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理を灯す少年 〜祈り万能世界で、AIを宿す俺だけが“理論魔法”を使えた件〜  作者: いい加減工房


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第10話 南側の灯籠の線

 次の日の朝、教会の小さな鐘の音で目を覚ました。

 昨日と同じ天井。

 昨日とは、少しだけ違う胸の重さ。

『おはようございます、セイ』

「おはよう、リラ」

 声に出して挨拶しながら、胸元の木札にそっと指を触れる。

 見た目は、昨日までと同じエルディア村ギルドの印が刻まれた札だ。

 でも、その裏側――理層の奥で光っている情報は、もう別物になっている。

『ギルドのマナ水晶ネット上の扱いは、正式にDランク冒険者になりました』

『証そのものは数日後の発送予定ですが、危険度判定や依頼の候補リストは、すでにDランク相当になっています』

「ギルドのマナ水晶ネットのほうがは仕事が早いな」

 冗談めかして呟くと、リラが小さく笑う気配がした。

『書類の移動より、信号のほうが速い世界ですから』

「まあ、そうだよな」

 ベッドから体を起こす。

 筋肉の張りはほとんどない。

 闘技場で木剣を振り回して、ギルマスとぶつかり合った翌日とは思えないくらい、体は軽い。

 それでも。

 胸のあたりにだけ、昨日とは違う重さが残っていた。

 ──正式なDランク。

 ──撤退を判断する役。

 どちらも、昨日の庭で受け取ったものだ。

「……よし」

 ひとつ息を吐いて、いつものように《清浄》で汗と匂いを落とす。

 服を整え、木札を首から提げる。

 今日は、もう「見習い」じゃない。

 Dランクとして、最初の一日だ。

 

 ギルドに着くと、いつもより少しだけ空気がざわついていた。

 カウンターの奥で書類をまとめている受付嬢が、俺を見て、ほんの一瞬だけ目を丸くする。

 すぐに、いつもの仕事用の笑顔に戻ったけど、その一瞬は見逃さなかった。

『ランク変更の通知が入っているはずです』

『受付側の一覧でも、セイは“教会預かり見習い”から“エルディア所属Dランク”に切り替わっています』

(……やっぱり、もう広まってるのか)

 胸の奥が、ほんの少しだけ縮む。

 昨日、庭で聞かされたときよりも、現実味がある。

「セイ!」

 奥の扉が開いて、アヤが顔を出した。

 その後ろから、コルト、ミナ、リアンも順番に出てくる。

「おはようございます、セイさん」

「おはよ、セイくーん。Dランク様になっても、庶民の友でいてね?」

「……おはよう。今日から、よろしく頼む」

 いつもの顔ぶれに囲まれて、少し緊張がほどける。

「中で話すぞ」

 最後に出てきたガランさんが、顎で奥の部屋を指した。

 

