第19話 交わる線
森を走るたび、胸の奥で線が跳ねる。
右足を前に。
左足を根の「谷」に滑らせる。
根っこを踏まない線。
苔で滑らない線。
ヒトリ三号が、頭上を先導するように飛んでいた。
視界の端には、あいつの目線で捉えた映像が小さく映っている。
黒く染まった巨体。
その前で、見慣れた三つの影が踏ん張っていた。
「距離は」
『現在位置から目標まで、残り三百二十メートル。
セイの今のペースなら……四十秒前後』
「……四十秒もたない顔してるな」
映像の中のアヤは、肩で息をしていた。
剣の軌道が、いつもより少し重い。
右足をかばうように、体重が片側に寄っている。
コルトの矢は、黒く染まったゴブリンの皮膚に刺さっても、半分も通っていない。
ミナの瓶から迸る水は、黒い筋を削りはするが、焼き切るまでは届いていない。
変異ゴブリンキングが一体。
その周りに、変異ホブゴブリンが三体。
どれも、普通のゴブリンとは別物だ。
『危険スコア、7。上昇傾向』
「維持でいい。それ以上は上げない」
口ではそう言いながら、足は自然ともう一段スピードを上げていた。
右足を木の根の上。
左足をその根のすぐ脇のへこみに。
足の置き場を一歩ずつ決める。
それに合わせて、頭の中の線が森の中を縫うように伸びていった。
戦場の気配が、空気の匂いで分かる距離になった。
焦げた樹皮の匂い。
湿った土の匂いに混じる、血と濁りの匂い。
最後の茂みを抜ける前に、足を止める。
まずは足場を見る。
目の前には、少し開けた窪地があった。
片側がえぐれたみたいに低く、奥が岩の壁になっている。
その岩は、大人の背丈より少し高い、二メートルちょっと。
《リュミエルの灯》の三人は、その岩場の手前、行き止まりの狭い足場に押し込まれていた。
前には、変異ゴブリンキングとホブゴブリン三体。
後ろは登れそうにない岩。
完全な袋小路だ。
(悪い場所で止まったな……)
アヤは、右足を庇いながら剣を振っている。
片足で踏ん張るせいで、後ろの岩を背中で押さえる形になり、動きが狭い。
ミナは空になった瓶を腰のポーチに押し込んでいる。
残っているのは、回復薬らしき一本だけ。
コルトの矢筒は、ほとんど空だ。
残り、数本。
この状態で、前に出る線も、後ろへ下がる線もない。
(アヤの足じゃ、崖をよじ登って撤退も難しい)
『はい。現状、“普通に逃げるルート”はありません』
胸の中の光が、静かに告げる。
『セイ。さっきの条件、再確認しておきます。
マナソード第二段階は——』
(“誰かの命が、この一撃でしか守れない時だけ”)
『はい』
岩の上に身を伏せる。
足元の土を指でつまみ、崖の縁からそっと下を覗いた。
変異キングは、アヤたちより少し下、窪地の中央寄りに立っている。
肩幅は人間の倍以上。
全身に黒い筋が走り、目は真っ赤に濁っている。
その右後方——崖の影になっているあたりが、死角だ。
(……リラ)
『はい』
(ヒトリ三号。キングの右後ろ、崖の少し上。目立つ高さで待機させてくれ。
点滅パターンは、いつもの“注意喚起”)
『了解。行動パターンを書き換えます』
頭上から一羽、光の鳥が滑り降りる。
変異キングの右後ろ、崖の斜面の上空にふわりと止まり、
明滅を繰り返し始めた。
チカ、チカ、チカ——。
森の薄暗さの中では、かなり目立つ光だ。
最初に気づいたのは、コルトだった。
肩越しにヒトリをちらりと見て、ほんの一瞬だけ目を見開く。
そしてすぐに、変異キングとヒトリの位置関係を測るように視線を動かした。
(気づいたな)
崖の上から、その表情が見える。
コルトは、最後の矢の一本を手に取る。
矢じりを変異キングに向け——少しだけ、狙いを外した。
狙っているのは、キングの“後ろ”、ヒトリの線上。
『セイ。これは——』
(威嚇射。キングの背中を無理やり動かす)
弦が鳴る。
放たれた矢が、変異キングへ向かって一直線に飛んだ。
軌道は、キングの肩とヒトリの間。
アヤが、思わず声をあげる。
「コルト!? 外れてる——」
最後まで言い切る前に、変異キングの体が大きくのけぞった。
矢を避けるために、上体を強引に反らしたのだ。
胸が空へ向かって開き、顎が上がる。
首の前側が、崖の上から丸見えになった。
(今)
俺は、崖の上の足場で一度だけ踏み直し、
右足、左足、もう一度右足——とリズムを刻む。
最後の右足で、崖の縁を強く蹴った。
体が前へ飛び出す。
