第18話 集落の線
獣道の土の色が、途中から変わった。
それまでの、川沿いのしっとりした土とは違う。
踏みしめるたびに、靴底にザラッとした感触が残る。
(リラ、足元の成分、見える?)
『はい。鉄分、やや多め。それと……濁りの粒が、少しずつ混ざっています』
(やっぱり、こっち側か)
俺は足を止めて、つま先で土を軽くめくる。
薄く黒ずんだ砂粒が、ぽつぽつと混ざっていた。
川上から流れてきた濁りが、ここでも引っかかっている。
頭上では、ヒトリ一号が静かに輪を描き、
二号は少し先の開けた空き地の上、三号は川の上空を漂っていた。
視界の端には、小さなウィンドウが三つ並んでいる。
『ゴブリン、小型十二。ホブゴブリン、中型六。背の高い個体、二体。たぶんキング種』
(……二十体+ボス二体、か)
口の中が、少しだけ乾く。
『危険スコア、6』
(そりゃ上がるよな)
近くの木の幹に背を預け、深呼吸を一つ。
ヒトリ一号の視界を広げると、森がぱっと開けた小さな窪地が映った。
木の幹や枝を適当に組んだ小屋が、輪になるように並び、
真ん中には焚き火の跡と、簡易な物見台。
その横に——泥の溜まった水たまり。
本来なら透明なはずの水が、底のほうだけ墨を落としたみたいに黒く濁っている。
縁では、ゴブリンが数匹、ちゃぷちゃぷと手を洗っていた。
『水面から立ち上るマナの線が、ところどころねじれています。濁りレベル、まだ“初期”。今のうちなら、ゴブリンたち自体の変異は軽度で済んでいます』
(“今のうち”ね)
このまま放っておけば——。
水から上がるたびに、黒い筋が皮膚に移る。
喧嘩の線が太くなり、そのうち人間の集落まで降りてくる。
——祠の時みたいに、「もう手遅れ」の群れになる。
(リラ、撤退ライン。設定お願い)
『了解。条件、口頭でどうぞ』
俺は来た獣道のほうを振り返る。
川に戻る道。
森の外へ、村へ戻る道。
(第一ラインは、この木)
いま背中を預けている幹に、指先で軽く触れる。
(この木から後ろ三歩。そこまで下がったら、“一旦距離を取る”。
第二ラインは川沿いの斜面。そこより後ろに押し込まれたら、即撤退)
『了解。足元に表示します』
視界の隅、地面の上に、淡い青い線が二本重なるように引かれた。
その線の外には出ない。
出るとしたら、村に戻るときだけ。
そう決めてから、俺は腰の刀の柄に触れた。
(……もう一つ、確認)
『マナソードですね』
(ああ)
木の陰にしゃがみこみ、ゆっくりと刀を抜く。
鍛冶屋の炉の赤じゃない、森の柔らかい光が刃に映る。
(さっきのオークは、物理の刃だけでどうにかなった。
でも、あの水の濁りは、ちょっと嫌な筋が混ざってる)
『ゴブリンたちの体も、ところどころ濁りの斑点が付いていますね』
ヒトリの視界の中で、数体のゴブリンの皮膚が、うっすら灰色に染まって見える。
『完全な変異体ではありませんが、“前段階”です』
(なら、こっちの“前段階”も試す。……頼める?)
