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理を灯す少年 〜祈り万能世界で、AIを宿す俺だけが“理論魔法”を使えた件〜  作者: いい加減工房


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第21話 村の日常と、危険度1の線

 それから、数日が過ぎた。

 あの小さな会議室でガランさんに「勘違いしたら墓場行きだ」と釘を刺されて、アヤと一緒に「怖いって何だ」を言葉にして、どうにか床に転がらずに済んだ夜から。

 村は、何事もなかったみたいに、いつもの朝を迎えている。


 教会の玄関を開けると、冷たい空気と一緒にパンの匂いが追いかけてきた。

 少し遅れて、子どもたちの笑い声と、リアンの「こら、走らないで!」って声。

(……うん。こういう音がしてるうちは、大丈夫ってことだな)

 俺は一度だけ振り返って、教会の尖った屋根を見上げる。

 塔の上に据えられた小さな水晶灯から、細い光の線が村じゅうに伸びている。

 それが、俺の目には「安全圏」の輪郭として見える。

 視界の端に、ふわりと淡い枠が浮いた。

『おはようございます、セイ。本日の予定候補を表示します』

 リラの声と一緒に、半透明のウィンドウが開く。

 その中には、見慣れた文字列が並んでいた。

 ・薬草採集(ミルート草・ネメラ葉)

 ・畑周りの柵補修+野猪注意

 ・村内の荷物運搬(教会⇔ギルド倉庫)

 その横に、小さな数字が三つ。

『危険度:1/危険度:1〜2/危険度:1』

「……だいぶ平和なラインナップだな」

『前回の一連の任務が、危険度6〜7でしたからね。しばらくは、ここらへんで足を慣らしておきましょう』

 声は淡々としているけれど、音の端っこに少しだけ安堵が混じっている。

 この数日、リラはずっと「危険ログ」を整理していた。

 危険度スコアの表示も、前より細かくなっている。

(じゃあ、今日は……)

 俺はしばらく画面を眺めてから、真ん中の依頼を指でつついた。

「畑の柵のほうで」

『了解。ギルド窓口システムに同期します』


 教会からギルドまでは、石畳を五分ちょっと。

 朝の通りには、パン屋の店先から焼きたての香りが漂い、

 水桶を担いだおばさんや、学校へ急ぐ子どもたちが行き交っている。

 その何人かが、俺を見て、ちょっとだけ真面目な顔になる。

 それから、安心したように笑って手を振ってくる。

「セイ兄ちゃん、おはよー!」

「お、おう。おはよ」

 前より「兄ちゃん」って呼ばれる頻度が上がった気がする。

 あの森から、全員で帰ってきたって噂が、もう回っているんだろう。

 うん。

 こういう声が続くようにするのが、たぶん俺の仕事だ。


 ギルドの扉を押すと、木と紙と金属の匂いが一度に押し寄せてくる。

 ざわつく声。カウンター越しのやり取り。

 剣や鎧が触れ合う、かすかな金属音。

「おはようございまーす」

「セイくん、おはよう」

 受付のカウンターから、手を振ってくれる人影。

 いつもの受付の姉さんだ。

 前に比べて、俺を見る目が少しだけ真剣なのは、気のせいじゃない。

「今日はね、村の畑の依頼が出てるわよ。前にも行ってくれた場所だけど、柵の補修と、野猪の様子見」

「危険度は?」

「査定は1〜2。“前線復帰前の肩慣らし”ってとこかしらね」

 姉さんは、カウンターの横に新しく掛けられた木板を、とん、と指で叩いた。

 危険度スコアと依頼ランクが、簡単な表になって刻まれている。

「支部長が、この前の件から正式に使い始めるって。“危険になったら帰る”って、言葉じゃなくて数字でも見えるようにするんだってさ」

「……分かりやすくて、いいと思います」

 俺のUIの端にも、同じ数字が表示されている。

 ギルドの板と、俺の画面。

 それがほぼ同じ値を出しているのが、少しだけ心強い。

「じゃあ、その畑の依頼をひとつ。今日は俺ひとりで大丈夫です」

「了解。セイくん単独受注っと……はい、登録完了」

 木のペンが走る音と同時に、俺のギルドカードの水晶部分が、かすかに光った。

『依頼登録:畑周辺の柵補修と野猪対策/危険度上限2』

 リラの表示が、視界に重なる。

(相変わらず、紙と魔道具の二重管理だよな)