 ギルドの小会議室に入ると、木の机に地図が広げられていた。

 エルディア村を中心に、北と南へ伸びていく道。

 その端に、小さく描かれている灯籠の印。

「今日の依頼は、村の南側の灯籠の調査だ」

 ガランさんが、地図の一点を指で軽く叩く。

「この前、北側の灯籠で濁りの暴走が起きたのは、お前たちが一番よく知っているな。南側も同じとは限らんが……状況を確認しておきたい」

「危険度は?」

 アヤが、すぐに仕事用の声になる。

「現時点の判定は“中程度”。ただし、北側と同じパターンに移行している可能性がある」

 そう言ってから、ガランさんが俺の方を見る。

「セイ。今日の扱いだが」

「はい」

「危険度は、ギルドとして“外縁一歩手前”と判断する。だから今日は、《リュミエルの灯》+セイという形での合同依頼だ」

 外縁一歩手前。

 村の外れ、けれど本格的な森の中までは踏み込まないライン。

 昨日聞かされた言葉が、すぐに頭の中でつながる。

「……撤退を判断する役として、行くってことですね」

「ああ」

 ガランさんは、はっきりと頷いた。

「前線はこれまでどおりアヤたち。《灯》が張る。セイ、お前は一番後ろから全体を見る。その上で、“ここから先は危険が大きすぎる”と判断したら――」

 そこで、視線がアヤたちに向く。

「セイの声を優先して一度下がる。それでいいな」

「了解です」

 アヤが、即答する。

 コルトも短く「了解」と言い、ミナが「はいはい、セイ君撤退判断役さまの言うことはちゃんと聞きますとも」と肩をすくめた。

「“さま”はいらない」

「えー? Dランク様なのに?」

 ミナの冗談に、リアンがくすりと笑う。

「でも、本当に……セイさんの判断は、私も信頼しています」

「プレッシャーかけるなよ」

『人気者ですね』

(いや、そういうまとめ方をするな)

 内側と外側から軽くツッコまれながら、俺は改めて地図を見る。

 村の家々を囲む灯籠の円。

 そこから少し離れた南側の一本だけ、線が微妙に濁っているように見えた。

 昨日、新しく引かれた“撤退の線”。

 今日向かう灯籠も、その延長線上にある。

「じゃあ、出発は?」

「今からだ」

 ガランさんが椅子から立ち上がる。

「出る前に、ひとつだけ」

 視線が、俺の胸元の木札に落ちる。

「さっき、本部からの確認が入った。書類の処理を前倒ししてくれたらしい」

「え?」

「扱いだけじゃなく、正式にDランク登録が通った。札そのものは届いていないが……お前は今日から、“名実ともに”Dランクだ」

「……はい」

 短く返事をしながら、喉の奥が少し乾くのを感じた。

 見習いという薄い殻が、完全に剥がれ落ちた感覚。

 肩に乗せられた重さは、昨日よりも少しだけはっきりしている。

『大丈夫です、セイ』

 リラの声が、静かに重なる。

『重さの意味は、昨日、もう一度確認しました。今日は、それを実際に運用していくだけです』

「……そうだな」

 俺は小さく頷いた。

「じゃあ、行ってこい」

 ガランさんの言葉を背に受けて、俺たちはギルドを後にした。

 

 南側の灯籠へ向かう道は、北側よりも少し緩やかだ。

 畑の間を抜ける土の道。

 左側には、低い丘とまばらな木々。

 右側には、遠くまで続く畑の線。

 その先に、小さく灯籠の影が立っている。

「フォーメーション、いつもどおりで行くわよ」

 アヤが、きびきびと指示を出す。

「先頭、私。その少し後ろ左にコルト。右にミナ。真ん中にリアン。一番後ろにセイ」

「了解」

「了解」

「はーい」

「分かりました」

 それぞれが短く答え、位置につく。

 俺は一番後ろ。リアンから一歩分だけ距離を空けて歩く。

 足元の土は乾いていて、踏みしめるたびに小さな砂埃が上がる。

 靴底から伝わる感触が、村の中より少しだけ荒い。

『マナの流れ、確認します』

 リラが告げる。

 視界の端に、半透明の地図が重なる。

 村の灯籠から伸びる光の筋。

 森の縁から滲み出る黒いもや。

 南側の灯籠に向かう線は、途中までは穏やかだ。

 けれど、灯籠の手前数十メートルあたりから、光と濁りの境目が少しだけ揺れている。

「……やっぱり、少し乱れてるな」

 思わず、前を歩くアヤに声をかける。

「なにか見える?」

「灯籠の周りのマナの流れが、北側ほどじゃないけど、少し荒れてる。完全な暴走じゃないけど、このまま放っておくと危険度が上がりそうな感じ」

「なるほどね」

 アヤが短く息を吐く。

「近づきすぎない位置で、一度止まって様子を見るわ」

『妥当な判断です』

(だろ?)

