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理を灯す少年 〜祈り万能世界で、AIを宿す俺だけが“理論魔法”を使えた件〜  作者: いい加減工房
第9章 王都編中盤――王都の足場、見えにくい線を掘る

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第121話 名を読ませるな

お待たせしました。

第121話は、王城祈礼の流れと各キャラクターの役割を丁寧に整えたため、更新まで少し時間がかかりました。

その分、次につながる大事な回になっています。

読んでいただけると嬉しいです。

 進行役が息を吸った。

 王城前広場のざわめきが、波が引くように静まっていく。

 白い衣の進行役は、両手で巻物を掲げていた。

 その横には、鐘杖かねづえを持つ男が立っていた。

 鐘杖は、神官が儀式で使う長い杖だ。

 先端近くに小さな鐘が付いていて、床を軽く突くと澄んだ音が鳴り、祈り手へ次の手順を知らせる。

 少し後ろには、顔を伏せた祈り手たち。

 王族本人は、まだ姿を見せていない。

 それでも、広場に集まった民は進行台を見ていた。

 鐘が鳴った。

 進行役が巻物を掲げた。

 ならば次に、王族の名が告げられる。

 民はそう思っている。

 誰も、祈り台の下に黒い板が仕込まれているとは知らない。

 誰も、王城の奥で王族の祈りを止める仕掛けが動き始めているとは知らない。

 誰も、王族代理参列者という言葉が、民の祈りを奪うために使われようとしているとは知らない。

 ただ、式典の流れに従っているだけだ。

 だからこそ危険だった。

 この世界では、祈りはただの気持ちではない。

 名を聞き、胸に手を当て、王都の平穏を願う。

 それだけで、民の祈りは祈り台へ流れる。

 本来なら、王家が民の願いを受け止め、神へ届けるための流れだ。

 だが今、その流れの先には黒い板がある。

 セイには、床の下を走る細い光が見えていた。

 王城の奥から広場へ向かう祈礼の通り道。

 石畳の継ぎ目の下を通り、壁の内側を抜け、進行台と祈り台へ伸びている。

 その光の端に、黒い汚れが混じっていた。

 黒い粉。

 黒い板。

 黒い札。

 それらが、正しい祈りの流れへ割り込もうとしている。

 進行役の唇が動く。

 まだ声にはなっていない。

 だが、次の瞬間には名が出る。

「副隊長」

 セイは進行台から目を離さずに言った。

「本来なら、このあと呼ばれるのは王族の名ですよね」

「はい。王族参列の鐘が鳴った以上、民は王族本人が祈り台に立つものと思っています」

「それなのに進行役が代理の名を読めば、民はどう受け取りますか」

 副隊長の顔が硬くなった。

「王族が、民の前で祈れないと受け取ります」

「はい。王族本人が来られない。代理を立てた。そう見えます」

 セイは進行台の巻物を見た。

「それだけでも、王族への信頼は傷つきます。しかも民が代理の名を聞けば、祈りはその人へ向かう。祈り台の下には黒い板があります。つまり相手は、王族の信頼を落としながら、民の祈りを代理へ流そうとしている」

 副隊長の手が、水晶板を握りしめた。

「王族の権威を傷つけ、祈りも奪う……」

「はい。だから力ずくで止めるのは駄目です。民が異常だと思えば、助けを求めて祈ります。今はそれが一番危険です」

「では、どう止めますか」

「読み上げを妨害するんじゃありません。鐘が予定より早く鳴った以上、今この場で名を読んでいいのか、手続き変更の確認を入れます。民から見れば、止めたのではなく、正式な確認に見えます」

 副隊長の目が細くなった。

「予定時刻と違う以上、確認を挟む理由になる、ということですね」

「はい。相手は王城の仕組みを使っています。なら、こちらも王城の仕組みで止めます」

 副隊長は水晶板を握り直した。

 王城警備用の連絡水晶だ。

 表面の刻印が淡く光る。

「進行台へ。王城警備副隊長命令。名の読み上げ前に、開始時間変更の承認印を確認する。巻物を下ろし、壇上の確認台へ置け」

 命令が広場へ飛んだ。

 進行役の口が、開きかけたまま止まった。

 民の視線が揺れる。

 進行役は一瞬だけ、副隊長のいる王城側を見た。

 そして、ほんの少し笑った。

 セイの背中に冷たいものが走る。

『進行役、巻物を下ろしません』

 リラの声が、頭の中に落ちた。

『進行役の左手が、巻物の端にある木の芯を強く握っています。紙を巻き取るための芯です。その端に小さな留め具があります。見た目は巻物を固定する金具ですが、内側に黒い札が仕込まれています』

