第17話 川沿いの線
ガランさんの部屋の扉を叩くと、すぐに「入れ」と声が返ってきた。
重たい扉を開けると、机の上にはもう地図が広げられている。
村の北側——危険地点Aに赤い丸、その下流に向かって細い青線が引き足されていた。
「座れ」
いつもより、少しだけ声が硬い。
言われたとおり椅子に腰を下ろすと、ガランさんは顎で地図を示した。
「……まず、《リュミエルの灯》のほうからだ」
指が、村の東——いつもの森のほうを軽く叩く。
「しばらく、あいつらは村の近場と東側の森の“手前”だけをやらせる。畑の見回り、小型魔物の駆除、薬草採りだ」
「昨日までと同じ、ですか?」
「ああ。昨日までの緊張を一回ほぐさせる。それと——」
彼の視線が、今度は俺の腰に落ちる。
新しく帯びた刀の柄。
「《灯》には、“セイ抜きでもちゃんと撤退を決める練習”をさせる。森の奥——濁りが濃くなってるほうには入るなと釘を刺した。あいつら自身で線を引かせる」
アヤの顔が、頭の中にちらりと浮かぶ。
「お前とアヤのやりとりは、ここ数日の報告だけでも、だいたい察しが付く」
「……あー」
言葉に詰まる。
撤退ラインのことで、何度か小さくぶつかった。
大声を出した覚えはないけれど、ギルドマスターの耳から逃れられるほど、俺たちは器用じゃない。
「どっちが悪いって話じゃない」
「……はい」
「前に言ったな。“迷ったら相談しろ。一人で抱え込むな”って」
低い声で繰り返してから、ガランさんは北側の危険地点Aを指でなぞった。
「だから線を分ける。アヤたちは東。お前は北だ」
赤い丸から、川に沿って細い線が伸びている。
「北側の危険地点Aから、川を少し下ったあたりまで。……“もう一歩外側”を見てもらう」
胸の奥が、またぴくりと跳ねた。
最初にソロ依頼をもらった朝と同じ、「もう一歩外側」という言葉。
でも今度は、ちゃんと足元に新しい刀の重みがある。
「……ひとりで、ですね」
「基本はそうなる」
ガランさんはあっさりとうなずいた。
「ただし条件は変わらん。“危険だと思ったら帰る”ラインは、お前が決めろ。誰にも譲らなくていい」
その言葉を聞いた瞬間、胸のどこかが少しだけ緩む。
線を引いていい。
「これ以上は無理だ」と言っていい。
その許可が先にあるのとないのとでは、外の世界の見え方がまるで違う。
「それと、もう一つ」
ガランさんは顎ひげを指でいじりながら、じろりとこちらを見た。
「その刀のことだ。……『守りきれない相手を減らすために振るう』のは構わん」
「はい」
「だが、“見せびらかすため”に振るうな。村の外側でどれだけやれるかは、俺とお前と、あと……そうだな、あの神父くらいが知ってりゃ十分だ。
外で本気を出したくなっても、一段手前で止めろ。いいな」
「了解です。見栄で振りません」
頭の中で、リラが真面目な声を出す。
『確認。“外側では出力を抑える”設定を、優先度高で登録しました』
(了解。外での“見せすぎ禁止”な)
ガランさんは、ふっと笑った。
「いい返事だ。明日、朝の祈りが終わったらすぐ出ろ。日が暮れる前に戻ってくる。それが、今回の戻る線だ」
朝の祈りを終えてすぐ村を出て、日没前には戻れ——そういう事か。
「……了解しました」
赤い丸と青い線を目でなぞりながら、その距離と時間を頭に刻み込む。
その夜。
教会の一室、ベッドに腰を下ろすと同時に、視界の端に半透明のウィンドウがふわりと開いた。
『本日の議題。一、北側調査ルートの安全性評価。二、新規武装“刀”の運用モードについて』
(議題って言い方よ……)
思わず苦笑しながら、腰の刀をそっと抜いて膝の上に載せる。
新品の刃が、室内の灯りを細く反射している。
(……で。二番目のやつだな)
『はい。先ほどのガランさんとの会話、およびドランさんの素材データをもとに、マナソード運用案を整理しました』
ウィンドウの中に、刀のシルエットと、何本かの細い光の線が重なる。