落下ではなく、“前に倒れ込む”一歩の延長線。
両手で柄を握る。
腰をわずかに丸め、落下の勢いをそのまま刃へ通す。
変異キングの喉元へ、上から下へ。
マナソード第一段階。
刃の外側に、ごく薄い線だけを重ねる。
空気を裂く感覚と、肉を割る感覚が、ひとつの線に重なった。
重さを感じる前に、手応えが抜ける。
変異キングの首が、軌道の先でふわりと浮き、
そのまま後ろの斜面側へと飛んでいった。
転がった頭部が、すぐ後ろにいた変異ホブの顔面に直撃する。
巨体が、ぐらりと仰向けに倒れ込んだ。
『キング変異体一、頸部切断確認』
地面に着地する瞬間、俺は足の向きを変える。
崖から飛び降りた勢いでそのまま前に転がらず、
斜め横へ受け流すように、左足を斜面の上に、右足を下に置く。
片膝を落として尻餅をつきかけている変異ホブの側頭部が、ちょうど腰の高さにある。
そこで、足だ。
右足のつま先で、側頭部の少し下——顎の付け根を蹴り上げる。
首が不自然な角度まで持ち上がり、
変異ホブの体勢が完全に崩れる。
そのまま地面に背中から倒れ込んだところへ、
俺は一歩踏み込んで、喉元に刃を突き立てた。
左足を前。
右足を後ろ。
体重を乗せながら、刃を少しだけ引いて頸椎を断つ。
『変異ホブ一、戦闘不能』
残り二体。
ひとつは、さっきキングの頭を喰らって倒れ込んだ個体。
もうひとつは、状況が飲み込めていないらしく、ただ吠えていた。
吠えているほうが、最初に動いた。
雄叫びを上げながら、仲間を呼ぶように背中を反らす。
喉の奥から、濁った声が森に響いた。
『新たな反応。周囲数百メートルのゴブリン個体が、この方向へ移動開始』
(呼ばれたか……)
森の奥から、散発的な足音が近づいてくる気配がする。
今倒れている四体を処理する時間はある。
でも、ここで長居する余裕はない。
吠えている変異ホブの膝を狙い、地面を蹴る。
左足を前へ。
右足を、さっき自分が立っていた位置に滑り込ませる。
刃先を低く構え、左膝の関節の前側に、斜め下から斬り上げる。
マナの線が、関節の中の濁った筋だけをさらう。
膝が折れた巨体が、片側へ傾く。
崩れ落ちる途中、まだ叫び続けようと口を開いたその肩口へ、反対側から斜めに刃を落とした。
左肩から右胸へ。
骨を割る重さを、腰の回転と足の送りで補う。
変異ホブは、そこで完全に黙った。
『変異ホブ二。残り一体』
最後の一体は、まだ起き上がりきれていない。
キングの頭がぶつかった衝撃で、半分気絶している状態だ。
近づいて、喉を一閃。
わざわざ派手にやる必要はない。
地面の上に、黒い血がじわじわと広がる。
『この場の敵性反応、四体すべて沈黙を確認。
ただし、周辺から通常ゴブリンの群れが接近中。距離、まだ二百メートル以上』
(こっちが片付ける前に、第二ラウンドは始めたくないな)
刀に付いた血を軽く払ってから鞘に納める。
呼吸を整える前に、振り向いた。
岩の手前で、アヤたちが呆然と立ち尽くしていた。
◇
「……セイ?」
最初に声を出したのはミナだった。
アヤは一歩踏み出そうとして、右足に体重を乗せ、すぐに顔をしかめる。
足首が、かなり腫れている。
「動くな。今は立ってるだけで限界だろ」
俺は駆け寄りながら、腰のマジックボックスに手を伸ばす。
中の一覧から、回復薬の瓶をひとつ引き出した。
「ミナ、この薬、アヤの足に。外側からでいい。
飲ませるのは、戻ってからにしてくれ」
「う、うん!」
ミナが慌てながらも薬を受け取り、
アヤの足首に慎重に塗っていく。
コルトは、まだ弓を握ったまま、俺とさっきの死体を交互に見ていた。
「今の……全部、お前一人で?」
「全部ってほどじゃない。ヒトリと、お前の矢のおかげだ」
崖の上のヒトリが、まだ小さく点滅している。
「ヒトリの位置と点滅、気づいたよな?」
「……ああ。
“後ろを開けろ”って意味だと思った」
コルトは短く答える。
「矢を当てるより、避けさせたほうが隙ができるって、そう考えた。
間違ってたら、ただの無駄撃ちだったけど」
「合ってる。だから、あの角度で飛んできた首は、お前の戦果の半分だ」
そう言うと、コルトは肩の力を少し抜いて、息を吐いた。
「……じゃあ、半分はお前のだな」
『戦果配分、50:50で記録しておきます』
(いや、記録はいいから)
思わず心の中で突っ込む。
その横で、ミナがアヤの足元から顔を上げた。
「腫れは少し引いてきてるけど、走るのは無理。歩くのも、ゆっくりなら、って感じ」