「札は紙の裏じゃなく、巻物の芯の中か」

『はい。進行役の指先から、ごく少量のマナが留め具へ流れています。民の祈りを集める力ではありません。黒い札を起動させるための合図です』

「つまり、留め具がスイッチ」

『はい。名を読む声で民の注意を集め、留め具で札を起動する構造です』

 セイは奥歯を噛んだ。

 相手は、進行役の声だけで動かそうとしていない。

 巻物。

 巻物の芯。

 留め具。

 黒い札。

 鐘。

 祈り台。

 王城の記録。

 全部がつながっている。

「サラさん」

 セイは床に寝かされたルーデン卿を見た。

 ルーデン卿は浅く呼吸している。

 右手には、ルーデン侯爵家の印章指輪。

 指輪の水晶には、短い警告が残っていた。

 祈るな。

 祈れば、奪われる。

 代務者へ渡すな。

 助けを呼ぶ言葉ではない。

 最後に残したのは、警告だった。

「ルーデン卿が言っていた言葉を確認します。札、裏、代務。そうでしたよね」

 サラはルーデン卿の呼吸を見ながら、短くうなずいた。

「はい。札、裏、代務。あの方は、そこまで伝えようとしていました」

「ルーデン卿が言った『裏』は、紙の裏面だけじゃない。巻物に隠した仕掛け全体を指していたのかもしれません」

 サラの顔色が変わった。

「では、あの巻物の芯の中の札が……」

「代務者へ祈りを渡すための起点です」

 バルドが低く唸った。

「読み上げるだけじゃねえってことか」

「はい。声で民を集めて、札で祈りの向きを変える。進行役が名を読めば、民はその名へ祈る。黒い札は、その祈りを黒い板へ流す」

 テオが進行台を見つめた。

「進行役の口を止めれば……」

「駄目です」

 セイはすぐに言った。

「進行役本人を倒したり縛ったりすれば、民が見ます。民が異常だと思えば、助けを求めて祈ります。今止めるのは、人じゃない。仕掛けです」

「仕掛けだけを止めるんですか」

「はい」

 セイは右手を床へ近づけた。

 触れない。

 石畳に直接触れれば、黒い粉がこちらのマナに反応するかもしれない。

 だから、触れずに見る。

 石の継ぎ目。

 目地の砂。

 そこに混じった黒い粉。

 黒い粉は、祈礼の流れへ入り込むために置かれている。

 粉そのものを動かすのは危険だ。

 なら、粉の周りを動かす。

『進行役の左手、留め具へ圧力をかけています。起動まで十秒以内』

「テオ」

「はい」

「進行台の音を拾えますか」

「声ですか」

「声じゃありません。巻物の芯です。留め具を動かしているなら、小さな金具の音がするはずです」

 テオは目を閉じた。

 指先に細い風が生まれる。

 強い風ではない。

 廊下の隙間を抜け、広場の進行台まで届く、糸のような風だ。

 数秒後、テオの眉が跳ねた。

「聞こえました。木がきしむ音のあとに、金具の音が二回。普通に巻物を持つ音より硬いです」

「留め具を動かしてる」

『はい。黒い札への起動信号が増えています』

 セイは息を細く吐いた。

『黒い粉には直接触れないでください。周囲の砂だけを締めれば、信号の通り道を一拍遅らせられます』

 リラの声と同時に、セイの視界で細い線が一本だけ明るくなった。

「ソイルリペア」

 土の理が、石畳の下を静かに伝う。

 進行役の腕には触れない。

 喉にも触れない。

 巻物の芯そのものも壊さない。

 セイが動かしたのは、進行台へ向かう祈礼の流れに混じった黒い粉の周りだけだった。

 黒い粉の周囲にある砂と細かな土を、ほんの少しだけ締める。

 留め具から黒い札へ届く合図が、一拍遅れた。

 カチリ。

 金具が途中で止まる。

 進行役の口が開く。

 だが、声が出る前に、左手がわずかに震えた。