刀身を水平に構えたままそう頼むと、胸の奥の光が少し強く揺れた。
『はい。セイの記憶している“日本の刀”の理屈と線をもとに、この刃の外側に薄いマナの刃を一枚重ねます。
出力は第一段階。切れ味補正と軌道補正のみ。ビーム斬撃は禁止』
(了解。俺も、そんな派手にやるつもりはないって)
刃の輪郭に沿って、淡い光の線がふわりと浮かぶ。
遠目には、少し良い刀に見える程度。
これなら、誰かに見られても「鍛冶屋ドランの良い仕事」で通る。
……まあ、今日は見ているのは森の連中だけだが。
『マナソード第一段階、起動。稼働時間、十分を目安に』
(十分ね。十分以内に終わらせよう)
胸の奥で、自分に言い聞かせる。
足の置き場を決めてから動き出す。
“どこに倒れてほしいか”を先に決めて、それに合わせて刃の軌道を組む。
昔、道場で教わった「間合い」と「踏み込み」が、今はそのまま、生き延びる線になっている。
『ゴブリン、視界内で十二。ホブゴブリン六。キング二。集落中央、騒音レベルやや高め。喧嘩中です』
(やるなら今だな)
俺は集落の反対側——水たまりから少し離れた斜面を選んだ。
ゴブリンたちが肉を取り合って喧嘩していて、視線が散っている。
最初にわざと踏んだのは、乾いた枝だ。
ぱき、と小さな音。
すぐに、二つ三つの視線がこっちを向く。
わざと、もう一歩。
今度は石を蹴って、斜面を転がす。
カラカラと音が広がり——
ホブゴブリンが一体、こちらへ歩いてきた。
粗鉄の剣を肩に担ぎ、顎を突き出している。
『周囲半径十メートル以内、他個体なし』
(いい場所)
俺は一歩だけ前に出る。
左足を斜面の下側に、右足を少し上に。
斜めの地面に対して、足裏の角度を少しずらす。
滑らないように、土をつかむ感覚で指を立てる。
ホブゴブリンが剣を振り下ろしてきた。
上から下へ、素直すぎる軌道。
俺は右足に体重を移し、左足を斜め後ろに滑らせる。
ほんの半歩ぶん、剣筋の外側へ。
すれ違いざまに、刀を低く構える。
ホブゴブリンの膝の裏。
マナの刃が、濁った筋だけをさらうように走った。
筋肉の支えを失った足が折れ、巨体が片側へ傾ぐ。
倒れる方向は、さっき決めた通り。
俺はそこからさらに半歩下がり、
重みが落ちてくる線から身体を外してから、首筋に一閃を入れた。
『ホブゴブリン一体、討伐。周辺、まだ気づかれていません』
(よし、一体目)
そんな調子で、見張り役から順に数を削っていく。
一歩ごとに、どこへ倒れてほしいかを決める。
左足に重心を乗せて受け流す一歩。
右足をわざと滑らせ、相手の体勢を崩す一歩。
真正面からぶつかるのではなく、
斜め後ろ、斜め横——「線の外側」に退きながら、濁りだけを断つ。
『残り数、ゴブリン十、ホブゴブリン四、キング二』
(キングは最後だ。先に周りを薄くする)
マナの刃が、骨ではなく筋をなぞるたび、濁ったマナだけが霧のように散っていく。
血は、思ったより少ない。
それでも、土と鉄と汗の匂いが、じわじわと集落に満ちていく。
やがて、残るのはキング二体と、ゴブリン数匹だけになった。
キングたちは、一段高い岩の上に座っている。
普通のゴブリンの二倍はあろうかという体格。
肩にかけた毛皮。
手には、黒っぽい鉄の大きな斧。
『キング種。体の内側に、“濁りの線”が太く走っています。骨までの浸食は、まだ半分以下』
(完全変異の前、って感じか)
今のうちなら、切れる。
俺は息を整え、足元の青い第一ラインをもう一度確認する。
ここまで下がれば、一旦引く。
それより後ろ——第二ラインに追い込まれたら、即撤退。
ルールを頭の中で復唱してから、岩場へ向かって歩を進めた。
キングの一体が、こちらに気づく。
両手で斧を構え、岩の上から飛び降りてきた。
重い体が地面を叩く瞬間、土の線が波打つ。
(正面から受けたら、さすがに折れる)
