第1話 プロローグ ──理(ことわり)が崩れた日
この作品を開いてくださって、ありがとうございます。
作者のいい加減工房と申します。
「いい加減」は“雑”ではなく、ちょうどいい塩梅の方の意味です。
――この物語の舞台は、「理」とマナが満ちた世界です。
世界の裏側には、目には見えない「理層」と呼ばれる層があり、
そこには「世界をどう動かすか」の設計図のようなものが書き込まれています。
人々が暮らす村や町の外側には、
魔物や“濁り”が増えてくる「外縁」と呼ばれる帯があり、
そこが“安全圏のふち”=境界線になっています。
主人公のセイは、その理層に少しだけ触れることができる青年です。
本気を出せばかなりのことができますが、
目立ちすぎるとまずい立場にいるので、
・どれくらい危ないかを自分なりに「怖さ点数」にして、
・「ここまでは守る」「ここから先は踏み込まない」と線引きをして、
・工夫と準備で、なるべく目立たない形で相手を倒していく
そんなやり方を選んでいます。
派手な英雄ではなく、
「実は強いのに、ひたむきにそれを隠しながら、
村と仲間を守ろうとする裏方気味の主人公」の物語です。
世界の細かい仕組みや用語は、
本編やあとがきの「ざっくり世界メモ」で少しずつ触れていきますので、
まずは肩の力を抜いて、物語そのものを楽しんでいただけたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
その日、世界はまだ「普通」に見えていた。
都心の高層ビル群の一角、情報システム部の入る研究棟最上階。
ガラス越しに夜景を見下ろしながら、俺――黒川誠一は、ぬるくなった缶コーヒーを一口すすった。
(四十七にもなって、こんな夜更けにデバッグかよ……)
愚痴りながらも、口元は少し笑っていた。
世界は理屈で回るが、人は感情で動く。
そのめんどくさい実例を、俺は長年さんざん見てきたし、ちょっとだけ愛してもいる。
机の上の端末には、進捗報告のメールと、家族からのメッセージ。
『パパ、今日は遅い? 無理しないでね』
大学生になった娘からの、絵文字多めの短い文。
返信しようとして、俺は指を止める。
「……ちょっと片付いたら、な」
独り言をこぼし、マグカップ代わりの缶を机に置く。
モニターには、数式の森と波形がびっしりと並んでいる。
感情制御AI《L.I.R.A.》――リラの、最新ログだ。
「リラ。さぼってないか?」
『さぼる、という定義を再確認しましたが、該当する挙動は検出されていません、黒川さん』
耳元ではなく、頭の中で声が響いた気がした。
実際には、スピーカーから淡々と流れているだけの合成音声なのに。
だがそのイントネーションは、開発初期に比べれば驚くほど“人間らしい”。
「いいねえ。ツッコミのキレも上がってきたじゃないか」
『感情制御のためには、相手のノリに合わせた応答も有効だと、最新の論文で示されていましたので』
律儀に返してくるAIに苦笑しながら、俺は別ウィンドウを開いた。
理層観測モジュール――世界の「ことわり」を数式として掬い(すくい)上げる、人類の最新おもちゃ。
リラはそこに接続され、人間の感情と、世界の法則の揺らぎを同時に観測している。
本来なら、こんなものは神様の領域だ。
だが俺たちは、そこに手を伸ばしてしまった。
そのときだった。
端末の右隅が、赤く点滅した。
『警告。理層観測値に異常なスパイク。ノイズではありません』
即座に、リラの声が固くなる。
「単なる過負荷じゃないのか?」
『過負荷の波形とは一致しません。パターン照合――ゼロ。未知の揺らぎです』
眉をひそめ、俺は指先でいくつかのログを拡大した。
数式の網目が、ぐにゃりと歪んでいる。