『どちらかが壊れても残るように、とのことです』

(それは分かるけどさ……)

 前世のシステム部長としては、「紙とデジタルの二重管理」って言葉は、ちょっと複雑な記憶を刺激してくる。

 でも、この世界では、それが正しいやり方なんだろう。


 畑までは、村の外れに向かって土の道を十五分ほど。

 途中、マナ灯籠の光がだんだん薄くなり、代わりに土と草の匂いが濃くなる。

 少し先に、段々畑が広がっているのが見えてきた。

 土の色。芽を出したばかりの緑。

 その間を縫うように、簡素な木の柵がぐるりと囲んでいる。

「おお、セイの坊じゃねえか」

 腰を曲げた農夫が、帽子を押さえながら顔を上げた。

 前にも会った、ひげ面のおじさんだ。

「また来てくれて助かるよ。最近、夜になると、あちこちの柵が押されてな。土の音がするんだ」

「野猪ですね?」

「だろうな。まだ畑の中までは入ってきちゃいないが……そのうち、って感じでよ」

 おじさんは、柵のひび割れた板を指さした。

「ここなんか、一晩でこのありさまだ。直すだけじゃなくて、向こうさんにも“ここは嫌だ”って覚えてもらわねえと」

「じゃあ、その方向で」

 俺は畑の縁まで歩いていき、土の上にしゃがみ込んだ。

(リラ、地形表示)

『了解。足元の線、展開します』

 視界の下半分に、簡易の地図が重なる。

 段々畑の段差。傾斜。土手の高さ。柵の位置。

 その上に、うっすらと青い線と、ところどころ赤茶の斑点。

『昨夜の土の崩れ跡が三箇所。蹄の跡から推定して、野猪三頭。危険度は、いまは1寄りの2』

(柵が破られたら2寄りになる、ってところか)

 俺は、畑と林の境目に、小さな石をひとつ置いた。

 手のひらに収まる、少し平たい石。

「おじさん、ここからこっち側、分かります?」

「その石から、畑のほうか?」

「はい。この石から村側は、絶対に守るところです。向こう側は……多少荒れても、まだ許容できるほう」

「線、ってやつか」

 おじさんは、石と柵を見比べてから、苦笑した。

「全部守ろうとすると、無理が出るってのは、頭じゃ分かってんだがな。あんたに言われると、なんか“ちゃんとした線”に聞こえるわ」

「実際、ちゃんと決めといたほうが安全なんですよ。“ここまでは絶対に踏ませない”線を、先に決めておくのが大事で」

 前の戦いを思い出して、肩が一瞬固くなる。

 あのとき、俺たちは線を踏み越えてしまった。

 戻れたのは、いろんな偶然と、誰かが命を削った結果だ。

 同じことを、村の畑でやるわけにはいかない。


『セイ。』

 リラの声が、少しだけ低くなる。

『接近反応。正面左、茂みの中。距離二十メートル。

 体重推定百キロ前後。速度、徐々に上昇中』

(よし……来たな)

 風が一瞬、止まる。

 代わりに、土の上で小さな震えが連続した。

 重い蹄が、地面を踏みしめる振動。

 俺は、さっき置いた石のすぐ手前に立った。

 右足を半歩だけ後ろへ引く。

 つま先で土の感触を確かめ、滑りそうな小石を避ける。

 左足の膝を、わずかに緩める。

 重心を、踵寄りに、でも逃げ腰にはならない位置に置く。

 突っ込んでくるものを受け止めるんじゃなく、すれ違いながら、進行方向をずらしてやるための構え。

『線、固定しますか?』

(ああ。石を踏み越えそうになったら、一発だけ。生きて帰らせる方向で頼む)