俺は斜め後ろに一歩。
第一撤退ラインぎりぎりまで下がりながら、キングの足元を見る。
右足が少し外側に流れている。
膝の向きと足先の向きがずれている。
——そこ。
キングの斧が振りかぶられた瞬間、俺はその右足「内側」に向けて踏み込んだ。
左足を大きく前へ。
右足を、さっきまで自分がいた場所に滑り込ませる。
相手の腹の下をくぐるような位置取り。
腰を落とし、上体を少しだけ反らす。
斧の柄が頭の上をかすめる、そのすぐ下で——
刃を低く構え、右膝の裏側から斜め上へ、一気に引き抜く。
マナの刃が、濁った筋を一本まるごとさらっていく。
キングの膝が、支えを失ったみたいに折れた。
巨体が前のめりに傾ぐ。
その頭が落ちてくる線を、もう一度見る。
斧はもう振れない。
ただの重い肉の塊だ。
そこへ、刃を合わせる。
真正面からではなく、斜め後ろから。
頸椎の隙間を狙う線を描き、そこへマナソードを滑り込ませた。
一瞬だけ、手応えが軽くなる。
次の瞬間には、重みが消えている。
キングの頭が前に転がり、体が遅れて地面に崩れ落ちた。
土と血の匂いが、一気に広がる。
『キング一。討伐確認』
(あと一体)
二体目のキングは吠えながら突っ込んでくる。
さっきの光景を見て、明らかに警戒している足運びだ。
今度は、がむしゃらではない。
斧を腰の高さに構え、じりじりと間合いを詰めてくる。
(正面からは来ない、か)
俺は一度、わざと大きめに下がる。
第一ラインの手前まで。
キングが追ってくる。
足の運びを、ひとつずつ拾う。
右、左、右——
踏み込みの深さ、重心の高さ。
斧が少し上がった瞬間、踏み込みが深くなった。
(そこ、狙い目)
俺は左足を一段奥の根の上に乗せ、
右足を少しだけ斜め内側へ送る。
キングが重心を前にかけたところで、その外側へ、俺の体だけをすべり込ませる。
斧の軌道から半歩外へ抜けた瞬間、マナソードを、相手の腰の線に沿って水平に走らせた。
濁った筋が、そこだけぱっと薄くなる。
遅れて、キングの動きが鈍る。
足がもつれ、バランスを崩した巨体が、横へ倒れ込む。
最後の一手は、普通の剣の仕事だ。
俺は深追いせず、倒れた首筋に一閃を落とした。
『キング二体、討伐。ゴブリン残り四、ホブゴブリン一。マナソード稼働時間、残り六分』
(最後は普通にやる)
もう、マナの補助はほとんど必要ない。
むしろ、これ以上この出力に体を慣らしたくなかった。
俺はマナソードの刃を、一段階だけ薄くする。
ほとんど“線”だけが残るレベルまで。
逃げようとするゴブリンは、川とは反対側——森の奥へ向かうように追い立てる。
それでも牙を剥いて向かってくるものだけを、静かに斬り捨てていった。
やがて、森が静かになる。
『敵性反応、消失。対象数合計二十体+キング二体、討伐完了』
(……終わったか)
刀を軽く振って血を落とし、鞘に収める。
足元が少しふらついた。
腕の筋肉がじわじわとだるく、
頭の奥で、じん、と微かな痺れが残る。
『マナソード第一段階、停止。身体への負荷、軽度。休憩すれば回復見込みです』
(今日はここまで。これ以上の“新技”は禁止)
集落の中を見回す。
粗末な小屋。
かじられた木の実。
人間の村から盗んできたらしい布切れ。
——生活の跡だ。
それでも、胸の奥から「やめておけばよかった」という線は出てこない。
あの水たまりを見た時点で、ここはいつか“黒い穴”になる場所だった。
早いか遅いかの違いだけ。
だったら、早いほうを選ぶ。
それが、撤退ラインの引き方と同じくらい、俺の中では大事だった。
『サンプル、水。採取しておきますか?』
(頼む)
水たまりの縁にしゃがみこむ。
表面は、普通の森の水と変わらない。
けれど、底のほうで黒いものが、ゆっくりと渦を巻いている。
マジックボックスの中から、小瓶を一つ取り出した。
