第2話 草の匂いと、知らない空
この作品を開いてくださって、ありがとうございます。
作者のいい加減工房と申します。
「いい加減」は“雑”ではなく、ちょうどいい塩梅の方の意味です。
――この物語の舞台は、「理」とマナが満ちた世界です。
世界の裏側には、目には見えない「理層」と呼ばれる層があり、
そこには「世界をどう動かすか」の設計図のようなものが書き込まれています。
人々が暮らす村や町の外側には、
魔物や“濁り”が増えてくる「外縁」と呼ばれる帯があり、
そこが“安全圏のふち”=境界線になっています。
主人公のセイは、その理層に少しだけ触れることができる青年です。
本気を出せばかなりのことができますが、
目立ちすぎるとまずい立場にいるので、
・どれくらい危ないかを自分なりに「怖さ点数」にして、
・「ここまでは守る」「ここから先は踏み込まない」と線引きをして、
・工夫と準備で、なるべく目立たない形で相手を倒していく
そんなやり方を選んでいます。
派手な英雄ではなく、
「実は強いのに、ひたむきにそれを隠しながら、
村と仲間を守ろうとする裏方気味の主人公」の物語です。
世界の細かい仕組みや用語は、
本編やあとがきで少しずつ触れていきますので、
まずは肩の力を抜いて、物語そのものを楽しんでいただけたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
次に目を開けたとき、俺はもう、黒川誠一ではなかった。
――と、言葉にするのは簡単だが、実際の感覚はもっと雑で、もっと混乱していた。
最初に、子供の頃を思い出す心地良い草と土の匂いだった。
走り出したくなる衝動で、心の中のワクワクが止まらない。
次に、頬をなでる冷たい風。
耳の奥で、かすかに鳥の鳴き声が響いている。
(……オフィスの床掃除、サボった覚えはないのだが)
寝ぼけた頭で、そんなバカなことを考える。
ゆっくりとまぶたを持ち上げると、視界いっぱいに広がったのは――夜景でも、蛍光灯でもない。
青すぎる空、どこまでも広がっていくようだった。
雲が近い。
いや、空が近いのか。
視界の端には、丈の高い草が揺れている。
ビルも道路も、信号も、電柱もない。
「……野外研修?」
思わず口をついて出た言葉は、自分でも聞き慣れない高さの声だった。
(……あれ?)
喉が妙に軽い。
慌てて自分の手を持ち上げる。
そこにあったのは、四十七年分の皺と生活感を剥ぎ取られた、細くて若い指だった。
白くはない。むしろ、うっすらと日焼けしている。
だが、節くれ立った中年の手ではない。
高校生くらい――いや、それより少し幼いかもしれない。
「リラ」
試しに、名前を呼んでみる。
返事がなかったら、本気で笑えない状況だ。
『――はい。接続は良好です。おはようございます、新しい体の黒川さん』
すぐに、頭の内側から声が返ってきた。
今度こそ、スピーカーからではない。
鼓膜の手前、意識の奥底に直接響いてくるような、不思議な感覚。
「……“黒川さん”は、もう違う気がするな」
空に向かってそう呟くと、リラは一秒ほど沈黙してから、淡々と告げた。
『では、仮称を変更しましょう。この世界側の登録名は――“セイ”です』
「セイ?」
『理と歩む“誠一”から、一文字だけ拝借しました』
(理と歩む…)
なるほど、と苦笑が漏れる。
四十七歳の中身で、十代前半くらいの体に入って、“セイ”か。
(……まあ、わかりやすくていいか)
俺はゆっくりと上半身を起こそうとした。
その瞬間、自分の体の「軽さ」に驚く。
腹筋に力を込めると、ほとんど反動もなくすっと上体が起き上がった。
「うおっ」
勢い余って立ち上がろうとして、足がもつれる。
前のめりに転びかけた身体を、とっさに捻って受け身を取る。
柔らかい草の感触。
地面に打ちつけられる前に、自然と肩から転がり、膝で制動をかけていた。
(……体が、よく動きすぎるな)
『心肺機能、筋力、柔軟性ともに、旧世界時より330%向上しています。理層由来の調整ボーナスです』
「ボーナスって言うな。中年の心が追いつかないし、言われて意味が理解できない」
『簡単に言うと旧世界時でのトップアスリート以上の身体能力があると思ってください』
『この体は、この世界の理層が用意した体です。あなたの思いを具現化するためのツールと思ってください』
「はー、わからん」