『了解。攻撃目標は前脚優先。致命傷は避けます』

 ガサガサ、と茂みが大きく揺れた。

 ずん、と一歩。

 ずん、と二歩。

 太い鼻先。

 片方だけ少し欠けた牙。

 黒くて小さい目が、こちらをじろりと見た。

「……想像よりでかいな」

 思ったよりも図体はあるけれど、危険度表示の線は、2の手前で止まったままだ。

「おじさん、柵の内側に下がってください。できれば、少し高いところへ」

「お、おう!」

 農夫のおじさんが、慌てて一段高い畝へと逃げる。

 その動きを目で追って、野猪の耳がぴくりと動いた。

 次の瞬間、奴は地面を蹴った。

 土が、派手に跳ね上がる。

 一直線に、俺のほうへ。

(……真正面からは受けない)

 突っ込んでくる線から、自分の身体を半身分だけ外へ。

 俺は左足を軸に、右足を後ろ斜めに送る。

 腰をひねり、肩を抜く。

 正面衝突の線から、たった半歩ぶんだけ外れた位置を取りながら、野猪の肩のすぐ横を通り過ぎる軌道を自分に描く。

(今)

 腰の横で握っていた木の棒――リラに頼んで作ってもらった、ただ丈夫なだけの棒――を、野猪の進行線に沿って滑らせるように突き出した。

 ガツン、と鈍い手応えが腕に走る。

 狙いは、前脚の付け根より少し上。

 骨の真上ではなく、筋肉の束が集まっている外側。

 骨を折るほどの力は乗せない。

 でも、「ここを越えようとすると痛い」と脳に刻み込むには十分な強さ。

 野猪は、ぎゃっと短く鳴いて、体をひねった。

 勢いのせいで、そのまま柵の手前の泥を滑る。

 石の線は、ぎりぎり踏まれていない。

『接触終了。危険度、1に低下』

 土を蹴って起き上がった野猪は、俺を一度だけ睨んだ。

 それから、前脚を少しかしょんぼりさせながら、林のほうへ退いていく。

 速度は落ちているが、命に別状はない。

 その程度の痛み。

(……さて。あいつが次に畑を思い出したとき、“ここは嫌な場所”って記憶が残ってればいいんだけどな)


「お、おい、今のはなんだったんだ?」

 気づけば、おじさんが柵の向こうまで近づいてきていた。

 さっきまでの恐怖がまだ残っているのか、声が少し震えている。

「ちょっと“痛い目の場所”って教えただけですよ」

「倒さなくてよかったのか?」

「今日の仕事は“畑を守ること”で、“野猪を全部狩ること”じゃないですから。

 あいつが『ここは危ない』って学んで、別の道を通るようになれば、それで合格です」

 おじさんは、しばらく俺と石とを見比べてから、ふっと笑った。

「なるほどなあ……“怖がらせて、線から外させる”ってわけか」

「まあ、そんな感じです。この石より村側に入ってきたら、そのときは本気で追い返しますけど」

「頼もしいこった」


 野猪が去ったのを見届けてから、俺たちは柵の補修に取りかかった。

 ひび割れている板を外し、釘の曲がり具合を確かめる。

 再利用できそうな板は一箇所に寄せ、完全に駄目なものは別の山に。

 土の上に並べていくと、それだけでちょっとしたゴミの山になる。

「このへんの板、全部持って帰ってくれると助かるんだが……」

「マジックボックスで預かって、ギルドの倉庫まで持っていきますよ」

「毎度すまんなあ。うちの馬車も人手も、足りてるようで足りてねえからよ」

 俺は壊れた板をまとめて抱え、マジックボックスの入り口に意識を向ける。

(リラ、運搬モード)