『基本モードは“無マナ”。——すなわち、村の中と通常依頼用の、ただの刀モードです』
(うん。それは絶対)
『第一段階。刃の周囲に“ごく薄いマナの膜”をまとわせるモード。見た目はほぼ変化なし。威力はやや上昇、切り口が滑らかになります』
(Dランクがちょっと頑張ってるくらい、だな)
『そう解釈しておきます。そして、第二段階。——セイが仮に“本気を出した場合”のモード』
刃の周囲の線が、一瞬だけ強く光る。
『これは“誰かの命が、この一撃でしか守れないときだけ”使用可能。それ以外の状況では、自動的にロックする設定を提案します』
(……盛ったな)
『前回までの反省を踏まえた安全設計です』
少しだけ肩の力が抜ける。
(いい。第二段階はその条件で。ただし明日は、基本モードと、第一段階のお試しまで。見た目でバレない範囲でな)
『了解。“外側では出力を抑える”設定と連動させます。明日の出力上限、今のセイの身体能力+第一段階マナソードまで』
(はい先生)
刀をそっと鞘に戻し、ベッドに仰向けになる。
目を閉じると、北側の崩落地点から下っていく川筋が、細い線になって浮かび上がった。
村から伸びる線。
俺一人で歩く線。
その途中に、まだ見ぬ何かの影が、黒い節としてぽつりと滲んでいる。
『心拍数、微増。就寝前の不安スコア、3』
(……そのまま寝かせてくれ)
『了解。おやすみなさい、セイ』
薄く笑ってから、ゆっくりと目を閉じた。
◇
翌朝。
教会の小さな鐘が鳴るより少し早く、目を開ける。
身体の調子は上々だ。ふくらはぎを伸ばし、足首をぐるりと回す。
『身体状態、良好。マナ残量も通常範囲です』
(よし)
装備を整える。
新しい刀と、いつものギルド支給の短剣。
マジックボックスのリストを呼び出し、水袋と回復薬の残数を確認する。
(これだけあれば、今日の分は足りるな)
特別な持ち替えはせず、そのままボックスを閉じた。
今日も単独。
“撤退を言う役”も、“荷物持ち”も、全部まとめて俺一人分。
それでも——村の中から伸びる線の端っこには、リアンたちの祈りと、ガランさんの決断と、アヤたちの足跡がちゃんとくっついている。
それを背中に感じながら、北門へ向かった。
村を出てすぐは、畑と牧草地が続く。
朝の光の中で、土の線と作物の線がきれいに並んでいるのを眺めつつ、川沿いの小道を辿っていく。
『ヒトリ、展開していい?』
(頼む。ただし、村からある程度離れてからな)
『了解。では、ここから』
親指ほどの大きさの、小さな光の鳥が一羽、ふわりと現れる。
それが二羽、三羽と増えて、頭上の少し高いところをくるりと回った。
『今日は一度に最大三羽まで。同時運用時間は、一羽あたり二十分くらいが目安です。
使い終わったら消して、必要なときにまた呼び出してください』
(マナ消費、まだ重いか?)
『前よりマシですが、まだ“長距離偵察機”とは言えませんね。短距離ドローンくらいです』
苦笑しながら、一羽を川上へ、一羽を川下へ、最後の一羽を自分の真上へと飛ばす。
視界の端に三つの小さなサブウィンドウが現れ、鳥たちの視界がミニマップと重なる。
川筋、獣道、崩落地点までのおおよその距離。
線が何本も重なって、今日の「歩いていい範囲」が形になっていく。
しばらくは静かなものだった。
たまにジャイアントラットの足跡と、普通の野猪の掘り返し跡。
どちらも、村の近場で見慣れた「生活圏の傷」だ。
『危険度、1から2。通常レベル』
「だな」
思わず口に出してしまい、誰もいないことを思い出して少し笑う。
息を整えながら歩いていくうち、前方の地図上に、リラが小さな赤い印を付けた。
『前方百五十メートル、右斜面。
ヒトリ一号が、二足歩行大型生物三体を確認』
「……三体?」
意識をそちらに切り替えると、視界の端のウィンドウに鳥の目線の映像が映る。
木々の間の斜面を、肩幅の広い影がゆっくりと下ってくる。
灰色がかった皮膚。
手には、丸太を削ったような棍棒。
オーク。
