第14話 東の森の線
それから、いくつかの朝と夕方が過ぎた。
村のすぐそばの草むら。
畑の端っこ。
小川に続く細い獣道。
ギルドの掲示板から選ばれる俺の仕事は、相変わらず「危険度低め」のものばかりだった。
ミルート草とネメラ葉の追加採集。
畑の柵の簡単な見回り。
村道わきの小さな巣穴を、石でふさいでほしいという相談。
どれも、あの日の野猪や、川辺の大ネズミに比べれば「かわいい」仕事だ。
でも——。
『撤退ログ、順調に蓄積されていますね』
(ログって言うな。俺は日記でも付けてるつもりなんだが)
『主観ログと客観ログの二本立てです』
(はいはい)
教会のベッドで目を覚まし、朝の祈りを済ませ、ギルドへ行って、ひとりで外に出て、ひとりで帰ってくる。
その繰り返しの中で、村の周りに引かれた細い線が、少しずつ俺の中で「地図」になっていった。
灯籠の線。
畑の線。
川辺の線。
そして、村の外縁をぐるりと囲む、「ここから外は冒険者の仕事だ」という、目に見えない線。
怖さは、ゼロにはならない。
でも、「ここまでなら行ってもいい」「ここから先は今の俺じゃ無理」という感覚は、前よりはっきりしてきた気がする。
そんなある日の昼前、ひとつの薬草依頼を終えてギルドに戻ると——。
扉を開けた瞬間、空気がいつもより少しだけ張り詰めているのが分かった。
「……?」
ざわめきの中に、どこか聞き慣れた気配が混じっている。
視線を巡らせると、掲示板の前に、見慣れた背中が並んでいた。
アヤ。
コルト。
ミナ。
それから、リアン。
《リュミエルの灯》の四人だ。
「おはようございます」
声をかけると、ミナがくるっと振り向いて手を振った。
「お、セイ。ちょうどいいとこに来たね」
「……何かあったんですか?」
アヤは掲示板に貼られた紙をじっと睨んでいる。
その横で、コルトが短く言った。
「東の森だ」
「東……?」
『エルディアから見て、川の下流側ですね』
(ああ、あっちか)
俺の頭の中に、これまでの依頼で歩いた線が広がる。
南の灯籠。
北の危険地点。
そして、その間を流れる川。
東の森は、その川が村を離れていった、もう少し先。
今まで、地図の上でしか見ていなかった場所だ。
カウンターの奥から、ガランさんが声を張った。
「セイ、こっちだ」
「はい」
カウンター横の小さなスペースに、俺たち五人が集められる。
ガランさんは、机の上に簡単な地図を広げていた。
村と、灯籠と、森の輪郭が、太い線と細い線で描かれている。
「依頼だ。《リュミエルの灯》に、東側の森の討伐と調査を任せる」
指先が、村から東へ伸びる一本の線をなぞる。
「ここからこの辺りまで。灯籠から見て、二つ分くらい先だな。最近、魔物の出入りが増えたって報告が来ている」
「濁り、ですか?」
リアンが静かに尋ねる。
「今のところは、はっきりとした“濁り”じゃない。だが、獣の動き方が変だって話だ」
ガランさんは眉をひそめる。
「村の周りの“線”を太くするって話、覚えてるな?」
そう言って、ちらりと俺を見る。
「……はい」
「東の森は、その線を太くする候補地のひとつだ。あくまで“候補”だ。濁りが強すぎれば、その時点で引き返す」
当たり前のことを、あえて口に出してくれる。
それだけで、胸の奥のどこかが少しだけ落ち着く。
「リアンの祈りで様子を見ながら、《灯》の三人が討伐を兼ねて様子を見る。セイ、お前は……」
少し間を置いてから、はっきりと言った。
「いつもどおり、“撤退ラインを決める人間”だ」
「はい」
「戦うのは最後の手段。命が落ちる瞬間だけ前に出る。それ以外は、後ろで線を引け」
ああ、この言い方は——。
神父さんと決めた、「線のルール」のおさらいだ。
「東の森には、俺も昔何度か入った。普通の狼や猪、ゴブリン程度ならいる。だが、今は上流から濁りが少しずつ下りてきている」
ガランさんの指が、地図の川の上をなぞる。
「“今まで通り”って感覚で突っ込むと、痛い目をみる。だからこそ、撤退ラインをきっちり決めて、仕事をする」
アヤが、唇を引き結んで頷いた。
「了解。東は初めてだから、なおさら慎重に行くわ」
その言葉自体は真面目なのに、肩に乗った剣士としての「前に出たい」気配は、やっぱり消えない。