『了解。破損板×12、曲がった釘×38、登録します』

 腕の中の板が、ふっと軽くなった。

 光の粒に分解されて、腰のあたりの空間に吸い込まれていく。

 何度見ても、こっちでも不思議な光景だ。

 農夫のおじさんは、その様子をまじまじと見つめてから、感心したように唸った。

「……やっぱりすげえな、その祝福。これがあるおかげで、村から馬車借りんでも済むんだ」

「荷物の心配が減るぶん、俺たちが“戻る線”の心配をする余裕が増えますから。お互い様です」

「そういうもんかね」

「そういうもんです」

 おじさんは、しばらく考えるように顎をさすってから、笑った。

「ま、難しい理屈は分からんが……助かってるのは本当だ。ありがとな、セイ」

「いえいえ」

 そう答えながら、俺は畑の縁から林のほうを一度振り返った。

 さっきの野猪が逃げていった先。

 木々の間に伸びる、かすかな暗い線。

 あの奥では、まだ別の“危険”が動いている。

 でも今は、ここ。

 村の日常の線を、一本ずつ太くしておく時間だ。


 柵の補修を終えて、預かった壊れ物や落ち穂をマジックボックスにしまい込むころには、太陽は頭の上に近づいていた。

 汗を拭ってから、畑を振り返る。

 さっきまで揺れていた畝は、もう穏やかだ。

 風だけが、麦の葉を軽く撫でていく。


 ギルドに戻ると、昼前のせいか、さっきより少し賑わっていた。

 依頼帰りのパーティが笑いながら報告をしていたり、新しい依頼を前に言い合っている新人組がいたり。

 俺はカウンターに壊れた板と釘のリストを出し、マジックボックスから預かり物を順番に取り出していく。

「はい、納品分です。柵の補修も完了。野猪は、一頭だけ接触しましたけど……」

 ざっと状況を説明する。

「ふむふむ。線の手前で追い返し、ね」

 受付の姉さんは、ペンを走らせながら、少しだけ口元を緩めた。

「こういう依頼、地味だと思わない?」

「いきなり本音ですね」

「だってさ」

 姉さんは、台帳をぱたんと閉じる。

「危険度1〜2。報酬も、森の奥の討伐に比べたら半分以下。でもね」

 そこで一度、言葉を切り、台帳の表紙を指でとん、と叩いた。

「こういう“村の日常の線”を誰かが守ってくれてるから、アヤちゃんたちは、安心して森のほうに行けるのよ」

「……」

「前線で戦うのも冒険者の仕事。村で荷物を運んだり、畑を守ったりするのも、同じ冒険者の仕事。ここに書いてあるのは、どっちもちゃんと“ギルドの依頼”」

 そう言って、姉さんは俺のギルドカードを指先で軽く弾いた。

「セイくんの名前は、どっちの線のほうにも載ってる。それ、忘れないでね」

 胸の奥で、何かが少しだけ温かくなった。

 森の奥で、命が落ちない線を引くこと。

 村の中で、明日も同じ畑に出られる線を守ること。

 一見別の仕事に見えて、実は繋がっている。

 そんな当たり前のことが、ようやく自分の中で噛み合ってきた気がした。

「……ありがとうございます。覚えておきます」


「――あ、それと」

 踵を返しかけたところで、受付の姉さんが、ぽんと手を打った。

「支部長が呼んでたわ。“手が空いたらでいいから、執務室に来い”って」

「今、ちょうど空きました」

「なら、ちょうどいいわね。いつもの奥の扉、ノックして」


 ギルドの奥は、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かだ。

 分厚い木の扉がひとつ。

 コン、コン、と二度ノックする。

「セイです」

「入れ」

 低くよく通る声は、いつも通り。

 でも、その響きに、どこか決意の硬さが混じっている気がした。


 執務室に入ると、ガランさんは机の上の書類をひと束まとめていた。

 机の端には、小さな木箱がひとつ。

 それだけが、部屋の空気と違う、妙な緊張をまとっている気がする。

「座れ。……いや、その前に、これだな」

 ガランさんは木箱の蓋をパカリと開け、中から薄い板を取り出した。

 金属に薄い水晶が埋め込まれた、小さなカード。

 俺が腰の袋に入れているギルド証より、明らかに新しい作りだ。

「ギルド証……ですか?」

「ああ。王都本部が最近作った“新型”だ。順次、各支部に送って、切り替えていくんだとよ」

 ひらりとカードを回して見せる。

 表には、見慣れた自分の名前。

