第15話 分かれる線
第15話 分かれる線
教会の小さな鐘が鳴る、少し前。
目を開けると、薄い天井板の節が一本、やけにくっきり見えた。
昨日の東の森の線が、そのまま目の裏に貼りついている感じだ。
狼たちが作る逃げ道の線。
俺たちが引いた「戻る道」の線。
そして、アヤの視線が刺さったあの瞬間。
『心拍数、微増。……東の森のログを再生しますか?』
「いや、いい。寝起きから反省会はやめよう」
小声で返して、ゆっくりと上体を起こす。
ふくらはぎを伸ばし、足首をぐるりと回す。
筋肉の張りはあるけど、まだ余裕が残っている。「あと二日は森に入れる」くらいの感覚だ。
『身体状態、良好。……本日は、朝一番でガランさんとの面談が予定されています』
「だな。忘れようとしても、忘れられないやつだ」
昨日の夕方、ギルドでの報告を終えたあと。
ガランさんは、いつもの半分くらい真面目な顔で言った。
——明日の朝、ギルドの奥に来い。
あの声の硬さは、「ちょっと説教」より、少し重い。
『“もう一歩外側”関連の話題である確率、七割』
「そうだろうなあ……」
ため息をひとつ吐いてから、《清浄》で寝汗を落とす。
服を整え、木札を首に提げると、胸のあたりでマナの文字列がかすかに光った。
Dランク。
撤退判断役。
運搬の祝福。
昨日、そこに「東の森調査:一次報告」として、新しい行が一つ増えた。
まだ、細い線の寄せ集めだ。
それでも、確かに増えている。
「行ってきます」
祭壇に軽く頭を下げると、リアンが祈りの手をほどいて振り返った。
「朝から呼び出しなんて、珍しいですね」
「うん。多分、昨日の森のことだと思う」
リアンの目が、少しだけ心配そうになる。
「……怒られたりしたら、教会に逃げてきてもいいですから」
「いやいや、そんな大事じゃないといいんだけど」
『最悪の場合、“説教用おやつ”の差し入れを依頼しますか?』
「それはそれでありがたいけど、やめろ、変なログ残すな」
思わず苦笑いしていると、リアンもつられるように笑った。
「セイさんなら、大丈夫ですよ。ちゃんと“ここまで”を守ってましたし」
そう言ってくれる人がいる。
その事実を、胸の奥にそっとしまい込んでから、俺はギルドへ向かった。
朝のギルドは、まだざわめきが浅い。
酒場スペースの椅子は半分以上が空いていて、受付前に並ぶ冒険者もまばらだ。
「おはようございます」
扉を押し開けて声をかけると、受付の女性が顔を上げた。
「あ、セイ君。ちょうど今、ガランさんから——」
「来たか」
奥の扉がぎぃ、と音を立てて開く。
大柄な影が顔を出し、手でくいっと顎をしゃくった。
「こっちだ」
「はい」
受付の前を通りすぎるとき、彼女が小さくガッツポーズをして見せた。
……何の励ましだろう。いや、ありがたいけど。
薄暗い廊下を抜けて、昨日も使った小さな会議室に入る。
机の上には、簡単な村周辺の地図と、昨日の依頼書、それから俺たちの報告書が広げられていた。
「座れ」
ガランさんは窓際の椅子に腰を下ろし、指で机をとんとんと叩く。
俺も向かいに座り、背筋を伸ばした。
「まずは、昨日のまとめからだな」
そう言って、彼は報告書の束を親指で弾いた。
「東の森、外縁から二本目の獣道まで進入。狼二体を確認、一体は撃破、一体は逃走……撤退ラインは“灯籠の光が届きづらくなる手前”」
「はい」
「あそこまでの判断は、悪くなかった」
思っていたよりも、素直な言葉だった。
胸の奥が、ほんの少しだけ緩む。
「狼も、報告通り“濁り”じゃない。普通の魔物の線だ。討伐数も、ギルドの想定範囲内」
「……ただ?」
自分で言いながら、続きがだいたい分かっている気がした。
ガランさんは、ふっと目を細める。
「アヤが、だいぶ不満そうだったな」
「……はい」
あの時の、刺さるような視線が、ふっとよみがえる。
前に出たくてうずうずしている線と、俺が引いた撤退の線が、きれいにぶつかった瞬間。