……まあ、消えたらアヤじゃないけど。
『セイ』
(分かってる。俺の役目は、そこに“ブレーキ”をかけることだ)
ひと通りの説明が終わり、俺たちは昼前に集合して出発、という段取りになった。
全員が散開し始めたところで、俺はガランさんに声をかける。
「あの、ガランさん」
「ん?」
「武器の相談、いいですか」
俺の腰には、いつもの借り物ナイフがぶら下がっている。
村の近くで大ネズミをいなすには十分だったけど——森の中で、相手が群れで来たときに、これだけで本当にいいのか。
そんな不安が、ここ数日のソロ依頼でじわじわと膨らんでいた。
「ナイフが、ですか?」
「はい。今のところ、自衛と“いなす”だけなら何とかなってますけど……」
言葉を選びながら続ける。
「いざというとき、“もう一歩だけ踏み込んで、誰かを引きはがす”場面が出てくると思うんです。その時に、もう少し、届いてほしいというか」
剣士になりたいわけじゃない。
でも、「線を守るための武器」は、今のままだと心許ない。
ガランさんはしばらく俺を見て、それから小さく笑った。
「言い方がいちいち“線”だな、お前は」
「職業病みたいなもんです」
「まだ新人だろうが」
苦笑したあと、彼は頷いた。
「……よし。ドランのところに行ってみろ」
「ドランさん?」
「鍛冶屋だ。前にも顔を合わせただろう? “運搬の祝福”の時に」
そういえば、会議で一度だけ同じ机を囲んだことがある。
腕組みして、無口にこちらを観察していた、あの大男だ。
「ちょうど暇ができたってぼやいてた。『若いのの武器くらいなら面倒見てやる』ってな」
それは、だいぶありがたいぼやきだ。
ギルドの建物から少し離れた場所に、鍛冶屋の工房はあった。
昼前だというのに、屋根からは熱気がもわりと漏れ出している。
扉を開けると、金属と焼けた炭の匂いが、胸の奥まで入り込んできた。
「すみません、ドランさん、いらっしゃいますか」
「ああ?」
奥から、低い声とともに、火花の音が止む。
炉の前から現れたのは、前に会ったときと同じ、大きな体の男だった。
腕には煤と汗が染みついている。
「ガランさんに言われて……武器の相談に来ました。セイです」
「ああ、あの“線引きの坊主”か」
堂々としたあだ名が付いていた。
「……そうです」
「で、何が欲しい」
ドランさんは、俺の腰のナイフを一瞥する。
「今のナイフは悪くない。が、森で前に出るには短い。前に出ねえってんなら、まあギリギリってとこだが」
「基本は、前には出ません。出ちゃいけないことになってます」
「だろうな」
彼はふん、と鼻を鳴らした。
「じゃあ聞くが。坊主、お前はどうやって戦うつもりだ」
「どうやって、ですか」
「正面から斬り合う気がないなら、武器の形も変わる」
そう言って、床に立てかけてある剣や槍、斧を顎で示す。
「叩き割るのか、刺すのか、払うのか。お前の“線”とやらは、どこを通る」
……鍛冶屋のくせに、妙に哲学的なことを言う。
『いい質問です』
(だろうな)
俺は自分の足元を見下ろした。
右足。
左足。
野猪のときも、大ネズミのときも、俺がやっていたのは——相手の進路に半歩だけ踏み込み、肩をずらして、勢いを横に流すことだった。
倒すためじゃない。
“当たり方を変えるための一歩”。
「……払う、ですかね」
「払う」
「相手の進んでくる線から、少しだけ外にずらしたいんです。真正面から斬るんじゃなくて、“こっちじゃないよ”って押し返す感じで」
自分で言っていて、だいぶ変な説明だと思う。
けれど、ドランさんは案外真面目に聞いてくれていた。
「ほう」
ごつい指が、空中に一本の線を描く。
「まっすぐ当てるんじゃなくて、斜めに滑らせる、か。だったら……」
彼は棚から一本の鉄の棒を引っ張り出し、俺に握らせた。
「軽く振ってみろ。いつものナイフと同じ腕の振り方で」
「はい」
言われたとおりに、軽く構えて、空を切る。
こん、という鈍い感触が手に残った。
重さの乗り方が、今までのナイフと違う。
『慣性モーメントが——』
(専門用語は禁止)
『了解です』
ドランさんが頷く。
「ふむ。手首じゃなくて、肘と肩で線を引くタイプか」