 指先に力を込めても、留め具が動かない。

 民から見れば、進行役が巻物の金具に手間取っただけに見える。

「止まりました」

 テオが小さく言った。

「進行役本人は止めていません」

 セイは進行台を見たまま答える。

「止めたのは、黒い札が動くタイミングだけです」

 バルドが低く笑った。

「相手が仕掛けなら、仕掛けだけを潰すか。器用なことをする」

「今は派手に止めた方が負けます」

『留め具の起動、失敗。ただし、進行役が力任せに押せば、噛み合わせが壊れます。五秒から七秒です』

「十分です」

 セイは副隊長へ向いた。

「今です。読み上げを止めるんじゃない。開始時間変更の承認印確認として止めてください」

 副隊長は即座に声を張った。

「進行台! 開始時間変更の承認印確認を行う! 王城記録室の照合が済むまで読み上げるな! 巻物を下ろせ!」

 進行役は巻物を掲げたまま、口を開いた。

 止まらない。

 金具が噛んでも、声だけで押し切るつもりだ。

 セイの胸が強く鳴る。

 こちらが止めるより、相手が速い。

 なら、名前だけを聞かせない。

「テオ」

「はい」

「進行役の声だけ、広場へ届きにくくできますか」

 テオは一瞬だけ進行台を見た。

「完全に消すと、民が異常だと思います」

「消さなくていいです。名として聞き取れなければ十分です」

 テオの目が細くなった。

「進行役の口元から出る声だけを、広場へ届く前に少し散らします」

「できますか」

「できます。ただし、一言分だけです」

「名前の部分だけでいいです」

「分かりました」

 テオは右手の指を小さく開いた。

 強い風ではない。

 服を揺らすほどの風でもない。

 進行台の前だけを通る、細い風だった。

 風は進行役の口元から広場へ伸びる声の道に、斜めから触れた。

 進行役が口を開く。

「王族代理参列者――」

 そこまでは聞こえた。

 だが、続く名だけが、広場へ届く前にかすれた。

 声が消えたのではない。

 割れた。

 前列の民には、進行役が一瞬だけ言いよどんだように聞こえた。

 後ろの民には、巻物の紙が風に鳴った音と重なったように聞こえた。

 誰も、名を聞き取れなかった。

 民は驚かない。

 ただ、進行役が読み損ねたのだと思って、次の言葉を待った。

『民の祈り反応、上昇せず。祈り台下の黒い板、起動条件に届いていません』

「よし」

 セイは息を吐いた。

「テオ、そのまま長く続けないでください。風が見えたら、向こうも気づきます」

「もう切ります」

 テオは指を閉じた。

 進行台の前を通っていた細い風が消える。

 その一拍を逃さず、広場の右手側で人の列が割れた。

 前に出てきたのは、三人だった。

 コルト。

 リアン。

 ミナ。

 三人は走っていない。

 民を驚かせないために、あえて歩いている。

 けれど、その足取りに迷いはなかった。

 最初に進行台へ向けて声を出したのは、コルトだった。

「読み上げを止めてください」

 大きすぎない声だった。

 だが、進行台の祈り手と、前列の民にははっきり届いた。

 コルトは進行役の手元を見ていた。

 巻物。

 巻物の芯。

 鐘杖係の立ち位置。

 祈り手たちの顔。

 民の視線。

 それらを短く確認してから、言葉を続けた。

「今、王族代理参列者の名を読めば、民の祈りはその名へ向かいます」

 コルトは進行役の巻物を見たまま、声を落とさなかった。

「鐘が予定より早いなら、開始時間変更の承認印が必要です。王族本人が祈りの代表に立てないなら、その正式な記録も必要です。代理を立てるなら、代理参列の承認と王女側の確認も必要です」