 アヤの背中を見ながら、俺も歩幅を少しだけ狭めた。

 

 灯籠から、二十歩ほど手前の位置で足を止める。

 ここから先の地面には、かすかに黒い染みのようなものが点々と広がっていた。

 ぱっと見には、ただの湿った土にしか見えない。

 でも、俺の視界では、その一つ一つから細い黒い筋が立ち上り、灯籠の周りへと伸びている。

「……嫌な流れ方してるな」

 黒い筋の先で、灯籠の光が揺れている。

 光の膜と濁りが押し合い、その境目が細かく震えていた。

『北側の灯籠と似ていますが、まだ限界手前です』

『今なら、外側から押し返す形で済みます』

(中に踏み込む必要はないってことか)

『はい。ただし、外からでも一時的な暴走は起こり得ます』

「アヤ」

 俺は一歩前に出て、アヤの横まで歩く。

 右足を半歩だけ前に出し、そこから前の地面を見る。

「ここを、1つの境目にしたい。ここから内側は、“いつでも下がれるつもりでいるライン”ってことで」

「了解。じゃあ、この位置を“戻るライン”にする」

 アヤが振り返り、全員を見渡す。

「コルト、ミナ、リアン。ここから先に踏み込むのは、一時的に押し返すときだけ。セイが“戻ろう”って言ったら、すぐにここまで戻って体勢を立て直すわよ」

「了解」

「りょーかい」

「分かりました」

 それぞれの答えを聞いてから、俺は小さく息を整えた。

 撤退を判断する役としての、最初のライン。

 引き際を決めるための目印を、頭の中にしっかり刻み込む。

『記録しておきます。南側灯籠、撤退ライン一つ目』

(頼む)

 リラとのやりとりを終えた直後だった。

 灯籠の光が、ぐらりと揺れた。

 