何となくバレている。
前世で剣道をやっていたことを、うっかり口走りそうになるのを、慌てて飲み込んだ。
「坊主」
「はい」
「細身で、少しだけ反りのついた片刃の刀を作ってやる。長さは……お前の腕の長さだと、このくらいだな」
彼は俺の腕を掴み、肩から指先までをざっと測る。
「森で引っかけない程度に短くして、でも“払う”には十分な長さを残す。重さは軽め。代わりに、打ち込みで無茶はするな」
「……そんな贅沢していいんですか」
「贅沢ってほどでもねえ。材料はそこそこある」
彼は肩をすくめる。
「どうせ、上から“王都の連中が来るから準備しとけ”って圧はかかってるんだ。今のうちに、まともに線引きできるガキに一本作っておくのも、村のためだろ」
そういうところだぞ、この世界の大人たち。
『好感度がまた一段階上がりました』
(ポイント制なのか)
『はい。村の「大人枠」のリストに追記しておきます』
リラの妙な管理はともかくとして、刀を作ってもらえるのはありがたい。
「どれくらい、かかりそうですか」
「鍛ち直しからやるからな。三日は欲しい」
三日。
今日から三日後。
その間に、東の森の依頼は——。
「東の森は、今日からしばらく続く。最初の何回かは、今のナイフで我慢しろ」
こちらの考えを読んだように、ドランさんが言う。
「その代わり、“いなす”ことだけ考えろ。斬り倒そうとするな」
「……もともと、そのつもりです」
「ならいい」
彼はにやりと笑った。
「坊主がその刀を持つころには、“もう一歩外側”に出る話が来るだろうさ。その時までに、しっかり線を集めておけ」
その言葉が、妙にガランさんの言葉と重なって聞こえた。
昼過ぎ。
東門近くの広場に集合した俺たちは、簡単な準備を整えて森へ向かう。
「今日は東だねー。なんか、空気の匂いが南とは違う気がする」
ミナが鼻をひくひくさせている。
「風向きだろう」
コルトは相変わらず淡々としているが、矢筒の位置をいつもより少し低めにしていた。
森の中では、枝に引っかかるから、だろう。
アヤは剣の柄に軽く手を置き、前を見据えて歩いている。
リアンは小さな祈りの言葉を胸の中で繰り返しているようだった。
俺は最後尾で、全員の背中と、周囲の線を見ていた。
『行きのルート、仮の撤退ラインを三本設定しました』
(説明よろしく)
『はい』
リラの声が、同時に全員の頭に響くわけではない。
聞こえるのは俺だけだ。
でも、それを言葉にして伝えるのは、俺の役目だ。
「えっと、まず村の灯籠が“ゼロライン”」
歩きながら、俺は全員に聞こえるように言った。
「森に入って最初の祈り場までを“ライン1”。そこを越えたら、“何かあったら全力でそこまで下がる”って決めておきたいです」
「ふむ」
アヤが頷く。
「祈り場って、あの大きな石碑のところ?」
「はい。マナの流れが太いですし、リアンの祈りが通りやすいので」
リアンが少しだけ驚いた顔をした。
「分かるんですか?」
「線が……見えるので」
頭の中で見えている光の線を、簡単な言葉に変換する。
「そこから先、さらに森が暗くなる場所を“ライン2”。そこを越えると、戻るのに時間がかかるので、『夕方までに戻れない』って判断したら、すぐに引き返したいです」
「うん」
ミナが真剣な顔で頷いた。
「ライン3は?」
「今日のところは、設定しません」
「え?」
「“ここより先は行かない”って線は、まだ俺も分かってませんから」
そこは、実際に線を見てから決めるしかない。
アヤは少しだけ眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
森の入口は、村の南とは違う形をしていた。
南側の森が、畑の先にゆっくりと広がっているのに対して、東の森は、川に沿っていきなり背の高い木々が壁のように並んでいる。
枝と枝の間から、薄暗い緑の空気が覗いていた。
「……やっぱり、ちょっと嫌な感じですね」
リアンが小さく呟く。
俺も同感だ。
灯籠から伸びるマナの線が、森の中で細くねじれている。
ところどころ、黒いノイズのようなものが、川のほうから漂ってきているのが見えた。