 そこで一度、コルトは祈り台へ目を向けた。

「祈り台の安全確認も終わっていません。そこを飛ばして名を読むのは、正式な進行ではありません」

 広場がざわめいた。

 だが、それは悲鳴ではない。

 民はまだ祈っていない。

 進行役の顔が、初めてはっきり強張った。

「お前は何者だ。進行を止める権限があるのか」

 コルトは一歩も引かなかった。

「権限を示すのは俺ではありません」

 そう言って、コルトは半歩横へ動いた。

 その動きで、リアンが民と祈り手の正面に立つ形になる。

 リアンは胸に手を当てた。

 祈ってはいない。

 聖職者として、祈りの場に立つ者へ礼を示しただけだ。

「ここは、民の祈りを預かる場です」

 リアンの声は静かだった。

 けれど、広場の前列にいた民と、進行台の祈り手たちにははっきり届いた。

「誰の名を告げるのか、確認なしに進めることはできません。祈りは、間違った相手へ向けてよいものではありません」

 顔を伏せていた祈り手たちが、わずかに動揺した。

 リアンは、その祈り手たちへ目を向けた。

「祈り手の方々も、まだ祈らないでください。確認が終わるまで、民の祈りを導かないでください。これは祈りを止めるためではありません。祈りを守るためです」

 その言葉で、祈り手たちの動きが止まった。

 祈りを禁じているのではない。

 祈りを守るために待つ。

 そう言われれば、祈り手たちは逆らいきれない。

 進行役の頬が引きつった。

「聖職者が、王族代理参列の進行に口を出すというのか」

 コルトがすぐに返した。

「違います。王女側の確認もあります」

 コルトは視線だけをミナへ送った。

 ミナは一瞬だけ息をのんだが、すぐに胸元の小さな白い確認札を掲げた。

 派手な宝石ではない。

 王城の儀礼用に使われる、白い札だ。

「マヤ王女殿下の名代確認札です」

 ミナの声は少し硬かった。

 だが、逃げなかった。

「確認札はこちらにあります。勝手に読み上げを進める理由はありません」

 コルトが短く補う。

「リアンが祈りの場を確認します。ミナが王女側の確認札を示します。俺が巻物と鐘杖係の動きを見ます。王城警備と合わせて、正式確認を行ってください」

 セイは息を止めた。

 コルトが現場を見て、動く順番を決めた。

 リアンが祈りの場を押さえた。

 ミナが確認札を示した。

 三人の役割が、はっきり分かれていた。

 敵の流れを力で壊していない。

 式典の形を守ったまま、進行役の言葉を止めている。

 だから民は祈らない。

 騒がない。

 ただ、何が起きているのかを見ている。

 副隊長が水晶板を握り直した。

「進行台へ。王城警備副隊長命令。開始時間変更の承認印、王族本人が祈りの代表に立てないという正式記録、代理参列の承認、王女側の確認、祈り台の安全確認を行う。確認が終わるまで、王族代理参列者の読み上げを停止せよ」