「上等だ。今日は走らせない」
俺は周囲に視線を走らせる。
『接近中のゴブリンの群れ、数十。
まだ距離はありますが、このままここにいると囲まれる可能性大です』
(だろうな)
「……聞きたいことは山ほどあるけど、それは後回し」
わざと少し強めの声で言う。
「今からやることは二つだけ。
一つ目、アヤの足が“歩ける”状態まで回復させる。
二つ目、この場から撤退するための荷物を整える」
アヤが顔を上げた。
「まだ、やれる——」
「“戦う”か“逃げる”かの話じゃない」
食い気味に遮る。
「今のアヤは、歩くのがやっとだ。
この状態で前に出たら、俺かコルトが足をかばうために動きを潰される」
言いながら、変異キングの死体に手をかけた。
マジックボックスの口を、死体の上に重ねるようにイメージする。
すうっと、重みが消えた。
続けて、変異ホブ三体も収納していく。
「ちょ、ちょっと、そんなに簡単に……」
ミナが目を丸くする。
「詳しい仕組みはあとで。
今は、“ここに残したくない素材”だと思ってくれ。濁りの研究用に持ち帰る」
『追加サンプル:変異体四。ラベル付け完了』
(ありがと)
四体の死体が消えたことで、窪地の中央が少し広くなった。
そこに、アヤたちの足場から出口までの細い道が見える。
「これから森の外縁まで戻る。
行きと違って、帰りは“戦えない前衛”を連れてるつもりでライン引くからな」
アヤが唇を噛む。
「……ごめん」
「謝るのもあとで。まだここ、危険度高いから」
ミナが慌てて口を挟んだ。
「そうそう! 説教なら帰ってからでいいから!
今は、生きて帰るのが先!」
その通りだ。
「コルト」
「何だ」
「矢、残り何本」
「三本」
「全部“退路を開くため”に使ってくれ。
倒せない相手に打たなくていい。こっちに近づきすぎた雑魚だけ、足を止める」
「了解」
コルトの声に、いつもの冷静さが戻ってきた。
アヤを中央、ミナをその隣。
俺とコルトが左右から挟む形で隊列を組む。
「じゃ、下がるぞ」
最初の一歩は、俺が出す。
左足を、少し後ろへ。
斜面の角度と石の位置を確認しながら、
一歩ずつ、「戻る線」を引いていく。
◇
森を抜けるまでの道のりは、行きよりずっと長く感じた。
変異体の群れが追ってくることはなかったが、
途中で普通のゴブリン数体と鉢合わせするたびに、
コルトの矢と、俺の刃で足を止める必要があった。
そのたびに、アヤが何か言おうとして、言葉を飲み込む。
森の入り口が見え始めた頃、ようやくその堰が切れた。
「……さっきの森の奥に行こうって言い出したの、私だから」
アヤが、ぽつりと言う。
「前の調査のとき、森の外側だけで戻ったのが、どうしても引っかかってて。
“自分なら、もう一歩踏み込める”って……」
言い淀む。
ミナが、ちらりと彼女を見る。
「でも、二人とも、完全に賛成ってわけじゃなかった。“危ないなら引き返そう”って、そう言ってくれたのに。 私が、“行こう”って決めてしまった」
その言葉は、確かに反省だ。
でも、まだどこか「理由の説明」の色が濃い。
言い訳、というほどではない。
ただ、「自分を納得させようとしている話」だ。
「その話は、ギルドでちゃんと聞く」
俺は、わざと短く返した。
「ここで中途半端に決着つけると、“怖かったけど生きて帰れたから、結果オーライ”って話になりかねない」
アヤが、少しだけ顔をしかめる。
「……耳が痛い」
「俺の耳も痛いさ。俺も、本当は村に戻ってから報告しても間に合ったかもしれないって、まだ考えてる」
ヒトリの視界に映る、さっきまでの戦場の跡が、頭の片隅にちらつく。
もう少し判断が早ければ。
もう少し別のルートを選べば。
——でも、それを今ここで始めたら、足が止まる。
『セイ。村まで残り十五分。このペースなら、日が落ちる前に戻れます』
(了解)
森の出口から先、畑の見える場所まで来たところで、俺は一度だけ振り返った。
黒く濁った森の中へ伸びていた線と、村へ向かって伸びる線が、ちょうどそこで交わっているように見えた。
「……とりあえず、全部ガランさんに話そう。今日のことは、そこで線を引き直す」
そう言って、村のほうへ歩き出す。
外縁へ向かうときとは違う重みが、背中に乗っていた。
それでも、足はちゃんと前へ出ている。
村へ戻る線と、その先で誰かと向き合う線。
その二つを握ったまま、俺たちは一歩ずつ、石畳へ向かって歩を進めた。