 灯籠の周囲の空気が、急に重くなる。

 淡い光の膜から、黒い影がはみ出した。

 最初は細い筋だったものが、まとまりになり、やがて塊へと変わっていく。

「来るわよ!」

 アヤが叫ぶ。

 先頭に立ったアヤが、右足を一歩前に出す。

 重心を低くし、剣を構える。

 コルトが左足を半歩後ろに引き、弓を引き絞る準備に入る。

 ミナが右足を半歩前へ出し、手のひらを灯籠の方へ向ける。

 リアンは両足を揃えて一歩分下がり、胸の前で手を組んだ。

 俺は、一番後ろで左足を半歩後ろに引く。

 全員の背中が視界に入る位置をキープしながら、線の流れだけを意識する。

 灯籠の足元から、黒い塊が三つ、地面の上に溢れ出た。

 一つは、獣のように低い姿勢で。

 一つは、人の上半身だけが溶けたような形で。

 もう一つは、ただの塊だったものが、歩くたびに手足を生やそうとぐずぐず形を変えている。

 現実の視界では、黒い泥のようなものが地面を這ってくるだけだ。

 だが、俺の線視界では、その輪郭から無数の黒い線が伸び、周囲の土や空気に絡みついていた。

『濁りの密度、中程度。暴走パターンB。前方三体、距離二十歩、接近速度——歩行の二倍』

「前方三体、距離二十歩、走ってくる速度。コルト、一番右の塊を優先で。ミナ、中央に備えて。アヤは左を抑えて」

「了解」

「任された!」

「わかった」

 指示を出しながら、俺は足場も確認する。

 手前の土はまだ乾いている。

 だが、あと十歩進んだあたりから、黒い染みが多くなる。

 そこまで踏み込むかどうかは、一度押し返してからだ。

「リアン、準備は?」

「いつでもいけます」

 リアンが静かに答える。

 祈りの気配が、周囲の空気を少しだけ整えていく。

 黒い塊のうち、一番左の獣型が、先に距離を詰めてきた。

 四本の足のようなものを地面に叩きつけるたび、泥水のような飛沫が上がる。

 その後ろから、上半身だけの塊が腕を振り上げ、もう一つの塊が揺れながらついてくる。

「アヤ、左来る!」

「任せなさい!」

 アヤが、左足を一歩前に出す。

 重心を前に送り、そのまま剣を低く構え直す。

 黒い獣型が飛びかかる瞬間、アヤは右足を一歩分だけ横に踏み出した。

 重心をその足へ移し、体をわずかにひねる。

 獣型の突進が、アヤのすぐ隣を通り過ぎる。

 剣が、獣型の首元――らしき部分を、横から薙いだ。

 黒い塊が、力を失ったように地面へ崩れ落ちる。

 そこから噴き出した濁りが、灯籠の光に触れて薄くなっていく。

『一体、行動不能。残り二体』

「右!」

 俺が声を上げるより少し早く、コルトの矢が放たれた。

 コルトが左足を半歩前に出す。

 弓を引ききった姿勢から、矢がまっすぐ前に飛ぶ。

 上半身だけの塊の腕が、こちらに向かって伸びかけた。

 その腕の付け根に、矢が突き刺さる。

 黒い肉のようなものが、ぱちんと弾けた。

 伸びていた腕が途中で途切れ、そのまま崩れ落ちる。

『右側の塊、動き鈍化。あと少し』

「ミナ!」

「了解、《風刃》!」

 ミナが右足を一歩前に出し、手のひらを中央の塊に向ける。

 短い詠唱とともに、目に見えない風の刃が走った。

 中央の塊の表面が、薄く削り取られる。

 黒い泥が細かく飛び散り、そのたびに灯籠の光がそれを焼き払っていく。

「リアン!」

「《浄化の祈り》!」

 リアンが胸の前で手を組み、祈りの言葉を紡ぐ。

 柔らかな光が、灯籠の周りと俺たちの足元に広がった。

 祈りの光が、黒い塊の表面に触れるたび、濁りが少しずつ薄くなる。

『濁り密度、さらに低下。暴走パターンBからAへ移行。危険度、下方修正』

(今のところ、前に出る必要はないな)

 俺は、一歩も前に出ていない。

 ただ、足場と線を見て、必要な情報を伝えているだけだ。

 それでも、戦いはちゃんと前で進んでいる。

 アヤの剣。

 コルトの矢。

 ミナの風と、リアンの祈り。

 彼らの動きに、灯籠の光と俺の視界が重なっていく。

「コルト、左の残りを!」

 アヤの声に、コルトが右足を半歩前に出し、もう一本矢を放つ。

 獣型の残った黒い塊が、完全に地面に溶けた。

 中央の塊も、ミナとリアンの連携で徐々に薄くなっていく。

『残り一体、危険度低。周辺の濁りも、少し引き始めました』

(よし)

