8.
タコ公園――いや、もうタコの滑り台は撤去されたから、ただの公園か。その公衆トイレの蛇口で俺は手を洗っていた。洗面台の鏡で制服に返り血が付着していないか、確認する。軽い土埃程度の汚れを見つける。制服を軽くはたけば土埃は落ちた。
「はー、くだらね」
鏡の中の自分を見つめながら、俺は呟いた。瞼に触れそうなほど伸びてボサボサの髪。血走った鋭い両目。乾燥してガサガサの唇。なんて人相の悪い男子高校生だろう。自分の頬を撫で、肌触りを確かめた。僅かに熱を帯び、じっとりとした汗が付着している。俺は顔を洗う。
顔にキズは一つもなかった。虐待を受けていた頃、顔だけは避けて乱暴された。シャツをめくり上げ、上半身を露出させる。へその周りに円を描くようにできた火傷痕。右の乳首から鎖骨へ一線に走る裂傷痕。肩から二の腕にかけて十数か所の刺傷痕。これでも上半身の前面だけだ。全身のキズを数えれば、この倍以上ある。
痣は消えても、深いキズ痕は消えない。めくり上げたシャツで顔に付いた水を拭い、服装を正した。
「見ぃーちゃった、見ぃーちゃったぁ」
俺が公衆トイレから出ると、入り口に一人の女が立っていた。
「……ここで何してんだ、天海」
「名瀬くんって、すごい乱暴者だ」
そう呟くと、天海はいたずらっぽく笑った。
「ねえ、名瀬くん、ごめんよ。私、一緒に帰ろうって声かけようとしたの。でも怖い顔してて機嫌悪そうだったから……こっそり尾行しちゃった。ふふんっ」
「ふふん、じゃねえよ!」
天海は興味深そうにニヤケながら、じりじりと俺に詰め寄ってくる。思わず気圧されて後ろに下がり、距離を取りながら天海を睨みつけた。
「ちょっとー、男子トイレに逃げないでー!」
男子トイレ内のタイルと外のアスファルトの境界線で天海は立ち止まる。躊躇いなくストーカー行為を試みる割には、男子トイレへの侵入はできないらしい。その律儀さが、俺には理解できなかった。
俺はそのまま男子トイレの奥まで下がり続ける。天海の行動は意味不明だ。俺と天海の接点は昨日屋上で数分間会話しただけ――それ以外何もない。なのに、この絡み方は一体何なんだ。しかも俺は悪評まみれの存在。普通の人間なら関わりたいと思うはずがない。
天海の姿は見えない。境界線で立ち止まり、男子トイレまでは本当に入ってこないようだ。仕方ない。あいつが消えるまでここにいよう。掃除も行き届いていない薄汚れたトイレで過ごしたくはないが、天海からダル絡みを受け続けるよりはマシだ。
「――私もハンバーガー食べたぁい!」
突然の絶叫に、俺の肩が思わずビクンと跳ね上がる。同級生、しかも女子を恐れたのは初めての経験だった。天海は想像以上にぶっ飛んだ存在なのかもしれない。男子トイレの外から中へ向けて、天海が大声で叫んでいた。
頭を抱え、俺は考える。どうするべきか。このまま男子トイレで籠城戦か? いや、天海があっさり帰る保証はない。あんなタガが外れたような絶叫を聞いてしまったら、籠城しても無意味な気がしてくる。ならば、トイレから飛び出して全速力で逃げるしかない。それが一番いい。
「私もハンバーガー屋さん連れてって。断るなら……お前にレイプされたって本気で叫び続ける」
何を言っているんだ、こいつは。先ほどとは声のトーンが違う。俺は本能的に悟った――天海は冗談で言っているわけではない。
「3秒、数える。それ以内に出てこい。3、2、1――!」
「おい、馬鹿! やめろって、天海!」
「あ、出てきた」
天海は満面の笑顔で俺を迎える。俺の背中には嫌な汗が浮かんでいた。きっと天海とは正反対の苦渋に満ちた表情をしているだろう。
「テリヤキバーガーとストロベリーシェイクがいいなあ。あ、それとポテトも付けちゃったりして」
「天海、お前さぁ……」
「名瀬くん、早く行こ?」
俺は唖然としていた。天海は俺が柳をバットで殴りつける現場を見ていたはずだ。それなのに、この言動。俺の神経を逆撫でして、自分が次の標的になるとは考えないのか。男と女では腕力が違う。抵抗なんてできるはずがない。この女は、少しも恐怖を感じないのか。
「どうしたんだい。手、繋いで行ってあげようか? この甘えん坊さんめ」
天海は俺の正面に立ち、手を差し伸べた。何を考えているのか分からない。それを見つめる俺に向かって指をくねくねと動かし始めた。もしかして挑発しているつもりか。
「はあ、さっさと食って帰るぞ」
俺は天海に屈した。理由は、今まで遭遇したことのない底知れなさを感じたからだ。俺を前にして怯えるでもなく、媚びを売るでもなく、余裕ぶるわけでもない。その秀でた容姿から不気味な笑顔を向け続ける天海に、俺は屈した。
「イエーイ♪ ストロベリーシェイク♪」
天海は上機嫌にリズムを取りながら、俺の手を握りしめた。
「やめろ、早く行くぞ」
俺はそれを振り払い、歩き出す。
「もー、つれないなー」




