹そのものは、危険度3〜4。
けれど、「村のすぐ近くで暴れられる可能性」という条件を足すと――
(3→5→6。
下手をすると、6.5くらいまで跳ね上がる)
『放置すれば、畑の柵破壊、家畜被害、人間への負傷リスクが出ますね』
「上流の予備調査の前に、村が荒れるのは最悪だ」
数字だけの話じゃない。
村人たちの“不安度”が一気に上がる。
「危険な線をちゃんと抑えている」と示しておかないと、
上流へ向かう計画そのものが揺らぐ。
『選択肢としては――
①即座にギルドへ戻って報告。結果、畑地帯で迎撃。
②セイがAラインで迎撃し、ログをギルドへ送信。
③Aラインで合流しつつ、《灯》を呼んで共同戦闘に切り替え』
「③は、時間的に無理だな」
《灯》の誰かがすぐ動けるとは限らないし、
呼んでいる間にジャッカルたちはBラインを越えてしまう。
「――②だ」
決めてしまえば、あとはやることがはっきりする。
「ヒトリから、ギルドとガランさんにログを飛ばしておいてくれ。対象、ジャッカル(風)六。濁り帯から村方向へ逃走中。俺はAラインで迎撃を試みる。間に合わなかった場合は、Bラインでの二次迎撃を要請――そんな感じで」
『了解。文面はこちらで整えます』
丸窓の中で、砂色の影がさらに大きくなる。
足元の風が、さっきよりも強く舞っていた。
ヒトリが高度を上げ、今度は少し後ろからジャッカルたちを追う視点になる。
その背中の向こう。
濁り帯は、さっきよりも濃くなっていた。
灰色のもやが地面から立ち昇り、ところどころで黒い泡のようなものが弾けている。
『濁り帯の危険度、セイのスケールで6〜7。ジャッカルたちは、その縁から逃走中。濁り帯そのものの拡大速度は、今のところ緩やかです』
「今は、帯そのものより、逃げてくる奴らだな」
俺は自分の足元を見る。
土の感触。斜面の角度。木々の位置。
ここをAラインの迎撃地点にする、と決めた場所に、もう一度立ち直る。
左足を半歩前。
右足を半歩後ろ。
腰の位置を低くして、どこにでも動ける中腰姿勢。
右手には、さっきまでウルフをいなしていた棒。
左手にはナイフ。
そして、腰のベルトには――日本刀。
鞘の口に、指先をそっと添える。
『……抜きますか?』
「まだ。まずは、棒とナイフでどこまで押さえられるかだ」
ジャッカル相手に剣を抜けば、線の処理そのものは楽になる。
けれど、それは“Bランク冒険者セイ”としても、まだギリギリのラインだ。
村から見た「危険度」と、俺自身がここで使うべき「手の内の量」。
そのバランスを間違えると、どこかで必ず歪みが出る。
『了解。ただし、Bラインを越える危険度に達した場合は、マナソード第一段階も許可ライン内ですからね』
「分かってる。その判断は――俺と、お前で一緒にやる」
胸元の水晶タグが、ほんのりと熱を帯びる。
監視タグであり、名札であり、今の俺の「責任の重さ」の象徴でもある。
視界の丸窓の中で、砂色の影が丘を駆け上がってくる。
風を巻き上げ、枯れ草を巻き込み、まっすぐこちらへ。
『距離、三百メートル。二百五十――』
俺は一度、深く息を吸い込む。
肺に冷たい空気を満たし、ゆっくりと吐き出す。
心臓の鼓動が、少しだけ落ち着く。
さっきまでのシャドウウルフ戦は、危険度3〜4の練習試合。
これから来るのは――村の危険度を、5や6に跳ね上げかねない線だ。
「ここで折る。少なくとも、“村のすぐそばで暴れさせる線”は、ここで断つ」
自分の中の撤退ラインをもう一度なぞる。
最悪の場合、俺一人では押し切れないと判断したら、Bラインまで下がって時間を稼ぐ。
それでもどうにもならないときは――Cラインの手前で、“本隊案件”だと判断して全力撤退。
そのどれもが、村を守るための選択肢だ。
俺一人の意地だけで、線を踏み越えてはいけない。
『距離、百五十メートル。百。風圧、上昇中』
空気が変わる。
乾いた砂が混じったようなざらついた風が、頬を撫でた。
ジャッカルたちの足音が、地面を叩くリズムとして伝わってくる。
それが、一本の線になって、真正面からここへ伸びてくる。
俺は棒を握り直し、足の位置を最後に微調整する。
左足を、ほんの指二本分だけ前へ。
右足の向きを、少し外へ。
それだけで、さっきとは違う“逃げ道”が足元にできる。
『距離、五十メートル』
砂色の影が、丘の上に姿を現した。
六つの風の尾が、空気を裂きながらこちらへと突っ込んでくる。
その瞬間。
風を裂く足音が、正面から迫ってきた。
――第25話へ続く。