 その下に刻まれたランクの文字を見た瞬間、呼吸が一瞬止まった。

「……Bランク?」

「そうだ」

 ガランさんは、僅かに口の端を上げる。

「前に言っただろう。“権利と責任のバランスを整えるためのランクアップ”ってな」

 机の上には、封の切られていない封筒が二通置かれていた。

 ひとつは、ギルド本部の紋章。

 もうひとつは、見たことのない、もっと細かい紋章――王家の印章。

「……王都本部と、王家、両方から?」

「ああ」

 ガランさんは、その二通を指先でとん、と叩いた。

「本部の昇格審査に、王都の“上”からも一筆乗った形だ。辺境での濁り案件で、撤退の線を崩さずに全員を連れ帰ったやつがいるってな」

「そんな細かいところまで、見てるんですか」

「細けぇ実務は、王城の書記官だの騎士団長だのがやってんだろ。この蝋印がどの机から出たかまでは、俺も知らん」

 それは多分、本当なんだろう。

 でも、王家の紋章がここにあるってだけで、この村の話が、ただの村の話じゃなくなっているのは分かる。

『セイ、新しいギルドカードの仕様情報、入りました』

 リラの声が、視界の端で小さく跳ねる。

『水晶ネットワーク接続。支部間をまたいでの「現在地ログ」と「依頼履歴」が、半自動で共有されるみたいです』

(うわ、なんか一気に“社内システム”感が出てきたな……)

『位置情報については、ある程度“ノイズ”を乗せられます』

(ぜひそれは頼む。四六時中位置追跡とか、さすがに勘弁してほしい)


「で、これがその新しいBランクギルド証だ」

 ガランさんはカードを俺のほうに差し出した。

 指先に触れた瞬間、ひんやりした感触と、微かな振動が伝わってくる。

 水晶部分が俺のマナを読むのか、ちらりと光が走った。

「受け取るかどうかは、お前次第だ。Bランクになれば、危険度7〜8の場にも“出ろ”と言われるようになる」

「……」

 胸の奥で、数字のイメージが浮かぶ。

 危険度7〜8。

 この村の外縁を越えて、その先の「本隊案件」の手前。

「ただし」

 ガランさんは、机の端を指で二度、軽く叩いた。

「お前の役目は変わらん。“勝つために前に出ろ”じゃなく、“危険度を下げるためだけに前に出ろ”。王都本部も王都の連中も、その条件付きで承認している」

 ――撤退を判断する役。

 ギルドの会議室で、ガランさんに正式に任されたあの役目の線が、頭の中に浮かぶ。

「受け取ります」

 俺はカードを両手で受け取り、軽く頭を下げた。

「危険な線を引き直すためのランクなら、使わせてもらいます」

「よし」

 ガランさんは短く頷いてから、ふっと表情を崩した。

「で、古いほうのギルド証だがな」

 俺の腰元に視線を落とす。

「規定上は、新しいのを渡した時点で、前のは“更新済み”扱いだ。

 だから、物理カード自体は持っていても構わん」

「……え?」

 思わず、変な声が出た。

「いや、普通、そこは取り上げるところじゃないですか?」

「ん?」

「ギルド証って、王都では身分証明にも使うんですよね。

 有効な身分証を二枚、そのまま同じ人間に持たせるって――

 偽装とか成りすましとか、やろうと思えば何でもできちゃうじゃないですか」

 前世のシステム部長モードが、完全に顔を出していた。

「カード番号を無効化するにしても、物理カードは回収して粉砕、が最低ラインだと思うんですけど。

 “更新済みだから好きにしていい”って、情報管理としてはだいぶザル運用というか……」

「細けぇな、お前はほんと」

 ガランさんは、盛大にため息をついた。

「一応だ。本部の水晶には“旧カード無効”って刻んである。正式な場で照合すりゃ、古いほうは弾かれる」

「“正式な場で照合すりゃ”っていう、その前提が危ないんですよ」

「村の宿屋で身分証見せるくらいなら、いちいち照合まではせんだろうな」

「それが危ないんですよ!」

 思わず声が上ずる。

「この世界、情報管理ゆるすぎません?身分証の二重発行を前提にした運用で、よく今までやってこれましたね」

「知らん。俺が支部長になる前からそうなんだ」

 完全に投げた。

『セイ、深呼吸。ここは異世界です。コンプライアンス規定は存在しません』

(分かってるけどさあ……)

『とはいえ、あなたの言っていることは正しいので、“自分のカードだけでもマシな運用にする”方向で考えましょう』

(そうだな)