表面の澄んだ水と、底の黒い泥を、少しずつすくい上げる。
瓶の中で、二つの層がゆっくり混ざっていく。
『濁り核そのものではありませんが、“濁りの前菜”くらいにはなりそうです』
(例えが悪い)
苦笑しながら、瓶の栓をしっかり閉める。
そのあと、ゴブリンとホブゴブリン、キングたちの死体を手早くマジックボックスに収めていった。
重さは変わらない。
けれど、数字だけは頭の隅にしっかり刻んでおく。
二十二。
それだけの線を、ここで終わらせた。
集落を離れ、獣道に戻る。
第一撤退ラインの木に背を預けて、ようやく大きく息を吐いた。
『危険スコア、3まで低下。腕の震え、まだ少しあり』
(まあ、このくらいはね)
右手をぶらぶらと振り、指を一本ずつ握って伸ばす。
生きてる。
それだけ確認できれば、今は十分だ。
(さて……このあとだ)
空を見上げる。
ヒトリ一号は、もう稼働時間を終えて消えていた。
二号と三号が、まだ遠くを飛んでいる。
『セイ。周辺の広域マップ、更新しておきますか?』
(頼む。それと——)
ふっと、頭の中に別の線が浮かぶ。
ガランさんの顔。
ギルドで見た掲示板。
——《リュミエルの灯》は、森周辺の魔物の討伐任務。
濁りの濃い森には入るな。
そう言われていた。
『思い出しましたね』
(あいつら、ちゃんと線守ってるかなって)
半分は冗談。
半分は、本気。
俺はヒトリ三号に指示を送る。
(森の東側。灯籠のあるラインより外側だけでいい。人間のパーティが動いてないか、ざっと見てほしい)
『了解。ヒトリ三号、高度を上げて索敵モードへ移行します』
視界の端で、小さな鳥の影がぐん、と高度を上げる。
森の上に広がる、緑の絨毯。
ところどころ、光の筋が差し込んでいる。
その中に——
『……セイ』
リラの声が、少しだけ硬くなった。
(見つけた?)
『はい。森周辺、東側。《リュミエルの灯》と思われる三人組を確認』
サブウィンドウに映る映像の中、見慣れた三つの影が、森の中を慎重に進んでいる。
アヤの剣。
コルトの弓。
ミナの杖。
そして、その前方——
木々が妙な形で倒れている一角。
地面に、黒い染みがじわじわ広がっている。
その中心で、何か大きな影が動いた。
ヒトリの視界が、自動的にズームする。
そこにいたのは——
さっき倒したキングよりも、さらに一回り大きなゴブリン。
皮膚は、ほとんど黒に近い緑。
目は真っ赤。
周りには、同じように黒く染まったゴブリンが何体も群がっている。
『濁り変異個体。ゴブリンキング変異一。ホブゴブリン変異三。推定』
アヤが、その巨体の前で踏ん張っている。
コルトの矢は、ほとんど弾かれるように落ちていく。
ミナの顔には、はっきりと疲労の線が刻まれていた。
胸の奥が、きゅっと縮む。
『危険スコア、7』
(……だろうな)
でも、今の線は、「俺だけが怖い」で終わる線じゃない。
あっち側の三人の線も、一緒に乗っかっている。
だったら——
(リラ)
『はい』
(さっき封印した、マナソード第二段階。……条件付きで、解禁していい?)
一瞬、間があく。
『“誰かの命が、この一撃でしか守れないときだけ”。でしたね』
(そう)
腰の柄を、強く握りしめる。
(まだ、そこまで行ってないならいい。でも、もしあいつらの線が“切れそう”だってなったら——)
喉の奥が、勝手にごくりと鳴った。
(そのときだけ、刃を伸ばす)
『了解。マナソード第二段階、条件付き待機モードに移行』
足元の青い第二撤退ラインを、一度見下ろす。
さっき自分で決めた、「ここより後ろに押し込まれたら即撤退」の線。
その手前で、俺は一拍だけ息を止めた。
(……ごめん。今回は、先に向こう側に踏み出す)
右足を、一歩。
自分で引いた戻る線の、向こう側へ。
(行く)
川沿いの線から、森の中の線へ。
俺は、濁りと——仲間のいる方角へ向かって、走り出した。