 進行役の頬が引きつった。

「王族参列の鐘は、すでに鳴っている。鐘が鳴った以上、進行を止めることはできない」

 コルトは進行役の左手を見たまま言った。

「鐘が鳴ったことと、代理の名を確認なしで読むことは別です」

 進行役の目が細くなる。

 コルトは続けた。

「本来なら、次に呼ばれるのは王族の名です。代理の名を読むなら、王族がこの場に出られない理由と、王女側の確認が必要です」

 リアンも一歩前へ出た。

「民の祈りを急がせないでください。祈りは、急がせるものではありません」

 ミナは確認札を下げずに、コルトの半歩後ろで踏みとどまった。

「確認札はここにあります。王女殿下の名を使うなら、確認を飛ばさないでください」

「副隊長、今です」

 セイは言った。

「進行役と鐘杖係を確保してください。ただし剣は抜かない。民に見える動きは、確認作業にしてください」

「承知」

 副隊長は近くの兵に合図を出した。

「進行台の左右を塞げ。走るな。剣を抜くな。確認の名目で近づけ」

 兵たちが動く。

 広場の左右から、近衛が二人ずつ進行台へ向かった。

 足は速い。

 だが駆けてはいない。

 槍も剣も抜いていない。

 あくまで、手続きの確認に向かう形だ。

 進行役の指が、また巻物の芯の留め具を押した。

 テオが言う。

「金具の音です。さっきより強い」

『留め具への圧力増加。噛み合わせが壊れます』

「何秒?」

『二秒』

「もう一度だけ噛ませる」

 セイは右足を半歩前へ送った。

 踏み込むためではない。

 自分の重心を安定させ、石畳の下へ意識を通すための一歩だ。

 右足の親指の付け根へ体重を乗せる。

 左足は後ろで支える。

 膝を曲げすぎない。

 腰を落としすぎれば、次の動きが遅れる。

 足元の土へ、ほんの少しだけ力を通す。

「ソイルリペア」

 進行台の巻物の芯は壊さない。

 進行役の指も止めない。

 黒い粉の周りの砂だけを、もう一度固める。

 札へ届く合図がわずかに遅れ、留め具の動きが中途半端な位置で止まった。

 カチッ。

 進行役の指が震える。

 民から見れば、巻物を持つ手が少し迷っただけに見える。

 だが、セイには分かる。

 あの男は焦っている。

「進行役、巻物を下ろしてください」

 コルトが重ねて言った。

「巻物と承認印を確認します。鐘杖係は、その場から動かないでください」

 進行役の目が細くなった。

「確認など不要だ。王族参列の鐘は、すでに鳴っている。鐘が鳴った以上、進行は止められない」

「鐘が鳴ったことと、確認を飛ばすことは別です」

 コルトはすぐに返した。

「王族代理参列者の名を読めば、民の祈りが動きます。だからこそ、確認を飛ばせません」

 リアンも一歩前へ出た。

「祈り手の方々は、まだ導かないでください。民が祈り始める前に、祈り台の安全を確認します」

 祈り手たちの手が止まる。

 ミナは確認札を掲げたまま、コルトの後ろで唇を引き結んでいた。

 ひとりで前に出ているわけではない。

 けれど、逃げてはいない。