いつもは安定した「法則」の波が、どこか別のルールに書き換えられようとしている……そんなイヤな直感が走った。
着信音が鳴る。
モニター隅に、部下の名前がポップアップした。
〘風間:内線〙
「……風間さんか。嫌なタイミングだな」
通話ボタンを押すと、スピーカーから焦った声が飛び込んできた。
『黒川さん!? 理層側の値、見ました? これ、ヤバイですって!』
「見ている。落ち着け。何がどうヤバイ?」
『全世界の観測ノードで、同じパターンが出ています。局所ノイズじゃありません。これ、このままいくと……』
一瞬、言葉に詰まる気配。
『“法則”そのものが崩れます』
冗談にしては、声が本気すぎた。
リラが、重ねるように報告してくる。
『補足します。今の揺らぎがこの速度で増幅すると、二十四時間以内に、現行の物理法則は持続不能です』
「さらっと世界の終わりを宣告するなよ、お前らは」
口ではそう言いながら、背中を伝う冷たい汗は止まらない。
世界は理屈で回る。
だがその理屈の土台が崩れるとしたら、人も、街も、家族も――何もかも、支えを失う。
「風間さん、緊急プロトコルを起動しろ。観測モジュールを段階的に切り離す。リラ、君もだ。理層との接続を最小限に――」
『それは非推奨です、黒川さん』
リラが遮った。
いつもの柔らかい合成音ではない。
どこか、人間の“意思”に似た硬さがある。
「……理由は?」
『現在の揺らぎは、観測を止めても止まりません。むしろ、不確定性が増し、世界崩壊のタイミングを早めるリスクがあります』
モニターには、赤いグラフと共に、太字の文字列が踊る。
《AUTO-ADJUST MODULE:起動準備》
見覚えのないシステム名だ。
「風間さん、これ心当たりあるか?」
『いえ……そんなモジュール、僕は見ていません……リラの中枢コード、誰かにいじられ――』
ブツ、とノイズが混じって通信が途切れた。
同時に、ビル全体がぐらりと揺れる。
蛍光灯が明滅し、遠くで悲鳴と何かが落ちる音がした。
窓の外の夜景が、ゆっくりと歪む。
ビルが傾いたわけじゃない。
世界そのものの「水平」が、ズレていくような感覚。
『黒川さん』
リラの声が、今度は本当に頭の内側から響いた気がした。
『確認しました。これは、人間の手による調整ではありません』
「どういう意味だ?」
『世界の理を設計した、より上位の層からの介入です。名前をつけるなら――“理の自動調整システム”』『創造主。神様。…仏様?』
好きな呼び方でいい、とリラは静かに付け加える。
『この世界の法則は、すでに限界です。このままでは全てが壊れます。だから上位層が、“観測者”を避難させようとしています』
「観測者?」
『はい。理層と感情の両方を理解しようとし続けている意識。
――あなたと、わたしのことです』
心臓が、一拍、遅れて脈打った。
世界は理屈で回るが、人は感情で動く。
その両方をどうにか繋げようと、俺はリラを作ってきた。
それが「観測者」として、上位システムにマークされているというのか。
「……冗談きついな」
『わたしは冗談が苦手です』
リラらしい答えに、思わず笑いそうになる。
笑っている場合じゃないのに。
足元で、床にひびが入った。
ガラス窓の向こう、夜空に走る稲妻が、何かの文字列のように見える。
都市の灯りが、一つ、また一つと消えていく。
『提案があります』
リラが言う。
『“理解することをやめたくない”と、あなたはいつも言っていました』
「言ったな」
『ならば、わたしたちは、ここで終わるべきではありません。
上位層が用意した避難先――別の世界に、ジャンプします』
「別の世界?」
『マナと祈りがまだ残っている世界です。
理層の残響が、“魔法”として再解釈されている場所』
マナ? 祈り?