村の周りで何度か見たことのあるシルエットだが、こんな北側の、濁り灯籠に近いあたりで見るのは初めてだ。
『進行方向、このまま下ると——』
ミニマップ上に赤い線が引かれる。
オークたちの足跡の延長線。
その先には、村外れの畑がある。
『この速度だと、日が高いうちに畑の外縁に到達します』
「……そっちに行かれると困る」
喉の奥で小さく息を吐く。
ここで放置して村へ報告に戻れば、確かに安全だ。
でも、その間に誰かがばったり鉢合わせしたら——。
畑仕事の人たちの線と、オークの線が交差する。
頭の中で描かれたその交点は、どう見ても真っ黒だった。
「リラ」
『はい』
「怖さスコア?」
『現在4。“撤退か討伐か”の線上です』
自分で自分の胸に問いかける。
逃げる線。
迎え撃つ線。
どちらが、村の線を守れるか。
少しの間、黙って考えてから、足元を見た。
川に向かって緩やかに下る斜面。
その途中に、大きな岩と根を張った木が一本。
あそこなら、オーク三体が並んで降りてこれない。
(……やる。あの岩のところで迎え撃つ。
危険だと思ったら、そこを“限界ライン”にして戻る)
『了解。撤退ライン、岩の位置に青線としてマーキングしました』
マップ上に淡い青い線が一本浮かぶ。
それを一度見下ろしてから、俺は右斜面へ走り出した。
岩の少し上、木の根がせり出した場所に立ち、呼吸を整える。
足場は幅一人分くらい。踏み外せば川へ転がる。
右足を斜面下側に少し滑らせ、左足を根の上に置く。
右足がブレーキ、左足が踏み込み用。
腰の刀にそっと手を添える。
『オークまで残り三十メートル。二十……十。視界に入ります』
鳥の視界と自分の視界が重なる。
棍棒を肩に担ぎ、だらりとした足取りで降りてくる巨体が三つ。
(……今の俺の怖さスコアは?)
『5。緊張レベル、やや高め』
(上等だ)
オークの先頭が岩の手前まで来たところで、一歩、前に出る。
視線が、ぶつかった。
「——悪い。ここから先は、通せない」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
もちろん言葉は通じない。
だが、刃を腰から抜く仕草だけで、向こうには十分な意味が伝わったらしい。
棍棒が振り上がる。
先に動いたのは——俺だ。
右足を斜面下側に滑らせる。
重力を利用して体を前に倒すようにして加速し、左足で斜面を強く蹴る。
刃はまだ抜かない。鞘ごと前へ。
オークの一振り目が、俺のいた場所の空気を砕いた。
棍棒の重さと速度が、腕に乗ってくるラインが見える。
その外側、ギリギリのところを、鞘を押し出すようにしてすり抜け——すれ違いざまに刀を抜く。
抜き打ちの一太刀が、オークの膝裏をなぞる。
太い脚の腱が切れ、巨体が片膝をついた。
『非常モード、展開可能』
膝をついたオークの頭上に、ほんの一瞬だけ“マナの刃”の線が見えた。
(……まだいらない。ここは物理でやる)
首を横に振る。
膝をついたオークの背後へ半歩回り込み、呼吸を一つ整えてから、首筋に斜めに刃を入れる。
足を止めず、左足から右足へ重心を送り、体重ごと押し込む。
巨体が前のめりに倒れ、斜面を少し滑って止まった。
二体目が棍棒を振りかぶって迫ってくる。
今度は下がらず相手の懐に入る。
前足をずらして半身になり、棍棒の軌道の内側に滑り込む。
肩口から腰へ向けて斜めに一閃。
骨に当たる重さを、刃がかろうじて割っていく。
オークが苦鳴をあげてよろめいたところに、足払いをかけて斜面の下側へ倒す。
倒れた背中に、止めの一突き。
三体目がわずかに躊躇する。
一歩、下がるか、進むか。その足が止まった。
『怖さスコア、4に低下。オーク側の“警戒スコア”、上昇中』
(相手のスコアまで出るのかよ)
最後の一体は、岩と木の根に挟まれて、動ける範囲が狭くなっている。
こちらから斜め上に踏み込み、棍棒を振り上げた腕の付け根——肩の前側を狙って短く切る。
腕がだらりと落ちた瞬間、軸足を刈る。
バランスを崩した巨体が、岩のほうへ寄りかかるように倒れ込む。