『濁り濃度、南側の祠よりは低いですが、通常の森よりは高めですね』
(つまり、“慎重に行けばギリギリ大丈夫”ってラインか)
『はい。ただし、長時間の滞在は非推奨です』
足元の土を踏みしめながら、俺たちは森の中へ入っていった。
最初の祈り場までは、特に大きな異常はなかった。
倒れた木。
小さな獣の足跡。
湿った土の匂い。
リアンが祈りを捧げると、石碑からふわりと光が広がり、周囲の黒いノイズがすっと薄まる。
「……ここまでは、まだ“普通”ですかね」
俺の言葉に、アヤが肩の力を少しだけ抜いた。
「ここまでは、ね」
「はい。ここまでは」
繰り返してから、俺は頭の中で線を引きなおす。
ここがライン1。
何かあれば、ここまで撤退。
祈り場を背に、さらに森の奥へ進む。
変化が起きたのは、森の光が一段階暗くなったあたりだった。
背の高い木々が密になり、頭の上の葉が空を覆う。
足元の土が、少しだけ柔らかい。
そして——。
右手前方の低い茂みから、細い線が三本ほど、俺たちのほうへ伸びてきているのが見えた。
(来る)
足を半歩、左に送る。
右足で地面を軽く押す。
重心を低くして、肩をわずかにひねる。
瞬間——茂みから灰色の影が飛び出した。
「っ!」
狼だ。
この森に多いという、中型の狼。
一匹がアヤの正面に。
もう一匹がコルトのほうへ。
最後の一匹が、少し遅れてリアン側に回り込もうとしていた。
俺の視界の中で、三本の線が交差する。
『推奨:リアン側の線を優先』
(了解)
腰のナイフに手を掛ける。
リアンに向かっていた個体の進路に、右足をさらに半歩突っ込んだ。
真正面には立たない。
あくまで、“通り道の脇”に、体を滑り込ませる。
狼の前足が地面を蹴るのと同時に、俺は膝をゆるめて重心を落とした。
すれ違いざま——。
ナイフの背を、狼の肩のあたりに押し当てる。
斬らない。
刺さない。
ただ、肩の筋肉の線に沿って、滑らせる。
前に向かって突き出された力を、少しだけ横にずらす。
「——ッ!」
狼の体が、俺の目の前をかすめるように通り過ぎ、リアンから外れた位置に着地した。
バランスを崩したその背中に、アヤの剣が鋭く走る。
足元では、コルトの矢が別の個体の首筋を正確に射抜いていた。
「ありがと、セイ!」
アヤの声が飛ぶ。
「いえ。“いなした”だけです」
呼吸を整えながら答える。
今ので、俺の服には血の一滴もついていない。
『肩関節への負荷、小。狼のダメージも致命的ではありません』
(“怖さ”は減っただろ)
『はい。次の動きにも対応可能です』
残った一匹が、低く唸り声をあげた。
こちらと、倒れた仲間と、リアンの間で、迷っている。
「ミナ」
「了解」
ミナが素早く小瓶を取り出し、地面に投げつけた。
ぱん、と乾いた音とともに、白い煙が立ち上る。
狼は煙の匂いに鼻を刺されたのか、一瞬たじろいだ。
そこへ、コルトの二本目の矢が飛ぶ。
矢が毛皮をかすめた瞬間、狼は森の奥へと逃げていった。
短い、でも濃い数秒だった。
静けさが戻る。
俺は周囲の線を一度確認し、深く息を吐いた。
「ライン2、手前、ですね」
俺の言葉に、アヤがちらりとこちらを見る。
「まだ行けそう?」
「行けます。けど——」
さっき狼が飛び出してきた方向を見る。
木々の間、少し先の空気が、ほんのわずかに黒く濁っているように見えた。
「この先、川のほうから濁りの細い線がいくつか伸びてます。狼だけじゃなくて、何か別のものも来てるかもしれない」
「……“怖さ点数”で言うと?」
『現地点:60〜65%』
(ありがとう)
「六割くらいです」
「分かりづらいのよ、それ」
アヤが思わず笑ってしまい、それから真顔に戻る。
「でも、仕事はまだ終わってないわ。依頼の範囲は、この先の小広場までよね?」
「はい。ただ——」
俺は地図を思い出す。
小広場。
川の曲がり角。
その向こうに、まだ調査されていない影の帯。
「今日、一気にそこまで行くと、戻りがギリギリになります」
言葉を選びながら、はっきりと言う。
「俺としては、“広場の手前で一度止まって、様子を見る”ほうを推奨したいです」
「“怖くなったら帰る”ってやつ?」
ミナが肩をすくめる。