「まあ、不安なら、お前の好きにしろ」

 ガランさんは肩をすくめた。

「古いカードを教会の金庫に放り込むなり、マジックボックスの奥底に沈めるなり。“普段はまず出てこない場所にしまう”ってことでいいだろ」

「……そうします。身分証が二枚ある、って状態が放置されるのは、落ち着かないんで」

「そういう先回りは嫌いじゃない。Bランクの仕事ってのは、そういう“先回りの危険管理”込みだからな」

 ガランさんは、机の横に立て掛けてあった地図を軽く叩いた。

「これから先、上流の祈律帯も、北の危険地点Aも、本隊も絡んでくる。

 そのとき、《灯》と一緒に動く場面では、お前が実質の指揮だ、って王都からも一筆入った」

「……重いですね」

「重い。だからランクも上げた。肩書きと責任が釣り合ってなきゃ、誰も納得しねえからな」

 そう言う顔は、いつものからかい半分の顔じゃない。

 本気で、この村と、この先の戦いをどうにかしようとしている大人の顔だ。

「やれるか?」

「やりますよ」

 俺は、自分の手の中のカードを見下ろしながら答えた。

「もともと、そのためにここに来たんで」

 世界が崩れる前の、最後の夜。

 あのとき決めた「理解することをやめない」というわがままは、今もまだ、俺の中で生きている。


「細かい話は、また今度だ」

 ガランさんは、いつもの調子に戻って、手をひらひらと振った。

「今日は顔見せとカードの受け渡しだけ。あとは、適当に小さい依頼でもこなして、早めに教会へ戻れ」

「了解です」

 頭を下げて、執務室を出る。


 ギルドの廊下を歩きながら、新しいギルドカードをもう一度、手のひらでひっくり返してみた。

 表側には名前とランク。

 裏側には、支部の刻印と、見慣れない紋様。

『位置タグと、ログイン支部のコードですね』

(やっぱりそっち系か)

『設定画面を少しいじれば、「だいたいこの辺」くらいの精度には落とせます。完全な偽装は危険ですが、危険度の高い場所でだけ正確なログを残す運用にすれば――』

(“普段はぼんやり、ヤバいときだけ正確に”か。それなら、監視じゃなくて保険にもなるな)

『はい。私としても、そのほうがログの整理がしやすいです』

(じゃあ、その設定で。あと、旧カードは――)

『マジックボックスの奥、あなた以外は出しにくいゾーンに放り込んでおきますか?』

(お願い。物理的にも論理的にも“死蔵”扱いで)

『了解しました』

 腰のあたりが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。

 実際にはカード一枚だから重さなんて変わらないのに、心のほうが軽くなったのかもしれない。


 ギルドの扉を押して外に出ると、日差しは少し傾き始めていた。

 さっきまでの喧騒が背中のほうに遠ざかっていく。

『危険ログ、更新しておきますね』

(今日のは、“危険度1〜2の依頼をこなしながら、Bランク昇格通達”とかか?)

『だいたいそんな感じです。畑の石の地点には、軽い注意マーカーも追加しました』

 視界の端に、小さな赤い点がひとつ灯る。

 村外れの畑。

 さっき俺が石を置いた場所。

『こういう小さな点を増やしておくと、後で「ここまでは安全」と言いやすくなりますから』

(Bランクになっても、やることは変わらないってことだな)

『そういうことですね』


 教会への道を歩きながら、ふと、川のほうを見やった。

 遠く、木々の向こうで、細い水の線が光っている。

 あの上流には、まだちゃんと見に行かなきゃいけない“濁り”がある。

 危険度の数字が、1や2じゃ済まなくなる場所が、確かにある。

 でも今は。

 俺はポケットに新しいギルドカードの感触を確かめ、もう片方のポケットの、消えた重みを思い出す。

(身分証の重複は解消。位置情報は、リラと運用ルールを決めた。あとは――)

 村へ続く石畳の線を見下ろしながら、一歩、また一歩と足を運ぶ。

 危険度1の仕事を終えて、無事に帰る、その一歩。

 そして、Bランクという肩書きに、少しずつ自分を慣らしていくための一歩。

 いつかまた、危険度6や7に足を踏み入れる日のために。

 そのとき、線を見誤らないようにするためにも。

 俺は、胸の中でそっと息を整えて、教会の扉へと手を伸ばした。

 ――今日の「怖さ」は、小さな野猪と、新しいカードの重み。

 それをきちんと見て、線を引けたなら。

 たぶん俺たちは、まだ、大丈夫だ。


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