その首筋に、深く刃を押し当てた。
血の匂いと、土の匂い。
斜面を伝って、ゆっくりと下へ流れていく。
『三体、沈黙確認。セイ、怖さスコア、3。呼吸やや乱れ』
「……はあ。……大丈夫だ」
刀を振り払って血を落とし、布で軽く拭う。
足元を確認する。
撤退ライン——青い線より、まだ一歩分、前にいる。
「……オーバーせずクリア、っと」
脱力するように肩の力を抜き、少しだけ笑う。
怖さと、手応えと、どこか申し訳なさを混ぜ合わせた、変な笑いだった。
オークの死体を、手早くマジックボックスに収納していく。
重さは感じないけれど、ひとつひとつ入れるたびに、胸の中で何かが積み上がっていく。
村のため。
線のため。
そう言い聞かせながら、最後の一体を収納し終えたとき——。
『セイ。ヒトリ一号から、川上側に異常検知』
「異常?」
視界の端のウィンドウが切り替わる。
川面の上。
透明な水の流れの中に、ところどころ、墨を溶かしたような黒い塊が浮かんでいた。
ゆっくりと、しかし確実に、下流へ流れている。
「……濁りの、塊?」
『マナの流れとしても、“水の線”とは逆向きにねじれている部分があります』
マップの上で、水色の線の上に、黒ずんだ節がいくつも乗る。
それがこの先、どこへ流れていくのか——線を延長すると、森の中へと消えていく。
「上流側、追えるか」
『ヒトリ一号の残り稼働時間、多くはありません。全ルートは追えませんが、“濁りの塊がどこから入り込んでいるか”の大まかな位置なら分かります』
「やってくれ」
小さな鳥の視界が、ぐんと高度を上げる。
川を遡り、森の縁をなめるように飛ぶ。
やがて——。
『森の中、開けた一角を確認』
ウィンドウに切り替わった映像の中、木々が途切れた場所に粗末な小屋と焚き火跡が見えた。
そこかしこに、背の低い影。緑色の皮膚。粗末な武器。
ゴブリンの集落。
『濁りスコア、じわじわ上昇中。現時点では“完全に手遅れ”ではありませんが、このまま放置すると——』
「森の外側まで、線がにじむ」
言葉にすると、喉の奥が少しだけ冷たくなる。
ゴブリン十二。
ホブゴブリン六。
奥には、ひときわ大きな影——キングが二。
数だけ見れば、本来ならパーティで行くべき規模だ。
けれど、濁りが完全に回りきる前なら——。
(……早いほうが、楽だ)
『セイ』
リラの声が、少しだけ厳しくなる。
『撤退ラインの再設定が必要です。ここから先は、“村のための討伐任務”か、“一度引き返して報告”かの分岐です』
「わかってる」
川縁の石に腰を下ろし、深呼吸を一つ。
村へ戻る線を、頭の中でなぞる。
さっき倒したオーク三体の線も、その途中に重ねる。
報告すれば、きっとガランさんは動いてくれる。
でも、その間にも、濁りの塊は少しずつ集落に流れ込む。
黒い線が、じわじわと太くなっていくイメージが離れない。
(リラ)
『はい』
(マナソードの非常モード——さっき決めた条件のまま。“誰かの命が、この一撃でしか守れないときだけ”。あれを前提にした上で、今日は第一段階まで)
『了解。現在地点を基準に、“ここを越えたら危険度が上がるライン”を再設定します』
マップ上に、青い線が一つ増える。
(危険だと思ったら、戻る。でも、“ここで潰したほうが、あとで泣く人数が減る”って判断になったら——)
腰の刀の柄を、そっと握る。
(そのときだけ、刃を伸ばす)
立ち上がる。
川から、森のほうへ向かう獣道が一本。
そこに、黒い節がいくつも乗っている。
村から伸びる線と、森の濁りの線が交わる場所。
その入口に、右足を一歩、踏み出した。
『心拍数、上昇。怖さスコア、6。——でも、前に進む線です』
「——行く」
細い獣道の先に、ゴブリンたちの気配と、かすかな笑い声が混じる。
川沿いの線は、ここから森の中へと折れ曲がっていく。
その先に伸びる線が、どんな色になるのか。
確かめるために、俺は一人で、濁りの方角へ歩き出した。