「今日のうちに、どこまで行けるかを見ておいて、明日以降の線を決める……っていう、いつものセイ案だね」
「そうです」
アヤは無言で少し考え込み、それから眉間にしわを寄せた。
「セイ」
「はい」
「アンタの言ってることが間違ってるとは思わない。ていうか、何度も助けられてるから、そこはいい」
「……ありがとうございます?」
「でもね」
彼女は、森の奥をじっと睨んだ。
「討伐を任されてる側としては、“引き返す線”ばかり気にしてると、いつまでたっても魔物は減らないのよ」
前に出る者の言葉だ。
「アンタが“怖い”って言うのは分かるし、大事だと思う。けど、そればっかりだと——」
「“前に出る線”が引けなくなる」
「そう」
アヤの目は真剣だった。
俺は、そこで言葉を飲み込まなかった。
「だからこそ、ですよ」
「……?」
「“前に出る線”を引く人と、“戻る線”を引く人は、分けておかないといけないんです」
自分でも驚くくらい、はっきりとした声が出た。
「アヤさんが前に出てくれるから、俺は安心して“戻る線”を見ていられる。俺が“ここまで”って言うから、アヤさんは安心して“ここまでは行ける”って言える」
それは、南の灯籠での戦いで、身に染みたことだ。
「両方を一人でやろうとすると、きっとどこかで線を間違えます。だから、俺は“戻るほう”だけに全振りします」
アヤは、しばらく俺の顔を見ていた。
その横で、コルトがぽつりと言う。
「……どっちもやろうとしたら、死ぬ」
短い言葉。
けれど、重かった。
「……分かってる」
アヤは小さく息を吐いた。
「分かってるんだけど、ね」
視線を森の奥から引き剥がし、俺のほうを見る。
「じゃあ、今日はセイの言う“ここまで”で止まる。明日のことは、戻ってから考えましょう」
「はい」
その妥協点が、今の俺たちにとっての最適解だと信じるしかない。
それから少しだけ森の奥へ踏み込み、俺たちは小さな広場の手前で足を止めた。
川の音が、近くで大きくなっている。
水面の上に、薄い黒い膜のようなものが張りついているのが見えた。
そこから、細い濁りの線が森のあちこちに伸びている。
『ログ:濁り流入地点候補、マーキングしました』
(頼む)
ヒトリを呼び出すのは、まだやめておく。
ここは、まだ俺の“もう一歩外側”じゃない。
今日は、ただ線を見て、位置を覚えるだけだ。
「戻りましょう」
そう告げると、誰も反対はしなかった。
アヤが悔しそうに川を一度だけ振り返り、リアンが静かに祈りを捧げる。
ミナは周囲の草を採取し、コルトは矢を一本回収してから、無言で頷いた。
俺たちは、来た道を戻る。
祈り場で一度休憩し、村の灯籠が見えたときには、夕方の光が森の影を長く引き伸ばしていた。
◇
ギルドに戻り、報告を終えたあと。
「討伐数は十分。濁りの位置も確認できた。今日はそれでいい」
ガランさんはそう言ってくれたが、アヤの表情はどこかすっきりしない。
「……もう少し奥まで行けた気はするけどね」
「お前らまで“行けたはずだ”を積み重ねると、そのうち村ごと吹っ飛ぶぞ」
ガランさんの苦い冗談に、アヤは口をへの字に曲げた。
俺は横で黙って木札をいじっていた。
報告が終わり、全員が散開したあと——。
「セイ」
背中に声が飛んできた。
「はい」
「少し、話がある。明日の朝、ギルドの奥に来い」
「……分かりました」
ガランさんの目は、昼間よりも少しだけ真剣だった。
ひとりで歩いて戻ってきた線。
東の森の線。
濁りが川から伸ばしてくる、細い黒い線。
それらが胸の中で、一本の太い線にまとまりかけている。
(なあ、リラ)
『はい』
(たぶん、明日聞かされるのは——)
俺は、手の中の木札をぎゅっと握った。
(ガランさんが言ってた“もう一歩外側”の話だよな)
『その可能性が高いですね』
リラの声は、いつもどおり冷静だった。
『だからこそ、今夜のうちに整理しておきましょう。“どこまでなら引き受けるのか”“どこから先は、どんな条件でも踏み込まないのか”』
(……ああ)
ギルドの扉を押し開ける。
夕方に変わりかけた光の中へ、一歩を踏み出した。
今日の一歩は、“東の森の手前で戻ってきた線”。
きっと、その先に——また、別の線が待っている。