 コルトが引いた判断の線の中で、自分の役目を果たしている。

 副隊長が低く言った。

「王女側確認札……本物です」

 民のざわめきが変わる。

 疑いではなく、待つ空気へ。

 進行役の第一声を待っていた広場が、今度は正式確認を待ち始めた。

 セイは思わず息を吐いた。

 奪われかけた主導権が、一瞬だけ戻った。

「止まったか」

 バルドが低く言った。

「進行台は、です」

 セイはすぐに返した。

「相手は、進行台を止められた時の手も持っているはずです」

 その言葉を聞いたように、鐘杖かねづえを持つ男が一歩前に出た。

 先端近くの小さな鐘が、ちり、と鳴る。

 足元から、黒い細い筋が伸びた。

 セイの目にだけ見える、汚れた通り道。

 鐘杖の先から、進行台の床へ。

 床から祈り台へ。

 祈り台から、王城の奥へ。

「鐘杖も仕掛けです」

 セイは言った。

「副隊長、鐘杖を持つ男を止めてください。杖を床につかせないでください」

 副隊長が声を飛ばす。

「鐘杖係、待機! 杖を下ろすな!」

 だが、鐘杖係は聞かなかった。

 杖の石突きが、床へ落ちる。

 その瞬間、進行台の下から黒い光が薄く走った。

 民には見えない。

 だが、セイには見える。

 祈りを利用するための通り道が、一瞬だけ開いた。

『危険です。鐘杖の接地で、巻物の芯に仕込まれた札を迂回しています』

「迂回されたか」

 セイは舌打ちしかけて、飲み込んだ。

 壊すな。

 倒すな。

 条件だけを崩せ。

 鐘杖が床につくことで通り道が開くなら、杖が床に触れている場所をずらせばいい。

 杖を折る必要はない。

 床の接地を、ほんの少しだけ変える。

「アースシフト」

 進行台の床そのものは動かさない。

 鐘杖の石突きが触れている一点だけ、その下の板と土を薄く盛り上げる。

 人の目には分からない程度。

 だが、杖の接地面はずれる。

 カツン、と乾いた音がした。

 鐘杖がわずかに跳ねる。

 先端近くの小さな鐘が、ちり、と短く鳴った。

 鐘杖係の手が揺れる。

 黒い光が途切れた。

『迂回信号、途切れました』

「今!」

 近衛二人が鐘杖係の両腕を押さえた。

 別の二人が進行役の前へ立つ。

 剣は抜かない。

 槍も向けない。

 ただ、巻物を読むための正面を塞ぐ。

 進行役は、そこで初めて顔を歪めた。

「これは王族参列の正式な進行である! 妨げる者は、王家の祈りを妨げる者だ!」

 声が広場へ響いた。

 民の間に動揺が広がる。

 危ない。

 その言い方は、民に祈らせる。

 王家の祈りを守れ。

 代理を守れ。

 そう聞こえる。

 セイはすぐに声を出した。

「副隊長、言い返してください。王家の祈りを守るために確認している、と」

 副隊長は迷わなかった。

「王城警備より告げる! 王家の祈りを守るため、開始時間変更の承認印、王族本人が祈りの代表に立てないという正式記録、代理参列の承認、王女側の確認、祈り台の安全を確認している! 民はその場を動くな! 祈りを始めるな! 王家の祈りは、王城が守る!」