『心拍数、再び微増です』
(実況しなくていい)
「お前自身は、どうだった?」
「どう、というと……」
「“もっと行けた”と思ってるのか、“あそこでよかった”と思ってるのか」
問われて、少しだけ考える。
昨日の森の光景を、頭の中で巻き戻す。
獣道の幅。
木々の密度。
灯籠の光の届き方。
狼たちの動き。
アヤたちの呼吸の乱れ。
リアンの祈りのマナの揺れ。
それから、俺の足の下で、ぬかるみの線がほんの少し濃くなっていたこと。
「……“あそこでよかった”と思ってます」
「理由は?」
「戻る道の線が、あそこでいちばん綺麗だったので」
言葉にしてみると、自分でも少し変な答えだと思う。
けれど、ガランさんは笑わなかった。
「前にも聞いたな、その“線”の話」
「はい。見えない通り道、って話をしました」
「ああ」
彼は顎に手をやり、窓の外の空を一度見上げる。
「もう少し、詳しく教えてくれ」
「詳しく?」
「お前が“ここまで”って決めるとき、何を見てるのかだ。アヤたちに説明するとき、俺も使えるようにな」
説明用、か。
言語化するのは、嫌いじゃない。
俺は少しだけ息を吸い込んで、机の上の地図を指でなぞった。
「まず、物理的な道があります。獣道とか、木の根っこが少ない場所とか」
「うむ」
「その上に、人や魔物が通った“癖”みたいな線が、薄く残っていきます。踏み固められた地面とか、枝の折れ方とか。……俺には、それが少しだけ、明るく見えるんです」
『マナ流量と踏圧ログの可視化ですね』
(専門用語は置いておけ)
「村の中の道も、畑のあぜ道も、みんなそうです。よく使われる通り道は、線が太くて安定している」
「ふむ」
「森の中だと、そこに魔物の線も混ざってきます。奴らがよく通るルートは、少し黒くて、ざらついてる」
昨日の狼の足跡を思い出す。
地面の上に残った爪痕だけじゃなく、その上を通っていった“通り道”の気配。
「……それから、灯籠の光の線。村から伸びてくるやつです」
地図の村の位置から、指で東へ線を引く。
「灯籠からの線は、白くて、揺れながらもまっすぐ伸びてます。でも、森の縁に近づくほど、黒いもやと押し合いになる」
「濁りだな」
「はい。昨日の東の森は、北側よりマシでしたけど……それでも、二本目の獣道の先は、黒いほうが太くなりかけてました」
リアンの祈りで整えられた線と、濁りの黒い線。
それが、あの先でちょうど拮抗しはじめていた。
「で、その全部を重ねたときに、“ここまでなら戻れる”“ここから先は運が悪いと戻れない”っていう境い目の帯が見えます」
俺は、人差し指と中指を揃えて、地図の上に一本、目に見えない境界線を引く。
「昨日の“撤退ライン”は、そこでした」
ガランさんは、しばらく黙ってその指先を見つめていた。
やがて、低く息を吐く。
「つまり、お前の“線”ってのは——」
「はい」
「道と、祈りと、魔物と、人の足の跡が、まとめて見えてる感じか」
「……そんなところです」
そう言うと、ガランさんはわずかに口の端を上げた。
「やっぱり、見えない通り道を見るやつだな、お前は」
十一話のときと、似た言葉。
あのときより、少しだけ重みが増している気がした。
「アヤは“倒せるかどうか”で線を引く。前衛だからな」
「はい」
「お前は“帰れるかどうか”で線を引く。撤退役だ」
ガランさんは椅子にもたれ、天井を一度だけ見上げた。
「どっちも間違っちゃいない。だが——」
「だが?」
「同じ線の上に立ってると、ときどき、ぶつかる」
それは、昨日の森で痛いほど実感したことだ。
「……すみません」
「謝る話じゃねえよ」
即座に返された。
「お前が引いた線は、“生きて帰る線”としては正しい。アヤの言い分も、“今後の被害を減らす線”としては正しい」
ガランさんは、机の上に太い指を二本、平行に置く。
