第16話 刃の線
翌朝。教会の小さな鐘が鳴る、少し前。
ベッドの上で、ぱちりと目が覚めた。
天井板の節が、昨日とは違う場所に見える。
——いや、違うのは天井じゃなくて、たぶん俺のほうだ。
『睡眠時間、標準値よりやや短めですが、回復状態は良好です』
(……おはよう、リラ)
心の中であいさつすると、胸の奥で小さな光が揺れた気がした。
昨日の夕方、ギルドの酒場側から飛んできた声が、また耳の奥で蘇る。
——お前さんの“細っこい刃物”、ひとまず形になったぞ。
——明日の朝いちばん、工房まで来い。
思い出しただけで、胸のあたりが少しそわそわする。
『心拍数、平常値プラス一割』
(……子どもみたいって言いたいのか?)
『いえ。“新しい道具が手に入る前の技術者の顔”と、記録しておきます』
うまいこと言う。
上体を起こし、足をベッドから下ろす。
つま先を床につける位置を、いつもより少しだけ手前にして、ふくらはぎから順に伸ばした。
重心が、ちゃんと真ん中にあるかどうか。
右と左の足の裏に、均等に重さが乗っているかどうか。
——刀を振るときに一番大事なのは、まずそこだと、昔習った。
『姿勢、良好。ぎこちなさは、許容範囲です』
(“ぎこちない”とは言ってないよな?)
『言っていません』
にやにやしている顔が、なんとなく想像できてしまう。
《清浄》で寝汗を軽く落とし、服を整え、首の木札を確認する。
Dランク、撤退判断役、運搬の祝福。
そこに、「東の森調査:一次〜三次」と小さな行が増えているのが心強い。
「……行ってくる」
ベッドの端を軽く叩き、部屋を出た。
祭壇の前で頭を下げると、ちょうど祈りを終えたリアンが振り向いた。
「セイさん、今日は依頼ですか?」
「いや。鍛冶屋さんのところに、ちょっと用事」
「この前、相談していた武器の……?」
「多分、その“続き”だ」
そう答えると、リアンはほっとしたように微笑む。
「危険な場所じゃないなら、安心しました」
「熱と鉄の飛ぶ場所ではあるけどな」
「それは……火傷にご注意を、ですね」
軽く会釈を交わし、教会を出る。
朝の空気は、炉の熱とは逆の、ひんやりした線で肌を撫でていった。
石畳の継ぎ目。
パン屋から漂う焼きたての匂い。
井戸のあたりに集まる人の流れ。
村の中の線の、その先に——鉄と火花の線がある。
鍛冶屋ドランの工房に近づくと、もう炉の音が聞こえてきた。
ごうごうとマナ焔が燃える音と、金属を打つ乾いた衝撃音。
「おう、来たな、坊主」
扉を開ける前に、がらっぱちの声が飛んできた。
中へ入ると、ドランが腕を組んで立っていて、顎で奥をしゃくる。
「例の“細っこい刃物”、仕上がったぞ。こっちだ」
炉の向こう、作業台の上に、布をかけられた細長い何かが置いてある。
心臓が一つ、余分に打った気がした。
「……あれ、ですか」
「そうだ」
布の前まで歩く。
足を肩幅より少し広く開き、まずは足裏の感触を確かめた。
床板のわずかな段差。
炉の熱で乾いた空気。
肘の重さと、肩の高さ。
呼吸を一つゆっくり吐いてから、布の端に指をかける。
布をめくる。
そこにあったのは——
まっすぐで、少しだけ反りのついた細身の刃だった。
鞘は余計な飾りのない黒。
柄も、手のひらに馴染みそうな木に、落ち着いた麻紐がきっちりと巻かれている。
光を受けた刃の線は、派手さはない。
けれど、無理のない曲線で、先へ向かって素直に伸びていた。
「……うわ」
思わず、声が漏れる。
『視界ログ、保存しますか?』
(頼む。たぶん何度も見返すことになる)
「持ってみろ」
ドランが短く言う。
俺は頷いて、鞘ごと両手で持ち上げた。
まず、腰の高さあたりで一度止める。
ここで、一度だけ「全部の重さがどこに落ちているか」を確かめる。
刃を抜いてからバランスを崩すと、最悪そのまま落としたり、足元を傷つけたりする。
昔、道場で何度も怒鳴られた手順を、体が勝手に思い出していた。
そこから、肘を少しだけ畳み、肩の高さまで滑らせるように持ち上げる。
この高さが、そのまま実際に振るときの「支点」になる。
右足を半歩だけ後ろに引き、左足に少し多めに体重を乗せる。
腰をわずかに落として、重心が左右にぶれない位置を探る。
鞘ごと持ち上げたまま、足と腰だけで小さく前後する。
手の中の重さが、ゆっくりと落ち着いていく。
「どうだ」
「……軽くはないですけど、変な重さじゃないです」
『総重量、推定一・一倍。ナイフ二本より少し重いくらいですね』
ナイフ二本分の感覚、と言われると、妙にしっくりきた。
「坊主の腕じゃ、片手で振るほうが扱いやすいだろうと思ってな」
ドランが腕を組みながら言う。
「両手でもいけるが、基本は片手剣だ。腰の動きで切るのはいいが、変に捻りすぎるなよ。足で運べ」
その言葉に合わせて、一度試しに構えてみる。
左足を半歩前へ。
右足を斜め後ろに送って、親指と小指の付け根で床をつかむ。
腰は正面を向いたまま、上体だけほんの少し前に倒す。
手の中の鞘が、足の裏と一本の線でつながる感覚。
(……うん。ここだな)
重心が決まったところで、ようやく俺は、鞘からゆっくりと刃を抜いた。
炉の火とは違う光が、線になって溢れる。