 広場が止まった。

 祈ろうとしていた手が、胸の手前で止まる。

 誰かが「王城が守るなら」とつぶやいた。

 その小さな声が、周りへ伝わる。

 祈るな、ではなく、待て。

 その形なら、民は従える。

『祈り反応、抑制されています。黒い板、起動条件に届いていません』

 セイは深く息を吐いた。

 コルトが状況を見て動く順番を決めた。

 リアンが祈りの場を止めた。

 ミナが確認札を出した。

 副隊長が、王城警備の言葉で民を支えた。

 テオが、名だけを聞かせないように声の通り道をずらした。

 サラが、祈らずにルーデン卿を支えている。

 小さな勝ちが、いくつも重なっている。

 だが、まだ終わっていない。

 近衛が進行役の巻物へ手を伸ばす。

 進行役は腕を引いた。

 その動きに合わせて、巻物の芯の端にある留め具の奥が黒く光った。

『札が自壊準備に入りました』

「自壊?」

『押収される前に、札の記録を焼く構造です。黒い板と同じ成分が使われています』

「燃やされたら、代務者の証拠が消える」

 セイは歯を食いしばった。

「サラさん、祈らずに札を止める方法はありますか」

「祈らずに、ですか」

「はい。祈ると利用されます。聖職者の知識だけで、焼ける札の扱いを」

 サラは一瞬だけ目を閉じた。

 祈りではない。

 記憶をたどるための沈黙だ。

「守り札の逆です。普通の守り札は、熱を持ったら水晶の線へ逃がします。あの黒い札が同じ形なら、逃げる先を別のものへ移せば、焼ける前に力を抜けます」

「別のもの?」

「空の水晶片。まだ祈りを入れていない、何の役目も持たない水晶です」

 副隊長が兵へ向いた。

「予備の記録水晶を!」

 兵が腰袋から小さな透明水晶を取り出した。

 サラは受け取り、祈らずに確認した。

「これは空です。使えます」

「近衛に投げられますか」

「届きます」

「札に触れさせるんじゃなく、巻物の芯の下に置かせてください。黒い札が逃がそうとしている熱を、空の水晶へ吸わせます」

 サラはうなずいた。

「近衛の方! 巻物の芯の下へ、この水晶を置いてください! 札に直接触れないで!」

 近衛の一人が振り向く。

 サラは水晶を投げた。

 高く投げない。

 弧を小さくして、近衛の胸元へまっすぐ届かせる。

 近衛は片手で受け取り、進行役の腕を押さえている仲間と目を合わせた。

 一人が進行役の手首を固定する。

 もう一人が巻物の芯の下へ水晶を滑り込ませる。

 黒い札が、じゅ、と嫌な音を立てた。

 水晶の中に、墨を垂らしたような黒が広がる。

『自壊熱の一部が空水晶へ移動。札の焼失、遅延』

「完全には止まらない?」

『止まりません。ただし、記録の一部は残ります』

「十分」

 進行役が暴れた。

「触るな! それは王族代理の――」

 言い終える前に、近衛が腕をねじり上げた。

 乱暴ではない。

 だが逃がさない押さえ方だった。

 巻物が開く。

 巻物の芯の端が外れ、内側に黒い薄札が見えた。

 その端には、小さな文字が刻まれている。

 セイの位置からは読めない。

『ヒトリで確認します。光量を落としたまま、進行台の柱影から接近します』

 淡い小鳥が、広場の影を滑った。

 柱の陰から進行台へ近づき、黒い薄札の端に刻まれた文字を捉える。

 リラがその像を整理し、セイの頭の中へ短く返した。

『札の文字を確認。上段は王城祈礼補助符。中段は代理参列同期符。下段に承認印らしき刻印があります』

「承認印?」

『読み取り中。黒い熱で一部欠損。ですが、王城祈礼局の印です』

 セイは喉が渇くのを感じた。

「誰の承認ですか」

『個人名は焼けて欠けています。完全には読めません。ただし、下位文官の印ではありません。上級文官の承認形式です』

 副隊長の顔が変わった。

「王城祈礼局の上級文官だと?」

「その人に王族代理を単独承認する権限はありますか」

「ありません。王族代理参列は、祈礼局だけで決められるものではない。王城警備、王家側近、祈礼局の照合が必要です」

「なら、偽の承認か、権限の盗用です」

「ええ。しかも祈礼局の中に、協力者がいる可能性が高い」

 コルトが進行台の下からこちらを見た。

 いつもの冷静な顔だったが、目だけは険しい。

「セイ! 進行台は止めた。でも、これで終わりじゃないんだろ!」

 セイはうなずいた。

「はい。相手は、進行台を止められた時の手を持っているはずです」

 その時、床に寝かされていたルーデン卿が、かすかに動いた。

 サラがすぐに膝をつく。

「ルーデン卿?」

 男の唇が震えた。

 声はほとんど出ない。

 それでも、セイは近づいて聞いた。

「……上……」

「上?」

「……礼……室……」

 サラが顔を上げる。

「祈礼室、ですか?」

 ルーデン卿は苦しげに息を吸った。

「……制……御……」

 セイの心臓が、一段強く鳴った。

 祈礼制御。

 それは、広場の進行台ではない。

 保管室でもない。

 祈り台でもない。

 もっと上。

 王城の中で、祈礼全体を管理する場所。

 リラの声が重なった。

『セイ。王城上層方向に、新しい黒い反応を確認しました』

「どこですか」

『広場ではありません。保管室でもありません。王城上層、祈礼用の記録と確認が集まる部屋です。今の札の失敗を受けて、黒い大きな反応が起動準備に入っています』

 副隊長が水晶板を握りしめた。

「上層の祈礼制御室か……!」

 その言葉を聞いた瞬間、セイの中で流れがつながった。

 進行台の読み上げは、最初の入口に過ぎない。

 止められた時のために、上層にも次の手がある。

 民の祈りを利用する。

 王族の祈りを止める。

 代理へ流す。

 その仕掛けは、広場だけでは終わらない。

「副隊長。進行役と鐘杖係を確保。巻物と黒い札は、サラさんの空水晶ごと隔離してください。祈りは使わないでください」

「承知」

「テオは音で上層への人の動きを拾ってください。走っている足音、扉を閉める音、金属を引きずる音。全部です」

「分かりました」

「バルドさんは廊下を押さえてください。俺が上へ行く道を開けます。ただし、民から見える場所では盾を構えないでください。戦いが始まったと思われると、民が助けを求めて祈ります」