「この二本の線は、どっちもエルディアを守るための線だ。だが、見てる距離が違う」
片方の指を、少しだけ前に押し出す。
「アヤの線は、目の前の森と、数日の被害を見てる」
もう片方の指を、村のほうに寄せる。
「セイの線は、今日の帰り道と、仲間の命を見てる」
「……はい」
「どっちも必要だ。だから、今はこうする」
ガランさんは、指を一本、ぐっと外側へずらした。
「今日のアヤたちの依頼は、村の近場の仕事に変える。畑の見回りとか、小型魔物の駆除だ」
「東の森じゃなくて?」
「ああ。昨日の緊張を、一回ほぐさせる。……で、お前は」
今度は、もう一本の指で、地図の東を軽く叩く。
「当分、東の森の依頼には同行してもらう。撤退ラインの“線引き係”としてな」
「はい」
「ただし、それとは別に——」
彼の声が、少しだけ低くなる。
「近いうち、“もう一歩外側”を見てもらう」
胸の奥が、ぴくりと跳ねた。
「……ひとりで、ですか」
「基本はそうなる。場所は、北側の危険地点Aから、川を少し下ったあたりだ」
北側の、あの崩落の場所。
あそこで見た、尋常じゃない濁りの塊。
そこから川を下る線が、頭の中に自動的に描かれる。
「昨日のお前の線を見ててな。今のうちに、“森のちょっと外側”の様子を、もう少し拾っておきたいと思った」
「……」
「ただし、条件は変わらん。“怖くなったら帰る”ラインは、お前が決めろ。誰にも譲らなくていい」
あの日、初めてソロ依頼を受けたときと同じ言葉だ。
でも今は、それ以上の何かが乗っている。
「そのための道具を、用意してるんだろう?」
ガランさんの視線が、ちらりと俺の腰へ落ちた。
「ドランに頼んだ刀のことですか」
「ああ。あいつから、『三日は欲しい』って聞いてる。今日を入れて、あと二日ってところだな」
昨日の工房の、熱と鉄の匂いが思い出される。
ごつい腕。
火花の線。
鈍い刃の輪郭。
『ドランさんの工房ログ、仮ラベル“ドラン刀v1”で保存済みです』
(ネーミングセンスよ)
「その刀を手に入れてからだ。“もう一歩外側”の話は」
ガランさんはそこでようやく、腕を組んで俺をまっすぐ見る。
「いいか、セイ」
「はい」
「村とギルドの前では、お前は“Dランクの剣士”だ。ドラン刀と、ギルド短剣で戦う」
「……はい」
「中身がどうあれ、見た目の線は守れ。前に出るときも、“Dランクが無茶してる”くらいで止めろ」
『出力制限の再確認ですね』
「それ以上をやるのは、“外側”に出たときだけでいい。その線は、俺とリラさんとで決める」
名前が出た瞬間、胸の奥で小さく光が揺れた。
『呼ばれましたか?』
(仕事の相談が来たぞ)
「だから——」
ガランさんは、少しだけ口元を緩める。
「焦るな。アヤに引っ張られすぎるな。お前は“戻る道”の線の担当だ。それは、誰にも代われない」
「……はい」
思ったよりも、叱られなかった。
でも、その代わりに首輪を一つ増やされた感覚がある。
撤退の線。
見た目の線。
外側に出す線。
……まあ、首輪というより、命綱か。
『適切な比喩です』
(お前はほんと、そこは否定しないよな)
「よし。じゃあ今日は——」
ガランさんが立ち上がり、地図をくるりと裏返した。
「アヤたちには畑仕事と小型魔物の駆除を回す。お前は……」
「俺は?」
「午前中は、ギルド周辺の雑用。荷物の運びと、簡単な地図整理だ」
「……地味ですね」
「命の線を太くする仕事ってのは、たいてい地味なんだよ」
肩をすくめるガランさんに、思わず苦笑いが漏れた。
地味でいい。
命の線が太くなるなら、それでいい。
その日の午前、俺はギルドの倉庫から教会への荷物運搬を二往復していた。
乾燥させた薬草の束。
修繕用の布と針。
新しい灯籠用の油。
それらを“運搬の祝福”でまとめて預かりながら、村の道を歩く。
石畳の継ぎ目。
家々の影。
人の足跡。
そこに重なる、細い光の通り道。
『村の線、だいぶ把握できてきましたね』