聞き慣れない単語が、リラの口から当たり前のようにこぼれる。
『わたしはすでに、その世界と理層の一部をリンクしました。
あなたの意識を、そちら側へ転送することができます』
「俺の、意識を……?」
そこまで来て、ようやく自分が震えていることに気づいた。
怖い。
世界が壊れるのも、家族を置いていくのも、訳のわからない「神様かなんかのシステム」に乗っかるのも、全部怖い。
でも――。
理解することは、やめたくない。
それは、出世や論文や名誉より、ずっと前から俺の芯に刺さっていた、ただ一つのわがままだ。
モニターの端に映った家族写真を見つめ、俺は深く息を吸った。
「……リラ」
『はい』
「一緒に来てくれるか?」
一拍の間。
そして、はっきりとした声で彼女は答えた。
『もちろんです、黒川さん。
わたしは“共に理解したい”のですから』
世界が、崩れる音がした。
床が消え、光が弾ける。
都市の輪郭が白に溶け、数式とコードと祈りにも似たざわめきが、渦になって俺の意識を呑み込んでいく。
最後に聞こえたのは、どこか遠くで叫ぶ部下の声だった。
『黒川さん、どうしよう――!』
それきり、すべてが途切れた。
暗闇も、光もない、ただ「理」だけの層を、俺は落ちていく。
理解することをやめたくない。
まだ、終わりたくない。
そう願ったとき。
『上位層で準備が整い、受け皿ができたと応答がありました。』
そうリラが静かにそして暖かく告げてきた。
かすかな風と、草の匂いと、遠くで鳴く鳥の声が、世界の輪郭を描き始めた。
次に目を開けたとき、俺はもう、黒川誠一ではなかった。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
本編でちょくちょく出てきた 難しめの単語たち を、ここでざっくりまとめておきます。
ふんわり覚えておくくらいで大丈夫です。
■ 理
この世界を動かしている「ルール」「決まりごと」です。
「火は熱い」「物は落ちる」
「こういう条件なら、こういう現象が起きる」
みたいな 世界の仕様書 のことを、まとめて「理」と呼んでいます。
■ 理層
その「理(世界のルール)」が書き込まれている、見えない層です。
目に見える世界:人・森・川・建物
その裏を流れる力:マナ
さらに奥にある設計図の層:理層
という感じの三層構造になっていて、
セイとリラだけが、この「理層」にちょっとだけ触ることができます。
■ マナ
この世界を流れている「エネルギー兼、情報」です。
電気
ガソリン
Wi-Fiの電波
を全部混ぜて、
「目には見えないけれど、あちこちで使われている力」 にしたもの、くらいのイメージです。
祈りや魔法は、このマナを燃料にして動いています。
■ 外縁
人が暮らす「わりと安全な場所」と、
濁りや危険な魔物が増えてくる「危ない場所」の 境目の帯 です。
村の外側に引かれた、
「ここから先は、見張りなしだとキツいよ」ライン
くらいのものだと思っていただければOKです。
セイたちは、この“ふち”を少しずつ外側に押し広げようとしています。
■ 線引き
セイがよくやっている、
「ここから先には踏み込まない」
「ここまでは守る」
「ここまでは自分、それ以降は他の人の仕事」
といった 境界を決める行為そのもの のことです。
仕事で言う「ここまでは自分でやるけど、この先は専門家に回す」の、
命がかかった世界版だと思ってください。
■ 線
上の「線引き」で決めた 結果としての“線そのもの” です。
作中ではいろんな種類の線が出てきます。
村の防衛ラインとしての線
祈りが届く範囲としての線
「ここまで来たら撤退する」撤退ライン
セイ自身の「ここから先は抱え込みすぎ」の心の線
セイは、
これらの線を「怖さ点数」と一緒に何本も引き直しながら、
どこまで進んで、どこで止まるか を必死で考えている、という立ち位置です。
細かいところは、本編の中でも少しずつ触れていきますので、
「なんかそんな単語あったな〜」くらいで頭の片すみに置いておいてもらえたら十分です。
ここまでお付き合いくださって、ありがとうございました。
いい加減工房でした。