 俺は一度深く息を吸い、吐いた。

「アヤ、この一体で終わりにしよう」

「……まだ押せるわよ?」

 アヤが、ちらりと振り返る。

「押せるけど、ここから先は“森側の様子を見に行きたい”って欲が出る。今の薄くなり方だと、灯籠の内側は一時的に安定するはずだ」

 俺は、土の上の黒い染みを指さした。

「問題は、ここより先の森の中だ。今日の依頼は“灯籠の調査”まで。森の奥は、別の準備がいる。ここで線を引いたほうが、全体としては危険が少ない」

 言葉にしながら、自分の胸の重さをもう一度確かめる。

 撤退を判断する役としての言葉。

 ここで「まだ行ける」と言えば、森の中へ踏み込む流れになる。

 それは、今の情報だけではリスクが高すぎる。

 ――だから。

「撤退だ」

 俺は、はっきりと告げた。

「この場の濁りは、《灯》の皆のおかげで十分に薄くなった。灯籠の状態はギルドに報告する。森の中の調査は、別枠で本隊か、それに準じる準備をした上でやるべきだと思う」

 一瞬だけ、静寂が落ちた。

 次の瞬間。

「了解」

 アヤが、迷いなく頷いた。

「撤退ラインに戻るわ。全員、一度引いて体勢を整える」

「了解」

「分かった」

「はい」

 コルト、ミナ、リアンも、それぞれ短く答える。

 俺は、一歩だけ後ろに下がった。

 リアンもそれに合わせて一歩下がる。

 アヤたちも順番に下がり、さっき決めた“戻るライン”の位置まで戻ってくる。

 灯籠の周りでは、まだ少しだけ黒い影が揺れている。

 けれど、それはさっきのようにこちらへ飛びかかってくる気配ではなかった。

『撤退ラインまで後退完了。灯籠周辺の危険度、現在“中から低寄り”』

(よし。今日のところは、ここまでだな)

 胸の奥で、何かが「かちり」と音を立てた気がした。

 前へ出るための線ではなく。

 生きて帰るための線を、自分の口で引いた、その感触。

 

 村に戻る道は、来たときより少しだけ静かだった。

 誰も大声で喋らない。

 それでも、空気が重いわけではない。

 ただ、それぞれがさっきの戦いと、撤退の判断について考えているのが分かった。

「……ねえ、セイ」

 しばらく歩いたところで、アヤが口を開く。

「なんか、ものすごく“途中でやめた感”があって、正直、すっきりはしないんだけど」

「うん」

「それでも、あそこで線を引いたのは、やっぱりそれが一番“生きて帰る確率が高い”ってことなんでしょ?」

「そう思ったから、撤退だって言った」

 正直に答える。

「森の中まで見に行ってたら、新しい情報は増えただろうけど、その分だけ危険も増えた。今日のメンバーと準備だと、あそこで止めておくのが一番バランスがいい」

「ふーん」

 アヤが、わざとらしく鼻を鳴らす。

「……なら、仕方ないわね」

「納得してない言い方だな」

「納得はしてる。でも、悔しいの。私、前に出て斬るのが仕事だから」

 それは、アヤらしい本音だった。

「でも、撤退判断役が“戻る”って言ったら戻る。そう決めたのも、私たちだし」

 そう言って、アヤは前を向き直る。

「次に森側を見に行くときは、そのときにまた考えましょ。もっと準備をして、もっと人を連れて行って、それでも“ここまで”って線を引くかどうか」

「……ああ」

『よかったですね、セイ』

(ああ。……正直、ちょっと怖かったけどな)

『それは、“危険”を正しく見ているということです』

 リラの声が、少しだけ誇らしげに響いた。

『前に出なかったことも、勇気の一つです』

(……そういう言い方は、ずるいな)

 苦笑しながら、俺は少しだけ歩幅を広げた。

 