日本で見慣れていた刀よりは、少し短い。
でも、片手で扱うにはちょうどいい長さだ。
刃筋に沿って、ほんのりと波のような模様が浮かんでいる。
実用一点張りの見た目なのに、その線だけが、ちょっとした贅沢みたいに見えた。
「素材は、前に見せた魔石のおこぼれと、村で取れた鉄だ」
ドランが、ぽん、と刃の背を指で叩く。
「坊主のマナが変な流れ方しねえように、通りを整えておいた。腕でも足でもマナでも、まっすぐ通る刃だ。……上手く使えよ」
「はい」
マナ、という単語に、胸の奥でリラが小さく反応する。
『観測。刀身内部のマナ通路、良好です。——後日、本格的な解析を提案』
(後日な。今ここでやると、絶対ドランさんに変な顔される)
そんな内心を隠していると、ドランはふっと笑った。
「その顔なら、大丈夫そうだな。外で少し振ってこい。ここでやると、炉のほうに飛んでっても困る」
「分かりました。ありがとうございます」
深く頭を下げてから、刀を鞘に収める。
腰に帯びたその重みが、いつものナイフとは違う線で、体に乗った。
◇
村外れの、空き地に近い場所まで足を伸ばす。
子どもたちが木剣で遊ぶには少し早い時間。今は誰もいない。
地面に散らばる小石の位置を、視界の端で拾う。
足を滑らせない線と、踏み込む線を、ざっくりと区切っておく。
「じゃ、少しだけ」
刀を抜く。
まだ誰もいない空間に、一人で線を引く練習だ。
まずはゆっくり、横一文字。
左足を送り、右足で支える。
腰は正面を向けたまま、肩の力を抜いて、腕と刃の重さを前へ滑らせる。
次に、斜めに一太刀。
今度は右足を前に出して、踏み込みと同時に斜め下から斜め上へ。
足の位置を半足分変えるだけで、届く高さと距離が変わる。
刀の届く線と、俺が戻れる線。
その両方を頭の中でなぞりながら、パターンを増やしていく。
『軌道パターン、三種類記録。……セイさん』
(ん?)
『この刀、刃の表面に沿ってマナを薄く流した時の挙動が、かなり素直に出そうです』
視界の端に、小さな線の図が重なる。
刀身の輪郭に沿って、淡い光の縁取り。
そこから、さらに細い線が何本か伸びている、簡単なイメージだ。
(さっき、ドランさんが言ってた“通り”の話か)
『はい。ここに、ごく薄いマナの膜を——』
一瞬、リラの声が途切れ、すぐに調子を変える。
『……いえ、今は仕様の話だけにしておきましょう』
(珍しいな。続きがありそうな雰囲気だったのに)
『“顔”はありませんが。……マナをまとわせた本格運用は、もう少し先の話です』
少しだけ、声が真面目になる。
『今は、“Dランクの少年が新しい刀に慣れているだけ”という動きのデータを集める段階にしましょう。ここでマナを乗せすぎて威力が跳ね上がると、周囲の目から見て危険度がずれて、ガランさんの想定と食い違います』
(つまり、“変に強すぎるところは見せるな”ってやつだな)
『はい。切り札は、本当に必要になるまで温存です』
(了解。今日は、ただの刀)
笑みが漏れたところで、もう一度構え直す。
さっきより、少しだけ速く。
それでも、足を雑には運ばない。
踏み込みの一歩が、どこまで進むか。
その一歩を越えたら、もう引き返せなくなる線はどこにあるか。
刀の届く距離と、俺の戻れる距離。
その両方を、頭の中でなぞりながら、何度も振る。
『はい、そこまで』
(先生?)
『腕と握力の疲労度が、そろそろ“明日の依頼に響き始める手前”です』
言われてみれば、指先にじんとした重さが出てきていた。
(……了解。今日はここまで)
『ログは“ドラン刀v1・素振りデータ”として保存しておきます』
(だからその名前は——)
『仮ですから』
仮、という単語に、ふっと肩の力が抜ける。
マナをまとわせた斬撃は、まだ先。
今はただ、この一本を「普通の刀」として、自分の線になじませる段階だ。
昼前、ギルドに顔を出すと、ちょうど《リュミエルの灯》の四人が依頼板の前に立っていた。
「お、セイ」
先に気づいたのはミナだ。
「それ、新しい剣?」
「ああ。ドランさんに作ってもらった」
視線が自然と俺の腰に集まる。
アヤは、ほんの一瞬だけ目を見開いてから、にやりと笑った。
「細いけど、速そうね。それなら、ちゃんと後ろからでも届く?」
「届きすぎないくらいには、抑えるつもりだけど」
「ふーん?」
アヤの視線が、一瞬だけ鋭くなる。
——昨日までの、刺すような尖り方じゃない。
ただ、「どこまでやれるのか」を測っている目だ。
『警告:アヤさんの“やる気メーター”、上昇傾向です』
(それをメーターで出すな)
心の中で苦笑しつつ、俺は肩を竦める。
「ガランさんには、“前に出るときもDランクがちょっと無理してるくらいで止めろ”って言われてるからな」
「またそうやって、地味な線を引くんだから」
アヤはそう言いながらも、どこか安心したように息を吐いた。
その横で、コルトが小さく笑い、ミナは「じゃあ、今日も生きて帰れそうだね」と冗談めかして言う。
俺は、刀の重みと、みんなの声の重みを一緒に抱えながら、依頼板に目を向けた。
——この一本の刃の線が、どこまで届くのか。
今はまだ、その手前で足を止めておく。
その線の感覚だけを、静かに胸の奥に刻みつけた。