(ああ。……森より、こっちのほうがやっぱり落ち着く)
午後には、アヤたちが土で汚れた靴のままギルドに戻ってきて、「土の中の魔物のほうがマシね!」と笑っていた。
少なくとも、昨日の刺々しさは、少しだけ薄れているように見えた。
俺はその横で、黙って納品の手伝いをする。
野鼠と、小さな鳥型の魔物の死骸。
どれも、濁りではない。
ただの、生活の中の厄介者だ。
「どう? そっちの“地味仕事”は」
荷物の束を解きながら、ミナがひょいと顔を出してきた。
「こっちはこっちで、足腰には効くよ」
「ふふ。いいじゃない、“運び屋”っぽくて」
アヤはまだ少し不満そうな顔をしていたけれど、その視線はきのうほど尖ってはいなかった。
俺も、特に何も言わない。
出すべき線と、出さない線。
それを間違えると、ろくなことにならないのは、前の世界で嫌というほど経験済みだ。
それから二日ほど。
俺たちは東の森と村の仕事を行き来した。
東の森では、少しずつ、獣道一本ぶんだけ奥へ踏み込みながら。
そのたびに、俺は「ここまで」と「ここまでならもう一往復」の線を、慎重に引き直していった。
一度だけ、アヤときつめに言葉を交わしたことがある。
「もう一群れくらい、狩れるわよ」
日が傾きはじめた森の中で、アヤが前を向いたまま言った。
その前方には、黒い線がうっすらと重なっている。
狼か、別の魔物か。
まだ姿は見えないけれど、「気配」が線になって見える。
「……“もう一群れ”のあと、戻る時間が足りなくなります」
俺は後ろを振り返り、戻り道のほうを見る。
灯籠からの白い線が、少しだけ細く揺れていた。
リアンの祈りも、今日一日でそれなりに削れている。
「今戻れば、“次も来られる森”です。もう一歩踏み込むと、“次は誰かを削ってからじゃないと来られない森”になる」
「言い方」
アヤが眉をひそめる。
けれど、その足は一歩、地面を踏みしめただけで止まった。
「……撤退役の判断?」
「はい」
短く答えると、彼女は舌打ちを飲み込むみたいに、肩で息をした。
「ったく。あんた、いつまで経っても“怖いほう”を選ぶわね」
「怖いほうを選んでるんじゃないです。“怖くなく帰れるほう”を選んでます」
その返しに、アヤはしばらく黙り込んだ。
やがて、前を向いたままぽつりと言う。
「……今度さ、“あたしの線”の見え方も聞いてよ」
「アヤの線?」
「そう。“どこまでなら、斬れるか”のほうの線」
そう言って、彼女は半歩だけ後ろに下がった。
それが、「今日はここまで」の合図だった。
分かれているのに、同じ方向を向いている二本の線。
その距離感を、俺はようやく少しだけ掴みかけた気がした。
三日目の夕方。
ギルドで東の森の報告を終えて、木札を受け取ったときだった。
「おう、セイ!」
酒場側から、がらっぱちの声が飛んできた。
振り向くと、油と鉄の匂いをまとった大男——鍛冶屋のドランが、片手を振っている。
「ちょうどいいときに来やがったな」
「ドランさん?」
「お前さんの“細っこい刃物”、ひとまず形になったぞ」
彼は腰の前掛けで手を拭いながら、にやりと笑った。
「明日の朝いちばん、工房まで来い。火が冷えねえうちに、握り具合を確かめてやる」
「……はい!」
思わず、声が大きくなった。
受付の女性が、くすりと笑いをこらえているのが見える。
ガランさんは、奥のほうで腕を組んだまま、ちらりとこちらを見ただけだった。
その目は、「行け」とも、「気をつけろ」とも読めた。
『ドラン刀v1、受け取りフラグ立ちましたね』
(だからその名前はやめろって)
それでも、胸の奥で、一本の線がはっきりと伸びていくのを感じる。
村の中の線でもなく。
森の中の線でもなく。
村の少し外側へ向かう、細くて鋭い線。
ひとりで歩いて戻る線と、仲間と進む線の、その先に伸びる——
“もう一歩外側”へと、分かれていく線だった。