ぼやきながら俺は、周囲を見渡す。
俺が倒れていたのは、少し離れたところに小高い丘の斜面があり、ころがりおちたところだった。
そこには土の道が一本、村へ続くように伸びている。
道の脇には、背の低い石の祠のようなものと、奇妙な灯籠が並んでいた。
灯籠は、金属とも木ともつかない素材でできていて、内部に淡い光の玉を抱えている。
その光から、細い筋のようなものが、地面や空へふわりと伸びていた。
細い光の線。
それは、風や川の流れとも違う“見え方”だった。
周辺のあちこちに、透明な線が走っている。
それが祠や灯籠のあたりで、ギュット密度を増し色々な方向から集まっている。
(……何だ、これ)
『理層とマナ層の境界線が、部分的に視覚化されているようです。あなたの視覚野に、わたしが微調整を入れました』
「俺の許可なく新機能追加するなよ」
『安全性は確認済みです。“見えない通り道”を先に知ることは、今後の生存率を十三・二%向上させます』
まあ、そういう話ならありがたく使わせてもらうけども。
と、そのとき。
遠くからガラガラという車輪の音と、人の声が近づいてきた。
「おーい、そこの子!」
土の道の方から、野太くがらがらとした声が飛んでくる。
振り返ると、荷車を引いた男が、目を細めてこちらを見ていた。
年の頃は四十代くらい。
日焼けした顔に、ギョロリとした目。
背後の荷車には、麻袋と木箱がいくつも積まれている。
行商か?ただの運搬係だろうか。
「……子?」
自分を呼ばれたのだと気づくのに、一瞬時間がかかった。
「お前さん、こんな外れで何している。道の真ん中で寝ていたら、魔物に喰われるぞ」
男は荷車を止め、ズカズカと近づいてくる。
この世界の言葉……なのだろうが、不思議と意味ははっきりとわかった。
(翻訳機能、あるのか?)
『はい。理層経由でこの世界の言語パターンを取得済みです。あなたの聴覚と言語野に、リアルタイムでマッピングしています』
「便利すぎないか、それ」
小声でぼやくと、男が怪訝そうに首を傾げた。
「具合でも悪いのか? 顔色は……悪くはねぇが。名前は?」
――名前。
一瞬、「黒川」と言いかけて、飲み込む。
今ここで日本名を名乗っても、余計な誤解を生むだけだ。
何より、“黒川誠一”としての世界は、もう崩れ去ってしまった。
「……セイ」
少しだけ息を吸ってから、そう名乗った。
「そうか、セイか。ここらの子じゃない顔だな」
「……道に迷って、気がついたら倒れていて。詳しいことは、よく覚えてない」
半分は本当で、半分はテンプレ通りの記憶喪失だ。
リラからの苦言が飛んでくる前に、男は納得したように頷いた。
「まあ、外縁で倒れていたって時点で、ロクな事情じゃねぇな。とりあえず村まで乗っていけ。ギルドか教会に顔を出した方がいい」
「ギルド……?」
「冒険者ギルドだよ。ここらの外縁は“濁り”がきついからな。素人がうろついちゃいけねぇ場所だ」
濁り。
その単語に、背中にヒヤリと不安が這い上がった。
男が顎で示した先――村とは逆方向の森の際には、黒い靄のようなものが、茂みの影に絡みついている。
そこから伸びる見えない線は、灯籠のあたりで押し返されていた。
灯籠からあふれる光の筋と、黒いざわめきが、ぎりぎりのところでせめぎ合っている。
(……バグデータの塊、って感じだな)
『濁り=理層から外れたマナの偏り、という仮説でほぼ確定です。あれは今後の課題リストに入れておきましょう』
リラの声は、いつも通り落ち着いていた。
男は、俺の肩をぽんと叩いた。
「立てるか? 歩けねぇなら荷車に乗れ。エルディア村まで、そう遠くねぇ」
「……エルディア村」
この世界での最初の地名を、胸の内で復唱する。
世界は理層ごと壊れた。
俺はその瓦礫みたいな光の中を落ちて、この「マナと祈りの世界」に流れ着いた。
理解することを、やめたくない。
そのわがまま一つを握りしめたまま、俺――セイは、荷車の後ろに手をかけた。
「お願いします」
「おう。細けぇ話は、村着いてからだな」
ぎしぎしと車輪が回り出す。
遠ざかっていく黒い靄と、それを押しとどめる灯籠の光。
そのあいだを走る、見えない線の地図を見つめながら、俺はこの世界での「第一歩」を踏み出した。
――そして、その歩みが、やがて“理を恐れる世界”そのものに踏み込んでいくことを、このときの俺はまだ知らなかった。