「おう。守るけど、見せねえってことだな」

「はい」

 サラが立ち上がった。

「セイさん、私は?」

「ルーデン卿をお願いします。祈らずにできる処置を優先してください。どうしても祈りが必要なら、黒い板から一番遠い部屋へ移してからです」

「分かりました」

 コルトが進行台の下で声を上げる。

「こっちは確認を続ける! 祈り手も民も動かさない! セイ、上を止めろ!」

 リアンが続けた。

「祈りを守ります。利用させません」

 ミナは確認札を握りしめ、リアンの横でうなずいた。

「確認札は、こっちで守る!」

 セイは三人を見た。

 この人たちがいて良かった。

 そう思った。

 けれど、安心している時間はない。

 セイは副隊長へ向いた。

「上層へ行く権限はありますか」

「通常ならありません。ですが、今は王城警備上の緊急事態です」

「それで足りますか」

「足りさせます」

 副隊長は短く言い、水晶板へ命じた。

「上層警備へ。祈礼制御室を封鎖。王城警備副隊長権限で確認に向かう。中の者は記録を保全し、その場を離れるな」

 返答は、すぐには来なかった。

 沈黙。

 その沈黙が、何よりまずい。

 テオが顔を上げた。

「上から足音です。二人、いや三人。走っていません。重いものを動かしています」

「重いもの?」

「床を引きずる音です。板か、箱か……大きさまでは分かりません」

 リラが低く告げる。

『上層の黒い大きな反応、増大。祈り台下の黒い板と再接続しようとしています』

 セイは広場を見た。

 民はまだ待っている。

 進行台は押さえた。

 名は読ませなかった。

 コルトが状況を見て確認の形を作り、リアンが祈りの場を止め、ミナが王女側の確認札を示した。

 敵が握ろうとした式典の流れを、正しい手順で押し返した。

 けれど、上では別の誰かが、次の仕掛けを動かしている。

「行きます」

 セイは言った。

「名を読ませないだけじゃ足りない。上で動き始めた黒い大きな反応を止めないと、次は王城そのものが祈りを奪う」

 その時、水晶板が遅れて光った。

 上層警備からの返答だった。

『祈礼制御室より返答。確認不要。儀式は予定通り進行する』

 副隊長の顔が凍った。

 水晶板の向こうで、知らない男の声が続く。

『王族代理参列者の名は、すでに制御室側で登録済みである』

 セイの背筋が冷えた。

 広場では名を読ませなかった。

 だが、上層ではもう登録されている。

 リラの声が、今までで一番硬く響いた。

『セイ。祈礼制御室の黒い大きな反応が、王族代理参列者の名を直接、祈り台へ送信し始めました』

「誰の名ですか」

『確認中。進行台で止めた偽の代理名ではありません』

 セイの呼吸が止まった。

『送信先が変更されています。黒い大きな反応は、たった今、確認のために進行台へ出た三人へ、民の祈りの向きを重ねようとしています』

 セイの目には、広場の祈り台が黒く光ったように見えた。

 民にはまだ、祈り台の飾り水晶が淡く揺れただけに見えている。

 だが、セイには分かる。

 黒い光は民の足元ではなく、コルト、リアン、ミナの足元へまっすぐ伸びていた。

 ミナの白い確認札の内側に、黒い筋が走る。

 外から見れば、札の表面に細い影が落ちただけに見えるかもしれない。

 だが、セイにはその影が祈りの通り道へ食い込もうとしているのが見えた。

 コルトが即座にミナの前へ出る。

「札を下げるな! でも祈るな!」

 ミナは息をのみ、確認札を胸から少し離した。

「分かった!」

 リアンの胸元の聖職者札が、かすかに鳴る。

 祈っていない。

 それなのに、祈りを引き寄せる音がした。

 セイは一歩踏み出した。

 だが、進行台までは遠い。

 民の前で走れば、民の視線がセイへ集まる。

 王城警備が慌てれば、広場の民が動揺する。

 民が動揺して胸に手を当てれば、祈りが黒い板へ流れる。

 止めたい。

 だが、止め方を間違えれば、三人ごと祈りが黒い板へ流れる。

『危険の線を越えます』

 リラの声が短く落ちた。

『黒い大きな反応は、リアンを祈りの入口として認識しました』

 リアンの膝が、ゆっくりと折れた。

 彼女は倒れながらも、胸の前で両手を開いた。

 祈らないために。

 民の祈りを、自分の中へ入れないために。

「セイさん……」

 リアンの声は、広場のざわめきの中でも届いた。

「私が祈る前に、止めてください」

 その瞬間、祈り台の飾り水晶が、民にも分かるほど強く鳴った。

 甲高い音ではない。

 だが、広場の全員が思わず顔を上げるには十分な音だった。

 進行台の伝声水晶が勝手に光る。

 進行役は口を閉じている。

 鐘杖係も押さえられている。

 それなのに、男の声が広場全体へ響いた。

『祈礼制御室より宣言する。王族代理参列者、エルディア教会所属、聖職者リアンを承認した』

 広場の民が、いっせいにリアンの名を聞いた。


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