 ギルドに戻ると、すぐに報告会になった。

 会議室の机の上に、簡単な図が描かれる。

 南側の灯籠の位置。

 濁りが濃かった場所。

 俺たちが決めた撤退ライン。

「ふむ」

 説明を聞き終えたガランさんが、腕を組んで唸った。

「灯籠の周りだけなら、今日の対応で一旦は持つだろう。だが、森の中からの流れは、やはり気になるな」

「森の方までは、今日のメンバーと準備だと危険が高いと判断しました」

 俺は、自分の判断をそのまま口にする。

「灯籠周辺の濁りを薄くできたのと引き換えに、森の中の様子を見ることは諦めました」

「それでいい」

 ガランさんは、迷いなく頷いた。

「今日の依頼は“南側灯籠の調査”だ。森の中まで踏み込むのは、別の依頼の範囲だと割り切るべきだろう」

 そう言ってから、俺の方を見据える。

「セイ。今日が、“撤退を判断する役”としての最初の実地だった」

「はい」

「お前の判断は、ギルドとしても妥当だと評価する。あそこで“まだ行ける”と言って森の中へ踏み込んでいたら、今日の依頼の線引きがぐちゃぐちゃになっていた」

 胸の奥にあった小さな不安が、少しだけ軽くなる。

「ありがとう、ガランさん」

「礼を言うのは、こっちの仕事だ」

 ガランさんは、わずかに口元を緩めた。

「アヤたちも、よくやった。撤退の号令に迷いなく従ったのは、簡単なことじゃない」

「そりゃまあ、決めたからね」

 アヤが肩をすくめる。

「“撤退判断役の言うことは聞く”って、私たちが言い出したルールだし」

「え、私、そんな偉そうなこと言いましたっけ?」

「言ってたわよ、ミナ。ノリよく」

「そんなぁ」

 ミナの嘆きに、コルトが小さく笑う。

「ルールを守るのは、悪いことではない」

「そうそう。ミナの“ノリ良く”は、だいたい正しい方向に働きますから」

 リアンのフォローに、部屋の空気が少し和らいだ。

「よし。今日のところは解散だ」

 ガランさんが手を叩く。

「アヤたちは、しっかり休め。連日で外に出しているからな」

「了解」

「セイ、お前は――」

 そこで言葉を切り、少しだけ考えるように顎に手を当てた。

「今日の午後は、自由にしていい。教会で休んでもいいし、ギルドの閲覧室を使ってもいい」

「閲覧室?」

「魔法や魔物の資料を置いてある部屋だ。もともとは学院や教会から送られてきた写本だが、今はギルドの共有財産になっている」

 その言葉に、胸の奥で何かが反応した。

 昨日まで、「見習い」として曖昧だった立場。

 今日から、「Dランクとして正式に登録された冒険者」。

 その違いが、こういうところにも出てくる。

「……一つ、お願いしてもいいですか」

 自分でも、少し緊張しているのが分かった。

「なんだ」

「明日、アヤたちが軽い依頼に出るとき。俺は、ギルドに残ってもいいでしょうか」

 アヤたちが、一瞬だけこちらを見る。

「南側の灯籠も、北側の灯籠も、森も。全部まとめて考えるには、俺の中の“理層の引き出し”がまだ足りない気がしていて」

 言葉を選びながら続ける。

「魔法の仕組みや、濁りの性質。祈りとの関係。そういうのを、一度ちゃんと勉強しておきたいんです」

 ガランさんが、少しだけ目を細めた。

「……勉強、ね」

「はい。Dランクになった責任って、“前に出て戦うこと”じゃなくて、“ちゃんと理解した上で判断すること”だと思うので」

 自分で言いながら、少し恥ずかしくなってくる。

 でも、ここで言わなければ、たぶん言う機会を逃す。

 しばらくの沈黙のあと。

「いいだろう」

 ガランさんが、あっさりと頷いた。

「明日、アヤたちは村の周辺の軽い依頼を回ってもらう。セイはギルドに残って、閲覧室を使え。魔法の基礎と、濁りに関する資料を用意しておく」

「ありがとうございます」

 胸の奥に、新しい線が一本引かれた気がした。

 戦いの線ではなく。

 祈りと理をつなぐための、学びの線。

『セイ』

(ん)

『明日は、“理解のための一日”になりそうですね』

「そうだな」

 俺は、小さく笑った。

「生きて帰るための線を引くなら、その前に世界の仕組みを知らないとな」

 南側の灯籠から伸びる光の筋。

 そこへ流れ込もうとする、黒い濁りの川。

 村の人たちの暮らしの線。

 アヤたちの剣と祈りの線。

 そして、俺の“撤退を判断する役”としての線。

 それら全部が、どこかでまた交わる未来を想像しながら。

 俺は、ギルドの窓から差し込む光を一度見上げてから、深く息を吐いた。

 まだ誰も開いていない、本棚の奥のページをめくるように。

 明日の学びの一日を、頭の中でそっとなぞっていった。


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